964■■ 気を活ける
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ワラ、ススキ、クマザサ、ベニバナ、フヨウ、ナナカマド、これらが大小の甕や皿や花瓶に活けてある。
どれも枯れているのだから活けてあるというのは正しくないかもしれないが、気に在って気に於いて、それらは未だに活き続けている。
それは、あくまでそれをそう思う側の主観的な感性の問題であり、そこにはそう思う側が思っている程の客観性も不変性もないのかもしれない。
だから、そう思わないそう感じない側からすると、それらに価値を見出したり愛でたり歓びを感じたり癒されたり、という繊細な感情を抱くこともないのかもしれない。

それらとは別に、隣家からもらった実付きの蜜柑の枝は大甕にそれこそ活けてあるし、友人宅に実った蜜柑は一見雑に見えるが台の上に活けてあるのだし、庭の柿の木からもいだ実もこれも一見雑に見えるが机の上に蜜柑と呼び合うように活けてあるものだ。
庭石の上にも実付きの幾枝かを配置し、もぐ時に竹竿から落ちた実も適度に土の上に残し、庭に設えてあるガラスのテーブルには沢山の実が置いてあって、熟れてきたらそこから一つ二つと食すことを楽しんでもいた。
前稿の小さな旅に持参した蜜柑は大甕に活けた蜜柑の枝からのものだし、柿はガラスのテールからのものだ。

昨夕出先から戻り灯りを点けると、先ず机の上の柿に何となくだが異変を感じた、何かが違う、と。
暫くして、ガラスのテーブルの上の柿が全て消えていることに気付いた。
写真は昨日の昼間二階の窓から柿の木とガラスのテールの柿の実を撮ったもので、いいものだと感じ入った正にその景色だ。
それらが、何の前触れもなく、ましてや何の断りも無くなくなっていることに、厭な強い衝撃を覚えた。

柿がなくなった理由は直ぐに分かった。
もらいに来られた隣人に差し上げた、それはそれでいい、それに文句はない。
だが、活きて気を創っていた柿たちを、ただの物として処分した母の心根と配慮の無さに強い憤りを覚えた。

机の上には小さい実だけが残され、ガラスのテーブルからは根こそぎ柿は消え失せ、そのテーブルは拭かれることもなく、雨に打たれた柿の跡だけが残されていた。
実を採った酢橘の木には30以上の実を残してあり、根こそぎその実を取ることはしない。
そんな心遣いが少しでも感じられたら、あんな厭な気持にはならかったと思う。

両親との同居には多くの我慢を強いられる。
だが、両親もきっと多くのことを我慢をしているのだろうと思いながら、重苦しく一日が終った...。

by finches | 2012-11-27 06:38 | 無題


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