269■■ 明石有情-11.佃島渡船場跡
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最初に、本稿は前稿の続きとして読み進んでいただきたい。

入船橋 (前稿写真の撮影場所) が架かっているのは新大橋通だが、この大通りは震災復興事業で新たに造られた街路で、震災復興計画図を見ると幹線街路という大路の格付がなされ、一方 (前稿写真参照) 入船橋から築地川に平行して走る大通り (写っていないが写真左側を走る) は震災復興計画図によると補助街路という格付がなされている。
今でこそ佃大橋によって佃島と繋がっているこの後者の通りも、佃大橋が完成するまでは隅田川までで、その終点からは江戸時代は島と結ぶ佃の渡しが、明治から昭和までは佃島渡船が行き来していた。

前稿写真に写る築地川にはもう一つ隠された歴史がある。
入船橋から見下ろすとあたかも築地川の川底を整備しての運動広場のようにみえるが、広場右奥 (築地川公園に上がる階段の右側の影になっている部分) には入り口を塞がれたコンクリート製のトンネルあり、このトンネルは築地川公園の下を晴海通の方角に伸びている。

これは幻の首都高速環状線・10号晴海線の建設が放棄された跡で、首都高速新富町出口がある三吉橋から築地橋・入船橋にかけての妙な広さを持つ空間は、ここが高速道路の合流予定地点であった跡地ということになる。
つまり、もし高速道路が完成していれば上の運動広場からは子どもたちの歓声ではなく、車の騒音が聞こえていた訳で、この景色もある意味での近代化産業放棄遺産として後世に伝えてもいいと思う。

前稿写真でマンションが建っている一角を震災復興東京市全図で見ると、京橋専修女学校、京橋商業学校、明石小学校、京橋高等小学校という表記が残っている。
この中で明石小学校と二卵性双生児のような京橋高等小学校は、都立京橋商業高校、区立第2中学校としてその歴史を刻んだ後、昭和57年(1982)に廃校となるまで教育の場として使い続けられた。
その後、区立施設として20年に亘り使われ、その間この建物は歴史的建造物としての扱いを受けることもなく、平成14年(2002)に解体された。

佃の渡しが生まれたのは正保2年(1645)、明治になり渡船料を取っての佃島渡船となり、昭和2年(1927)からは無賃の曳舟渡船となった。そして、昭和39年(1964)に佃大橋の完成により300年の歴史に幕を下ろすことになった。
佃島渡船跡の石碑から、その船着場に至る道筋の明石の歴史を考えてみた...。

by finches | 2010-02-03 07:41 | 時間


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