カテゴリ:季節( 57 )
897■■ 花香

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金柑は今年花をつけなかった。
酢橘と八朔と蜜柑の花はもう終わった。
酢橙は今も花をつけている。

酢橙の花の周りにはたくさんの昆虫が集まっている。
ブンブンは体中花粉だらけになってもお構いなしにゴソゴソやっている。
蝶は付かず離れずにヒラヒラと優雅な舞いを見せている。
時には大きなスズメバチも不気味な羽音をたててやって来るが、無視していれば危害を加えたりはしない。

地面には無数の花びらが落ちているにもかかわらず、枝にはまだ無数に思える程の花がついている。
これらの花が全て実に変わればすごいと思うが、酢橘の木は自らが摘果を行いバランス良く実をつける調整をしているようだ。

酢橙の木の周りには花のいい香りが漂っている。
仄かだが柑橘系の香りがするから不思議だ。
若葉の瑞々しさ、小さな花の白さ、香りの清清しさ、時間はゆっくりと過ぎて行く...。

by finches | 2012-05-27 03:55 | 季節
896■■ ズッキーニ
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函館には普通の人が一生かけても経験しきれない程の多くの厭な思い出がある。
函館には一生忘れられない程のたくさんの楽しい思い出もある。

仕事の為に3カ月のつもりで借りたマンションは港を一望できる歴史地区の高台にあった。
結局そこを3年も借りたことで、厭な思い出は徐々に浄化され、街の歴史や伝統や風土や人々の考え方などを、そこでの暮らしの中で一つ二つと分かっていった。

マンションの管理人のM田さんは北海道の水田発祥の地である大野からの通いで、毎朝通勤途中に買った野菜をマンションのカウンターに置いていた。
住人は欲しい野菜があればそこから好きなものを取って、一品百円を置いておくのがルールだった。
早い者勝ち、なくなればそれで終わりだった。
時には売れ残っている日もあったが、M田さんは残った野菜は必ず持ち帰って、翌朝には新しい野菜を買って置いていた。

前の道の向こう側には小さな畑があった。
その畑もM田さんが手入れをしていた。
道に沿った畑は細長くて狭く、遺愛幼稚園のある反対側は急な崖になって落ちていた。

そこでM田さんが育てた野菜もカウンターに並べられたが、それらからお金を取ることはなかった。
筆者はM田さんが育てたズッキーニが好きで、それが置いてあるとよくもらって行っては料理に使った。
ズッキーニがキュウリではなくカボチャの仲間だということも、蔓を伸ばすのではなく円形に葉を広げその真中に同心円に実をつけることもその時に初めて知った。
初めてズッキーニを見た時は、そのユニークな形に目が点になったことを覚えている。

そのズッキーニを今自分で植え育てている。
黄色と緑の実をつける二つのズッキーニだ。
今次々に花が咲き小さな実も少しづつ大きさを増している。
これまではズッキーニを食べる度に函館のことを思い出していたが、今はズッキーニの成長を見ながら函館のことを思い出している。
そしてもう一つ、M田さんのことを思い出している...。

by finches | 2012-05-26 05:38 | 季節
895■■ 竹―五月

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昼食を取った後に時々訪れる神社がある。
記憶の中にあるその神社は鬱蒼とした森に囲まれていて、子供の頃は年に一度のお祭りに、大人になってからも数年前まではせいぜい初詣に出掛けるくらいだった。
今も初詣はこの神社に行くことに決めているが、その神社で束の間の時間を過ごすことが多くなった。

祭りでは本殿裏の競馬場でサラブレッドとは似ても似つかぬ農耕馬に、騎手と呼ぶにはこれまた程遠いおっちゃんたちが跨り、そこを馬が走らなければ競馬場とは決して分からない走路を、土煙を上げながら颯爽と走る光景が懐かしく思い出される。
その競馬場も今では何処にでもあるグランドに整備され、かつてそこから見えた森は何処にでもある宅地風景へと変わった。

その神社の参道脇の道は今も筆者が三日にあけず訪れる湯治場へと続いている。
その隠れた湯治場も今では立派過ぎる道が何本も通る道沿いのただの温泉に変わり、周りも目を覆いたくなるような宅地風景がかつての田園風景を駆逐し尽くしている。
筆者にとっては子供の頃、神社の脇から更に山の奥へと続くその湯治場への道は、神社の森の更に奥の森へと続く未踏の地だった。

いつも神社の参道を本殿まで真っ直ぐ進むと、決まって左に折れて競馬場跡に行ってみる。
小鳥の音しかしない林をゆっくりと抜け、今は見る影もなく変わってしまった景色に、かつての記憶の中の景色を重ね合わせ、取り留めもなく物思いに耽る束の間の時間を楽しんでいる。

この日も林の中では新しくこの世に生をうけた孟宗竹が輝いていた...。

by finches | 2012-05-25 04:26 | 季節
894■■ 海―五月

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空はもう夏だ。
真っ青な空に真っ白な入道雲が聳え立っている日も多くなった。

初夏の日射しも風も心地良く、そんな日は海まで行ってみる。
そこにはいつものように、恐らくいつもの人たちが、きっといつもの場所で、釣り糸を垂れている日常のいつもの光景がある。

そんな光景を、時に堤防の手前から、時に堤防の先まで行って、時に立ったまま、時に座って眺める。
釣り人たちよりも光の反射をカットする偏光メガネを掛けている筆者の方が、餌に群がる魚の様子がよく見えているだろうというのも愉快だ。

今の時期、釣り人たちの狙いは細魚(さより)で、次から次に上がって来る。
音のない海原に、時折竿を力一杯引いて糸が一気に張る「ビシッ」という音だけが響く。

海ももう夏だ...。

by finches | 2012-05-24 04:12 | 季節
892■■ 御田植祭
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何と書きだそうかと迷っている。
迷う程に昨日目の前を流れた時間と光景は、まるで夢物語のように思い出されるからだ。
歴史ある神事、御田植祭の一部始終はまるで幻想のように思い出され、日本という国の、その文化のルーツと礎に触れた感動が未だ覚めやらぬからだ。

馬鍬(まぐわ)を牛に引かせた代掻き、八人の早乙女(さおとめ)たちによる早苗(さなえ)の植付け、八乙女(やおとめ)たちの舞、そしてどこか懐かしい響きの田植唄、かつて瑞穂国(みずほのくに)と呼ばれた日本の、美しく穏やかな農耕文化を今に伝承する絵巻に見惚れ、静かに深く長く、その感動に酔いしれた。

今年に入って随分と故郷への知見を深めた。
これまで漠然とだが確かに自分の中にあった郷土愛などとは全く違う、郷土の懐の深さ、歴史の深さ、自然の豊かさ、営みの健気さ、万物に宿る畏愛、それらを一つひとつの発見や出合いの中で、より強く感じ取るようになっている。

疑問に思ったところには必ず何かがあった。
推測した先には必ず新しい発見があった。
故郷というフィールドは、長く故郷を離れていた者をまるで試してでもいるかのように、無数の考えるテーマを次から次に突き付けてくる。

真摯にそれらに向き合うことを忘れてはならぬと思う。
そして、その中で自分にできることを考え続け、実行していかねばならないと思っている...。

by finches | 2012-05-21 05:09 | 季節
891■■ お田植祭
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後記事の多い新聞にしては珍しく、翌日行われる「お田植祭」を報じる記事に目が止まった。
地図で調べるとそれは好きな道の途中で行われることが分かり、土曜の午後はこの「お田植祭」を見に行こうと決めた。

普段は持ち歩かない一眼レフをカメラバッグに入れ、麦茶を2つのペットボトルに入れると、図書館への寄り道を考えて少し早目に家を出た。
それは久し振りのドライブ気分で、海辺の町に続く旧道を通り、海原と広大な干潟を見下ろす斜張橋を渡り、両側に水を張った田んぼが広がる道を走り、進路を北東へと取った。

お田植祭が行われる場所は何度となく山辺の製材所へと通った懐かしい道沿いにあった。
東には杣山へと続く川が流れ、その川沿いに広がる平地は遠い昔から稲作文化を連綿と受け継いで来た古く長い歴史があった。
お田植祭はその先人から受け継いで来た米作りの歴史を未来に伝承すべき文化と捉え、健全な米作りを祭りとして伝え残そうとする試みであることを知った。

住吉大社(大阪)の御田植神事や、香取神社(千葉)や伊雑宮(いざわのみや)の御田植祭のような伝統的神事ではないが、土地に根を下ろした微笑ましい行事であり、祭だと思った。
「御田植祭」とはせず「お田植祭」としたあたりに、この祭りに関わる人たちの控えめな作法も感じた。

近く遠く地元中学生による田植を眺めながら、そして繰り返し歌われる懐かしい響きが心地よい地元中学生による田植唄を聞きながら、何か忘れていたものを呼び覚まされる思いが込み上げてきた。
そして、いい時間を過ごせたことに、その時間を与えてくれた人たちに、心から感謝した...。

by finches | 2012-05-20 06:58 | 季節
887■■ れんげ-五月

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椿、水仙、桜、れんげ、紫陽花、朝顔、露草、コスモス、季節の花としてこれらが頭に浮かぶ。
中でも、春のれんげ、夏の露草、秋のコスモス、これらが遠い子どもの頃の記憶の中に、なんて綺麗なんだろうと思ったことが鮮明に残っている。

東京での暮らしの中ではれんげを見る機会はなかったが、化学肥料に頼る昨今ではれんげの種を蒔くことも無くなったせいもあるだろう。
一年を暮らした島でれんげ畑を見た時に、思わず絵の具と和紙を持参して、れんげ畑の真ん中でその絵を描いたことが昨日のように思い出される。

東京を離れて初めての春、決して多くはないが時々こんなれんげ畑を目にする。
れんげ畑の中に寝そべり大の字になって青空を見上げたい衝動に駆られるが、そこはじっと我慢をして通り過ぎる。

昔、れんげ畑は牛に鋤を引かせてザックリと耕された。
れんげは下になり、下の土は眠りから覚め太陽と風に触れて蘇った。
暫くすると、水が入れられ田植えの準備が始まった。
その一連の始まりをれんげが知らせてくれていたように思う。

蛇が怖いから中には入らないが、れんげ畑の直ぐ傍まで行って写真を撮った。
もう花は終わりを迎えていたから、田んぼに水を入れる時期が近付いていると思った。
静かに繰り広げられる自然の営みを美しいと思う...。

by finches | 2012-05-12 06:32 | 季節
879■■ 聴診器の音
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実はこの聴診器、木が水を吸い上げる音を聞く為にと家(うち)にある。
新緑が日に日に大きくなる林の中で、これを木に当ててみようと今机の上に置いてある。

いつかテレビで見たのか、広葉樹が水を吸い上げる音というのに興味を持って、聴診器を欲しそうにしていたら、誕生日かクリスマスかに家人がプレゼントしてくれたものだ。
胸に当て心臓の音を聞いてみると、微かにその鼓動が聞こえてくる。
木に当てると、確かにゴーゴーという音が聞こえ、これが水を吸い上げる音なのだろうかと思った。

早春の森でブナの幹に聴診器を当てて、木が水を吸い上げる音を聞く試みが新聞や雑誌に掲載されたり、一時期森林インストラクター達が木に聴診器を当てて水を吸い上げる音を聴かせることがはやったりした。

あのゴーゴーという音が水を吸い上げる音なら、枝先や葉から噴水のように水が噴き出しそうな気がした。
もし心臓の鼓動のように、それが微かな音として聞こえていたら、これが木が水を吸い上げる音かと思ったことだろう。
だが、ゴーゴーという音に、聴診器が悪いのではと、聴診器のせいにしてその後ずっと取り出すこともなくなっていた。

木が吸い上げる水の量、そのスピード、そして水の通り道である針葉樹でいえば仮道管、広葉樹でいえば道管のサイズからして、その音を聴診器で聞くことは不可能なようだ。
ならば、あの音は一体何なのか。
あの音はアンテナのように木が拾った、森の音や小鳥の鳴き声、枝葉の揺れる音や木に当る風の音、小川や地下の伏流水の音、それらが合成された音らしい。

夢は破れたが、木がアンテナとして拾ってくる林や森の音を聴くのもいいものだと思い直した。
木がアンテナなら、木の種類や木の高さ、真直ぐに高く伸びた木か地に這うように枝を広げた木か、それらによっても聞こえる音は違うかもしれない。
そして、木は水に向って枝を伸ばすから、水面に伸びた枝先からは湖の音や魚の泳ぐ音も聞こえるかもしれない。
但し、その音はあくまでゴーゴーだろうが...。

by finches | 2012-04-26 04:18 | 季節
869■■ 空白の季節
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毎日季節の美しさに感動している。
温泉に通う道は真っ白な花が満開のユキヤナギが何処までも続き、サクラは至る所で咲き誇り、花壇は色とりどりの花で溢れ、生まれ立ての初々しい若葉は其処彼処でそれぞれの忠実な整形に余念がない。

故郷を離れてからの東京暮らしで、故郷のこの創生の季節だけが空白だったことに初めて気付いた。
そこには一日二日の滞在では決して見ることの出来なかった、時時刻刻変化する自然が創り出す無数の営みが重層して展開する世界がある。

それは東京で感じた四月の感動とは全く違うものだ。
もっと早くては気付かなかったかもしれない。
もっと遅くては感動の濃さが違っていたかもしれない。
だから決して遅くはなかったと思う、この自然の中に戻って来たことは。

これから五月にかけて自然は次なるもっと美しい衣替えを用意している。
そして、その瞬間に立ち会えることに今から胸が高鳴る。
季節の中にいる、季節と共にある、その中で自分をゆっくりとリセットする...。

by finches | 2012-04-11 04:32 | 季節
868■■ 海からの収獲-四月

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家人との弁当とワイン持参の花見が急遽転じて、友人夫婦とのマテ貝掘りとなった。
杣の森へと続く川を渡り、広大な塩田址を過ぎ、歴史ある港から小さな赤い回転橋を渡ってその島に入った。
温かいとは言え、海を吹く風はまだ少し肌寒く、迂闊にも無防備だった腕からその寒さは入ってきた。

潮が引くまでの間、風避けの大岩の陰で持参した弁当を広げた。
持ち寄った弁当や惣菜をシェアし、ワインを楽しみながら潮が引くのを待った。
筆者は腕からの寒さに堪りかね、寒くはないという家人に借りたコートを肩に巻いて寒さを凌いだ。

暫くするともう一人が寒さを訴え始め、その様子にどうも筆者よりは寒そうだと感じ家人のコートはそっちに移った。
そうこうしているうちに潮も引き、マテ貝掘りが始まった。

マテ貝掘りは砂をサッとスコップで削り、現れた小穴に塩をサッと振り掛ける。
暫くすると棒状のマテ貝が小穴からヒュッと出てきたところを引き上げて捕まえる。
マテ貝は穴から出た瞬間まだ潮は満ちていないことに、これは策略だと気付くや否や直ぐに穴に戻るから、モグラ叩きのようにモタモタしていると直ぐに引っ込んでしまう。

寒くはないと言っていた筈の家人がオズの魔法使いのカカシのように、はたまた木の葉を上手に貼り付けたみの虫のように、食事の時に敷いたシートを体に巻き付けマテ貝掘りに余念のない姿に、「彼女らしいな」と思いながらその姿を何枚も写真に収めた。

マテ貝掘りは十分に楽しんだ。
他にもニシ貝や若布や海鼠もその日の収獲に加わった。
筆者は海鼠をウミウシの背中に乗せて遊んだ。

桜は山の中腹にあった。
桜の下の花見ではなかったが、潮の匂いを嗅ぎながら遠くに見る桜もいいものだった。
いい季節が始まった...。

by finches | 2012-04-10 05:35 | 季節