766■■ 南天
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拙稿の一つ一つは筆者にとって図書館の目録カードのようなところがあって、初めて知ったこと、より深く分ったこと、などなどを小文の中にエッセイとして嵌め込み仕舞っている。
だから後にテーマは失念しても、何か知らのキーワードで検索をかけることで探し出すことができる。
非表示に設定することもできる検索欄をトップページの見易い位置に置いているのも、実は筆者自身が検索し易いようにする為だ。

今朝の赤い実もただそれが置かれていた情景であったり、景色であったり、調べなくてもそれを書き進むことはできる。
だが、南天について調べてみると、何となく昔からそうだったこと、何度も聞いたような言葉の由来、忘れていた記憶が呼び覚まされるもの、などなど様々な過去に仕舞った引き出しの中と連鎖するから不思議なものだ。

何となく昔からそうだったことは、例えば南天は庭の隅や便所や玄関の傍に植えられていたことなどだ。
何となくその訳も分っているような気がしていても、それを改めて調べてみると、江戸時代には火災よけとして植えられ、更に魔よけとして玄関の傍に植えられるようになったことなどが分ってくる。

言葉の由来は、難を転じて福をなす縁起木としての南天については何度も聞いていても、もともとは中国で『南天燭』『南天竹』などと呼ばれていたことに由来するらしい。
更に、これらの言葉の持つ意味が興味深く、前者の『燭』は南天の実が『ともし火』のように赤いことにより、後者の『竹』は株立ちが竹に似ていることによるらしい。

忘れていた記憶が呼び覚まされたのは、柴又帝釈天の『頂経の間』の南天の床柱や、こちらはまだ見たことはないがどこかで読んだような気がする鹿苑寺(金閣寺)の夕佳亭(せっかてい)という茶室の南天の床柱などだ。

そして、手洗いの傍の南天の訳も分った。
昔の手洗いは家から離して独立して設けるのが普通だったが、その周りには必ずと言っていいほど南天が植えられたそうだ。
これを『南天手水』と言って、お手洗いに水がない時、南天の葉で手を清める為だったらしい。

さて、写真の赤い実も手水鉢の上に添えられていた。
この赤い実を置いた人も、きっとそんな南天の言い伝えを知っているのだろう...。

by finches | 2011-12-17 05:40 | 記憶


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