<   2009年 07月 ( 29 )   > この月の画像一覧
104■■ 小名木川
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深川の復興小学校の背景についてあれこれ考えていて小名木川に興味を持った。
それは筆者にとっての幻だった、中川への扉を開いた。
扉が開くと、その先の江戸川、利根川へと続く江戸の水路によるネットワークが見えてきた。
そして、米を幕府の中心基盤とした江戸の成り立ち、流通、循環の仕組みに亘る、まだ朧だがその連鎖の道筋の入口に立った。

さて、小名木川に架かる現在の小名木橋の東に明治まで五本松があった。それはちょうど横十間川と交差する西隣り辺りなのだが、広重の「名所江戸百景」によると、五本松を左に大きく描いたことで、直線であるはずの小名木川は右へ大きくカーブするようにデフォルメされ、その先に見えるはずの横十間川も省略されている。
広重の絵はある意味正確に江戸の情景を切り取っているのだが、一方で類まれな才能と感性のためか、時に誇張され、省略され、デフォルメされ、様々な描写操作が行われているのが面白くもあり要注意でもある。

この版画に描かれた辺りも時代とともに大きく変化する。
大名屋敷、職人の家並み、緑に覆われた新田、川面を行き交う船、そしてそこで繰り広げられる暮らしや営みが豊かな川筋の風景を生み出していた時代もあった。
次に、それらが工場などに変わっていった時代もあった。

一つの景色の上に重なっている時代のレイヤーをめくっていくと、近世からの水路によるネットワークの終焉が、近代が始まろうとする時期に一致することが見えてくる...。

by finches | 2009-07-31 07:46 | 時間
103■■ 小松川閘門
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現在荒川本流と言われているのは、荒川とその下流の隅田川の氾濫を防ぐために昭和5年に完成した荒川放水路のことを指す。
明治44年から進められたその改修工事の結果、旧中川と荒川に水位差が生じ、放水路完成と同じ昭和5年に小松川閘門は完成する。
現在、旧小松川閘門だけがその下部三分の二を土中に、上部三分の一を地上に出す形で残っているが、五つの川が合流するこの地点には、小松川以外にも二つの閘門と一つの水門が築造された。

また、荒川からこの小松川閘門を入った旧中川には小名木川が注ぎ、この小名木川こそ隅田川に繋がる船舶輸送の大動脈であると同時に、その川沿いにある数多の輸送、保管、生産拠点は川との密接な関係を持っていた。
言い忘れたが、前回取り上げた逆井の渡しは、この小名木川が合流する旧中川を少し上った辺りにあった。

さて、旧小松川閘門が残る公園にはもう一つの顔がある。
かつてここには日本化学工業の工場があったが、昭和48年東京都が都営地下鉄用地などとして買収した土地に大量のクロム鉱さいが埋められていることが判明した。
この企業による不法投棄は操業以来60年間にも及び、有害と知りながら他区にも跨って続けられていた。
その六価クロムに汚染された土壌処理として行われた、日本化学工業敷地内への封じ込め、それがこの緑に覆われた公園であり、そのために堆く盛られた土が、旧小松川閘門の三分の二を土中に隠す結果を生んでいる。

つまり、この旧小松川閘門は「正」の土木遺産であると同時に、企業の私利私欲体質と倫理欠如がもたらした環境汚染の爪痕を後世に残す、日本の高度経済成長の「負」の遺産であり、この土の下に封印された土壌汚染の事実を風化させないためのモニュメントでもある...。

by finches | 2009-07-30 06:43 | 時間
102■■ 中川
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隅田川と平行して流れる中川、という表現を幾度となく聞いたことがある。
だが、その川がどこを流れているのかは分からなかった。
地図には荒川の東岸側に確かに中川と書かれている。
だが、どうして同じ川の中に2つの名前があるのかが分からない。
また、旧中川と書かれている場所もあって、ますます分からなくなった。

広重が描いた「名所江戸百景」の「逆井のわたし」の説明を読んでいて、この場所が筆者にとって幻の、中川にあったことが分かった。
そして、その絵には川の手前が亀戸、対岸は西小松川村とあった。すると遠くに見える山は筑波山であろうと予想をたて、地図を上にしたり下にしたりひっくり返したりして眺め、ようやくその場所を推定した。

緩くカーブしながら続く、流れを止められた旧中川を初めて歩いた。
何本もの橋が低く架かり、草に覆われた土手の下には土の遊歩道が整備され、水面までの距離は東京のどの川よりも近いと思った。

この川の歴史の入り口に立った。
そこで見えてきたのは、江戸の成り立ち、そこにあった遠大な水のネットワーク、近世における関東平野全域にわたる治水事業、などなど。

その治水事業の中で本流から切り離されたのが旧中川だったが、切り離され川でなくなったことで、最も川らしさを残しているのかも知れない。
都会の川が否応無しに暗渠や開渠の「川」にされたのと反対に...。

by finches | 2009-07-29 06:56 | 時間
101■■ 浅草橋駅
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もっと上手く撮れたらといつものように思う。
この古びた鉄の表情、何重にも塗り重ねられたペンキの厚み、鉄と銅と碍子の質感の違い、空や雲の色、風や空気の重さやにおい、そして様々に変化する光と影。

書こうとする内容に合わせて写真を選ぶ、この場合、選ぶ写真に恣意的意味を込められる。そのものズバリの時もあれば、逆説的にも、また暗喩や直喩的にも、書く内容によってその写真の見え方は違ってくる。
写真を決めてそのことについて書く、この場合、説明描写が主になり比較的易しい。

どちらにしても、写真の上手い下手には関係ない。
写真一枚だけで何かを描写する力、それは、撮ろうとする人間側に写真に対する哲学と、それを的確に表現する技術が備わっていて、初めて生まれるように思う。
ならば、生あるうちには到底到達できないような気がしてくる。

ある駅のホームで撮った写真を見ながらつくづく思った。
上手くなりたい。
偶然ではなく、自分の意思が隅々まで支配する写真が撮りたい、と...。

by finches | 2009-07-28 06:42 | 時間
100■■ 待乳山小学校
b0125465_1795160.jpg東京市復興小学校 DATA

[待乳山小学校]
創立年月 明治6年2月
竣工年月 昭和3年5月31日
工事請負 芝江初五郎
校地坪数 850.720坪
校舎坪数 1,149.290坪
学級規模 20学級
現、台東区立東浅草小学校



現在、待乳山小学校は田中小学校と統合され、東浅草小学校という味も素っ気も無い名前に変わっているが、校舎は昭和3年に完成した待乳山小学校をそのまま使っている。
待乳山小学校も田中小学校も共に旧浅草区の復興小学校の一つで、前者の方が古く明治6年、後者は昭和4年の創立になる。
大正12年に起きた関東大震災で旧浅草区内の小学校は18校が焼失するが、復興小学校として建設された数は20校であることから、田中小学校はこの2校増やされた学校の一つということになる。

待乳山は、まつちやま、と読む。
かつて隅田川沿いに待乳山と呼ばれる小高い丘があって、ちょうどその北側で山谷掘と呼ばれる掘割が隅田川に注いでいた。山谷掘は今戸橋に始まり全部で9つの橋があったそうで、この山谷掘が終わる辺りに待乳山小学校は位置し、また、この掘割の向かい辺りにかつては吉原の大門があった。

幸田露伴の 「水の東京」 の中に次のような描写がある。
晴れたる日は川上遠く筑波を望むべく、右に長堤を見て、左に橋場今戸より待乳山を見るべし。もしそれ秋の夕なんど天の一方に富士を見る時は、まことにこの渡の風景一刻千金ともいひつべく、画人等のややもすればこの渡を画題とするも無理ならずと思はる。渡船の著するところに一渠の北西に入るあるは山谷堀にして、その幅甚だ濶からずといへども直ちに日本堤の下に至るをもて、往時は吉原通(よしわらがよい)をなす遊冶郎等のいはゆる猪牙船(ちょきぶね)を乗り込ませしところにして、「待乳沈んで梢のりこむ今戸橋、土手の相傘、片身がはりの夕時雨、君をおもへば、あはぬむかしの細布」の唱歌のいひ起しは、正しくはこの渠のことをいへるなり。

当初、待乳山が読めなかったことで、妙に名前に興味を抱いた。
一つの復興小学校を通して、様々な歴史が絵画や文学の描写から見えてくる。
この待乳山だけで本の一冊も書けそうなくらいにその周縁は広く深い。
待乳山小学校と田中小学校が統合された東浅草小学校の沿革史には、学校の歴史も街の歴史も何も書かれていない。
教育とは過去の歴史から学ぶことがどんなに多いか、それを知らない教育者ばかりが多くなった...。

by finches | 2009-07-26 08:00 | 復興
099■■ 水道橋駅
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少し橋から離れようと写真を探した。
だが、選んだ写真は川の橋ならぬ陸の橋の橋脚だった。

今ではステンレス車両の電車ばかりが目に付くようになったが、鉄道の名の通り、かつては鉄のレール、鉄の機関車、鉄の車両、鉄の柱、鉄の鉄橋、と面白いくらいに鉄が巧みに使われていた。
鉄の柱とわざわざ書いたのは、ホームの屋根は鉄のレールが上手く使われていたし、鉄橋(別に山や川まで行かなくても街中にいくらでもある)もリベットを使ったユニークなものが多く残っている。

筆者が鉄の電車の中で最も好きだったのは銀座線のものだ。
どこか装飾的な鉄の突起がアール・デコを彷彿とさせ、ホームの鉄の柱や梁、その他懐かしい造形が交じり合い溶け合って、あの銀座線ホームの雰囲気をつくり出していた。

写真は水道橋駅前の橋脚だが、こんな古ぼけた鉄に興味を示す人はまずいない。
写真に写るサラリーマンの目は明らかにカメラのレンズに向けられ、「暑いのに何撮ってんの」、と言っている...。

by finches | 2009-07-25 08:09 | 時間
098■■ Wettstein Bridge
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何十枚かの中から選んだ清洲橋の写真は橋裏を写したものだった。
そのディテールを見ながら頭にはカラトラバの橋が浮かんでいた。

カラトラバを扱った3冊の洋書が手元にある。今ではもっと多くの本が出版されているだろうが、最近は特に新しいものを手に入れたいとは思わなくなった。
しかし、以前はカラトラバの本を見つけると迷わず購入した。まだ探せば、1冊くらいは書棚の中に埋もれているかも知れない。

では、どこが好きなのか。
カラトラバがつくり出す造形が周到な構造解析に裏付けされていることは勿論だが、その発想の原点にあるのは、動物の骨格の流れとその流れの変節点である接点の仕組みを、自然界から導き出しているところだろう。
多くの部材が複雑に絡んでいても、その中に一つとして無駄と装飾により加点されたものは存在しない。
それが、あの、力が大地へと流れるようにアースされる流麗なフォルムを生み出す。

写真は1988年のプロジェクトに見るWettstein Bridgeの模型になる。
偶然にも、スイスはバーゼルのライン川の橋のプロジェクトだ。
同じライン川の橋をモデルにした清洲橋が、このプロジェクトと引き合わせてくれたのかも知れない...。

by finches | 2009-07-24 06:46 | 空間
097■■ 隅田川 清洲橋
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江戸時代、幕府は防衛上の理由から隅田川に架ける橋を5箇所に制限していた。
明治時代になるとそれが7箇所となり、その後これらの内の5箇所が鋼鉄製のトラス橋に架け替えられたが、関東大震災で新大橋を除く全ての橋が損壊した。
そして、唯一損壊を免れた新大橋を除く10箇所の橋が、震災復興事業として昭和7年までに再建、新設された。

清洲橋は関東大震災後に新設された橋の一つで、ケルンのライン川に架かっていたビンデンブルグ橋をモデルに、昭和3年に創架された。
この橋は自碇式鋼鉄製吊り橋とかチェーンケーブル橋とか言われるが、「震災復興の華」と呼ばれ優美なシルエットを持つこの橋を、筆者は鋼鉄製では日本一美しい吊り橋だと思っている。

1984年の「隅田川著名橋の整備」によって、清洲橋の塗装が濃い青色に変わった。その前の薄い青色がこの橋によくマッチしていただけに、新しい色への拒絶反応は今も続いている。
全くこの橋のデザインを理解していない色彩計画が、この橋の優美さを台無しにして久しい。

筆者が好きな清洲橋、この橋裏の何と力強く美しいことか。
ここに見られる美しいディテールの集積が、この橋の優美さを生み出している...。

by finches | 2009-07-23 07:42 | 復興
096■■ 永代橋佃しま
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広重の「名所江戸百景」の中に「永代橋佃しま」がある。
左に大きく永代橋の橋脚が、その奥中央に佃島が描かれていている。右の船溜まりは霊岸島の荷河岸と思われ、橋脚部分の川面に浮かぶ白魚漁の篝火とともに、当時の人々の営みと川との距離を伝える情景を見ることができる。

さて、佃島は隅田川の河口に自然とできた寄洲で、その名の由来は徳川家康が大阪は摂津国佃村の漁師を招いて住まわせたことによる。同じく隅田川の中州を埋め立ててつくられた霊岸島の完成は寛永元年(1624年)で、この初摺の版画が描かれる230年前になる。
その間に霊岸島、八丁堀などの埋め立てと水路の整備が進み、日本橋と網の目のように繋がる一大水路網が完成していったと思われる。

今では当時の隅田川の河口風景を想像することはできないが、この版画より50年前に描かれた津山藩お抱え絵師・鍬形蕙斎の「江戸一目図屏風」を見ると、永代橋から佃島に掛けての隅田川河口の様子をはっきりと知ることができる。
一度、この屏風を見に津山を訪れてみたいものだ...。

by finches | 2009-07-22 08:33 | 時間
095■■ ぬか床のごきげん
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日経朝刊の「私の履歴書」を読んでいる。
今は俳優・加山雄三が書いているが、その作文のような文章を読み終えると、その横の文化欄の「ぬか床のごきげん」が目に留まった。
それは作家・川上弘美が書いていた。

「しょっぱいもの好きである。」に始まる短い文章が小気味良く続き、時には回りくどい表現と巧みな説明を交えながらぬか床の薀蓄が語られ、「今夜は、きんきんに冷えたビールに決まりだな。」と、文章の余韻を読者に委ねるように終わっていた。

川上弘美は一通り自分のぬか床歴を披露した後、ぬか床に機嫌があるとした上で、それを四種類の機嫌に分けて語り始めた。
一、笑うぬか床。その二、慇懃(いんぎん)なぬか床。その三、怒るぬか床。その四、淋しがるぬか床。
どれも成る程と思いながら読んだが、慇懃なぬか床だけがどうもよくわからなかった。

この30年で少なくとも5回のぬか床を全滅させたと書いていたが、我家のぬか床も何度全滅したのだろうと考えた。
妻はその度に言い訳を用意して祖母のぬか床を分けてもらい、祖母亡き後は母のぬか床を分けてもらっては野菜を漬けている。
今、我家のぬか床が再び全滅期に入ったことが、空になった木桶が高いところに置かれていることで窺い知れる。

そのうち妻はまた言い訳を用意して実家に向かい、新しいぬか床を持ち帰って来て、何もなかったように旬の野菜を漬け始めるのだろう。
きっとそれは涼しくなる頃だろう。
写真は我家の「未熟樽」と命名した木桶だが、蓋裏にはその名と命名日が墨書きしてある...。

by finches | 2009-07-21 07:39 | 嗜好