<   2009年 04月 ( 45 )   > この月の画像一覧
016■■ 千代田区立九段小学校
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東京の復興小学校の一つで大正15年に建てられた九段小学校の内部を見る機会があった。
「Blog 函館・弥生小学校の保存を考える」 で取り上げる為に一度訪れたことがあるが、内部を見るのは初めてだった。
復興小学校の建設は大正12年の関東大震災後の復興事業として東京市建築局によって進められた。
その時期は震災翌年の大正13年から昭和10年にかけてで、当初は大正9年に結成された分離派の影響を色濃く受け、年が下るに従ってインターナショナルスタイルの影響を受けた建築に変わっていく。
それは正に近代建築運動の潮流の跡を今に語り残している。

さて、そんな近代建築の潮流に乗ってつくられた小学校だったが、宮内省から貸与された御真影と教育勅語が学校毎に置かれた。これらは独立した奉安殿か講堂や校長室に設けた奉安所に置かれていたが、後者はやがて金庫型へと改められていった。
その金庫型の奉安所を九段小学校の校長室で見た。
そして今では御真影こそないが、教育勅語の実物も初めて見た。

117校の復興小学校の建設は共通の規格化の下で行われた。
その建築スタイルは一校一校異なり (環境条件により異なって見えるが、実際は数パターンに分類できる) 、またそれらを短期間に量産しなければならなかったが、講堂は校舎とは異なる出来に仕上げられていたのではないかと、壇上で訓話する東郷元帥(東郷平八郎)の写真を見て思った。

講堂と体育館の違いすら忘れていたが、そもそも講堂は仏教の七堂伽藍の一つで、学校の講堂は儀式または講演や訓話を行う場所だった。
その儀式の一つに御真影を掲げ教育勅語を紐解く時があった。その場所が校舎と異なる出来であるのは至極当然であることに改めて気付いた。
校長室の一枚の写真が当時の時代背景を静かに語っていた。
因みにこの学校は、上六小学校、東郷小学校、九段小学校と名を変えた歴史がある...。

by finches | 2009-04-29 09:55 | 復興
015■■ 豊郷小学校
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滋賀県豊郷小学校に行った。
とは言っても、あれからもう二週間が過ぎた。
豊郷小学校の歴史と未来を考える会」の活動をネットで調べ、図書館で本を借り、ここでの保存活動を自分の目で確かめたいと思った。
この保存運動の代表の方とも会えた。
話も聞けた。
本までいただいた。

なのに、そのことを文章に出来ずに時間だけが過ぎた。
いつもなら直ぐに 「Blog 函館・弥生小学校の保存を考える」 に書くところだが、書きたい結論だけが見えていて、そこに至る部分をどう書けばよいかがまとまらない。
しかし、書きたい結論に至る部分は、ここで行われた活動を通して既に答えが出ている。
それを改めて別の言葉に置き換えようとするから書けないことに、時間が気付かせてくれた。

豊郷小学校は改修を終え、外観上は予想を超える状態に仕上がっていた。
創建当時、それは見事なまでに完成された美しい建築だったことが想像された。
帰途について広々とした田園風景の中を走っていると、新幹線が目の前の土手の上を高速で走り去った。
その時、「あっ」 という言葉と同時に、新幹線から何度もこの建物を見ていた記憶が蘇った...。

by finches | 2009-04-27 22:11 | 空間
014■■ 映画・子供の情景
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子供の情景」という映画を見た。
監督はハナ・マフマルバフ(Hana Makhmalbab)という女性で19歳。
バーミヤン渓谷で生きる一人の幼い少女を通して、子供たちの心に烙印された戦争の傷を坦々と寓話的に描いていく。

1979年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻、2001年3月のタリバンによるバーミヤンの石仏破壊、続く9月のニューヨーク911テロ、そしてその報復としてのアメリカ軍によるアフガニスタンとイラクへの侵攻、これら一連の蛮行は周知の通りだ。

戦争をしたいがために嘘をつくのはアメリカのお家芸

1990年のイラクによるクウェート侵攻に対して、アメリカは国際世論を無視して湾岸戦争に突入した。この時砂漠を行軍する女性兵士の映像がテレビの前に連日映し出された。だが、これらの映像は米軍演出のプロパガンダであり、実際は上の写真のサウジアラビアにある、まるでリゾート施設のようなKing Khalid Military Cityから 「アメリカ軍主演監督の戦争」 に出かけて行ったものだ。因みに八角形の一辺は1.1kmもあり、ショッピングモールから娯楽施設まで完備した軍事都市だ。

「911テロ」 が 「アメリカによる自作自演」 であることに今や疑いの余地はないだろう。
そうまでしても、アメリカは自国の一部の人間の利益のために戦争をつくり出す。
そして、この繰り返される戦争でいつも子供たちが犠牲になる。

監督はこう言う。
「子供たちは、大人がつくった世界で生きている。」
そこにはそこで生きざるを得ない、それ以外の選択肢を全て奪われた子供たちがいる...。


[付記] 間は筆者の考えで、映画内容とは関係ありません。
by finches | 2009-04-26 17:38 | 地理
013■■ 土筆
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こんなに一面の土筆を初めて見た。
五箇山相倉(あいのくら)集落の田圃での光景だ。
つくしんぼは桜の咲く頃に日当たりのいい土手や野原などに生えているという印象がある。
夢中で摘んでいると、自分の周りより遠くに生えているものが目に留まる。
そこで、次はあそこだと目星をつけて移動して振り返ると、元の場所にもたくさん生えていたことに驚く。
だが、大量に摘んだ記憶はなく、食べる分だけを少し土手から拝領した記憶がある...。

気がついて土筆いよいよ多かりし (高浜年尾)

まだやったことはないが、自分が料理するならこんな風にするだろう。
頭がよく締まって茎も長く弾力がある褐色のものを選ぶ。
鞘(さや)を丁寧に取って灰汁抜きのための下茹でをさっとする。
昆布と鰹で取っただし汁に移し、溜まり醤油、酒、味醂、砂糖、塩でうすく味をつける。
きっとこんな煮浸しにするだろう...。

by finches | 2009-04-25 08:58 | 記憶
012■■ 野芹
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いくつか探しているものがある。
昔のトマト、そう、トマトがまだ 「野菜」 だった頃の、あの味のトマトだ。
芹、春のえぐみと香りのする、あの味の芹だ。
昔、トマトは畑のまだ完熟しないやつを夏の日差しの中で頬張った。
子供ながら完熟トマトで手が汚れるのも嫌だった。
まだ青みの残るトマトの種のまわりのツルンとした食感と酸味、そして野菜の匂いは夏そのものだった。
芹は田の畦や、綺麗な小さな水路などに自生していて、母がそれを少し摘んで来て食卓に添えた。

しかし久しく見たことがなかった自生の野芹を、白川郷の池に水芭蕉と一緒に見つけた。
写真を撮っていたらゾロゾロと観光客が近づいて来て、水芭蕉だけを撮ってザワザワと次の場所に移動して行った。
小さな池の中にも小さな宇宙がある。
草花、昆虫、沈殿し堆積した土、枯れ葉、折れた枝、苔生した石。
ふと気付くと、この小宇宙の中で営まれてきた悠久の連鎖に思いを馳せていた...。

by finches | 2009-04-24 23:21 | 記憶
011■■ 白川郷
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白川郷と五箇山の相倉、菅沼の三集落が世界文化遺産に登録されたのは1995年。
この一帯が豪雪地帯であった為に周辺地域との道路整備が遅れ、そのことが合掌造りに代表される独特の文化を奇跡的に残したと、その登録理由にあった。
三集落の一つ白川郷も今では観光地となっていづこも同じ、観光客がゾロゾロと歩く秘境となった。
だが観光客が去り、静寂が世俗にまみれていた衣を剥ぎ取ると、そこには紛れも無い郷の景色と静けさが戻っていた。その景色を見て、吉野ヶ里(弥生時代の遺跡)の竪穴住居と家形埴輪(古墳時代)の記憶がこの合掌集落と重なった。

切妻合掌造りの家屋とは少し趣きが異なる粉引き小屋、倉、農耕と山仕事のための倉庫などに、この家形埴輪を彷彿とさせるDNAを感じた。これら大小の建物が混在する景色が、また余計に弥生時代のそれへと思いを馳せさせた。
白川郷の切妻合掌造りの家屋は棟を南北に揃えることの中に、整然とした規則性が隠されている。
そしてその家屋を田圃と融雪のための池がジグソーパズルのピースのように曲線を描いて取り囲んでいる。
整然とした合掌家屋だが、藁葺屋根の丸みがその硬さを消し去り、田圃と池と畦道の曲線と溶け込んで、角の取れた美しい日本の美へと昇華している。

この白川郷も実は昭和の初め頃にブルーノ・タウトによって世界に広められたものだ。
否、日本人に日本の心と日本の美しさを教えてくれたと言えるかも知れない。
どんなに世俗にまみれ変貌を遂げようが、それが文化として次代に受け継がれる様の中には、美と心がある...。

by finches | 2009-04-23 22:03 | 空間
010■■ 荘川桜
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御母衣(みぼろ)ダムを見下ろす場所に二本の巨桜が凛とした姿で立っている。
この老桜は荘川桜と呼ばれ人々に愛され続けている。
昭和35年に湖底に沈む運命にあった二本の巨桜を移植し見事に活着させ、美しい花をさかせたエピソードは余りにも有名だ。

当時、御母衣ダムの建設計画に対して湖底に沈む荘川村内の住民は御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会を結成して反対運動を展開した。この反対運動に対して、住民との補償交渉に自らあたったのが電源開発株式会社初代総裁の高崎達之助という人物だった。
高崎の誠意に満ちた交渉の末に住民との間にはやがて信頼関係が生まれ、昭和34年に死守会解散式が行なわれた。この解散式に招かれた高崎は光輪寺境内に咲く巨桜を見て、水没移住する人々の心のよりどころとするために移植を決意する。
そして桜博士・笹部新太郎と東海一の植木職人・丹羽政光の助けを得て、照蓮寺にあったもう一本の巨桜とともに、かつて経験したことのない移植作業が延べ千人に及ぶ人達によって行なわれた。

戦後の日本復興の為の電源開発、その最初の開発計画が庄川最上流の御母衣発電計画だった。
高崎の誠意ある交渉もさることながら、死守会解散を決意した住民は己の主張を退けることで、万人に利益がもたらされるならと、自らを納得させたのではないだろうか。
そしてその気持ちに高崎は桜の移植で応えたと思えてならない。

半世紀が過ぎて尚、樹齢500年と言われるこの二本の老桜は美しい花を咲かせ続けている。
しかし、その半世紀の間に厭な時代になった。
古くなったからと捨てる、寿命だからと壊す、自分には関係ないからと見て見ぬ振りをする。
信条なき者に他者をおもんばかる心など、まして他者への誠意などあろう筈もないか...。


[2009.4.25 加筆] 咲いた、荘川桜が咲いた。
by finches | 2009-04-22 21:08 | 時間
009■■ さくら道
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国道156号線を郡上八幡から北に向けて走ると白鳥という町がある。
ここは佐藤良二さんが住んでいた町だ。
かつて名古屋駅から金沢まで走る日本一の長距離バス路線があり、旧国鉄名金急行線と言った。
その車掌だった佐藤良二さんは太平洋と日本海をつなごうと、250kmにも及ぶバス路線沿いに桜を植え続けた。
今、この道はさくら道と呼ばれている。

岐阜から富山にかけての山間部を走るこの道は、庄川に吸い込まれそうなくらい深く恐ろしい所も多い。
そこで、この路線は156号線にかけてイチコロ線と呼ばれ、その名の通り谷に落ちたらイチコロと恐れられた、そんな所だ。
その路線沿いに御母衣(みぼろ)ダムの建設で水没する村にあった二本の桜の巨木が移植され、見事に花を咲かせたことに感銘し生涯をかけてこの荘川桜の子孫を育て植え続けた。
今白鳥町で来月八日まで、「夢を託した桜―佐藤良二特別写真展」が開かれている。
桜前線の北上を追いかけるのも楽しいが、一人の男が命を懸けて次代に受け継いだ 「桜」 を見に出かけるのもおつではないか...。

by finches | 2009-04-21 22:14 | 記憶
008■■ 袖壁と用水
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郡上八幡は長良川に流れ込む清流池田川に沿って町がつくられている。
江戸時代には防火の目的のための用水が既に引かれていたが、現在の町割りは大正8年に起きた火事の後で整備されたものだ。
現在通りの両側を流れる用水も、この火災後に防火の目的で新たにつくられた。
用水に面する建物は通りに沿って繋がっており、袖と呼ばれる壁が延焼を防ぐ目的で各戸の境に設けられている。
この袖壁も同じ岐阜県の美濃まで下ると立派なうだつに形を変える。
また、うだつは徳島県の脇町のものが知られているが、本来の目的とは別に財力を誇示する為に関西を中心に競って設けられた歴史がある。
うだつは費用がかかるために裕福な商家に設けられ、袖壁はそれに比べると控え目に映る。

焼け原の町のもなかを行く水の せせらぎ澄みて秋近つけり (折口信夫)
 
柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた折口信夫が、柳田の勧めで大火後の郡上八幡を訪れた時に残した句だ。
その時の町は廃墟と化していて、その光景を詠んだものだ...。

by finches | 2009-04-19 13:27 | 時間
007■■ Musée d'Orsay
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Musée d'Orsay はパリの19世紀美術専門の美術館で、印象派の作品が数多く収蔵されていることで知られる。
もともとは1900年に開催されたパリ万国博覧会に向う人びとをパリの中央部に運ぶ目的で建設されたのがオルセー駅だった。

この建物も一時は取り壊しの話が持ち上がったこともあったが、1978年に旧駅舎を美術館に改装することが決定された。
しかし歴史的建造物を美術館として再利用する価値とは別に、築80年の建築物を現代の施設に変えることは大変な事業だったようだ。
今でこそ19世紀美術専門の美術館として知られているが、発案から完成までの約9年間には様々な労苦があったようだ。
例えば、当時の印象派美術館であったジュー・ド・ポーム美術館やルーブルなどに分散していた19世紀美術だけを新設のオルセーにまとめて展示しようとしたことだけを取っても、古典から離れた美術館実現までには政治的なものを含めて様々な議論がなされたようだ。

しかし最後の選択がこの建築を不動の19世紀美術専門美術館と呼べるものにしたと思う。
それは印象派だけを見ていても19世紀美術についてはわからない、印象派の革新的な内容を理解するためには、当時のもっと保守的な絵画と並べてみることで、より分かりやすくなるというもの。
この前衛と保守両方を見せようという決断があって、今日のオルセー美術館があるのではないだろうか...。

by finches | 2009-04-11 08:30 | 空間