東京市復興小学校DATA
[城東小学校] 創立年月 明治39年6月 竣工年月 昭和4年3月19日 工事請負 武田組 校地坪数 1,051.210坪 校舎坪数 1,296.088坪 学級規模 22学級 (現在6学級) [竣工時校名] 東京市京橋昭和尋常小学校 (南槇町尋常小学校) [所在地] 東京都中央区八重洲2-2-2 http://www.chuo-tky.ed.jp/~joto-es/ 現在、城東小学校は東京駅八重洲の外堀通りを隔てたビルの真裏にあって、周囲をビルに囲まれ注意して見ないと通り過ぎてしまうくらい、こんな所に学校があるとは到底思えないような場所に建っている。 もともとの城東小学校は日本橋区立で、現在日本橋高島屋の向かいに中央通りを挟んで建っている、丸善のちょうど真裏にあった。 一方、京橋区立の京橋昭和小学校が、現在の城東小学校の場所にあった。 そして、この二つは共に昭和4年に完成した紛れもない復興小学校と言える。 しかし昭和37年になると、中央区立京橋昭和小学校は廃校となり、この二つが統合されて旧京橋昭和小学校校舎が中央区立城東小学校として生まれ変ることとなった。 昭和3年創立の若い京橋昭和小学校が城東小学校に名前を捨て校舎を譲ることで、明治8年創立の城東の歴史が受け継がれたことになる。 さて、「函館・弥生小学校の保存を考える」 でもこの学校のことは取り上げているが、余りにいとおしくて、この学校だけはその名を書かずにおいた。 現在、この城東小学校は全学6学級、全児童55名、1年15名、2年7名、3年7名、4年7名、5年9名、6年10名足らずの超過疎小学校だ。 しかし、ここで行なわれている情熱と創造に溢れた教育に触れるため、訪れる視察者は後を絶たない超有名小学校としての顔を持つ。 それはここに他では失われた教育の原点があり、子どもと教師が一つになって育もうとするけなげさがあるからだと思う。 写真は昭和4年の朝礼の様子で、京橋昭和小学校創立から1年と書かれていた...。 かつて現在の東京駅八重洲前の外堀通りは、その名が示す通り江戸城の外堀だった。 東京駅が開業したのは大正3年のことだが、言うまでもなく東京駅は皇居に向いた丸の内側に駅舎が建てられ、現在の八重洲側には出入り口一つなく、この外堀によって日本橋方面とは二本の橋を除き全く遮断されていた。 東京駅は正に日本の表玄関でありそこから皇居へと続く丸の内は、「真行草」 に例えるなら正に官民揃って 「真」 の街づくりが行われた。 一方、現在の地下鉄銀座線がその地下を走る中央通りは新橋から上野へ続く幹線で、上に同じく例えるなら民の 「真・行」 入り混じった活動的な街であり、その周縁つまりこの学校が建つ外堀辺りはまだ 「草」 の町並みであったと想像される。 明治8年に開校した城東小学校が日本橋に近く、昭和3年に開校した京橋昭和小学校 (現・城東小学校) が中央通りから外に向かって進む市街化形成に呼応するように新設された背景が窺える。 大正13年につくられた関東大震災後の復興計画図を見ても、当時の京橋昭和小学校 (現・城東小学校) は背後に外堀を望む外れに建設されたことが分かる。 因みに、現在の地下鉄銀座線が当時繁華街で高収益が予想された上野・浅草間に日本初の地下鉄として開業したのは昭和2年、そして新橋まで全通したのは昭和9年のことだった...。 現在は中央区になるが、この小学校が完成した当時は京橋区と言われていた。 関東大震災で焼失した京橋区内の小学校は15校あり、その内復興小学校として新築されたのは13校だった。 東京の復興小学校の数は117校で、その総数は小学校建設のための復興予算の関係から焼失した小学校の総数に等しく抑えられた。原則としてそれぞれの区で焼失した数に等しい小学校が復興小学校として建設されたが、京橋区だけは2校が減らされその2校が浅草区に配分された。それによって浅草区は震災前の18校から20校に増えるが、この数字一つを見ても当時の浅草区の繁栄の様子を垣間見ることができる。 京橋区内の13校の内、復興事業に追加計画された佃島小学校だけは昭和6年の完成となるが、3校が大正15年までに、9校が昭和4年までに完成している。 この時期を昭和2年の上野・浅草間地下鉄開業 (日本初) と重ねて見ると、よりこの時代を深く感じ取れる気がする。 この現・城東小学校の前身は昭和4年に産声を上げた京橋昭和小学校だが、震災で焼失する前この場所には南槙町小学校があった。 今はビルに埋もれて窮屈そうなこの小学校も、南槙町、京橋昭和、そして城東小学校と名を変えながら力強く生き抜いた歴史がある。 この歴史の記憶は今、城東小学校の建築の記憶となって受け継がれている...。 [Photograph source] Wikipedia 4階の玩具売り場から出火した火災は8階までを瞬く間に焼き尽くした。帝都復興を遂げた東京、その日本橋の買い物客で賑わう白木屋を襲った大火は、昭和7年12月16日のクリスマスセール最中の惨事だった。 この火事を一人の少女が城東小学校から見たという話が頭から離れない。 その少女も今では80歳を過ぎている。 そして、この少女との不思議な縁がこの小学校へと導き、復興小学校への扉を開けてくれたと思っている。 城東小学校に初めて足を踏み入れた時の印象を今でも忘れることはできない。 使い込まれた全てのものに言いようのない均衡が保たれていて、そのうちのどれが欠けてもその均衡は崩れるような気がした。 そのことが危なげな印象を与えながらも、けなげさと愛おしさを感じたことを今でも覚えている。 これまでやってきたこと、今やっていること、これからやろうとしていること、それらは自分の生き方の反映に過ぎないことにも気付かされた。 守らず捧げる生き方をしろと、この建築が囁いた気がした...。 関東大震災が起きた年の12月には、早くも小学校教育復興に関しての注意事項が校長会で決議されている。 その中の屋外運動場についての記載を読むと、適当な舗装をすること、体操用器械・運動用器械・砂場・トラック・テニスコート・足洗場・花壇・プールなどの設備を設けることなどが書かれている。 復興小学校の屋外運動場は、最も小さいものと最も大きいものを除いた上で見ると、108坪から925坪までその広さはまちまちだ。 城東小学校 (旧京橋昭和小学校) を見ると291坪の広さがあった。 実際にそこに立ってみるとやはりその狭さを実感したが、その狭小さを補う見事な工夫がされていた。 プールの時期になるとグランドを覆っていた蓋が取り払われ、その下からプールが現れる。その分グランドは狭くなるがその境には落下防止の低いフェンスが置かれ、如何にも楽しそうな一体の空間が生まれる。 今は一年中アイスクリームを買うことができる。だが、昔は夏になると冷凍ケースの中に色とりどりのアイスクリームが並び、それを待ちわびて夏の到来を実感したものだ。 ビルの谷間に埋もれるように建つこの小学校だが、花壇には季節の花が絶えることはなく、何よりこのプールの大仕掛けが子供たちを夏へと誘う。夏の暑さが来るのを待ってやっと蓋の鍵がはずされた、あのアイスクリームの冷凍ケースさながらに。 グランドのトラックが消える先には子供たちの夏があった...。 東京市の小学校鉄筋コンクリート造校舎には設計規格があった。 それは、短期間のうちに罹災した小学校117校を復興するに当たり、充実した機能を持った健全な教育環境の確保、安全性、そして経済性すべてを同質に担保する重要な意味を持っていた。 写真の中でこの設計規格を透視して見るのも面白い。 教室の採光は室面積の1/6以上、窓の下縁は床面から75センチ、上縁は天井まで、これらが大きな四角な窓に表れている。 屋上運動場のパラペットは120センチ以上、加えて眺望し易い構造にすることが求められている。 1階教室の床はグランドから75センチ以上、昇降口はグランドと同じレベル、などがこと細かに決められている。 因みに写真左端にこの昇降口からグランドへの扉、樹木の脇に教室からグランドに降りる階段が見えている...。 復興小学校の鉄筋コンクリート造校舎の設計規格の中には、当然廊下や階段についての記載もある。 教室などの規格が採光を中心とした教育環境や衛生面を重視しているのに対して、こちらは避難時の安全を最も重んじている。 今でこそ数多の設計資料を参考にしたり、関連法規に準じておけば最低限の設計くらいならできるだろうが、当時は過去から脱皮し新しい規範をつくろうとするなら、それは限られた洋書の中に求めるしかなかった。 階段についての記載を興味深い思いで読んだ。 それによると、ニューヨークの学校建築家スナイダー氏の実験に基づき、非常時に於いて全校舎を開けた時に、3分以内に退出できるよう設計規格が決められたそうだ。 1920年代という時代、どこか哀愁が漂う美しい時代。この宝石のように輝いた時代の一方で、日本という国の礎をつくるべく技術者による様々な取り組みが模索しながら続けられていたことを改めて知った。 復興小学校によって益々1920年代に引き寄せられて行く...。 復興小学校には唱歌、図書、手工、裁縫、作法、理科、家事などの特別教室が設けられた。 中でも設備を要した理科室と手工室については細かな規格が示されている。 当時の小学校を卒業すると多くの生徒が仕事に就いた時代を考えると、この特別教室のほとんどが社会での実践につながる教育の場であったことが想像される。 手工室をとってみても現在と異なる様々な工具が用意され、高等科に至っては板金細工や簡単な冶金・旋盤の設備を備えるものまであった。また、音が発生する手工室は1階の翼部に置くことが推奨され、設備配管や配線の効率化に加えて塵処理までも考慮して、その2階に理科室を置くことが書かれている。 加えて手工室は2面乃至3面の採光が求められ、明るく快適な場所として用意されたことが窺える。 さて、今と当時とはその授業形態も異なるが、綺麗に整理整頓され子供達への出番を待つ道具類に、この学校に潜在する力と図工(美術)を担当する若い先生の教育者としての豊かな感性と資質を感じた。 その一方、函館には教育委員会と市長によって今まさに壊されようとしている弥生小学校という由緒正しい学校がある。 この弥生小学校の見晴らしの良い階にある床の間付きの和室のことを思った。 そして、明るい日差しが射し込むあの和室で裁縫や作法を教え習う昔日の光景に想いを馳せた...。 復興小学校には共通の規格があって、その中に単位という考えがある。 一単位は梁間6.9メートル・桁行2.85メートルで、例えば普通教室はこの3倍があてられ、梁間6.9メートル・桁行8.55メートルとなる。 教室の中を見ると、正面黒板、背面黒板、掲示板、長押などが決められた高さに設けられた。 床は板張りで、腰羽目は見切長押と巾木が付けられた。 そして、2階以上の窓には手摺を付けることが謳われている。 写真は城東小学校の普通教室の様子だが、窓は上で説明した2.85メートルピッチで開けられ、前に 「設計規格を読む」 で触れた様に、採光の為に目一杯の高さまで開けられていたことが分かる。 夫々の造作もハッキリとした意味を持って用意されていて、この腰羽目一つを取ってみても壁を清潔に保つと共に、柔らかい木の温もりを子供たちの目と手に伝えているようだ。 無駄がなくきちんと意志を持った仕事は、時を経てその輝きを増しこそすれ色褪せることはない...。
by finches
| 2009-04-01 16:00
| 復興
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