江戸の町の整備と江戸城の普請(ふしん)は慶長8年(1603)の徳川家康による江戸開府に始まる。当時、鎌倉から来た材木商たちが築城に必要な資材を一手に取り仕切り、その荷揚げ場を鎌倉河岸と呼び、そしてその周辺を鎌倉町と言った。 現在この場所の外濠には、鎌倉橋という昭和4年(1929)に完成した震災復興橋梁のコンクリートアーチ橋が架かっている。 また、かつてはこの鎌倉河岸の東側では龍閑川が外濠に注ぎ、そこには大正15年(1926)に完成した我が国初のコンクリートトラス橋である龍閑橋が架かっていた。そして、これら2つの橋の間に外濠に接して昭和2年(1927)に完成した復興小学校、神龍小学校が建っていた。 さて、鎌倉橋に話を戻すと、サイパンを基地とするアメリカのB29爆撃機によって昭和19年(1944)11月から日本本土への空襲が始まるが、この橋にはその空襲による機銃掃射の銃弾の跡が大小合わせて30ヶ所も残っている。 (写真の中でえぐられたように見える所全て) アメリカによる空襲は最初は軍需施設を対象にした高々度からの爆弾投下でその命中率も極めて低かったが、直ぐに民間人を直接の対象にした攻撃へと変わり、卑劣にも夜間の低空からの焼夷弾投下によって全ての壊滅を狙った無差別攻撃(殺戮)が行われた。そして爆撃機と共に飛来した戦闘機は逃げ惑う市民を執拗に追い廻し、機銃掃射を無差別に浴びせた。 その痕跡がこの鎌倉橋に刻まれた銃弾の跡だ。 これまでに取り上げてきた震災復興橋梁と異なり、本稿はこの橋の銃弾の跡を取り上げなければと思い続けていた。 何度もこの橋に立ちこの銃弾の跡を眺めながら考えた、その銃弾の先にあるものを、もしかしてそこで起きたかも知れない阿鼻叫喚のことを。 鎌倉橋の欄干に刻まれた銃弾の跡、その先には神龍小学校があったからだ。 郷里の橋にもアメリカによる銃弾の跡が残っている。 様々な場所に歴史の痕跡が残っている。 今、朽ち果てようとしているこれらを、次の時代にきちんと伝承し継承する術を真剣に考えなければと、来年震災復興80年を迎える今改めて思う...。
by finches
| 2009-11-14 04:14
| 復興
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