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185■■ 佐久間小学校
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千代田区神田佐久間町四丁目にこの佐久間公園はある。
この公園は明治35年(1902)に創立された佐久間小学校の跡地であり、ラジオ体操発祥の地としても知る人ぞ知る場所でもある。
以前、拙稿復興小学校余話 ・其二でも取り上げたことがあるが、この佐久間町一体は関東大震災の時に住民が一丸となって消火活動を行い罹災から免れ、この場所にあった佐久間小学校も神田区内で唯一焼け残った歴史を持っている。

その佐久間小学校も昭和6年(1931)に、総武線の両国・御茶ノ水間の延長工事により移転を余儀なくされ、創立時に建設された木造二階建て校舎も撤去された。
その後現在の神田和泉町に新しい敷地を得て、昭和8年(1932)インターナショナルスタイルの鉄筋コンクリート造小学校が完成し新しいスタートを切ることとなる。
しかし、昭和20年(1945)の空襲で校舎の一部を残し焼失し(建物は残存)、戦後は廃校による三年間の空白時期を経て昭和24年に復興する。
そして、復興後も校舎の一部が都営住宅として使われるなどの深い歴史を刻み込みながら、全ての教室が復旧された歴史を持っている。

以前、拙稿城東小学校 ・其一で取り上げたことがあるが、かつては学校統合に際し創立年の古い方の学校名が継承された。ところが最近は統合に際し、古い学校名が継承されず新しい校名に変わる傾向があるように思う。
この佐久間小学校も然りで、校名ではなく地名を取って和泉小学校という名に変わった。
和泉小学校と言うと、かつては神田川を挟んだ南側に同名の復興小学校があったものだから、改めてこの佐久間小学校について書くには些か調べを要した。
前の通りを佐久間学校通りとするのなら、和泉ではなく佐久間小学校のままでいいではないかと思う...。


[追記]
復興小学校余話 ・其二では、「現在、佐久間、今川、和泉の3校が統合され、佐久間小学校のあった場所に和泉小学校と名を変えて建っている。佐久間小学校の創立年は不明だが、今川が明治41年、和泉が明治33年創立であることから、最も古い和泉の名が残されたものと推察される。」、と書いた。
先ずこの記事の訂正から行わなければならないが、佐久間と今川が統合されて和泉小学校になったというのが正しく、和泉はそれより以前に統合により廃校になっている。
従って、今回の調べで佐久間小学校の創立年は明治35年だと分かり、最初に書いた3校の統合が正しければ、古い校名を残すという伝統で和泉の名が残されたことになるが、和泉小学校は既に廃校になっていたことから、やはり今の校名は地名から付けられたと言えるだろう。

by finches | 2009-10-31 06:38 | 復興
184■■ 草加小学校
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草加小学校(現草加市立歴史民族資料館)は大正末期に完成し現存する鉄筋コンクリー造小学校となる。
日本で最初の鉄筋コンクリート造小学校は大正9年(1920)に完成した神戸市立須佐小学校だが、この草加小学校は地元出身の大川勇の設計により大正15年(1926)に完成したものだ。

大川勇は早稲田大学建築学科を卒業後、岐阜県庁新築工事の設計・監督者の一人として参画し、その経験を生かして、地元から耐震・耐火の鉄筋校舎設計を依頼され完成したのがこの旧草加小学校鉄筋校舎で、大川は生涯140棟に及ぶ学校や庁舎を設計するも、鉄筋コンクリート造建築の設計はここが唯一というのも大変興味深いところだ。

余談だが、早稲田大学建築学科の同級生には建築家・村野藤吾がいるが、当時の村野は渡辺節建築事務所に席を置き、大正14年(1925)に完成した大阪中ノ島のダイビル(鉄筋コンクリート造・地上8階・地下1階)に係わっていたというのも興味深いところだ。

震災復興事業として取り組んだ東京の復興小学校などとは異なり、当時草加(埼玉県)という町で鉄筋コンクリート造小学校を実現させた背景には、時代を見据えた先見の目を持つ議員の尽力があったという。
そして、その時代の代弁者である歴史的建造物が次々に壊されていく中で、この建物を保存に導いた陰にも議員の尽力があったという。
それらの人々の取り組みは決して一夜にしてなるものではなく、そこには古い建築を生涯をかけて研究・紹介を続けている中島清治氏の存在、その啓蒙によって大川勇という建築家が地元の人々から愛されていること、そして、それら全てを背景にして議員や行政が誠実に取り組んだからこそ、今日の姿があることに間違いないと思う。

この小学校をつくった議員の言葉、「子供たちに使う金は惜しくない」、この小学校を残した議員の言葉、「教育行政の象徴」、こういう人物がいてこそ、過去においては新たな創造へと踏み出し、そして今、未来に向けては文化として継承して行くことができるのだろう...。

by finches | 2009-10-29 06:51 | 記憶
183■■ 明化小学校
b0125465_18495587.jpg東京市鉄筋コンクリート造小学校DATA

[明化小学校]
創立年月 明治7年8月
竣工年月 昭和5年6月15日
工事請負 浅野同族株式会社
校地坪数 2,072.015坪
校舎坪数 1,220.4坪
学級規模 14学級




昭和5年(1930)に完成した明化小学校は、関東大震災後の震災復興事業で建設された所謂復興小学校117校の中には入らないが、小学校の鉄筋コンクリート造化の一環として建設された内の一校となる。

明化小学校が完成した当時、この辺りは小石川区林町と呼ばれていた。
現在は文京区千石と名を変えているが、北に位置する六義園と南の小石川植物園は当時のままで、それ以外でも神社や公園が多く都内でも大変環境に恵まれた場所に建っている。

この明化小学校は震災後も木造校舎が罹災を免れ残っていたにも係わらず、復興小学校に続く最も早い時期にこの小学校が建設されているのをみると、それはたまたまのことなのか、それともこの小学校自体若しくはこの地区の何か特別な環境要因によるものなのかは分からないが、少なからず筆者には疑問が芽生えてくる。

明化小学校の西、200メートル足らずの所に林町小学校という小学校がある。
この林町小学校こそ大正11年(1922)に東京市が最初に鉄筋コンクリート造4教室を建設した、言わば鉄筋コンクリート造小学校の出発点となる場所であること、そこに何かしらこの地区環境の特殊性を反映しているではないのかと思えてくるのだ。
また、明化小学校の完成当時の配置図には、校地の一角にわざわざ木造校舎が描かれていて、これも何か意味を含んでいるのではないかと憶測を巡らさずにはいられない一因になっている。

初めてこのような小学校を取り上げる時は、いつもなら先ずはその外観を紹介するところだが、何故か上の写真がこの学校の生い立ちに纏わる歴史と品格を今に伝えているようで使ってみた...。

by finches | 2009-10-28 06:54 | 復興
182■■ 海底トンネル
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昨年の3月中旬、東京港横断水道用海底トンネルの貫通式が行われ、続いて4月初めに施設見学会が行われた。
筆者はこの手のものに甚(いた)く興味をそそられる性質(たち)で、早速申し込みを行い家内と友人たちの4人で見学と相成った。
小学生との親子連れが中心という中にあって、我々4人のオヤジたちはどんな風に映ったのだろうか。

この概要を説明すると、水道局による信頼性の高い送水システムの構築が目的で、バックアップも視野に入れた送水管のネットワーク化を図ろうとするものだ。
トンネルは江東区豊洲と港区港南を海底トンネルで繋ぐもので、筆者の嫌いなレインボーブリッジ横の海底を東西(2325m)に走っている。
この地下50メートルを走るトンネルの内径は2.45メートルあり、最終的にはこの中を口径1.8メートルの送水配管が通ることになる。

鉄に纏わる話として、橋のようにそこに美学があるとかではないが、延々と繰り返し続く円形の鉄製支保工はそれなりの見応えがあった。
いつもなら少し説明を加えた上で話は別のところに飛ぶのだが、今朝は至って真面目に説明に終始してしまった...。

by finches | 2009-10-27 07:16 | 無題
181■■ 世附川
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世附川は拙稿‘川遊び’と同じ川だ。
世附川は相模湾に注ぐ酒匂川の最も上流にある支流の一つで、途中で大又川と合流して丹沢湖に注いでいる。
車だけでなくマウンテンバイクなどの乗り入れも禁止されているこの2つの川は、歩いてしか入ることしかできない為に、豊かな自然が荒されずに残っている。
だが、最も奥の沢まで行こうとすると片道だけで優に3時間以上を要し、筆者はまだその三分の一辺りまでしか入ったことがない。

沢の名前もバケモノ沢や熊沢など不気味な名前もあり、その名前だけであまり奥まで行きたいとは思わないのも本音だ。
この川にも幾つもの砂防用の堰堤がコンクリートで造られているが、写真は本流に注ぐ沢に造られたパイプ堰堤で、流木や岩などが流れ込むのを防ぐ為に造られている。
この手のパイプ堰堤は魚の遡上には影響しないが、コンクリート製の堰堤は魚にとってはそれ以上は決して上ることができない悪魔の関所で、最近は魚が遡上できるようにと魚道を設けたものもあるが、国交省とお抱え大学教授が主張するその効果は全く疑わしい限りと言う外はない。

都会の川とは違った意味で、山奥の川も人が入り、コンクリートで無駄な工事を続けるために、今や自然も生態系も瀕死の状態にある。
ダム工事差し止めのニュースを見ているだけでも、これほど無駄なダムを造ろうとしているのかと驚かされるが、その支流や沢にある堰堤や砂防ダムやその他治水・治山の小物まで挙げると、その数は無数といってもいいだろう...。

by finches | 2009-10-26 07:07 | 無題
180■■ 神の川
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いつもは投稿する前日に写真だけ決めておくことが多い。
内容によっては前日から調べることもあるが、大抵は朝起きて内容を考え、電子辞書を椅子の左に置き、資料を椅子の右や足元に無造作に広げて書いている。
凡そ1時間から2時間、これが日々の習慣になった。
昔から日記などいつも三日坊主で終わったが、この朝の書き物だけは余り苦にもならず続いている。

今朝のために昨夜はまったく違う二枚の写真を用意しておいた。
一枚は蝋燭と焼き菓子、もう一枚は山と雲の写真だ。
そして、その写真とは全く関係なく、明日は早朝から釣りに行こうか、仕事をしようか、本を読んで過ごそうか、図書館に調べ物に行こうか、それとも下町へ実地調査に出掛けようかなどと考えながら眠った。

今朝は山と雲の写真の方を使うことにした。
裏丹沢の神の川で撮ったもので、幾つか山を越えるともうそこは山梨の道志村になる。
釣りをしていて空の高さと雲が余りに綺麗だったので撮ったものだが、風によって刻々と姿を変える雲の一瞬の一コマに過ぎない。
そしてそれはそこで風と雲がつくり出した最も美しい瞬間でもない。

次に書こうとしている一文の構想を頭に巡らしながら、今朝は取り止めもなく書いた...。

by finches | 2009-10-25 06:55 | 無題
179■■ 玉子焼
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このところ箸休めという隠れカテゴリーのことを忘れていた。
久々の箸休め、さて何を書こうかとあれこれ題材を考えた。

これは、一人前20個で値段は800円、明石名物‘きむらや’の玉子焼だ。
2人で行くと一人前でも出汁は二つ用意してくれ、二人前だから出汁は四つ並ぶ、このあたりが何とも関西らしく好感がもてるところだ。

大阪のたこ焼きとは違い、小麦粉と蛸までは同じだがそれ以外に卵と浮粉(沈粉じんこ)を入れる明石焼きは、明石の郷土料理で地元では玉子焼と呼ばれる。
この出汁にひたして食べる玉子焼の食感はふんわりとして柔らかい。

以前、神戸の生田川左岸沿いの道を少し入った辺りに、美味い明石焼きの店があるというので連れて行かれたことがある。
その時の明石焼きを載せた板は白木の長方形で、10乃至12個がその板の上に並べられていたような気がする。

一方、‘きむらや’のそれは正方形で朱塗りだが、この板が実に良く考えられていて、テーブルに置くと斜めに傾いて食べ易く、片付ける時も掴み易くその向きを逆にして重ねると、重ねた上の板は水平になる。
これによって、膳を重ねて運ぶように板を交互に重ねさえすれば何枚でも運ぶことができる。
ちょっと脚の長さを変える細工をしただけの工夫だが、そんなところにも日本人の道具への探求と、日本の形の美しさがある...。

by finches | 2009-10-24 07:38 | 嗜好
178■■ 龍閑川 龍閑橋
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外濠から見て龍閑川に架かる第一橋梁を龍閑橋と言った。
龍閑橋は現在の外掘通りの橋だったが、この龍閑川も昭和23年(1948)から埋め立てられ、今ではビルに挟まれた細い通りだけがかつての川の位置を示している。
しかし、余り人も気付かないような小さな公園(旧左岸上流側の橋詰)の植込みの中に、この龍閑橋の一部がひっそりと残されている。

龍閑橋は大正15年(1926)に完成した震災復興橋梁で、我が国最初のコンクリートトラス橋として今もその一部が保存されているのだ。
これを設計した技術者はどうしてもこのプラット・トラスの橋をコンクリートで実現させたかったようで、市電が載る中央部分は鉄桁に変えて強度を高め、橋台も護岸から他の橋以上に突出させることでスパン(橋長)を短くすることまでしている。

このように震災復興橋梁は復興を急務とする側面とは別に、新たな橋梁技術や施工法の実験場でもあったことがはっきりと窺える。
そう考えると、当時はまだなかった斜張橋など以外の橋の原型は、すべてこの時代につくられていたと言っても過言ではないかも知れない。
そして、そこには高度な教育を受けた技術者たちの優秀な頭脳に加えて、復興に向けての強い使命感があったからこそ成し得たのだと思う...。

by finches | 2009-10-23 06:49 | 時間
177■■ 浜町川
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かつてこの公園の場所には昭和2年(1927)に完成した復興小学校があった。
その復興小学校の名は有馬小学校と日本橋高等小学校といい、他に一例があるだけの二校で一つの建物を共有する珍しいものだった。
そしてこの復興小学校の東に隣接して蛎殻町公園という復興小公園があり、その公園の東側には浜町川が流れていた。

現在は復興小学校があった一角が蛎殻町公園として整備され、かつての蛎殻町公園の場所に有馬小学校が建てられている。そして、浜町川は埋め立てられ公園として整備され、途切れながらも続く木々の緑だけが、かつてそこに川が流れていたことを人々に伝えようとしているかのようだ。

江戸の地図を見ると、この浜町川は南を隅田川に発し龍閑川にぶつかって終わっていたが、明治になると開削と中州の造成が進み、南は箱崎川に発し北は龍閑川出合いから更に延びて神田川につながる川になった。
最初に訪れた時はまったくこれらの背景を知らなかったが、二度目に訪れた時ここがかつて来たことがある場所だと知り、物事を調べる入口は無数に明けられているが、どの入口から入るかで見えてくる世界も得られる知識や結果も180度違ってくることを改めて思い知らされた...。

by finches | 2009-10-22 06:46 | 空間
176■■ 楓川
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関東大震災後は瓦礫を片付ける恰好の場所として、また高度経済成長期は、取り分け東京オリンピック前の高速道路建設などの道路網整備のために多くの川が埋め立てられた。例え埋め立てを免れてもそこは高速道路の橋脚を建てる恰好の場所となり、川は鉄でできた無機質な高速道路によって空を奪われていった。

この三菱倉庫本社ビル(旧江戸橋倉庫ビル)が建設されたのは昭和5年(1930)だが、当時はこのビルの東側で日本橋川に合流していた楓川もまだ埋め立てられず残っていた。そして、この建物の西側の日本橋川には昭和2年(1927)に江戸橋が、南側の楓川には大正14年(1925)に兜橋がともに震災復興橋梁として架けられており、水質は分からないがその美しい姿を川面に映していたことだろう。

この表現派の流れを汲む建築は船のイメージが漂い、特に屋上に飛び出した塔屋は正に船橋を彷彿とさせる意匠となっている。
おそらく2つの川が出合う場所という敷地、船舶輸送と密接に関係した倉庫業、これらがこの建物のデザインの根底にあるのだろう。
かつての楓川の上を高速道路が走り、かつて二つの川が合流していた場所は高速道路の分流と合流の場所へと変わり、今では8本もの鉄の蓋によって何層にも覆われている。

例えそこを流れる水が汚れていたとしても、大阪の道頓堀川のように、そこに川がありその川の上に空があったなら、どれだけこの場所が魅力的か計り知れない...。

by finches | 2009-10-21 12:33 | 空間