カテゴリ:復興( 188 )
952■■ 聖橋・版画
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写真は「昭和大東京百図絵」(昭和7(1932)年)に収められている、小泉癸巳男(Koizumi Kishio)の「聖橋」だ。
関東大震災の復興事業で聖橋が架けられたのは昭和3年、聖橋を通して後方に昭和7年完成の総武本線松住町架道橋が描かれていることから、小泉癸巳男はこの松住町架道橋をどうしても聖橋の背景に借景として使いたかったことが窺える。

そこには聖橋が鉄筋コンクリート造の開腹式アーチ橋であるのに対し、鋼鉄製のブレースドリブタイドアーチ橋を対比させた構図の中に、生まれ変わった帝都を正確に後世に伝え残す貴重な歴史資料としての側面が隠されている。
また、この松住町架道橋は関東大震災後に総武本線の両国橋(現両国駅)・御茶ノ水間の延伸工事で生まれた橋だということからも、帝都東京が新しい時代に力強く踏み出したその一歩を象徴する構図でもある。

拙稿ではこれまで5稿の中で聖橋に触れているが、肝心の聖橋をテーマに書くことはなかった。
手持ちの写真も随分とあるにはあるが、この橋が建築家・山田守の設計として余りにも有名である以上に、特段説明を加えてみたいという気持の誘発には至らなかったからだ。

だから、今朝も聖橋を通して見えてくる時代を書いただけで、肝心の聖橋については何も書いてはいない。
だがもしかしたら、この橋はもっと懐が深いのかも知れない。
その懐の奥にあるものが見えてきたら、その時はきっとこの橋について書けるような気がする...。

by finches | 2012-10-17 06:24 | 復興
802■■ 帝都復興美観
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一冊の冊子が手元に届いた。
それは、『聖上陛下御巡幸記念 帝都復興美観』で、昭和5年3月24日の天皇巡幸を記録したものだ。

筆者は関東大震災後に建てられた復興小学校の研究を続けていて、それに繋がる資料に出合うと、それが余程高額でない限りは手元に置くようにしている。
関東大震災の復興事業関係の資料は国会図書館や東京都公文書館を始めとして、幾つかの公立図書館で所蔵されている。
筆者は調べる内容によりこれらの図書館を使い分けていて、時々は古書店に出物を探して立ち寄ったりもする。

余り知られていないのが、意外やこれらの資料を地方の思わぬ大学が所蔵していて、それらをデジタルアーカイブで公開していることもある。
逆に、東京都下の某図書館のように、どこで手に入れたのかは知らないが、それらの貴重資料を閉架書庫の奥に仕舞って一般に公開していない図書館基本理念にももとる例もある。

さて、予想した通り先の冊子にも二つの復興小学校が載っていた。
それらは既に手元に所持している写真だったが、一冊の纏まった冊子の中で天皇巡幸の順序と合わせて見ていくと新たな知見に繋がるものだ。

その一つ千代田小学校については『日本一の千代田小学校』、『その構想設備等は実に日本一、世界にもその類が少ないと云われるくらいの出来栄え』と賞賛されていた。
千代田小学校の完成は帝都復興事業の終わる昭和5年の前年の12月、正に出来たてホヤホヤで、隅田川の傍に建つ千代田の屋上からは新大橋を始め、両国、蔵前、厩、駒形の復興橋梁が望め、川向こうには復興の象徴である復興小学校が点在する光景が広がっていたことだろう。

これまで、どうして天皇巡幸に千代田が選ばれたのだろうと考えていた。
日本一と言えども他校と比較して特に建設費が高いわけでもなかった。
だが、この冊子を見て、復興の象徴であった復興小学校にあって、帝都復興を一望する場所としてそこが選ばれたことが分った。
それは新たに分った小さな知見ではあるが、その積み重ねが新たな知見へ向けての想像力を養っていく...。

by finches | 2012-01-24 05:44 | 復興
721■■ 帝都復興記念絵葉書
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大正12年9月1日、関東地方を未曾有の大地震が襲う。
この関東大震災により東京は壊滅的な被害に見舞われるが、迅速且つ的確且つ計画的に帝都復興に向けて動き出し、その世界に類を見ない帝都復興事業を昭和5年に完成させる。

その震災復興事業の完成を記念する絵葉書の一つがこれだ。
他にいくつか図柄や扱った写真の異なるものを知っているが、これは四枚がセットになっていて、全てに清洲橋をあしらった帝都復興事業完成記念スタンプが押されている。
日付は昭和五年三月二十六日と読める。

他の帝都復興を祝う絵葉書でも見たことがあるが、この絵葉書にもその千代田小学校の写真があった。
あったからこの絵葉書を購入したとも言えるのだが、ここからも震災復興事業の要の一つに小学校建設があったことを窺い知ることができる。
因みに千代田小学校とは昭和4年12月に竣工した復興小学校で、両国橋南の隅田川右岸に位置していた。(現日本橋中学校の場所)

暫くご無沙汰していた震災復興小学校や震災復興橋梁をまた時々取り上げる気構えにこの写真を選んだ。
まだ手持ちの資料の整頓が思うようにできてないが、それらをストレスなくスムーズに取り出せる環境を早く整えたい。
その時はこの千代田小学校を真っ先に取り上げようと思う...。

by finches | 2011-10-24 06:03 | 復興
613■■ 甲武鉄道と永代橋

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今朝は甲武鉄道について書こうと甲武鉄道市街線紀要(明治29年)を読み始めた。
だが、読めない旧漢字の連続で数ページを読んだ(?)ところであっさり断念した。
後は中の図や表や地図などを見ていたら、あっという間に2時間が過ぎた。
それにしても紀要とはどういう意味だろうと、今度は興味の矛先がそっちに移った。
広辞苑を引くと、大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物、とある。
道理でお固い筈で、読めない旧漢字だけの問題ではなかった。
この鉄道の歴史は東京の鉄道史、いやそれ以上、正に近代史そのもので、もう少し気長に調べを続けることにしようとあっさり頭を切り替える。

それではと、永代橋を書こうと思ったが、これが何も頭に浮かんでこない。
そこで、拙稿にこれまでどのくらい永代橋が登場しているかを調べてみると、その数はなんと25回に及んでいた。
道理で書くことが浮かばない筈だと、これまたあっさり得心した。

永代橋はどこから見ても様になるが、日本橋川に架かる豊海橋からの眺めがまたいい。
永代橋の近くには明正(めいしょう)(昭和2年)という復興小学校があり、その先の亀島川を下ると旧両国橋の中央径間を移設した南高橋があって、その橋を渡り鉄砲洲稲荷の角を曲がると鉄砲洲(昭和4年)という復興小学校がある。
この最後の鉄砲洲が寿司屋の上がりのように散策の締めだった。

この日も永代橋を過ぎ南高橋を渡って鉄砲洲稲荷の角を曲がり、鉄砲洲公園(復興小公園)に出た。
だが目の前にある筈の鉄砲洲小学校は解体用の厚いシートに覆われ、その上に覗いている筈の建物はもうどこにも見えなかった。
これからは筆者の散策ルートも変わるかも知れない。
筆者は江戸の生活物資が陸揚げされた鉄砲洲、新川辺りが好きだったが、亀島川以外の川はすべて埋められて姿を消し、震災復興のシンボルとして未来に継承すべきだった鉄砲洲小学校も姿を消し、もう南高橋が残るだけになってしまった。

永代橋が完成したのは大正15年(1926年)のことだ。
「帝都復興の門」と言われた美しいこの橋は85年を経た今もそしてこれからも、現役の橋としてこの風景の中にその雄姿を留めるだろう。
否、そうでなければならないと思う...。

by finches | 2011-03-05 04:27 | 復興
611■■ 早稲田小学校
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きのう初めて早稲田小学校の内部を見た。
今朝は拙稿・早稲田小学校で「早稲田小学校の意匠の不思議さの解明はもう少し新しい資料を調べる中で考えてみたい。」、と話を終えた続編となる。
中を見たからには今書いておかなければと思い書き始めはしたものの、だからといってこの奇異な建物のことが解明できた訳ではない。

早稲田小学校は大正15年に起工し昭和3年に竣工している。
震災復興事業の最中理由もなくこれだけの工期を得ることは不可能で、そこには何らかの重大な設計変更がなされたことが想像される。
拙稿・早稲田小学校で「関東大震災以前の小学校建築は外部の建築家などに依頼してその設計がなされていたが、震災後の復興事業を契機にその設計は東京市で一括して行われることになった。しかし、この小学校は建築家・渡辺仁が設計を担当しているという不思議さがある。」と書いたように、関東大震災後に設計が開始されたのであれば、明らかに建築家・渡辺仁が設計に携わることはなかったと考えていいだろう。

恐らく大震災前に渡辺仁によって設計がなされたものの、その後大震災によって焼失または罹災した小学校を速やかに鉄筋コンクリート造で建て直す必要から新たな設計規格が設けられたことで、その規格に適合するような設計変更がなされたとみるのが妥当だろう。
早稲田小学校の南に建てられた牛込高等小学校(大正14年起工、15年竣工)などには装飾的な臭いを強く感じるし、また隣区の窪町小学校(大正14年起工、15年竣工)は早稲田小学校に見られるような飾り破風が設けられていた。
これらからは新しい小学校建設に取り組む若い技師とは設計思想の異なる臭いを感じるが、その代表格がこの早稲田小学校と言っていいだろう。

この小学校の特異性に対して筆者が最初に目を付けたのはその建設費だった。
工事金額だけを見ていると分らないが、残念ながら単位面積当たりで見てみると決して突出したものではなく、ここからこの建物の特異性を語るのは無理があると断念した。
飾り破風、スペイン瓦、アーチ、それらが醸し出す城郭のようなイメージに奇異さを感じてきた。
だが、中に入ると他の小学校以上に普通であり、校庭側の立面などは他の小学校以上にサッパリとしたものだった。
つまり、あの奇異な意匠は道路側だけのもので、この部分に渡辺仁設計の面影を残し、他は設計規格に合わせてバッサリと変更がなされたのではないかと考えずにはいられなかった。

1階教室と校庭との高さも設計規格とは違っていた、柱の扱いや窓の取り方もどこか違って見えた。
それらが大震災前に担当する設計者によってバラバラだった悪しき名残だとすれば、震災復興事業を遂行する為に設けられた小学校建設における設計規格とは、信条、設計思想から設計、工事監理に至るまで高度に完成されたものであったことを改めて強く感じた。
そして、それは当時の復興建設仕様書を読んで感じたこと、図面に描かれた一線一字一句から伝わってきた技師たちの熱い思いとピッタリと重なった...。

by finches | 2011-03-03 05:26 | 復興
610■■ 十思小学校
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十思小は昭和3年(1928年)に竣工した復興小学校だ。
いつも何気なく復興小学校と言っているが、今朝は久々に言葉のおさらいをしておこう。
関東大震災(大正12年)で東京、横浜を中心として多くの小学校が罹災する。
罹災した小学校のほとんどは木造だったが、その中には大正11年からすでに建設が始まっていた鉄筋コンクリート造の小学校も含まれていた。
その罹災した小学校の内、東京市は焼失した117の小学校を全て鉄筋コンクリート造で建て替えるのだが、この復興事業費で建設された117校を特に復興小学校と呼んでいる。

震災復興事業は昭和5年で終了するが、この間復興小学校と呼ばれる117校と平行して、罹災した23の小学校も鉄筋コンクリート造で建て替えが行なわれる。
そして、これら23校は改築小学校と呼ばれている。
ここで知っておいて欲しいのは上の説明で分る通り、復興小学校と改築小学校は予算措置上の区分けであって、その設計思想や社会背景には全く差がないということだ。
兎角、復興小学校を何か特別なもののように扱う傾向が専門家を含めて見られるが、本来の意味を正しく理解した上で、尚且つ自らの言葉で語って欲しいといつも思っている。
帝都復興80年にあたる昨年あたりから、やたらとにわか復興小学校論者が増えたように筆者には思えてならない。

震災復興事業では東京府による錦糸、隅田、浜町の三つの復興大公園とは別に、東京市によって復興小学校に隣接する52の復興小公園が造られた。
理想は117校全てに公園を隣接させることではあったが、区画整理の困難さや震災復興事業費の中での割り当て分から、52の公園を造ることが限界だった。
しかし、この復興小公園は従来の公園型式とは全く異なる新しいものだった。
その中でも特筆すべきは狭小な復興小学校校庭の延長としてこれらの公園が考えられていたことだ。
そして、その公園は子どもと近隣住民、言い換えれば学校と近隣社会が共有し、災害時には避難場所となるよう点在させた配置計画は、現在の防災都市計画の骨格が既にこの時期に完成していたと言って過言ではない。

さて、十思小学校にも十思公園が隣接する。
ここは江戸時代の伝馬町牢屋敷跡で、吉田松陰終焉の地などの碑や、石町時の鐘が移設され残されている。
写真はその公園から撮ったもので、左が屋内体操場、奥が校舎となる。
今朝は十思という復興小学校と復興小公園を通して、これらの持つ意義を少し考えてみた...。

by finches | 2011-03-02 04:23 | 復興
605■■ 外濠 雉子橋
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江戸城の濠は内濠と外濠からなる。
これらは天守閣を中心に二重の「の」の字を描くようにして、最後は隅田川につながっている。
この内側の「の」の字を内濠、外側の「の」の字を外濠と考えればいい。
もっと分りやすく言えば、二重のロールケーキを想像すればいい。
そして、間の生クリームをこれらの濠と考えればいい。

江戸古地図を見るとこの内濠にあたる部分は和田倉濠、つまり現在の皇居外苑の外までで、現在内濠と言われている大手濠、桔梗濠、蛤濠、二重橋濠は地図には表されていない。
それは江戸城の防備上極秘にされたためだろうが、実はこの二重の「の」の字の内側には最後にもう一つ江戸城を取り囲む濠がある。
それが今では地図で見ることのできる大手濠、桔梗濠、蛤濠、蓮池濠、乾濠、平川濠、天神濠だ。

そしてこの三重の濠が最も接近している場所がある。
そこに外濠は雉子橋門と一橋門が、内濠は清水門と竹橋門が、そして一番内側の濠つまり大手濠には平川門があって鉄壁の睨みをきかせていた。
そして、この雉子橋門のすぐ北にあった橋を雉子橋と呼んだ。

今は薄暗い高速道路の下にある雉子橋もその歴史を知り、また竣工当時の写真を見ると、今とはまるで違うその美しい素顔が分る。
現在の雉子橋は昭和2年(1927年)に完成した震災復興橋梁で、美しいスチールアーチ橋だ。
何枚かあるこの橋の写真を時々開いてみては、この橋についてどんなことが書けるだろうかと考え、そしていつも閉じてきた。
だが、今朝古地図と格闘したことで、何重にもこの橋とレンズの間にあった時代のレイヤーをはがし、自分なりの雉子橋が見えたような気がする。
そして、古地図に残された情報の正確さに改めて感心もした...。


More photo 「竣工当時の雉子橋」
by finches | 2011-02-25 04:29 | 復興
600■■ 山谷堀川 今戸橋
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今戸橋は待乳山聖天の下の山谷堀川に架かっていた橋で、大正15(1926)年に完成した震災復興橋梁だ。
この橋は隅田川に流れ込む山谷堀川に架かる9つの橋の第一橋梁で、他の橋が桁橋やゲルバー橋であったの対しスチールアーチ橋で、御多分に洩れず第一橋梁としての隅田川からの見栄えと認識性が考慮されたことが窺える。

山谷堀川は昭和50(1975)年までに全て埋められ暗渠と化し、この今戸橋も親柱と高欄の一部を残しているだけだが、恐らくスチールアーチの橋本体は土の中に埋まっていると考えられる。
現在山谷堀川の川筋は公園として整備され、江戸時代に洪水対策のため造られた日本堤は土手通りの名に微かな面影を残している。
そして、かつて土手八丁と呼ばれた吉原までの道筋に地図の上で定規を当てると、当時吉原通いの遊客が猪牙舟で隅田川から山谷堀に入り、駕籠に乗り換えたのがこの今戸橋辺りだとピッタリ一致するから面白い。

この山谷堀川は音無橋が架かる石神井川が谷中の北で分流したもので、江戸の古地図と現代の地図を行ったり来たりして見ていると、その流れは今の荒川区と台東区の区境に一致するからこれまた面白い。

今朝は今戸橋について書き始めたものの途中多いに脱線し、地図の上にその川筋が見えてくると、それがつい最近歩いた谷中や根岸の道筋と一致していることに驚き、一人感動した次第。
いやー、地図こそ最大のミステリー、最高の読み物かも知れない...。

by finches | 2011-02-19 04:12 | 復興
598■■ 日本橋川 江戸橋
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江戸橋は日本橋川に架かる橋で、昭和4(1929)年に竣工した震災復興橋梁だ。
日本橋川は外濠から隅田川までを流れる川で、途中には八本の橋が架かる。
また、今では亀島川だけになってしまったが、かつてこの日本橋川には五本の川が注いでいた。

江戸橋はスチールの二連ソリッドリブ・アーチ橋で、なかなかこの美しい橋を横から眺めることはできないし高欄なども新しいものに換えられているが、巨大な親柱とその橋灯はかつての面影を残している。
兎角人々の興味の対象は一つ上流にある日本橋に向けられ勝ちだが、例えば江戸橋の橋巾は日本橋の1.6倍もある。
これは震災復興事業で新設された幹線道路である昭和通り(昭和6年完成)の橋だからで、その巾は24間(44m)にも及ぶ。

この橋の右岸下流の橋詰には三菱倉庫本社(旧江戸橋倉庫ビル、昭和5年竣工)という名建築が残っている。
筆者などは古い建物全てが好きな訳でも興味がある訳でもなく、その中の本物だけに興味があるのだが、この周辺に建つ建築の中でも三菱倉庫本社は群を抜いている。
ただこのビルの玄関は確かに江戸橋橋詰に面し、橋塔のような塔屋のデザインなどは江戸橋側からの見え方を意識しているが、この建築の面白いところであり設計に心血を注いだのは、この建物の東側で日本橋川に流れ込んでいた楓川との合流部分のデザインではないかと思う。
そのカーブした曲面、そこに開けられた窓、これらの調和が何とも美しい建築だ。

今では上を高速道路が走り、右岸左岸共に上流側には高速道路への出入口が設けられ、その橋詰からの眺めを楽しむことはできないが、それにしても、高速道路がない時代の三菱倉庫本社からの眺めはさぞや絶景であったろうと思う...。

by finches | 2011-02-16 06:16 | 復興
577■■ 愛宕隧道
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これまで何度もこの隧道は通っているが、三つの印象を持っていた。
一つは写真に写っている坑門の正方形の意匠が近年の改修によるものだと思い込み好きになれなかったこと。
二つ目はかつてこの坑門側を西久保巴町、反対側を愛宕町と呼んでいたが、愛宕山を挟んで趣を異にする旧西久保巴町側の雰囲気が好きだったこと。
三つ目は隧道の形で、放物線とは珍しいといつも思いながら通り抜けていたこと。

愛宕隧道は震災復興事業により昭和5年に完成したものだが、筆者が好きになれなかった両坑門の正方形の意匠も実はその当時のものだ。
次に筆者を珍しいと唸らせた曲線だが、単純なアーチでないことは一目瞭然なのだが、果たしてそれが放物線なのだろうかと調べてみた。
楕円、サイクロイド、パラボラ(放物線)、カテナリー、と円以外で思い付く曲線について調べてみたが、可能性としては馬蹄形が近いようだ。

馬蹄形アーチ環という言葉から更にあれこれ調べを進めると、当時建設されていたトンネルの形状が馬蹄形であることが分かった。
だが馬蹄形だと円の中心線の少し下あたりから、その中心と直径を変えて下に向かう形になりそうだが、この隧道はどう見ても放物線、否、カテナリーに思えてならない。
カテナリーは懸垂曲線と呼ばれ両手でロープを持って垂らした時にできる曲線で、重力に逆らわない最も安定した形だ。
ガウディがサグラダ・ファミリアで行った懸垂線実験は有名な話で、実験で創り出された懸垂曲線をひっくり返したものがサグラダ・ファミリアの骨組みで、重力に逆らわない構造をガウディはこうして導き出している。

更に調べていて愛宕隧道の工事に関する論文を見つけた。
その中の図面を見ると円の組み合わせによってこの曲線はできていることが分かった。
しかし、円の中心を横にずらすことでカテナリーに近い曲線を作り出していることが分った。

いつも放物線とは珍しいと、心の中で呟きながら通り過ぎていた曲線。
今朝はそれを自分なりに解明できたことが喜ばしい...。

by finches | 2011-01-25 03:07 | 復興