カテゴリ:季節( 57 )
980■■ 無垢な季節の始まり
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啓蟄のあたりから姿は見えねど、微かに蠢く動物たちの始動の気配を感じ始めた。
まだ冬を纏った地面は殺伐としていて、取り残された落葉はこの数カ月虫たちによって分解されることもなく、ただ風にカラカラと翻弄されるままに身を任せ、仕舞にはいくつかの吹き溜まりに集められた。

春分のあたりから色は見えねど、其処彼処から淡く色づく植物たちの始動の気配を感じ始めた。
まだ冬色の殻に覆われた芽先からも、芽吹こうとする生気の色を感じ、それらは次第に空間のあちこちで一斉に色づき始めた。

満開の桜を散らす時ならぬ冷たい雨の中、清明の輝きに見蕩れた。
木々は枝先に小さな若葉を付け始め、野草は青々とした葉を広げ、蕗は若葉を軽快に持ち出し、キャラブキは象の鼻のような小さな葉を広げ始めた。
葉を垂れていたフイリヤブランも真っ直ぐに上を向いて伸びる若葉が顔を出し始めた。

傘をさし、しゃがんで、美しい清明の世界を堪能した。
地上に蠢く動物はいなかったが、土の中で蠢く動物たちの躍動の気配を静かに感じ取った。
清明、再び無垢な季節が始まった...。

by finches | 2013-04-07 11:16 | 季節
978■■ 雉鳩の訪問

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毎日のように来ていた雉鳩の番が突然姿を見せなくなった代わりに、番が来ている間は逆に姿を見せなかった一羽の雉鳩がまるで入れ替わるようにやって来るようになった。
雉鳩は庭の中ほどにある布団干しに一旦舞い降りると、そこから地上に降りてトボトボと歩いて柿の木の下までやって来る。
そこが餌をもらえる場所だということを知っているからだが、どうしていつも歩いてやって来るのか不思議でならない。

小鳥のために庭に餌を撒いてやるようになって早いものでもう一年は経つと思うが、その中の常連が雉鳩たちだ。
他の野鳥たちも食べには来るが、警戒心が強く鳩のように人懐っこくはない。
雉鳩は餌を食べ終わるとメダカの水鉢の水を飲み、柿の枝に飛び移って毛繕いなどを始める。
気持ちが良いのだろう、近付いても逃げはしない。

二階の窓から下を覗き、柿の枝に雉鳩が来ていると、階下に降りて行っては餌を一つまみ置いてやっているうちに、来たら二階の窓越しに見える柿の木の上の枝にとまるように調教してやろうと閃いた。
そこで、下の枝にとまっている雉鳩に向かって窓から顔を出し上に来るように合図を送ると、頭をクネクネしていたが、枝から枝に飛び移りながら窓に近い枝までやって来た。
やればできる、写真はその時のものだ。

野生の動物が自分から近付いて来るのは拒まない。
だが、懐かせようとか考えてはいけないと思う。
人懐っこいといえども野生は野生、そこには適度な距離をあけることを忘れてはならないと自覚している。

メダカたちも元気に泳ぎ回る季節になった。
動物にも植物にも生き生きとした新しい季節が動き始めた...。

by finches | 2013-03-24 09:39 | 季節
974■■ 柿とメジロ Ⅱ
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やっと一羽二羽と見かけるようになったメジロも、二羽三羽、五羽六羽と数を増し、とうとう何十羽いるのかも分からないくらいやって来て柿の実を食べるようになった。

人間というものは幾つになっても強欲なもので、木に随分と残っている熟れた実を指しては、駄目になるからもぐように勧める。
要は収穫できるものは根こそぎ取ろうという発想で、小鳥たちにもそれらを分けてやろうなどという発想は微塵もない。

ナナカマドは秋にその赤い実を枝ごと随分と地上に落とす。
しかし、枝先に少しだけ残された赤い実は、冬雪に覆われ食べるものがなくなった小鳥たちの命を繋ぐ。
小鳥たちがその実を啄ばむ情景は美しいもので、紅葉のころの美しさとは一味違う生への躍動がある。

メジロたちにとってこの柿の実はナナカマドの実と同じだ。
柿の実を食べるメジロたちは必死で、そこには厳しい冬を乗り越えようとする躍動が感じられる。

冬は動物や植物の命を感じる季節だ。
眠っているようでも、そこには春へ向けての力強い躍動に満ちた世界がある...。

by finches | 2013-02-12 08:34 | 季節
972■■ 柿とメジロ Ⅰ
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今年はもうメジロは来ないのだろうかと思っていると、突然とその姿を見かけるようになった。
12月も終わりに近い頃だ。
姿は見せなくてもそこは鳥の目での観察に怠りも見落としもなく、食べ頃になるまで柿が熟れるのを待っていたようだ。

柿を食べにやって来る鳥には他に雀とヒヨドリがいる。
雀もヒヨドリも警戒心が強く臆病で、窓越しでも人の気配を感じた途端に逃げてしまう。
そして、雀もヒヨドリも狡賢い上に貪欲で、ヒヨドリに至っては食べる態度もマナーも最低といえる。
だから、雀もヒヨドリもどうも好きになれない。

その点メジロは窓越しに見ていても逃げないし、枝から枝にせわしく飛び移りながら一心に実を食べる姿が愛らしい。
楽しそうに丁寧に食べるところにも好感が持てる。

写真はそんなメジロを初めて撮影した時のもので、枝には沢山の実が残っていたし、メジロの表情にもどれから食べようかと思案する程の余裕が伺える、そんな一枚だ。
何百枚か撮った中から、メジロが見せてくれた冬の詩篇を少し紹介しよう...。

by finches | 2013-02-10 12:14 | 季節
971■■ 節分の海
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日曜日、海を見下ろす温泉にでかけた。
太陽に干した布団を取り込める時間までに帰る、そのために昼を挟んだ数時間が当てられた。
「どこに行こうか」
「近場ならあそこがいいんじゃない」
と、その海が見える高台の温泉に決まった。

芽吹く準備を始めた木々の間を走り、遠くにこの地特有の形をした山並みを眺め、刈株が続く田んぼや若葉を一斉に出した麦畑やもう直ぐ芽を出すだろう真黄色な菜の花畑を思い浮かべながら、広い干拓地を横目に遠浅の海を眼下に斜張橋を渡り、美しい砂浜のある海へと向かった。

その海は中学一年の筆者が臨海学校に来た思い出の場所で、合宿した当時は国民宿舎だった高台に建つ建物と海との間の長く急な坂を一日に何往復もしたことを覚えている。
思えばこれも小学校から中学生活に入り心身共に鍛えんがための周到に準備されたカリキュラムだったのだろう。
当時、こんな綺麗な海があるのかと思ったことを今も覚えているが、長い年月を経て沖に浮かぶ小島も海の色も丸い水平線もあの時のまま変わらないように思えた。

立春を前にした穏やかな小春日和、石の防波堤の内側で風を除けながら弁当を開いた。
筆者たちは途中で野菜と一緒に買った、栗入りの御赤飯と恵方巻とサーターアンダーギーを分けて食べた。
そして、窓から冬木立越しに海が見えるサウナと、眼下に広大な海を見渡せる露天風呂を楽しみ、早目の帰路についた。

夕方までささやかな家庭菜園の手入れに軽く汗を流した。
作業を終えると鬼の面を被り、炒った大豆を小枡に入れた家人が待っていた。
そして、我が家恒例、節分の日の豆撒きが始まった。
鬼は外、福は内...。

by finches | 2013-02-05 09:38 | 季節
962■■ 柿-十一月
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週末には枝にまだ多く残っている柿の実をもごうと思っていたが、突然のカラスの襲来に急遽柿の実の間引きを行った。
庭の柿の木は一昨年は沢山の実を付けたが、昨年はほとんど実がならず、そして今年はまた沢山の実を付けている。
庭の柿の木に一昨年は沢山のメジロがやってきて柿の実を綺麗に楽しそうに食べていたが、昨年は実のない柿の木に小鳥は寄り付きもせず、そして今年は雀とヒヨドリがやって来て熟れた実を食べている。

メジロと違い雀もヒヨドリも好きではない。
一昨年はヒヨドリ撃退用のパチンコを木の枝で作って、ヒヨドリがやって来ると様々な大きさ重さの木の実を集めた弾から一つを選んで撃った。
精度が悪いために弾がヒヨドリに当たることはないが、近くの枝に上手く着弾するとヒヨドリは慌てふためいて飛び去る、その不毛の行為を飽きもせず繰り返した。

東京ではベランダにヒヨドリが来るのを楽しみにして餌まで置いていたのに、今はそのヒヨドリが大嫌いだ。
それはカラスには及ばないが、兎に角その食べ方が汚いのが嫌で嫌でしようがない。
メジロは一つの実を綺麗に丁寧に食べ尽くし、一つを食べ終わってから次の実に移る。
だが、ヒヨドリは次から次へと熟れた実をつついては、食い残しを下に平気で落とす。
その初冬の風情を壊す粗雑さが嫌でたまらない。

今朝も早朝からヒヨドリの鳴き声が煩い。
それに引き換えメジロの姿はまだ一度も見ない。
こんなに実があるのにと思うが、その実が一昨年程甘くないのをもう既に知っているのだろうか...。

by finches | 2012-11-22 08:33 | 季節
961■■ 楓-十一月
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筆者には好きな大楓の木が三つある。
一つは写真の楓で、毎日曜日に通う温泉への道中にそれはある。
もう一つは、これも月曜から土曜日まで毎夕通う温泉への道中にある三本大楓だ。
最後は、長い東京暮らしの中でも紅葉の頃になると必ず思い出していた子供の頃に遊んだ里山の、その斜面に聳える大楓だ。

前二つの紅葉の具合を確かめながら、最後の大楓の紅葉を見に行くのを今から楽しみにしている。
その里山が真っ赤に染まる紅葉の記憶は年を経ても消えることがなく、毎年その時期が来る度にその記憶は鮮やかに蘇り、「あの紅葉を見に帰りたい」と、思い続けたものだ。
だが、こうして日ごとに遅遅早早と微妙に変化して行く紅葉を見ていると、その最も美しい瞬間を見ることは遠くに暮らしていては所詮無理で、日々の暮らしをその中に置いていてこそ、その一瞬の出合いに立ち会うことが許されるのだと思った。

二日前の日曜日、写真の楓の木の下で川面を見ながらサンドイッチの昼食をとった。
杣の森へと続く川、その流れに沿うように鉄道が北へと延びている。
そして、その鉄道の向こうにはこの写真の道が完成するまで使われていた旧道が北へと延びている。
そんな景色を眺めながら、この旧道がかつての人々の暮らしの中にあった道だということを改めて考え、これから訪れようとしている温泉の地名の由来も初めて理解できた気がした。

その日もその温泉には読みたい本を持ってでかけた。
十二畳の部屋には筆者一人、そこから湯殿に行き、戻ると本を読む。
そんなことをいつも3、4回繰り返す。
この日は真昼の日射しが南から射し込み、立ち昇る湯気の粒子がまるでミストサウナにいるように一粒一粒輝いて見えた。
それを見ていると、湯煙ではなく、今正に生まれたての微細な水の粒子がピチピチと弾けるように空間を覆い尽くし浮遊し逆光に輝く様がよく分った。

帰り道、大楓は薄暗くなり始めた中に色を失いつつある周りの色と同化するようにポツンと立っていた。
川風がこの大楓の紅葉の出来映えを支配していると思いながら、「今年は葉が落ちるのが早いなあ」と、思った...。

by finches | 2012-11-20 06:36 | 季節
947■■ 温泉と彼岸花-その後
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日曜日の昼下がり、東京から戻った家人を連れて温泉に出かけた。
そこは、その一週間前に初めて一人で訪れた温泉で、源泉を沸かしてはいるものの掛け流しであることには違いなく、その泉質は相当なものだと感心した。

その日湯から上がった家人はどこかニコニコとしていて、以前美人の湯として訪れた寸又峡温泉の泉質に似ていると、妙に抑揚を押さえた声で囁いた。
それは、毎日のように通っている温泉こそが、少なくとも県下では最高の泉質と思っていたところに、突然無名の強敵が現れたことへの驚きと焦りとを押さえている、そんな囁きに聞こえた。

帰り道、彼岸花の咲いていた田んぼの脇に車を止めた。
一週間前の花は終わり、それ以上に多くの真っ赤な彼岸花が一面に咲いていた。
秋の空は高く、そして青く、そこには秋の白い雲がポッカリと浮かんでいた。

四季の移ろいをこれ程身近に感じたことがこれまであっただろうか。
今日は昨日とは違い、明日は今日とは違う、そんな小さな変化に触れ感動したことがこれまであっただろうか。
日本人の感性の根底にある美意識は、この四季の美しさに感じる心に根差していると思った...。

by finches | 2012-10-05 07:31 | 季節
941■■ 温泉と彼岸花

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東京での疲れがどっと出て、日曜日は昼食を取りがてら初めての温泉に出かけた。
これまで、筆者が使っている少し古い地図にある温泉を訪ねてみると、幾つもが既に廃業していたり、道の駅の温泉へと大きく様変わりしていた。
昨日初めて訪れた温泉も既になくなったものと思っていたが、いつも行く温泉で源泉の隠れた名湯があると聞き訪れたものだ。

その温泉はある駅の近くにある旅館の温泉で、その線路と川を挟んで走る道路はこれまで何度となく通っていたが、その駅が何処にあるのかさえ分からずにきた。
昨日はその駅を目指して地図を見ながらその川沿いの道を走ったにも係わらず、その駅の所在は全く分からずに大きく行き過ぎた。
戻る途中にあった橋を渡り旧道らしき道に入り、一軒の民家でその駅の場所を訪ねた。

その旧道を進むと小さな駅があり、そこから見ると、確かに川の向こうにいつも通る道路も見えた。
温泉旅館は木造二階建てで寂れた情緒があり、その源泉の湯はゆっくりと疲れを癒してくれた。

旅館の女主人が狭いから止めた方がいいと言った方角を帰り道に選んだ。
旅館の脇の坂を登ると直ぐに視界が開け、黄金色の田んぼが広がっていた。
青い空には白い入道雲が見えたが、それはもう夏のものではなかった。
車を止め外に出ると、湯上りの頬に秋の風が清々しく、ふと見ると黄金の稲穂に混じって幾つもの彼岸花が真っ赤な花をつけていた。

この瞬間が彼岸花が最も美しい時だ、と思った。
そして、そんな景色が何より旅の疲れを癒してくれた...。

by finches | 2012-09-24 07:28 | 季節
938■■ 秋-九月

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柿の枝に吊るした温度計は21℃、道理で肌寒いはずだ。
だから、今朝は長袖,長ズボン,靴下という万全な出立ちだ。
このところこのブログを書くのは旧車庫の一階、その土間に斜に設えた簡易なテーブルが定位置になっている。
北側のシャッターと南側の窓を開け放ち、ちょっとレトロな灯りが二つ点いている。
二時の方向にある窓からは柿の木が見える、そんなロケーションだ。

さて、このところ朝の日課に変化が生じている。
メダカの餌やりに加えて、小鳥への餌やりと、脱落して落下する柿の実の片付けと、踏み石の周りの柿の落葉の片付けだ。
メダカはこの夏の猛暑で子メダカのほとんどが死んだ。
やって来る小鳥は雀に雉鳩にハクセキレイだが、常連は雉鳩とハクセキレイ、彼らは雀と違い傍を歩いても逃げたりしない。
雉鳩に至っては食べ終わると、柿の枝の定位置に陣取って仲良く羽繕いまで始める。
但し、ハクセキレイは虫を食べているようで、餌に釣られてやって来る訳ではなさそうだ。

落柿には青柿もあれば半熟柿もあるが、後者は始末に悪い。
落下すると潰れて半熟の実が飛び散り辺りを汚す。
そんな実を片付けていて甘酸っぱい匂いが漂っているのに気付いた。
それは腐敗の匂いではなく発酵の匂いだと思った。

その匂いを嗅ぎながら、遠い昔こんな落柿が木の股の窪みに雨水とともに溜まり、それが自然に発酵して酒になり、それを動物が見つけて飲み、それを今度は人間が見つけて飲み、そして、果実から酒を作ることを覚えていったのだろうと思った。

落柿と落葉は一部を土の上に残し後は土に穴を掘って埋めてやる。
後は微生物がせっせと土作りをしてくれる。
朝の日課は増えたが、日に日に土が生まれ変わって行くようで、なんだかわくわくした気分になってくる...。

by finches | 2012-09-12 07:08 | 季節