かつて日本橋川が外濠と出合う手前に一石橋という充腹式のコンクリートアーチ橋があった。この一石橋は大正11年(1922)に架けられた橋で関東大震災にも耐えたが、昭和39年(1964)に始まる高速道路のランプ建設を皮切りに、その時その時の運命に翻弄されながら現在の橋に架け替えられた歴史がある。 この歴史ある橋への扱いをして親柱の辿った運命も追って知るべしで、近年やっと近代文化遺産としての価値が認められ、現在はその一つだけが改修保存されているに過ぎない。勿論、現存する都内最古の親柱として。 当時の一石橋は二連のアーチ橋だったが、中央の橋脚の水切り石の上には舟の往来を考えて橋側灯が設けられていた。これまで橋の親柱がどうししてこれ程大きいのかと疑問に思っていたが、いつもそれは道路側から橋を見て考えてのことだった。 だが、一石橋の余りに大きい親柱と水切り石の上の橋側灯を見ながら考えていて、これらは道路側からではなく川側から見た時のことを考えてデザインがされているのだと気が付いた。 つまり、親柱は橋の長さを示すと同時にそこに橋があることを遠くから知らせる為のもので、言わば灯台としての役目をしていたのだと気が付いた。だから、橋の上に外灯が設けられてもそれは親柱(灯具)のデザインとは違っていなければならなかったし、そこには変えるべき必然性があったということだ。 江戸時代のこの辺りの賑わいを知るものがこの親柱の左側に残されている。それは‘一石橋迷子しらせ石標’で、江戸の町中で迷子になった子どもたちの情報を知らせるためのもので、正面に「迷い子のしるべ」、左側に「たづぬる方」、右側に「しらする方」と刻まれている。「たづぬる方」の方には迷子の特徴を記した紙を貼り、「しらする方」の方には迷子の所在を記した紙を貼った。 時代に翻弄されながら周りの全てが変わっても、ここに江戸時代の石標と大正時代の親柱が残されていることで、過去のレイヤーを重ねることもできる。 痕跡だけでもいい、どんなものでもいい、但しその場所毎に本物を残して欲しい...。
by finches
| 2009-11-19 04:30
| 復興
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