隅田川に架かる勝鬨橋を渡ると築地になるが、かつてその道(晴海通り)の先には築地川南支川が流れ、そこには門跡橋が架かっていた。 この築地川南支川は、西の築地川東支川と東の築地川とを結んでいた川で、後者との出合には聖路加病院が面し、その北隣りに明石小学校(現存)、更にその北隣りには京橋高等小学校があった。また、これら三つの建物の東には鉄砲洲川が流れ、この川は築地川と一つになって勝鬨橋の北で隅田川に注いでいた。 長々と川の説明をしたが、これだけでも築地という場所が江戸時代に埋め立てによって生まれた土地で、その名残を表すように川が入り組んでいたことが想像されるだろう。 門跡橋があった築地川南支川の北側は築地本願寺の裏手に当たり、築地本願寺には毎日多くの人が訪れるがその裏にかつて川が流れていたことに気付く人は少ないだろう。 写真は門跡橋の親柱で土に埋まった状態で残っている。一方のプレートにははっきりと門跡橋という文字が読め、一方には昭和3年六月…、復興局建…、までで、その先は土の下に隠れている。 門跡橋は震災復興橋梁の一つだが、特段変哲もないコンクリート製の桁橋だった。文化財調査報告書によると、この橋の完成は昭和4年(1929)となっていて、親柱に残っている年と一致しないのが些か不思議だが、土に埋もれた部分に全く想像と異なる文字があるかも知れないと思えば、余り深く詮索せずに置いておくのもこの際だと思った。 立派な説明板があるよりどんな状態であろうと、その橋を知ることができる本物が残っていることが何よりと思う。 だが、わざわざ親柱を残すような粋な計らいをするような感性も想像力もあるとは思えない。では、どうして残っているのだろうと考え、知らなくてもいい悲しい結末に到達してしまった。 この橋は生き埋めにされていて、地上に出た親柱は、橋がこの下に埋められているぞと訴えているのだと気が付いた。 花を手向けることもできない鉄網の中に、まるで壊すのも面倒であったかのように残存物として放置されている。 この保存とは程遠い扱いをして、これを保存と見る人が全てだろうと、もう一つ悲しい気持ちが増した...。
by finches
| 2009-11-30 06:46
| 復興
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