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956■■ 栗のテーブル

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七畳半は短手が一間半の長手が二間半の大きさだが、この六畳が長手方向に半間延びた大きさがどうにも使い難い。
六畳より広いのだから使い易そうだが、縦横比のプロポーションの悪さなのか、家具がどうにも収め辛い。

その七畳半の発想を転換させて、逆に大きなテーブルを置いてやろうと決めた。
手持ちの栗の厚板9枚を組み合わせを替えながら何度も並べ直し、バランスの良い2枚を選び出した。
その時ベストだと思った向きを忘れない為に、それぞれの板が接する側に対峙する記号を振ることも勿論怠りない。

二日間はその板を並べたままただ眺めるだけにして、さあこれからどう手を入れようものかと思案を重ねた。
三日目から「少し皮剥きしては眺め」を繰り返し、三日かかって荒剥きまでの作業を終えた。
作業を急がないのは、皮と辺材との境の見分けがつかず、無暗に辺材に深く切り込むのを避けるためだ。
それは遺跡の発掘作業に似ていると思った。

天板の表面も荒く仕上げたい。
普通なら加工に出して綺麗に鉋仕上げというところだろうが、それでは栗材の味わいが無くなってしまう。
まあ、慌てず焦らず、ゆっくりじっくり、栗と話しながら、栗の気持ちを確かめながら、材料の持ち味を引き出してやろうと思っている。

この栗材は津軽海峡を渡って遥々やって来たものだ。
この木を山から切り出した人、この木を製材した人、この木を運んでくれた人、その人たちのことを思いながら、ゆっくりと栗の板に命を吹き込んでやろうと思っている...。

by finches | 2012-10-27 07:52 | 無題
955■■ 追想Ⅷ-横浜・西波止場

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『武州久良岐郡横浜村麁絵図』には大岡川河口に広がる浅い内海と、『象の鼻』と呼ばれる砂州が描かれていた。
この『象の鼻』の部分が西を大岡川、南を内海の埋め立てにより流れを変えられた中村川、東を開削により造られた堀川によって切り離され、まるで出島のように『居留地』を形成していたのが開港当時の横浜の姿だ。

もう少し詳しく言うと、この『居留地』の海縁に神奈川運上所(現在の税関)が建設され、2本の突堤を築いて西波止場とし、この運上所を境に西側を日本人居住地、東側を外国人居留地と定め、居留地には東波止場が設けられた。
この日本人居住地と外国人居留地を分けていた大通りが重文・横浜市開港記念会館などが建ち並ぶみなと大通りで、西波止場は現在の大桟橋埠頭、東波止場は現在氷川丸が係留されている場所辺りとなる。

この大桟橋埠頭にある国際客船ターミナルは1995年に実施された国際コンペで、イギリス在住の建築家、アレハンドロ・ザエラ・ポロとファッシド・ムサヴィ両氏の作品が最優秀案に選ばれ、2002年にその完成をみたものだ。
この日関内から歩き始めた終着点がこの国際客船ターミナルとなった。
木のデッキと芝生が緩やかな起伏を描きながら桟橋の突端に伸びていく斬新なデザイン、よくもまあ、あの案を実現できたものだと、ウォッツォンのシドニーオペラハウスの例を思い出しながらゆっくりと見て歩いた。

デッキに腰を下ろし沈み行く真っ赤な夕日を飽かずに眺めた。
遠い夕日を眺めその日一日を反芻しながら、初めて横浜のことが分かってきたような気がした...。

by finches | 2012-10-24 09:16 | 無題
954■■ 新東京市中央図
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前稿の『新東京市中央図』に描かれた市電の路線と、絵葉書に写った相生坂を登る市電を見ていて、その市電の行く先にある飯田橋駅に目をやりながら、あるひとつの感慨が頭を過った。
それはあの忌まわしき三月十一日、東北大震災が起きたことで突然止まった、それさえ起きなければその日にきっと書いていたはずの『甲武鉄道・飯田橋駅』のことを思い出したからだ。

甲武鉄道について調べていくと、江戸から明治へと東京の街が出来上がっていく、その様、その過程が見えてくる。
当時多くの民営鉄道が東京の中心に向かって、西から東に北から南へとその路線を延ばしていったが、それはあたかも一本の織糸を作るように、紡がれた短い糸が少しずつ繋がれていくように延びていった。
そして、そこには生糸の輸送という国策を背景としたもう一つの使命もあった。

甲武鉄道の飯田橋駅はどこにあったのだろうかと随分考えた。
大体の場所は分かっていても、高架になっていた筈の線路をどうやって地上まで下げることができたのか、その部分への疑問がどうしても解けなかった。
だが、何度も足を運んでいるうちに、現在の高架や地上にその痕跡が残されていることに徐徐にではあるが気付いていった。

筆者の頭の中にも紡がれた短い糸が少しずつ繋がれた織糸があって、それが想像力という織機で織られるのを待っている。
織れてもまだそれは一寸角くらいの端切れのような小片の集まりでしかないだろうが、それらが繋がって一枚の織布になる日もやがて来るだろう。

『新東京市中央図』は小さな地図だが、そこにも計り知れない歴史の情報が嵌め込まれている。
改めて、当面必要がなくても基礎資料の蒐集だけは怠ってはならないと肝に銘じる思いがした...。

by finches | 2012-10-21 08:51 | 無題
950■■ 追想Ⅶ-横浜・ヘボン

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横浜でのお目当ては三井物産横浜支店(明治44(1911)年、設計・遠藤於菟)を見ることと、横浜開港資料館の図書室で調べものをすることだったが、その資料館で一枚の絵葉書に目が止まった。
その写真は明治後期に撮影されたもので、絵葉書のタイトルには『谷戸橋のたもとの旧ヘボン邸』とあった。
『ヘボン』からヘボン式ローマ字の、あのヘボンだと直感した。

その一枚の絵葉書を入口に、これまで知らなかった横浜の歴史についての多くの知見を得ることができた。
入口となったキーワードは『川』と『橋』で、そこから調べを進めて開港前の横浜を表した『武州久良岐郡横浜村麁絵図』に出合い、当時の横浜が大岡川河口に広がる浅い内海と、『象の鼻』とよばれる砂州からなっていたことを知った。

この内海と『象の鼻』の跡は現在の地図の上にもくっきりと残されていて、現代にその過去のレイヤーを重ねると、はっきりと横浜開港から現在までの歴史の痕跡を辿ることができる。
簡単に説明すると、かつて内海には大岡川とその支流である中村川が注いでいたが、江戸時代の新田開発によりこの内海が埋め立てられ、『象の鼻』の縁に沿うように中村川は西へと流れを変え大岡川に合流した。
開港後はこの『象の鼻』部分の東側が外国人居留地、西側が日本人居留地として整備され、中村川から海に向かって現在堀川と呼ばれている川が開削された。

その堀川に架かる第一橋梁が谷戸橋で、そのたもとにかつてヘボン邸があったことを絵葉書は示していた。
かつて図書館で幾度も目にしたヘボン式ローマ字一覧表、それを作ったヘボン氏が実はJames Curtis Hepburnで、当時の日本人が英語の発音を聞き分けることができなかった為にヘップバーンがヘボンになったことも知った...。

by finches | 2012-10-14 11:19 | 無題
949■■ 追想Ⅵ-横浜
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何年か前から街の歩き方が大きく変わった。
それを一言で言うなら、敢えて遠回りをするということだろうか。
一つ手前の駅で降りて歩く、無理に路線を乗り継ぐのを止めその路線上の駅から歩く、川向うに行くにも手前の駅で降りて隅田川を歩いて渡る、そんな遠回りだが新たな出合いと発見を楽しむ歩き方だ。

関内で降りて横浜を初めてそんな風に港まで歩いた。
すると、今まで自分の中で横浜の中心から外れた場所であった所が、実は横浜開港の歴史に繋がっていることが分かった。
それは外国人居留地と日本人居留地とを分けていた道で、その軸線から見ると横浜の街の歴史や古い建物の成り立ちの謎が全て解けるように思えた。
そして、何十年もそれぞれ単体でしか見てこなかった古い建物が、歴史の織糸で結ばれていることにも気付かされた。

限られた滞在時間の中でわざわざ横浜を訪れたのは、横浜開港資料館や横浜都市発展記念館などでの資料集めと、三井物産横浜支店(旧名)を見たいと思ったからだ。
三井物産横浜支店は明治44(1911)年の完成で、建物全体を全て鉄筋コンクリート構造により実現した日本最初のオフィスビルだ。
この建物は関東大震災後に増築がなされているが、明治44年製のオフィスビルは大震災にも見事に耐えた堅牢な姿のまま穏やかに街の風景に溶け込んでいた。

古いというだけで耐震性がないと決めてかかる数多の大嘘を嘲笑うように、その101歳のオフィスビルは悠然と建っていた...。

by finches | 2012-10-13 09:06 | 無題
948■■ 温泉と彼岸花-その三
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毎日の温泉通いを人は羨ましいと言うが、医者から治ることはないと言われた皮膚疾患の温泉治療をその湯に託している身としては、毎日のそれは他人の羨望からは程遠い忍耐に他ならない。
車で20分以内で行ける二つの温泉がその皮膚疾患を和らげることに偶然気付き、以来筆者の温泉通いは続いている。

その二つは元々は共に古くからある湯治場だが、そのうちの一方が秀逸な掛け流しの湯で、完治こそしないもののその効果には絶大なものがある。
ただ難を上げるならば、余り綺麗ではないことと、休みが決まっていないことだ。

最近その湯の常連から休みだった時に訪れるという温泉の名を聞いた。
そして、このところ日曜日になるのを今や遅しと待ってその温泉に出かけている。
正に灯台下暗し、その温泉の湯があの秀逸な湯に勝るとも劣らない掛け流しだったのだから堪らない。

その温泉には読みたい本を持って行くのが似合うと思い立ち、三回目にそれを実践してみた。
湯客が空いたら湯に浸かり、上がったら畳に胡坐をかいて本を読む。
窓からは桜紅葉、縁側からは峠の下を流れる川からの川風が心地よく入ってくる。
そして、湯上がりに食べた親子丼の素朴な味は何よりの馳走に思えた。

三回目の帰り道も同じ場所に車を止めた。
彼岸花は終わりを迎え、幾つかの田んぼを残しほとんどは稲刈りを終えていた。
これから晩秋を迎えそして冬を迎え、この景色はどんな風に変わっていくのだろう...。


親子丼はこちら
by finches | 2012-10-10 09:23 | 無題
946■■ 追想Ⅴ-東京・隅田川
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同じ朝、佃島からの帰りは隅田川の下流を眺めながら歩いた。
かつて佃の渡しがあった場所に架けられた佃大橋の向こうには隅田川の第一橋梁となる勝鬨橋の雄姿が銀色に見える。
右岸手前は亀島川、その少し下流にはかつての鉄砲洲川跡が水門として残り、勝鬨橋の右岸上流にはかつての明石堀跡が水門として残っている。

以前この明石堀について拙稿では次のように書いている。
「写真はあかつき公園となっているかつての明石掘跡だ。
かつて築地川はこの公園の名の由来となった暁橋を過ぎると、築地川南支川との出合で直角に曲がり、その曲がった所には境橋が架かっていた。
そして、しばらくその川幅のまま流れた後、新栄橋の手前辺りから徐々に川幅を広げ明石掘と呼ばれる船入澗が造られていた。
その明石掘の最も幅が広い東端にはかつて鉄砲洲川が流れ込み、その出合から明石掘は南に向きを変えて川幅を狭め、明石橋を過ぎた先で隅田川に注いでいた。
そして、この隅田川との出合にかつては月島の渡しがあった。」

隅田川左岸の佃島はかつて隅田川の河口に浮かぶ小島だった。
佃大橋が架かり消滅した佃川は、埋め立てによって次々に拡張されていった月島とのかつての境で、佃大橋から手前の部分がかつての佃島となる。
その佃島の船入澗は今も佃大橋の左岸上流に残っていて、住吉水門で隅田川にその口を開いている。
佃島には……、おっと、切りがないのでこの辺にしておこう。

川筋には消すに消せない街の歴史が深く刻まれている。
その歴史は昭和から大正へ、大正から明治へ、明治から江戸へと繋がっている。
そして、江戸から今を逆に見てみると、大樹のように枝を張った街の歴史が見えて来る。
そして、そのことに気付くと、未来の有りようも見えて来る。

過去をそのまま未来へと引き継ぐこと、引き渡すこと、それこそが今を生きる者の使命だと改めて思う...。

by finches | 2012-10-04 06:16 | 無題
945■■ 追想Ⅳ-東京・隅田川
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新しい朝を迎えた隅田川を佃島に渡った。
正面の橋は永代橋、その奥には清洲橋も見える。
隅田川は佃島で二本の流れに分かれているように見えるが、本流は西側で東側は晴海運河となる。
晴海運河は海の埋め立てで生まれたものだ。

この辺りから眺める隅田川は、永代橋の上流右岸で日本橋川、下流右岸で亀島川、そして下流左岸で大横川と出合う。
今では新川と呼ばれているこの右岸の日本橋川と亀島川に囲まれた一帯はかつて霊岸島と呼ばれた。
霊岸島は江戸時代に埋め立てによって生まれた島だ。

その辺りをかつて江戸湊と言い、江戸幕府により整備された最初の港で、日本各地から産物を満載した船が引っ切り無しに出入りしていた。
霊岸島には……、おっと、切りがないのでこの辺にしておこう。

この霊岸島には小学校が一つあって、それは明正小学校という昭和2(1927)年に建てられた震災復興小学校だ。
そして、道路を隔てた公園は越前掘公園という震災復興小公園で、かつて松平越前守邸を三方囲んでいた越前掘の遺構が残る場所でもある。

残念ながらこの明正小学校も建て替えの為の取り壊しが始まっていた。
それを見ながら、価値観の違いと言って済ますには余りに大きい、一つの時代の語り部がまた一つ消失する焦燥が胸を打った。

川や川筋の跡には江戸の香が今に残り、大正・昭和初期の建築にはその時代の息吹が今に残る。
それらをそのまま未来へ引き渡すことが、今を生きる者の使命だと思うのだが...。

by finches | 2012-10-03 09:12 | 無題
944■■ 追想Ⅲ-東京・南高橋
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南高橋
は亀島川に架かる第一橋梁で、昭和6(1931)年に完成した震災復興橋梁の一つだ。
この橋は明治37(1904)年に完成し大正12(1923)年に起きた関東大震災で損壊した両国橋三径間の破損の少なかった中央径間を、この南高橋として復活させたものだ。
だから、最初の両国橋から数えると108年を経過して今尚現役の橋ということになる。

明治,大正,昭和初期の古い建物の保存が叫ばれる昨今、同時期に建設された土木橋梁への関心は隅田川に架かる一部のスター橋梁は別として人々の関心の外にあるのが現実だろう。
だが、今尚この時期に建設された古い橋が人々の生活と密着した暮らしの中で、なくてはならない橋として立派に現役で機能していることを知って欲しい。

現代の橋と違って、これらの古い鉄の橋はどれも皆実に美しい。
加えて、鋼材を重ね合わせ、リベットで接合した手仕事の温もりが、人の暮らしや営みの身の丈のスケールと穏やかに呼応し優しく調和している。
それらの橋が土の中に埋められたり、味気ない同じような橋に架け替えられて行くのを見て歩きながら、これらの橋を何とか残せないものかと思い続けて来た。

特別な橋は別として、これまで寿命が来た橋は人知れず架け替えられて来た。
だが、不況による公共工事予算の緊縮から、古い橋を改修しメンテナンスして行くことで、その寿命を延ばそうというすばらしい試みが全国で始まっている。
隅田川を例に言えば、これらの古い橋を後200年は使い続けようという試みだ。

南高橋にもこの長寿命化工事の工事看板が立てられていた。
筆者は新川と鉄砲洲を繋ぐこの橋が好きだ。
ここにこの橋があることで街が時代と共に変貌しても、江戸を彷彿とさせる風情や情緒が残っているのだと思う。
200年後この街はどのように変わり、その中でこの橋はどのようにあるのだろう。
きっと、今以上に人々に愛され、凛と美しく輝いているに違いない...。

by finches | 2012-09-29 06:24 | 無題
943■■ 追想Ⅱ-東京・上野毛
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移転した公文書館に行くために久し振りに上野毛で電車を降りた。
結婚して新しい生活を始めたのはこの上野毛の隣駅,等々力から少し歩いた深沢だった。
東京でも世田谷は緑の多い所だが、その世田谷の中にあって深沢は群を抜いて緑の多い所だった。
上野毛にはたまに散歩がてら行ったが、当時上野毛には小さな木造のかわいい駅舎があって、階段を降りると昭和の初め頃を彷彿とさせるような小さなホームがあった。

上野毛から公文書館への道は急な坂になって多摩川へと落ちている。
これは国分寺崖線と言われる多摩川が武蔵野台地の縁端に作り出した河岸段丘の崖線だ。
この緑に覆われた斜面に沿って高級住宅が建ち並んでいるのも上野毛のもう一つの顔だ。

さて、その懐かしい坂を下ったところに公文書館はあった。
勝手知ったるで、入口のガードマンに利用目的を告げ、氏名住所と入館時間を記帳しバッジをもらった。
資料室ではメガネと手帳以外はロッカーに入れる。
筆記具は鉛筆以外使用が禁じられている。
公文書館ならではのルールさえ守ればそこは貴重な資料の宝庫、お目当ての資料を探し出すにはかなりの苦労を要するが、それはそれでまた楽しみというものだ。

その資料との6時間の格闘を終え公文書館を後にした。
二子玉川は街全体が新しく生まれ変わっていた。
かつての駅裏が新しい街へと美しい変貌を遂げていた。
その街をぶらぶらと見て歩きながら三種の皿を買い求め、予約の入れてある店へと向かった...。

by finches | 2012-09-27 08:35 | 無題