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129■■ Wooden Pedestrian Bridge
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八幡橋(旧弾正橋)を見て、カラトラバの人道橋(写真)のことを思った。
だが、それはあくまで形から来る印象であり、後者は木製のアーチ橋となる。
形から来る印象というのは、全体に於ける材質の違いはあるにせよ、アーチと水平性を強く感じる人道部分、その洗練されたシンプルな処理による美しさという点に負うように思う。

隅田川に架かる大きな橋、その隅田川に注ぐ川に架かる中くらいの橋、そしてそれよりもっと小さな川や掘割に架かる小さな橋、いろんな橋が人びとの生活や暮らしの中で生きている。
それらの橋はその大きさや形式こそ異なるが、全てが大正12年(1923)に起きた関東大震災後の帝都復興事業で架けられた兄弟姉妹たちだ。
そして、それらは全てが架設から80年以上を経過した今も、現役で使われている味わい深い美しい橋だ。

川は時代の変遷と共に次第に開渠としての色を濃くして行ったが、そこに架けられた橋は今も人びとの暮らしの傍らにあって、温もりのある昭和の風情と面影を今に伝えている。
そして、それらの橋は未来に継承して行きたい、貴重な土木遺産であり文化遺産であると思う。
これからもこの時代に架けられた名もない橋を取り上げ、橋の持つ美学を考えていきたい...。

by finches | 2009-08-31 07:03 | 空間
128■■ 八幡橋
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新田橋に再会できたことで、やっとこの八幡橋を書く機会がやってきた。
それはこの二つの橋と次回予定している橋が、人道橋という共通性を持っていることで、出来ることなら連載したいとの思いがあったからだ。

その場所がどうしても思い出せなかった新田橋の場所を偶然にも探し当て、そこに架かっていたあの赤い橋が八幡堀跡にあることを知った。
その場所は、皮肉にも筆者が何十枚と写真を撮った、この八幡橋の直ぐ目と鼻の先の夏草の中だった。以前に訪れた時、黒に近い濃茶に塗られたその橋が、筆者が長年探していたあの赤い橋であるとは全く気付かず、一枚の写真も撮らないままその場所を離れていた。
八幡堀跡と知って、狐につままれた思いで再びその場所を訪れ、かつての赤い橋と再会したという訳だ。

さて、前置きが長くなったが、この八幡橋はかつて弾正橋(だんじょうばし)と言われ、京橋区(現中央区)を流れていた楓川(かえでがわ)に架かっていたものだ。
弾正橋は明治11年(1878)に架けられた日本最古の人道橋で、重要文化財にも指定されている。
この橋はアーチ橋だが、アメリカ人の特許を基本としていることから、ウィップル形トラス橋とも言われている。
また、鋳鉄橋から錬鉄橋への過渡期の橋としての貴重な近代橋梁遺産で、アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製とした鋳錬混合の橋という特徴を持っている。

その弾正橋が八幡橋と名を変えここにあるのは、関東大震災後の帝都復興計画で廃橋となり、東京市が昭和4年(1929)に移設保存した為だ。
現在もこの橋は八幡掘跡の遊歩道を跨ぎ、人々の往来に使われている現役の橋で、この橋を渡り細い路地を抜けると富岡八幡宮の裏手に繋がっている。
そして、そこにはかつての復興小学校、数矢小学校が建っている...。

by finches | 2009-08-30 04:32 | 時間
127■■ 大横川 新田橋
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・壱
もう20年くらい前になるだろうか、一度だけ見たことがある橋で忘れられない赤い橋があった。
何度もその橋のことを思い出し、その度に行ってみたいと思いながら、それが何処にあったのかがどうしても思い出せず、ただ、路地を抜け小さな階段を上がると現れたその橋は、まるで昭和の初めにタイムスリップしたかのようで、暫しその小さな赤い橋に呆然と見蕩れた記憶だけが脳裏に鮮明に焼き付いていた。
その橋に全く予期せぬ偶然から出合えた。
帰宅して改めて知らべてみたが、その橋は地図にも載っていなかった。

・弐
その赤い橋は、町の人々の暮らしを支え続けてきた小さな人道橋だった。
そして、その橋はこの町で医院を開業していた新田清三郎氏が、昭和7年に近所の人たちの力を借りて架けたものだということを知った。
当初は新船橋と名付けられていたが、人望の厚い「木場の赤ひげ先生」のような新田医師は、亡くなった後も地元の人々から愛され、いつしかこの赤い橋は「新田橋」を呼ばれるようになったことも知った。
そして、このワーレントラス橋は、赤い橋として長く親しまれてきた。

・参
その橋は新しい橋に変わっていた。
遠目には記憶の中の赤い橋と同じに見えたが、階段を上がりそこで見た橋はH型鋼を両桁にしたどこにでもある橋で、H型鋼の上弦材にワーレントラスを再現したようなデザインが施されている為に、筆者も危うく騙されるところだった。
早く言えば、このワーレントラスもどきは所謂手摺で構造的なものではないが、この橋を川側からではなく内側から見る分には、古い橋と見紛うくらいに丁寧な再現への姿勢を感じない訳ではなかった。

・四
元の新田橋は別の場所に大切に保存されていることを知り行ってみた。
旧新田橋は夏草の生い茂る公園の一角に架設当時の濃い茶色に塗られて置かれていた。
埋められてはいないが、両端部は土の下に隠れるように、歩行面から上だけが地上に出ている。
しかし、最早そこにあるのは橋ではなかった。
人の生活と乖離した歩くことも許されない橋、保存という美名の下に鉄屑同然の扱いを受けている姿に大きく心が痛んだ。

・五
どの写真を使うべきか迷った。
新しい赤い橋も黙って掲載する分には、誰も気付かないだろうと思った。
公園に置かれた旧い橋は、どう扱っても、やはり橋としての力がなく相応しくないと思えた。
散々迷った挙句に、ネット上で探した旧新田橋の写真を掲載することに決めた。
筆者が捜し求めた赤い橋の面影を伝えるには、この粗い写真が最も相応しいと思って...。

by finches | 2009-08-29 06:38 | 時間
126■■ 源森川 枕橋 ・其一
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北十間川が隅田川に出合う辺りに枕橋はある。
元々は源森橋という名前で、現兵衛橋と呼ばれたりもしたが、川の北岸にあった水戸藩下屋敷の堀割に架けられた新小梅橋と並んでいたことから、親しみを持って呼ばれた枕橋という呼び名がいつしか正式な名前となった。
源森橋は枕橋の隣りに架けられた名もない橋にその名を譲るが、関東大震災後に架けられた鋼鉄製のアーチ橋は現在新しい橋に架け替えられ、枕橋のひっそりとした佇まいとは違って、賑やかに車が行き交う三ツ目通りの橋になっている。

現在枕橋の辺りは東武鉄道の高架や首都高速が走り、隅田川との境には源森川水門が設けられて、かつての面影はこの橋を措いて窺い知ることはできない。
水戸藩下屋敷跡は三つの復興大公園の一つ隅田公園として整備され、かつてこの橋の袂には隅田公園駅という東武鉄道の駅もあった。
更に遡ると、ちょうど写真の高架下辺りに水戸藩下屋敷御船蔵を改装した八百松という料亭があった。
かつてここからは隅田川越しに浅草寺や五重塔が眺められ、隅田川と源森川の風情が楽しめることから大いに賑わった。

隅田公園駅が廃止された昭和33年当時は、上の写真のユニークな燈具は見られないが、いつ頃かあたかも最初からあったような燈具が付けられている。
無駄な箱物の典型、豪華な高層墨田区役所が隣接するお陰で、昭和3年に完成したこの小さな橋も何とか周知され生き延びている、その皮肉さを感じない訳でなないが...。

by finches | 2009-08-28 08:29 | 復興
125■■ 北十間川 十間橋
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横十間川が出合う北十間川の西側に十間橋はある。
明治の初めまではこの橋の西側に古川という川が注ぎ、この古川は現在の言問小学校の東から北を斜めに流れて、今の向島五丁目の銅像堀公園辺りで隅田川と繋がっていた。

明治政府の富国強兵策で、小名木川を始め大横川や横十間川など、隅田川と中川に繋がる水運に恵まれた一体には、多くの工場が造られ日本の繁栄の礎を築いてきた。
また、この一体は関東大震災で甚大な被害を受け、更に東京大空襲でも壊滅的な被害を受ける中、そこから見事に復興を遂げて来た所でもある。

今の川を見ていると、その開渠と化した殺風景なコンクリート堤防や鋼矢板の護岸、そしてその底を流れているのか止まっているのか分からないような川に、思わず汚いと心無い言葉を使ったりする。
だが、草木に覆われた緩やかな土手が水際に消えるような、そんな里山の小川の景色がここにあったとすれば、それは下総と呼ばれた時代まで戻らねばならないことも分かっている。
関東大震災、東京大空襲、そこからの復興と川の変遷を重ねた時、筆者が安易に批判する川と違うものをどうやって造ることが出来たと言えるだろうか。

十間橋は鋼鉄製の橋だがその欄干は石造で、隅田川の東側にある橋では珍しい。
既に開渠となっていた川に架ける橋に、せめてもという気持ちで予算を使ったのだろうと思いたい。
この北十間川が時代小説に描かれた情景に思いを巡らしながら、その美しかった頃を思った...。

by finches | 2009-08-27 08:12 | 復興
124■■ 北十間川
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両国駅の後、両国公会堂、震災記念館と、両国の逍遥を続けるつもりだった。
だが、少し迷った挙句に止めにした。
街を歩けば古い建物に出会うし、それをカメラに収めもする。
森山松之助が設計し大正15 年に完成した両国公会堂、伊藤忠太が設計し昭和6年に完成した震災記念館、これらに興味がない訳ではないし、取り分け震災記念館の展示物の中には大変貴重なものも多い。
なのに少し迷ったのは、取捨選択なしに取り上げることへの得心のいかなさとでも言おうか、やはり自分にとって興味のあるもの、もっと知りたい調べてみたいと思うもの、やはりそれを一枚の写真に切り取り書きたいと思った。

北十間川は汚い。
水も然る事ながら、堤防の内側に二重に行なわれた鋼矢板の護岸工事がすこぶる汚い。
川を愛していない河川管理者が、こんな無駄な工事をさせ、川を何度も殺す様に腹が立った。

横十間川が北十間川に出合う直ぐの辺りに十間橋という小さなかわいい橋が架かっている。
この橋のずっと先でこの北十間川は隅田川に注いでいる。
その橋から工事が進む東京スカイツリーを撮った。
完成すれば610メートルを超えるタワーも、現在118メートルまで工事が進んでいた。

数ヶ月前までこの電波塔を電車から見てもさして興味も湧かなかった。
だが、それが建つ辺りの歴史が少しづつだが分かってくると、その気持ちも少しづつ変わってきた...。

by finches | 2009-08-26 07:03 | 時間
123■■ 両国駅
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両国駅の歴史は古く、明治37年(1904)に総武鉄道のターミナル駅として開業する。そして、昭和6年(1931)に今の駅名に改称されるまで両国橋駅と呼ばれていた。
両国橋が関東大震災に耐えた3連の曲弦トラス橋だったこと、そしてそのトラス橋が震災復興事業で現在の橋に架け替えられたことは既に書いたが、その頃までは隅田川の東岸側は上の総武鉄道が両国橋駅を、西岸側は甲武鉄道が万世橋駅をそれぞれ始発駅としていた。そしてこの両者を結んでいたのは、当時網の目のように走る市電だった。

江戸から明治、大正にかけて、隅田川を中心とする一大水運ネットワークが完成していたことは既に書いたが、それが昭和に入り鉄道網や道路の整備が進む時代を迎え、ちょうどその切り替わりの時期が震災復興事業が行われた時期と重なっている。
即ち、この両国を例に取ると、両国駅と改称された翌年の昭和7年(1932)に、両国駅と御茶ノ水駅間が電車線として開業するが、これを言い換えれば、この年に初めて隅田川東岸と西岸が鉄道によって結ばれたことを意味している。
そして興味深いのが、この昭和7年が両国橋完成の年にも当たっていることだ。

両国駅の北側、現在の両国国技館の辺りに、かつて一本のホームがあった。
そこには隅田川の水が引き込まれた船入澗があり、隅田川を船で運ばれた貨物がこのホームから鉄道に積み替えられた。
市電は人のためのもので貨物を運ぶためのものではなかった時代、当時の水運と鉄道との関係が窺い知れて大変興味深い。

残念ながら現在はその痕跡すら残されていない。
もし残っていれば、間違いなく近代産業遺産としての価値を持っているのだが...。

by finches | 2009-08-25 07:43 | 復興
122■■ 隅田川 両国橋 ・其六
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江戸時代は隅田川を挟んで、西側を武蔵国、東側を下総国と呼ばれた。
そして両国という地名も、武蔵国側を西両国、下総国側を東両国に分かれていた。
西両国の北側に隣接する柳橋を含めて当時の両国は江戸屈指の歓楽街で、特に西両国西詰の両国広小路は見世物小屋が立ち並ぶ一際賑やかな所だった。

写真は歌川広重の「名所江戸百景」の「両国橋大川ばた」だが、この絵でも画面下側に両国広小路の一角が描かれている。
もっとその当時の様子を知りたければ、東京江戸博物館の展示模型を見ることをお勧めする。

話は変わるが、この両国駅の北側に立つ東京江戸博物館は建築家・菊竹清訓が設計した建築だ。
かつての大阪万博のお祭り広場でもないと思うが、祭りが行える広場をつくる目的でその巨大なストラクチャーを地上数十メートルに持ち上げ、その為に必要な構造がこの建物をより巨大化し、屋内の湯水のように使われた大掛かりな展示に加えて、いくら黒く塗っても隠すに隠せない屋根や構造体が暗雲のように上部を覆う空間は、余り気持ちの良いものではない。
これがあのメタボリズムの旗手であり、「代謝建築論 か・かた・かたち」を著した建築家が年老いて行き着いた建築の姿とは余りにも悲しい。

さて、話が脱線したところで、次回は両国橋を離れて逍遥を続けよう...。

by finches | 2009-08-24 07:16 | 復興
121■■ 隅田川 両国橋 ・其五
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土木学会デジタルアーカイブス




両国橋は関東大震災にも耐えたが、その他の殆どの橋が甚大な被害を受け架け替えられていく中、その復興事業の一環として新しい橋に架け替えられた。
写真は明治37年(1904)に木製から鋼鉄製に架け替えられた3連曲弦トラス橋当時の両国橋で、現在の両国橋の橋一つ分下流にあった。
先に書いた通り、関東大震災に耐えたこの橋は、現在もその三分の一に当たる一連分が移築され、自動車橋としては最古の橋として立派に現役で使われている。

昭和の初めに架け替えられた橋は、隅田川に注ぐ川幅の狭い川に架けられた小さなものを除けば、その全てがタイプの差こそあれトラス式で架橋された。
かつて永代橋の設計者がその形式の選定に当たって、トラスはその不規則な斜材のために非常に不愉快な感じがするとしたのも頷ける気がするし、別の見方をすれば、明治期に架けられた目ぼしい鋼鉄製の橋が全てトラス橋であった為に、復興事業として新設する橋は、新しい時代を担う若い技術者による新しいスタイルの橋が模索された、隅田川は正にその実験場であったと思われる。

さて、筆者にとってのこの古いタイプのトラス橋との出会いは、もう何十年も前に訪れた犬山市にある明治村に移築されていた新大橋だった。
だが、その明治45年(1912)製のピントラス橋は全体の八分の一が移築保存されていただけで、橋のそれこそ端の部分だけが淋しく地上に置かれていて、その物悲し気な姿を今でも忘れることはできない。
改めて思う、やはり橋は現役で使われてこそ橋なのだと...。

by finches | 2009-08-23 06:46 | 復興
120■■ 隅田川 両国橋 ・其四
b0125465_1729071.jpg[写真出典]
土木学会デジタルアーカイブス



写真は半円形のバルコニーが増設される前の両国橋だ。
両国橋・其一の写真と比べると、随分違った印象だということが分かる。
近代の鋼鉄製の橋は元来そこには構造美があり、一部欄干の装飾的扱いを除いて一切の無駄は排除され、魚や獣の骨格のように全ての部材のバランスとプロポーションが整然と整えられ、その削ぎ落とされた形態だからこそ、その中には美学が存在する。

それに対して、後に増設された半円形のバルコニーは、この橋本来の構造美を一部にせよ覆い隠し、自らの構造をも貼り包まれた化粧パネルの中に隠されていることで、全くコンセプトを異にする複合体へと変質してしまっている。

この橋のバルコニーのためにコンペティションが実施されたという記憶はない。
しかし、現存する近代橋梁へ新たに手を加える時は、そのデザインとそのデザインに至るコンセプトを含めて、広く世界に公募すべきだとつくづく思う。
少なくともこの歴史ある両国橋はそれを求めるに足る資格を有している...。

by finches | 2009-08-22 06:27 | 復興