かつて新橋駅の近くに正にその名の由来となった新橋があった。 新橋は汐留川に架かっていた橋で、三十間掘との出合いから直ぐ北の場所にあった。 現在はその親柱しか残っていないが、その橋は大正14年(1925)に架橋された震災復興橋梁で、充腹式のコンクリートアーチ橋だった。 このような親柱が街中にドンと残っていると、大抵はその由来などを記した銘板があるものだが、この親柱には可哀相にそれさえもなく、まるで名無しの権兵衛のように立っている。(橋名は残っている) 江戸古地図を見ると汐留川は溜池をその水源とする川だったが、明治になると溜池は埋め立てが進んだことで外濠の一部となり、それに伴って汐留川は外濠に発し濱御殿の西で海に注ぐ川のようになった。 筆者は震災復興事業で架橋された復興橋梁にばかり目が向いていたが、一つの川を見てみると同じ復興事業で廃橋となったものもあることに改めて気付いたりする。 そんな架橋事情の中で、汐留川では3つの橋だけが充腹式コンクリートアーチ橋で架けられているが、その場所を地図で追ってみると、やはり帝都復興上または景観上主要な場所でこの形式が採用されていることに大変興味深いものがある。 その3つの中でも銀座、日本橋へと続くメインストリートに架かる橋であった新橋の親柱は最も立派で、橋の形式、使用材料、欄干のデザイン、親柱の形状、灯具の形状、それら全てが一種のヒエラルキーを形づくっていたと考えられる。 このどこか威厳のある親柱はそんな歴史を伝え残している...。
by finches
| 2009-11-18 04:37
| 復興
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