■■ 中央区立中央小学校
■■ 中央区立中央小学校_b0125465_1364468.jpg東京市復興小学校DATA

[鉄砲洲小学校]
創立年月 明治10年7月
竣工年月 昭和4年3月19日
工事請負 上遠合名会社
校地坪数 969.010坪
校舎坪数 1,151.619坪
学級規模 20学級 (現在6学級)
現、中央小学校
[所在地]
東京都中央区湊1-4-1
http://www.chuo-tky.ed.jp/~chuuou-es/frame.html


東京市復興小公園DATA

[鉄砲洲公園]
開園年月 昭和5年3月
公園面積 884.33坪




前回に引き続き中央区に残っている復興小学校の内、取り壊して新築されることが決まった中央小学校を紹介しよう。

現在は中央小学校と名前を変えているが、当時の名前は鉄砲洲小学校と言った。関東大震災後の復興事業では117校の復興小学校と、それと併設される形で52ヶ所の復興小公園が整備されたが、この鉄砲洲小学校には鉄砲洲公園が併設された。

江戸時代八丁堀以南に、銀座、三十間堀、八丁堀がつくられ、当時、鉄砲洲は鉄砲型の南北八丁の細長い川口島で、葦などが生えた洲であり、また、寛永年間に幕府の砲術の試射場があったことから鉄砲洲の名が生まれたことが中央区の教育史に書かれている。

昭和4年に完成した現校舎は、丸い柱型と玄関部分に見られるアーチ型の出入り口に曲線的な扱いが見られる他は、全て直線的な角ばった意匠で統一されている。隣の明石小学校との意匠性の違いの中に、この地域の気風や歴史的背景が見て取れ興味深いところだ。

復興小公園に面して小学校と幼稚園の入り口が設けられ、この面が一番親しみのある優しい表情を見せていることに、復興小公園と復興小学校との関係を見ることができる。そこには両者が避難施設としての機能を内包する中で、日常における地域住民と一体となったコミュニティの形成と育成への配慮が見られる。

この建物も残せないものかと思う。
地域と一体になって連綿と育まれた、このヒューマンスケールのコミュニティーを守るためにも...。




■■ 中央区立中央小学校_b0125465_13194599.jpg

前回触れた桜川と言う名は前から気になっていたが、初めてその川の跡を歩いてみた。
だが、その面影は見事なほどに消されていて、かつて稲荷橋が架かっていた亀島川出合い辺りが、鉄砲州の舟入と言う名と共に、その面影を辛うじて留めているに過ぎなかった。

鉄砲洲稲荷を抜けると鉄砲洲小学校の北面が道沿いに姿を現し、幼稚園の入り口が、そこがこの建物の端辺りであることを知らせていた。
筆者はこの学校の東側に接する鉄砲洲公園と、そこから眺めるこの建物が好きだ。
この公園が好きなのは、いつも大人や子供たちがいる所為かも知れない。

公園は木々に覆われその緑陰のベンチに座ると、緩く盛り上がるような勾配を持つ中央の広場越しに、この公園に面して東側に設けられた小学校の入り口が見える。
中央区は防災訓練を定期的に行っているのか、この日も消防車や梯子車が止まり、町内会毎に編成された一団が列をなして通り過ぎ、これらの訓練とは全く関係ないと言うようにボーイスカウトたちがダラダラとお決まりの訓練をしていた。そして、家族連れが弁当を広げ、子供たちが遊びそれを親たちが見守っていた。
そんな何処ででも見られた日常の風景がここにはあって、それらと同化するかのように、この古い小学校も建っている。

その小学校も建て替えが決まっている。
筆者は鉄砲洲小学校と旧名で呼んでいるが、今は中央小学校と言うのが正しい。
かつての名前は京華小学校が廃校となり、この小学校に統合された時に消えた。
京華小学校の創立は明治34年、鉄砲洲小学校は明治10年、かつての統合の伝統だと、その創立年が古い方の校名が残され継承された。

だが、現在はその両方のPTAと町内会に気を使い、そのどちらの校名でもない別の名前に変えられる。
なぜこの歴史ある鉄砲洲と言う名を捨て、中央などという絆を断った名前が発想されるのだろう。
これでは新しく造られる校舎が、その地域との絆を断ち切ったようなものなっても致し方ないと思えてくる。
何故なら、それらは全てそれを決め実行する一握りの人達の、良識と分別と知識と創造力の浅さの下で遂行されているからだ...。




■■ 中央区立中央小学校_b0125465_1325336.jpg

写真は鉄砲洲小学校の校庭の南端から撮ったものだ。
復興小学校117校の校庭面積の平均を見ると約390坪で、鉄砲洲小学校は約320坪が確保されている。また校庭とは直接繋がっていないが、鉄砲洲公園という復興小公園が併設され、その公園に隣接して鉄砲洲稲荷があるなど、この地域に於ける大きな空地をこの学校周辺で確保されているのが見て取れる。

この小学校は校庭を取り囲むようなコの字の平面形をしている。
図面からは、その校庭は狭く窮屈な印象を抱いてしまうが、実際には公園側の東側校舎が南に向かって開くように角度を持ち、校庭を南から見た時に、その北西の角が直角であるのに対して、北東の角は鈍角であることが、妙に安心感のある開放感を感じる所以ではないかと思われる。

また、北西の角は直角ではあるが、その角を南に曲がると、直ぐに高さを落とした屋内体操場へと繋がり、同時に校庭に面する校舎の3階部部分には屋上テラスが設けられ、壁面をセットバックさせることで、校庭からの視線が程よく空へと抜ける工夫がなされている。

目線を地域と子供たちに向けて設計されたこの古い建物は、ただ見ているだけで多くのことを気付かせてくれる。書こうと思えばまだいくらでもこの一枚の写真から話を続けることができるくらい、この学校の背景にある意味までをも考えさせる深さを持っている。

ここに建つであろう新しい校舎はどんなものになるのだろう。
筆者には容易にそれが想像される。
そこに見えるのは全てが浅い姿勢と思考から生まれた、数年で古さを感じる贅沢で華美な校舎だろう。
現在の校舎の「古さ」とは、ただ建てられてからの時間の長さの形容に過ぎないが、新しい校舎の「古さ」とは、中身を伴わないものに共通する、劣化の速さや陳腐さからくる古さで、その建物が完成した時点で既に潜在している、老化を促進するあの活性酸素のようなものだ。

また、それを良しとする、素晴らしいとする浅い親たちが、古いかけがえのない校舎を壊すことに加担し、新しいファーストフードのような校舎を望んでいるのだから如何ともし難い。
ジャンクフードやファーストフードに犯された親たちにとっては、スローフードの本物の味も古くさい過去のものなのだろうか...。




■■ 中央区立中央小学校_b0125465_1326653.jpg

写真は鉄砲洲小学校の屋内体操場の中から校庭側を見たものだ。
勿論屋内体操場とは当時の呼び名で、現在では体育館ということになる。
復興小学校は当然ながら防火性能を重視し、校舎は全てが鉄筋コンクリート造で造られているが、屋内体操場だけは鉄骨造で、壁と屋根は防火性能を同じにするために鉄筋コンクリート造で造られている。

また、校舎のデザインは幾つもの建築スタイル (様式と呼ぶまでの建築全体に亘る統一性や一貫性は薄い) が採用されているが、屋内体操場は類似した意匠性がその根底に隠されているように思えてならない。
ほんの数校を実際に見たり、また写真で見ただけで断言することは出来ないが、その意匠にはどこかアール・デコの匂いを感じるとだけ言っておこう。

屋内体操場と校舎との意匠性の違いについては、九段小学校の中でも触れたが、それはそこが講堂としてのもう一つの顔を持ち、そこで行われる重要な儀式に、御真影を掲げ教育勅語を紐解く行為があったためと推測している。
それ故に、その内部意匠は技巧的な差こそあれ、ある共通性を持ったものになったのではないかと思う。

フランク・ロイド・ライトの建築を思わせる柱が上に向かって広がる意匠、この柱のデザインに一つの共通性があるような気がしている。
そして、それ以外の意匠、例えば天井や講壇や演台や桟敷のデザイン、そして華美ではなくあくまで控え目に扱われた装飾などに、それぞれを担当した設計者の考えや思いを垣間見ることができる。

鉄砲洲小学校の屋内体操場は校庭に面した側の柱間が全て扉になっていて、写真のようにこれらを全開すると校庭と連続するようになっている。
こんな些細かもしれないが配慮が、建築という無機質な空間を、どれほど豊かなものへと変えてくれるか、このこと一つとっても、中々今の新設校にはない深い思慮を感じるのだが...。




■■ 中央区立中央小学校_b0125465_1323423.jpg

鉄砲洲小学校の最後の写真に階段を選んだ。
朝夕の登下校に、休み時間に校庭や屋上で遊ぶために、給食の用意や片付けに、職員室や保健室への用事に、理科や図工や音楽などの特別教室への移動に、体育の授業のための校庭や室内体操場への移動に、毎日の一斉清掃に、そして雨の日の遊び場に、階段が最も子供たちに使われた場所ではないかと思う。
階段の手摺はピカピカに光り、長年に亘って子供たちに触られ続け、それによって毎日毎日磨き込まれた痕跡がその証として残っている。

階段にはそれぞれに個性に溢れた特徴があって、四角の窓を持つもの、丸い窓を持つもの、アーチ窓を持つもの、そして、バウハウス(Bauhaus)を思わせるような下から上まで連続した窓を持つものまで様々だ。
手摺壁の上の笠木も、木製のものもあれば、人造石を研ぎ出して磨いたものもあれば、また、そこに彫刻が乗っていたり、時には意味不明の突起物が付いていたりもする。

しかし、総じてこららの階段の踊り場の角は丸く造られていて、通常はもとより非難の時も子供たちを安全に、そしてスムーズに下ろす配慮がなされている。
筆者はこれまでに何度も‘建築の記憶’という言葉を使ってきたが、階段は最もそれに相応しい場所のように思う。

それは、空間としては繋がっていても、階段によってその上下には目に見えない暗黙の境界のようなものがあって、例えば、上の階には上級生がいて下級生からはまるで別世界で、ちょっと上がって行き難いような、その逆に上級生として下の階に行く時は、いつもはやんちゃな子供が少し大人びたすましたお兄さんに変貌したりする。
そのような下級生、上級生、先生、来訪者らの様々な人たちが擦れ違う中で、階段には自然とルールが生まれ育まれ、そこでの様々な出会いや体験の記憶が階段には沁み込んでいると思う。

階段は子供にも大人(特に親たち)にとっても、大切な躾(しつけ)の場所ではなかっただろうか...。

by finches | 2009-04-01 18:10 | 復興


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