232■■ 愛宕高等小学校 ・其一
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明治30年の地図によると愛宕山男坂下の辺りは愛宕町と呼ばれ、その南にジケイ病院という表記が見られる。
愛宕小学校の創立は明治35年、愛宕高等小学校は明治41年となるが、共にこの愛宕町の慈恵病院を挟んだ南と北につくられた。

現在、愛宕小学校のあった場所は御成門中学校に変わり、愛宕高等小学校は2004年まで都立港工業高校として使われていた。
この都立港工業高校に変わる時に、南側の昇降口と屋内体操場が新校舎の一部に組み込まれて建て替えられ、現在は西と北側部分がL字型に往時の姿を留めている。

愛宕小学校と愛宕高等小学校はともに昭和3年(1928)に完成した復興小学校で、校庭側の窓の取り方や横に連続する浅い庇状のデザインに共通点が見られる。
この愛宕高等小学校の平面図を見ると、明石小学校と同じく角という角が全て丸く面取りされている。そして外側に曲線を描いて反り返るような屋上パラペットの形状も明石小のそれに瓜二つなのも興味深い。

丸柱が壁面のデザインを大きく支配している明石小に比べ、愛宕高等小学校の方はいたってシンプルなのだが、その中にも惜しみない創造力をこの校舎のデザインに注いだことが伺われ、傷み汚れてはいるがその下にある本来の美しい肢体を思い見入った。

前稿の後藤新平がきっと愛宕山の上に立って見たであろう眼下の帝都復興の様子、その愛宕山を囲むように愛宕高等、愛宕、鞆絵、西桜、南桜、その向こうに桜田、神明、その更に向こうには泰明、文海、築地、明石などの復興小学校が望めたであろう。
そして、それらは帝都復興のシンボルのように白く美しく輝いていたことだろう...。

by finches | 2009-12-17 06:45 | 復興


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