カテゴリ:記憶( 76 )
969■■ 御降と年賀状
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御降の元日の朝、餅二つの雑煮と御節で二合の酒を嗜んだ。
散らし寿司の昼食を挟んで、後はひたすら年賀状書きに励み、夜は御節で再び三合の酒を嗜んだ。

御降とは「おさがり」と読み、元旦や正月三が日に降る雨や雪のことを言い、御降が降れば天がその年の豊作を約束してくれたしるしとして大変めでたがられた。

今年のお飾りに選んだ稲穂の尾を付けた藁を編んだ亀の周りは、次第に年賀状で埋め尽くされていった。
今年の年賀状は一枚一枚相手の顔を思い浮かべながら書いた。
そんな当たり前のことさえこれまではしてこなかったような気がした。

これから投函を済ませたら初詣に回ろうと思いながら今これを書いている。
窓からは明るい朝の光が射し込み、熟れた柿の実を何羽ものメジロがつつく様子を間近に楽しみながら書いている。
こんな穏やかな時間がこれまであっただろうか。

大晦日の小雪が元日の御降に、そして晴れに変わった。
今日も良い日になりそうだ...。

by finches | 2013-01-02 09:38 | 記憶
963■■ 旧道往還を歩く
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このところ日曜日になると決まって読みたい本持参での温泉通いを続けてきた。
温泉だと晴れだろうと雨だろうと関係なく、日曜の午後を楽しむことができることが妙に気に入っていた。
だが、昨日の日曜はちょっと行き先を変えてみた。
なだらかな照葉の原と林を歩いた子供の頃の強烈な記憶、その美しい記憶の場所はダムの水底に沈んでしまっていたが、その原を抜けた出口にあたる辺りを探している時に、偶然にも旧道往還跡を見つけていたからだ。

この旧道往還があの照葉の原に通じる入口かも知れないという期待から、二段の日の丸弁当、二本の京番茶、そして柿と蜜柑を二つずつ入れたバックを背負い、靴を長靴に履き替えると徐に林の道へと入って行った。
かつて参勤交代も通ったのであろう道は狭く、人家の横を抜けて暫くすると直ぐに木々に覆われた小道は前を見るとその先に、後ろを振り返るとその先にトンネルのような小穴が視界の後先に開いている以外は、下界の景色も空も木々で隠れていた。

途中、墓地で道を見失い別の道を暫く下ったが、おかしいと感じたら迷わず道を見失った起点まで引き返す冷静さえ持っていれば道は自ずと開かれるもので、次に選んだ道もこれが本当にその道なのかと不安を感じながらの下りではあったが、何とか視界が開け小さなお堂の脇に出ることができた。
そして、ちょっと苦目の京番茶で喉を潤し、お堂の脇の椎の木の下で日の丸弁当を広げた。

昨日は地名や地勢について考えながら長い距離を歩いた。
そして、そこから得られた新たな知見はまた新たな疑問を生み出しだ。
だが、これまで何か不思議な因縁に導かれるように集めたそれぞれの知見が、大きな歴史の織糸となり繋がっていくのを感じる、それは小さいが大きな旅だった...。

by finches | 2012-11-26 08:16 | 記憶
928■■ 立ち火鉢
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前稿で炭壺と消し炭のことを書いて、ある立ち火鉢のことを思い浮かべた。
筆者の朧な記憶の中にも、それが診療所であったか、バスか駅の待合であったか定かではないが、確かに立ち火鉢の映像は残っている。
ただ、それらはこれまで火鉢として一括りにされていて、立ち火鉢という独立した呼び名で考えてみることはなかった。
なぜなら、それらは火鉢自体の高さが高いか低いかの違いであって、どれも動かすことが出来て、冬の間だけ持ち出して来て、それは置いて使うものだった。
そして、それは立って使うものというより、椅子に座って使う、そんな冬の調度としての記憶だった。

六月と雖も函館ではまだストーブが手放せない。
そんな函館の千歳坂の傍に出来たギャラリーでこの不思議な立ち火鉢と出合った。
土間に固定されたその不思議な物体に、思わず「これは何ですか」と訊ねた。
そして、その建物が旧質屋であり、この立ち火鉢は質屋の待合というか受付の土間にあったものだと分かった。
質屋の待合には椅子などは必要なく、そこは立ったまま手早く用を済ませる場所であったのだろうと想像した。
床に固定された立ち火鉢も、そんな場所の使い勝手を反映しているように思えた。

質入れの時は手を焙りながら質屋店主の値踏みを待ち、質出しの時は火箸で灰を均したり炭を立てて暖を急いたり炭を寝かせて灰を被せたり、そこにはそんな情景が見えるような気がした...。

by finches | 2012-08-09 06:01 | 記憶
927■■ 消し炭

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この二日、朝食のために七輪で鰯の干物を焼いた。
干物は自分で作ったものだ。
昔から火熾しにはこだわりがあって、楽をして熾してはならないと思っている。

小さく丸めた紙に点いた火が藁に移り、それが小さく割った竹を燃え上がらせると、タイミングを計って炭をそっと縦にして並べていく。
炭の重さに加え空間を狭められ空気を遮られた割竹は、もうもうと白煙を上げて燻り始めるが、この時丁寧に炭の向きを整えてやらないと炭に火は移ってくれない。

棚引く白煙が風の流れの帯を作る。
それはカーブを描きながら開け放した開口に吸い込まれ北側に抜けていく。
その美しさに見惚れる間もなく燻る割竹を再び燃え立たせるために全ての力を集中して団扇で風を送る。
これが美味い干物を食べたいがための我がこだわりの朝の儀式だ。

市場で一尾150円で買った鰯を干物にする手間、美味い朝飯を食べたいと思う細やかな欲望からたった一枚の干物を焼く手間、そのために時間をかけて炭火を熾す手間、どれも苦ではないが、そのために三個の炭を使うことには些かの後ろめたさもある。
焼こうとする干物よりも炭の方が高いこと、熾した炭を使い切っていないこと、それを勿体ないと思う後ろめたさだ。

あれこれ考えていて、炭壺のことを思い出した。
炭壺で消し炭を作っておけば、突然火を熾す必要に迫られても柔軟に対応できる。
何より朝の火熾しは断然早く楽になるに違いない。

勿体ないという思いから、ふと忘れていた道具を思い出した。
そこには忘れてはならない先人の知恵があった...。

by finches | 2012-08-07 06:22 | 記憶
882■■ 川の流れ
b0125465_9454597.jpg 写真は北アルプスを望む高原川



北アルプスの主峰に繋がる山々を水源とする蒲田川は、乗鞍岳北麓を水源とする高原川と奥飛騨温泉郷の入口栃尾で合流する。
共に知る人ぞ知る清流だ。
そして、高原川は神岡の北端で宮川と合流して神通川と名を変え、富山平野を下って日本海へと流れ出る。

神通川は連綿と数多の恵みを流域の人々に与え続け、その自然の恵みを享受することに何の疑いも持たなかった人々を鉱毒公害が襲い、農地は汚染され人々は病苦に苛まれた。
カドミウム汚染による世に言うイタイイタイ病で、四大公害の一つとされている。

先月下旬に富山市友杉に富山県立イタイイタイ病資料館がオープンした。
そして、改めてその苦悩の歴史を読んで、一本の川の流れに纏うように暮らす人々の、そこから逃げることのできない運命について考えさせられた。
被害を被ったのは神通川下流域に暮らしていた人々で、廃液を垂れ流し続けた汚染源は上流の神岡にある三井金属神岡鉱業所だった。

北アルプスを水源とする清流が次第にひとつの太い流れとなって渓谷を下り平野を走り海に注ぐ。
神岡の町は潤い神岡の人々がその繁栄を享受していた長い年月の裏側で、清流に垂れ流し続けられた廃液は下流の扇状地を汚染し、土に蓄積し、農作物を通して人の体を蝕んでいった。

イタイイタイ病裁判の判決には次のように書かれているそうだ。
「河川は古来交通かんがいはもちろん、飲料その他生活に欠くことのできない自然の恵みのひとつであって、われわれはなんらの疑いもなくこの恵みにすがって生きてきた。神通川ももとよりその例外ではない。」

筆者の頭の中で、この不条理は福島第一原子力発電所の人災事故と重なった。
当然の対策の義務を怠った報いが、なんら罪のない人々に牙を剥いたことだ。
こんな不条理が許される筈がない。

そして、川の流れにその運命を翻弄されながらも、変わらずに流れ続ける川に、ノーマン・マクリーンの「A River Runs Through It (マクラーレンの川)」が重なった...。



追記
1976年にイタイイタイ病対策協議会が建設し運営をしている清流会館(イタイイタイ病資料館)がありますが、上記富山県立イタイイタイ病資料館として統合されたものではないことを電話で確かめました。
清流会館の住所等は以下の通りです。
  〒939-2723 富山県富山市婦中町荻島584
  電話 076-465-4811
by finches | 2012-05-03 03:40 | 記憶
862■■ 街の記憶-用水の先で見たもの

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一つの近代化産業遺産の存在をきちんと後世に伝え残したいと思って調べを続けている。
その近代化産業遺産とは街の発展の礎の一つとも言える工業用水路で、その最初の出合いは湖に注ぐ小さな用水路の存在に気付いたことだった。
林の中へと延びるその用水路を辿ると、古い石積みアーチの入口を持つ隧道で地上から姿を消し、更にその用水路が地図の上から突然姿を消していることに筆者の好奇心は頂点に達した。

何とか地図の上から姿を消していた水路の全貌は摑むことができた。
サイホンと逆サイホンを駆使して走る水路は、時に田畑に口を開け、時に開渠となって山の稜線を走り、時に隧道となって地上から姿を消す。
後は水位差による自然流水では説明できないポイントでの揚水をどのように行っているのか、そのサイホンの揚水方法が分ればこの用水の全容を解明できる筈だ。

さて、日曜の午後、一旦湖に流れ込んだ用水が、今度は地中埋設管で湖からどこに行っているのかを追った。
一つ目の『工業用水』と刻まれたマンホールを見つけてからは、道路沿いにそのマンホールを追う行程はこれまでに見たことも行ったこともない場所を通り、一つの工場へと消えていた。
その地中埋設管がかつての貨物線址の下を潜って工場へ入っていたことで、以前拙稿で取り上げた場所まで足を延ばしてみた。

それは『街の記憶-廃線』に使った写真の場所で、鬱蒼とした枯れ草に覆われていた。
だが、それは残っていた。
それを見ながら、消えていく、消されていく、置き去りにされていく、朽ちていく、街の記憶について考えた。
一つの工業用水の全容が分りかけ、それを追って辿り着いた場所の貨物線址は、無残にもその歴史の記憶を寸断され朽ち果て消えようとしていた。
何年か何十年先にこの貨物線址を調べようとする者がこの場所に立った時、そこからはどんな景色が見えるのだろうか...。

by finches | 2012-04-02 06:31 | 記憶
858■■ サクラとイペー
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観光客のいない生まれたての朝の街は清々しくて好きだ。
そんな朝の街をゆっくりと新神戸から北野に向けて歩いた。
途中、港に向けて下る幾つもの道を通り過ぎた。
その度に港に下る道の先を見たが、先にあるはずの海はどの坂からも見ることはできなかった。

北野通りは何処も同じ観光地の通りの風情で、もう直ぐやって来る観光客の群れを受け入れる準備に余念がなかった。
そんな通りを避けるように北野坂を下り、異人館通りを更に西に向かった。
途中、懐かしいローズガーデンに立ち寄った後、写真のシュウエケ邸横の細道を下り、更に細い路地を抜けてトアロードへと出た。

トアロードを越えて異人館通りを真直ぐ進むと件の旧国立移民収容所、トアロードを下ると件の旧北野小学校がある。
北野散策の最終目的地はこの旧北野小学校だった。
時間が許せばもう一つ神戸で調べたい場所があったが、あっという間に3時間が過ぎた。

GPSのデータからその日のトリップを見てみると、記憶を頼りに懸命に探して見つからなかった場所が直ぐ近くだったり、遠いからと諦めた場所が意外と近かったりと、その思わぬ発見が面白い。

旧国立移民収容所には日本の木『サクラ』とともに、ブラジルの木『イペー』が植えられている。
もう直ぐイペーが黄色い花をつける本当の春がやって来る...。

by finches | 2012-03-28 04:25 | 記憶
849■■ 両国の友人
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筆者たちが東京を離れたことをみんなが驚く。
突然年賀状でそれを知ったのだから無理もない。

両国の友人もそんな一人だ。
連絡をくれれば送別会をやったのにと、本心から言っていた。
黙って行く気遣いがお前らしいとも言っていた。

その前に電話で話した山中湖の友人は、お前もやっと大人になったと言っていた。
北海道の友人からは、いい判断をされましたね、と言われた。
あの震災で自慢の自宅を取り壊したばかりという宮城の友人は、筆者の話を聞いて、自分もこれからはシンプルな生き方をしたいと言っていた。

東京にいる時は会うこともなかったのに、いないとなると、みんなが懐かしく思ってくれるようだ。
東京に来たら連絡をくれとみんなが言う。

一人に連絡すればきりがないと、誰にも知らせずに東京を離れた。
東京に行って一人に連絡をしたら、またきりがなくなる。
だから、これまで通りさらりと東京を往復する。
生活の拠点を移しただけで、東京も地方もない。

両国の友人の家に行くには隅田川を渡った。
友人の運転する古いボルボで両国橋を渡った記憶は今も鮮明に残っている。
両国橋の絵葉書は、まるで現実と過ぎ去った過去とを繋ぐ架け橋のようだ...。

by finches | 2012-03-11 05:22 | 記憶
820■■ 落葉焚き
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何時だったか何処だったかどうしても思い出せない。
落葉を掃き集めそれを盛って焚き火をし、その中にさつま芋を放り込んで、焼けた頃を見計らって木の棒で刺して取り出し、灰のついた皮をフウフウしながら剥がして、シットリホクホクの黄金色の実を食べた記憶。
その美味かったこと、その味の記憶だけは今も鮮明に残っている。

その後は蒸かし芋の記憶に変わる。
おやつでさつま芋といえば、いつもこの蒸かし芋だった。
だが、蒸かし芋は焼き芋とは色も味も全く違う別物だった。

大人になってからもたまに石焼き芋を食べることはあったが、あの味とは違っていた。
ある時友人から届いた鳴門金時を見て、記憶の中のあの味を再現したいと思った。
そこで、ダッチオーブンと焼き芋用の石を買って早速焼き芋をつくってみた。
皮は香ばしく実も美味かった、美味かったが、あの味とはやはり違っていた。

落葉焚きでの焼き芋は東京を離れて三度目になる。
アルミホイールで包んだ以外は昔の記憶を再現した。
その味は記憶に残るあの味に近い。
焼いても水分があって、シットリホクホク、黄金のような色、そして繊維に沿って裂けるように割れる。

だが、同じ落葉焚きでも違いがでるように思う。
「あの味に近い」と書いたのはまだ「あの味」ではないためで、最初に書いた「落葉を掃き集めそれを盛って」で「あの味」にもう一歩近付き、早朝の落葉での落葉焚きで「あの味」になると思っている。

焼き芋でもシンプルな方法が勝った。
素材と素直に素朴に付き合う、そうすることで本来の味と力を引き出すことができる。
遠い焼きいもの記憶はそんなことを教えてくれた...。

by finches | 2012-02-11 04:17 | 記憶
814■■ 志向形成
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決して頑固ではない。
だが、正しいと信じたら決して筋は曲げない、そしてブレもしない。
この性格で随分と損もしたし、回り道もした。
結果、金はないが心は濁らずに済んだ。

決して執着はしない。
主観でなく客観で捉え、何より基本を尊ぶ。
この性格で本質を見極める目だけは随分と養われた。
結果、金はないが心は豊かだ。

自分の志向形成を考えると、写真のミニチュアカーとの出合いが思い浮かぶ。
親がこのイギリス製ロールスロイスを買ってくれたのは5、6歳の頃だと思う。
後に知ったことだが、子どものおもちゃとしてその値段は当時としては随分と高価なものだった。
これも後で知ったことだが、日本製とイギリス製では随分とその作りが違い、初めに後者を与えられたことで後に前者を見た時は、即座にその違いに気付くことができた。

2台目はデンマーク製だっと思うが、イギリス製よりもっと精巧に作られていた。
後にそれらをデパートで見て知ったのだが、それはロールスロイスの数倍、日本製だと10台以上買える値段だった。
余談だが、筆者がデンマーク製品に全幅の信頼を寄せているのも、この部屋の家具すべてがデンマーク製なのも、この時期に頭に焼き付けられたものかもしれない。

打込組木を始めとして、幼い頃から本物を与えられなければ今の自分はなかったかもしれない。
子どものために厳選して与えられたことで志向の基が形成され、同時に観察する目や良し悪しを判断する目も自然に養われていったように思う。
地図を見るのが好きなのは親譲りのようで、これもそこから派生するものへの、科学する目を養ってくれたように思う。

こうやって考えてみると、志向形成の道程は一本の木のように思えてくる。
枝はどう伸びようが逸れようが、曲がろうが時には折れようが、一本の太い幹に繋がっている。

これらのミニチュアカーは今寝所の和室に並んでいる。
今朝たまたま取り上げた一台から様々な記憶が呼び起こされ、それらがどう繋がっているのかを改めて認識した。
早起きは三文の徳、今朝も思わぬ得をした...。

by finches | 2012-02-05 03:29 | 記憶