カテゴリ:遺産( 23 )
982■■ 採石場跡

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去る日曜日、散砂を求めて採石場を歩いたことがある。
それまでは散砂は埠頭に山積されたものを買うものとばかり考えていたが、自分の足で歩いてみると掘り出される山によって、つまり採石場によってそれは微妙に違うことが分かった。

散砂を探し歩いたのは、旧家を歴史資料館に改装した庭一面に敷かれている散砂が、どうも他とは違うという思いが頭の片隅で燻っていたからだ。
頭の中ではその散砂を採った採石場は中学一年の臨海学校で訪れた海の、その岬の先にあった採石場と重なって、きっとあの場所に違いない、そう勝手に思い込んでいたのだからたわいも無い。

その日、訪れた一つがこの採石場で、既に廃業して年月が経っているらしく、入口には立入禁止のロープが張られ、かつて船に直接積み込んだ錆びた桟橋からは、ここがかつて空港の埋め立てに使う砕石を採った採石場であることが窺えた。

山を削り地の底を掘った跡が、切り立った高い崖と湖となって静寂の中に取り残されていた。
そこは覗き込むと引きずり込まれそうな殺気に満ちていて、高所恐怖症の筆者にはこれ以上近付くことは到底出来なかった。

この景色はここまで来るか、船に乗って海からでないと、見ることはできない。
人家の方からだと雑木の生い茂った普通の山にしか見えず、その裏側が半分削り取られ、その底には青い水を湛えていようなど想像すらできないだろう。

立入禁止のロープを越え、恐る恐る奥まで入った。
そこで目に飛び込んできた世界、散砂探しの小さな冒険が世にも不思議な大きな体験をさせてくれた...。

by finches | 2013-04-25 06:53 | 遺産
958■■ 16世紀の遺構

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史跡発掘調査の報道関係者向けの現地説明会に参加する機会を得て、いそいそと出掛けて行った。
それは室町時代の館跡で行われてきた発掘調査で新たに見つかった庭園跡で、当時の館の空間構成や儀式・生活などを知る手掛かりとなるもので、まだ断定はできないものの枯山水の遺構ではないかとの説明があった。

当たり前のことではあるが、出土した事実だけから当時のことを推測する訳で、そこに想像力は不可欠だが創造力を足すことがあってはならない。
そこのところに自制が求められる分、いくら確信があっても断定を急いてはならないところが辛抱の為所だ。

遺構のあちこちにマークされた紐や、地層に細く描かれた線や、所々掘り下げられた四角い穴や、台地状に残された地山など、発掘現場でよく見かけるそれらの意味するところも教示を得られた。
地表から90センチ下に500年近く眠っていた遺構が見られるという貴重な体験は、そこで得られた知見も然ることながら、改めてそこに封印されていた歴史の記憶を毛穴に感じることができた。

次の日、その日紹介された研究者から、出土品から再現した食文化について纏められた資料が届いた。
そこには実際に再現された料理の写真などもあり、文字や図とはまた違うリアル感を持って往時の儀式・生活に思いを馳せることができた。

数年前までは大正も明治も遠い過去の時代だった。
だが、今は大正も明治は直ぐ其処、江戸もそして今回の遺構の時代も決して過去のものとするには得がたい教示が詰まっている...。

by finches | 2012-11-08 08:19 | 遺産
953■■ 聖橋・絵葉書
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前稿に続き何故か聖橋…。
明け方に宮本輝の『泥の河』を読み終えたせいか、その中での大阪の川と橋と人々の暮らしへの余韻が覚めやらぬせいか、今朝は大阪の橋でも書こうと写真を探していて『大東京の十六大橋』という絵葉書が目に留まった。
その中の一枚『聖橋』に市電が写っていて、前稿の松住町架道橋の下を潜って相生坂を上って来た市電というのも何かの縁と、再び聖橋を取り上げることにした次第だ。

ところで、どうして相生坂と呼ばれるかと言うと、神田川対岸の駿河台の淡路坂と並んでいるからだ。
『相生』の意味が、「一つの根から2本の幹が相接して生えること、二つのものがともどもに生まれ育つこと」から分かるように、何とも洒落て粋な命名ではなかろうか。

早速『新東京市中央図』(昭和10年初版)で市電の路線を見てみると、松住町電停を出て御茶の水電停に向かう市電だということが分かる。
ついでに、この場所を『東京一目新図』(明治30年)で見てみると、聖橋はまだなく御茶水橋だけが描かれているのに興味を覚えた。

さて、絵葉書に話を戻すと、神田川右岸の鬱蒼としている部分が現在の御茶ノ水駅で、前稿版画に描かれた『聖橋』は神田川左岸から松住町方向を見たものとなる。
現在の聖橋は改修工事によって橋全面にモルタルが吹き付けられてしまっているが、この絵葉書を見る限り柔らかく味わいのある左官の手仕事が全体に感じられ、それがアーチの造形に表現派特有の人間味のある湿り気を加味しているように思う。
そして、そのこともこの聖橋が持っている懐の深さの一つなのだと思う...。

by finches | 2012-10-18 08:15 | 遺産
951■■ 川辺のアーチ橋
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厳密に言えばこれは橋ではない。
本来橋とはこっち側からあっち側へ渡るという目的を持って架けられるもので、渡ることのないこっち側だけ、或いはあっち側だけにあるものは橋ではないだろう。
だが、これがただ柱が林立している今風の味気ないものだったら敢えて橋とは書かないが、これが美しいアーチとなると橋と書きたくなってくる。

このアーチは川沿いに連なる温泉旅館の前の道路を川側に拡幅するために造られたもので、これに繋がる橋に昭和5(1930)年と竣工年が刻まれていることから、このアーチもその年に造られたものと考えていいだろう。

この手の鉄筋コンクリート造の開腹式アーチ橋としては、震災復興で昭和3(1928)年に神田川に架けられた御茶ノ水の聖橋が有名だ。
聖橋は建築家・山田守の設計として知られその表現派的デザインを特徴とするが、この温泉街のアーチ橋もそのデザインが各地で踏襲されていった一例と見ることができるだろう。

これまでに拙稿で取り上げた中にも石神井川音無橋(昭和5年)や相模川小倉橋(昭和13年)などがこのデザインを踏襲した例と考えられるが、地方温泉でのこのような実施例は珍しいものだと思う。

対岸から眺めていても鉄筋コンクリート造の冷たさも無味乾燥なところもなく、寧ろ柔らかく温もりさえ感じ川に降りてみたくなってくる。
それは、デザインというものが如何に重要な要素であるか、82年の歳月を経て尚現代人の心を揺さぶる力がある。

因みにこのアーチに繋がる橋はアーチ橋ではない。
水面までの高さがない橋をこの形式のアーチ橋にしなかったのは、洪水時に流れを堰き止めないことへの配慮だったのだろう。

昭和5年製のそれら鉄筋コンクリート造建造物は、対岸にある二つの掛け流しの町湯と静かに穏やかに対話を楽しんでいるように見えた。
秋の空は青く高く、凛とした空気に桜紅葉も輝いていた...。

by finches | 2012-10-16 08:21 | 遺産
932■■ 戦争遺産のある島
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次の日に東京での仕事に戻る家人をある島へ連れて行った。
そこは戦争遺産として特攻基地跡が残る島で、そこを訪れたのは、二つの産業遺産を名も所も明かさずにどう書き進めようかあぐねていて、突然行ってみようと思い立ってのことだった。

海原が見える駅まで歩き電車に乗った。
電車は途中一度乗り継いだ。
島へのフェリーは途中二つの港に寄港し、人と荷物を下ろしながら最後の港へ入った。

30年という歳月は記憶と現実とを随分と違うものに変えていた。
だが、それは島までの記憶の中の景色や港の風景であって、その特攻基地跡は30年前と同じように真っ青な空と、ジリジリと焼け付くような真夏の太陽と、どこまでも続く光り輝く大海原を背景に、暑い昼下がりの逆光の中に濃い静寂の影を作っていた。

記念館での家人は予想と想像を超えた場所に突然連れて来られたことに当惑しながらも、熱心に真剣に資料を目で追っていた。
自ら鐘楼の鐘を打ったのも、この夏一番の、否、これまでの人生で一番の衝撃的な過去との遭遇だったからだろう。

心に深く焼き付いた場所を再び訪れることには意味があると思った。
再来にして深い感動を喚起されるのだから、初めてそれらを目にする衝動と感動は如何許りであったろうと思う。
重かったが、決して風化させてはならないこれも歴史遺産だと、お互いが心に感じたことは確かだろう...。

by finches | 2012-08-24 06:10 | 遺産
931■■ 電車が案内してくれた産業遺産
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昭和3年(1928)に完成したこの古い建物は今でも現役の事務所として使われている。
84歳のこの建物は純白の衣装を纏い、車寄せを挟んで正面に植えられた蘇鉄が建築の意匠とよく合っていた。

焼成窯を見るために工場の外周沿いに設けられた細道を歩いたことで、敷地内に残る古い建物をフェンス越しに遠望することができた。
それらは明治から大正期に煉瓦を積んで造られた組積造建築で、ドイツの技術を導入した明治期の官営工場共通の建造技術を今に残す貴重な産業遺産であることが分かった。

この建物を見たのは日曜の暑い昼下がりだった。
どこにでもあるような漁港の山手に、どこか周辺とは違う家並みの存在に気付き散策を試みたことで、普段ならば先ず出くわすことのない一両編成の電車と遮断機を介して踏切で出合った。
行き過ぎた電車を目で追いながら、電車に出くわさなければ曲がることはなかったであろう交差点を電車の消えた方角へと曲がり、古い駅舎越しに停まっている電車を再び見つけた。
そして、再びコトコトと走り始めた電車を追っていて、この白い建物と出合った。


かつての漁港の輪郭を感じ取った家並みと町名に残る歴史、一両編成の電車の思わぬ道案内、焼成窯と煉瓦造建築と白い近代建築、それらとの思わぬ出合いを楽しんだ。
それは、何か無性に得をしたように思える、日曜の暑い昼下がりの出来事だった...。

by finches | 2012-08-22 08:58 | 遺産
930■■ 産業遺産・焼成窯

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六月に行った北海道が一足早い夏休みのつもりでいたが、30度を超す連日の暑さは流石に堪らない。
そこで世間の盆休みに便乗して、半夏休みモードで過ごしている。
だから、朝の8時を回ったこんな時間に、家人が運んでくれたアイス抹茶を飲みながら、のんびりとブログも書いている。

昨朝咲いた布袋葵の花も今朝はもう凋んでいた。
一番大きなメダカの水鉢の中のクレソンの内鉢の浅いプールには子メダカが一匹増えていた。
布袋葵にジッとしている怪しいショウリョウバッタが、実はクレソンの葉を食べていたことが今朝分かり、木陰の涼しい水辺から灼熱の大地に放り投げてやった。
落ち葉を埋めた5つの小穴にかけた土はまだ湿っていて、今朝も辺りの土の色とは明らかに違っていた。
其処彼処に撒いてある雑穀の実を番いの雉鳩と数羽の雀が啄ばんでいる。
そんな平穏な一日の始まりを静かに眺めながら書いている。

さて、今朝書こうとしている本題は産業遺産の焼成窯だ。
ある特定の目的に使用された国内に現存する最古の焼成窯で、明治16年(1883)に建造され後に改造大型化されたものだ。
それでも明治30年代前半の由緒正しい産業遺産として今も保存されている。

今朝、件の水鉢の前の小椅子でこの焼成窯について書かれた4ページの資料を読んだ。
ドイツの技術を導入して造られたもので、屋外に無造作に並べられていた機械には全てドイツ語の社名が刻まれていた。
我が国近代産業の草創期、ここがまぎれも無く一つの基幹産業の始点の地であることに静かな感動を覚えた。

故郷の歴史と文化の濃さをここでも感じた。
次代に継承すべきもの伝承すべきもの、その大切さを改めて思う...。

by finches | 2012-08-16 07:49 | 遺産
902■■ 2本あった水路
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図書館で借りた一冊の産業史の中の、一枚の写真が無性に気になった。
山の上から撮ったその写真には『T用水路揚水口』と書かれていた。
その写真には、下を川が流れ、右岸には低地が広がり、左岸には山が映っていた。

T用水路の全ルートは粗突き止めてはいたものの、その揚水位置と揚水方法がどうしても分からず立往生していた。
暗渠と隧道と逆サイホンで川を渡った用水が、突如水田の真ん中に大きく口を開け、近くには当時のポンプ施設まであった。
だが、それらの関係をどう繋げで考えてみても、そこから30メートル近くも山の上に揚水するには矛盾があって、その矛盾を払拭できる揚水方法がどうしても解らなかった。

図書館で借りたその本を持って日曜日に山に入った。
やはり無理だと諦めて降りる途中で、ふとした予感から小さな水路を伝って奥へと入ってみた。
暫く歩くと、何やら構造物と思しき物と標識が目に入った。
心の中で「これに違いない」と思い、その構造物の横に立って本のページを開いた。
写真の場所は長い歳月が鬱蒼とした森に変え、川も低地も山も見えなかったが、葉先に開いた隙間の先には間違いなく写真の景色が広がっていることが分かった。

いつものことだが、調べを進めると次々に疑問や矛盾に突き当たる。
だが不思議なもので、最初はいくら探しても見つからなかった文献資料などが、その頃になると一つ二つと向こうから近付いて来る。
今も図書館から資料として4冊の本を借りているが、これらを読んで頭にあった疑問も解けてきた。

一本の用水路だと思っていた構造物は実は二本あって、その二つは異なる目的を持って同時期に建設されたものであることも分かった。
揚水場所までは暗渠か隧道でなければならない筈だという仮定、揚水場所の手前にポンプ施設と水田に口を開けた貯水池がある筈がないという矛盾、これらは二本の水路がまるで一つであるかのように装ったトリックに翻弄された結果だった。

矛盾しているから立往生した。
そして、それはフィールド踏査ではなく、文献資料でしか解明する手立てはないと思った。
文献資料はキーワードを変えて探すことで現在4冊まで見つかっている。
だが、まだまだ知りたいことは山ほどある。
隧道や逆サイホンの設計図もじっくりと見てみたい。
だから、筆者のT用水路の調査はまだまだ終わらない...。


by finches | 2012-06-08 08:49 | 遺産
877■■ 通用門改め、樋門
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湖に流れ込む近代化産業遺産T用水の存在に気付き、それが地図の上から突然姿を消していることに興味を抱き、その全ルートを無性に知りたくて調べを始めた。
そして、小学生の目には不思議で異様な構造物に映っていた川を跨ぐ水道橋が実はこの用水の水橋だったことを知り、その構造物が逆サイホンとサイホンを応用して水を対岸に渡す為のものだと分った。

落差の少ない行程で水を流す技術は江戸時代の玉川上水や神田上水で知っていたが、このT用水も高低差の少ない上流のダムからこの湖までを複雑な揚水方法を駆使して、時に地上を流れ、時に隧道に姿を変え、時に地下に消える、そんな上下を繰り返しながら水を流す技術の高さが感じられた。

そして、この湖から地下埋設管で運ばれるルートと、その出口となる工場も付き止めたが、湖からのT用水の出口については「あそこの、あれだろう」くらいに、然程興味を抱くこともなかった。
だが、桜を見た帰りに地下埋設管の第一マンホールと湖間の開渠を見ながら歩いていて、それが隧道で湖に向って姿を消す方向に見たものは、筆者が想像していた「あそこ」とは全く違う方向を指していた。

隧道の先には、またしても小学生の目には不思議でならなかった構造物があった。
あの頃から何十年も、今の今まで一体何をするものだろうと思い続けていたものが、T用水に水を送り出す為の樋門だということが分った。
道路側にはいつも閉まっている門があって、それは公園の通用門だと思っていた。
だが改めて良く見るとそこに書かれていたのは「通用門」ではなく「樋門」だということが分った。

更に、その場所の土手が灌漑用の湖を造る為に300年前に浅い谷を閉め切る為に造られた土手そのもので、その土手の上を通って中学にも高校にも通っていたことにも驚かされた。
そして、この土手の建設こそが今のこの町の礎であり、そこから流れ出るT用水はこの町の発展の礎であることが、300年前の土手で交差し交錯していた。

湖に流れ込む小さなT用水に気付いたことで思わぬ発見が幾つもあった。
そして今、これまで当たり前のように見ていたこの湖の深く長い歴史に驚愕すると共に、先人の仕事に心より敬意を抱いた。
そして又、これらのことを正しく後世に伝え遺すことが、今を生きる者としての務めだと思った...。

by finches | 2012-04-24 04:26 | 遺産
856■■ 蒼氓

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 一九三〇年三月八日。
 神戸は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に霞み、街も朝から夕暮れどきのように暗い。
 三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。この道を朝早くから幾台となく自動車が駆け上がって行く。それは殆んど絶え間もなく後から後からと続く行列である。この道が丘につき当って行き詰ったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。後に赤松の丘を負い、右手は贅沢な尖塔をもったトア・ホテルに続き、左は黒く汚い細民街に連なるこの丘のうえの是が「国立海外移民収容所」である。


これは石川達三の第一回芥川賞受賞作『蒼氓(そうぼう)』の書き出しの一節だ。
そして、写真に写っている建物が昭和3(1928)年に完成し、中南米諸国へ25万人の移住者を送り出した「国立移民収容所」、その改修なった今の姿だ。
因みに『蒼氓』ではこの収容所に集まった千人近くの移住希望者が出帆までの8日間を共に暮らし、彼の地に向けて船が離岸するまでを描いている。

赤土の坂道はアスファルト舗装の道路に、黒く汚い細民街は住宅地に、贅沢な尖塔をもったトア・ホテル跡地は神戸外国倶楽部に変わっている。
トア・ホテルの名はトアロードという坂道の名に残り、その先はかつて移民船が出帆した第三埠頭へと繋がっている。

当時国策として推進された海外移住には棄民という負の側面が否めない。
それを思うと、「海外移住と文化の交流センター」として保存整備された建物の明るさに違和感を感じずにはいられないにせよ、きちんとその歴史を後世に伝えようとする姿勢には深い感動を覚えた。

北野から山手にかけての朝の散策が思いもかけず幾つかの建築と街との歴史の深層を教えてくれた。
これまで何度神戸を訪れたか知れないが、こんな風にこの街を歩くのは初めてだった...。

by finches | 2012-03-24 07:26 | 遺産