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215■■ 築地川南支川 門跡橋
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隅田川に架かる勝鬨橋を渡ると築地になるが、かつてその道(晴海通り)の先には築地川南支川が流れ、そこには門跡橋が架かっていた。
この築地川南支川は、西の築地川東支川と東の築地川とを結んでいた川で、後者との出合には聖路加病院が面し、その北隣りに明石小学校(現存)、更にその北隣りには京橋高等小学校があった。また、これら三つの建物の東には鉄砲洲川が流れ、この川は築地川と一つになって勝鬨橋の北で隅田川に注いでいた。
長々と川の説明をしたが、これだけでも築地という場所が江戸時代に埋め立てによって生まれた土地で、その名残を表すように川が入り組んでいたことが想像されるだろう。

門跡橋があった築地川南支川の北側は築地本願寺の裏手に当たり、築地本願寺には毎日多くの人が訪れるがその裏にかつて川が流れていたことに気付く人は少ないだろう。
写真は門跡橋の親柱で土に埋まった状態で残っている。一方のプレートにははっきりと門跡橋という文字が読め、一方には昭和3年六月…、復興局建…、までで、その先は土の下に隠れている。

門跡橋は震災復興橋梁の一つだが、特段変哲もないコンクリート製の桁橋だった。文化財調査報告書によると、この橋の完成は昭和4年(1929)となっていて、親柱に残っている年と一致しないのが些か不思議だが、土に埋もれた部分に全く想像と異なる文字があるかも知れないと思えば、余り深く詮索せずに置いておくのもこの際だと思った。

立派な説明板があるよりどんな状態であろうと、その橋を知ることができる本物が残っていることが何よりと思う。
だが、わざわざ親柱を残すような粋な計らいをするような感性も想像力もあるとは思えない。では、どうして残っているのだろうと考え、知らなくてもいい悲しい結末に到達してしまった。
この橋は生き埋めにされていて、地上に出た親柱は、橋がこの下に埋められているぞと訴えているのだと気が付いた。
花を手向けることもできない鉄網の中に、まるで壊すのも面倒であったかのように残存物として放置されている。
この保存とは程遠い扱いをして、これを保存と見る人が全てだろうと、もう一つ悲しい気持ちが増した...。

by finches | 2009-11-30 06:46 | 復興
214■■ 勝鬨橋夕日
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勝鬨橋の全長は246mあるが、その中央部の約45mが跳ね上げ式の可動橋になっている。
そして可動橋の両端に橋脚があるが、この橋脚と一体に橋の開閉操作をする為の運転室が2階に造られている。
この橋を動かす為の動力は電気で、交流を直流に変えて供給されていたが、その為にこの橋には右岸下流の橋詰に面して変電所が造られている。
また、この橋脚内には橋を開閉させる為の巨大なモーターやギアがあり、橋が跳ね上げられた時のこの橋脚内の動きを想像すると、巨大時計の歯車と歯車のように組み合わさって行われる複雑な動きによって、橋の根元が徐々に押し下げられて行く音は、跳ね上げられる橋の先端の軽さとは逆にさぞかし重く響いたことだろう。

写真はこの運転室の窓を撮ったものだ。
一日の終わりが近づき、夕日がこの運転室の窓に平行な光を射し入れるほんの短い間だけ、無人であるはずのその部屋はあたかも人がいるようにパッと幻想的な光に溢れ、手づくりの操作盤が照らし出される。
この橋が動くの止めて40年になるが、夕日は休むことなくこの橋に美しい影絵をつくり、運転室にはオートマタのように生気が蘇り、それを眺める人は知らずに至福の時を共有することができる。
そう言えば、'automata’の語源と言われるギリシア語の'automatos’には‘自らの意思で動くもの’と言う意味があるらしい...。

by finches | 2009-11-29 06:45 | 時間
213■■ 勝鬨橋影斑
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一日の内で橋が最も美しく映える時間を迎えようとしていた。
それはまるで木洩れ日の中の枝葉の影のようで、夕日とトラスがつくり出す光と影の遊戯にしばし見とれた。
空が茜色に染まりその色が橋を鮮やかに染め、やがて訪れる黄昏時までの光の変幻はあっという間に過ぎ去ってしまう。
そして、灯りが点るとその表情は一変し、夜のとばりに包まれる頃には川も黒い帯に変わる。

筆者の好きな昭和の初めにつくられた鉄の橋、それは関東大震災の震災復興事業で架橋された震災復興橋梁と言われるが、勝鬨橋はその仲間ではなく紀元2600年を祝うかのように、昭和15年(1940)に建設された戦前橋梁の集大成とも言える橋だ。
この橋は中央部に跳ね上げ式の可動部を持つことで知られるが、昭和45年(1970)を最後に一度も跳開されていない。来年は震災復興事業が完了して80年という節目の年を迎えるが、この勝鬨橋も跳開した姿を是非見せて欲しいものだ。

これらの橋と今の橋とは同じ橋であっても別物と考えた方が分かり易い。
デザイン、ディテール、設計及び施工レベルの高さ、そして美しさ、どれを取っても今のものに勝るとも劣るものは一つとない。
筆者はそんな橋のある特徴に気付き、それに気付いたことで気付かなかったよりは、きっと上質の橋上ライフを密かに楽しんでいる。それは、当時の橋は上路タイプを除きその橋の形式に違いがあっても、橋の主構造材の外に歩路が跳ね出している。このことは橋の美しいプロポーションにも寄与しているのだが、主構造材によって歩路と車路が如実に分けられていることで、車に邪魔されず又意識せずに橋を隅々まで観察することができる訳だ。

勝鬨橋もそうだが、意識して橋の全景を取り上げることをして来なかった。
それは本物の橋が持っている魅力は全景だけでは言い表せないのと、全景はその橋の説明に陥りそうで避けているとも言える。
一つの橋を何回、何十回取り上げるか分からないが、その途中には全景を紹介する機会もあるだろうが、ただ今は、橋の行間を読み埋めることで、その橋の本質をもっと知りたい考えたいと思っている...。

by finches | 2009-11-28 06:43 | 時間
212■■ 勝鬨橋有情
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前稿の地下発電所を見ての帰り、晴海運河に架かる長い橋の上で真っ赤な夕日を見た。
そして朝潮運河の河畔を歩く頃には、もうあたりは夜のとばりに包まれていた。
冬だというのに心地よい川面の風が頬を撫でる中、対岸の月島川に映る灯りはゆらゆらと、それはうっとりするくらい美しかった。
そして月島に向けて朝潮運河を渡る橋の上からの川は、黒く輝く妖艶な帯のように黒い海へと続いていた。

そんな夜の景色を確かめたくて、小春日和の日を待ってその時とは逆に月島から南に向かって昼下がりの街を歩いた。
そして随分この街への印象も変わった。街は川と共存することでこれ程豊かになるものなのか、何でもないような日常の中、その存在すら忘れている橋や川、だがそこを渡る時に人々はきっと多くのエネルギーを受け取っていると思った。

その姿は見えないが、歩きながらも常に隅田川を感じた。隅田川と繋がっていることで潮の満ち引きは規則正しくどの川にも脈動を送り、汚れていても銀鱗はキラキラと輝き、釣り糸を垂れる人、それを見る人、それを横目に通り過ぎる人、言葉を交わさずともこの時間と空間の共有こそ、川が人と街にくれる生気だと感じた。

隅田川に出て勝鬨橋に向かって歩いた。
何度訪れても橋も川もその表情が異なる。この日も銀色に輝くタイドアーチの前を行き交う人の影と、タイドアーチに落ちる自身の陰が、これから次第にその長さを増すことを伝えていた。
この日は勝鬨橋を渡り築地を抜け銀座まで歩いて帰途についた...。

by finches | 2009-11-27 06:57 | 時間
211■■ 新豊洲有情
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晴海運河と東雲運河に挟まれた新豊洲、その未だ荒涼とした埋立地に、ポツンと巨大な円形の建物があることに気付いたのは今から6年前のことだった。
車でレインボーブリッジを渡る度に左に見えるその建物が一体何なのか、気になってしようがなかった。
ある日、筆者の興味は頂点に達し、何キロも離れた駅からただ目視を頼りに、途中幾つかの運河に行く手を阻まれながらその建物に近づいたことが懐かしい。

その建物は本当に荒涼とした中にポツンとあって、立入禁止の標識が幾重にも続く道を何だか不気味な気持ちで歩いてやっとその前に辿り着いた。(不気味なのは人間の姿がないことだった)
人間がいない、それが一体何なのかが全く分からない、何でこんな円形の現代建築が埋立地のド真中にあるのかに至っては皆目分からない、そんな出合いだった。(ただ一度だけ建物に一列になって吸い込まれて行く、男女を問わず黒服の不気味な一群があった)

その建物を見る機会が到来した。
その建物は1階から地下4階までが50万ボルト変電所という世界初の地下式変電所だった。
そして、この地下で50万ボルトの電圧は27万ボルトと6万ボルトに下げられ、また地下トンネルを通って送り出されている。
変電所内部の写真撮影は一切禁止だったが、写真はその円形の中心にある三角形のロビーに吸い込まれる、黒服に身を固めた人の群れだ。
6年来のこの建物への疑問は解けた、だが、ここに訪れる人間はあの時と同じ黒い服に身を固めていた...。

by finches | 2009-11-26 06:42 | 無題
210■■ 新月島有情
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新月島は明治29年(1896)に完成した明治時代最後(月島地区に於ける最後)の埋立地で、月島とは新月島運河で隔てられている。
この写真が新月島を表すのに相応しいものかは分からないが、今まで歩く先々で遠くに見えてその存在は知っていたが、この度の月島散策がなければ決して近づくことはなかったであろう高層マンションまで来てしまったことによる。

かつて、パリのデファンス地区に円筒型の高層住宅が出現したことがある。その壁面にはまるで空と雲のような模様が描かれ、直ぐにその異様な建築群はパリのスカイラインを破壊し景観を損なうとの批判を受け、その後1970年代に見直しをされたことがある。
新月島の高層マンションは筒型でこそないが、遠望するその姿はかつての空と雲のような模様が描かれた高層住宅、正にそのもののように筆者には見えていた。

間近で見ると模様に見えたものは、材料の違いによって生み出されていたことが分かり、その一つひとつは筆者の好みではないにしろ、それなりにしっかり考えられていることが見て取れた。特に住宅を高層化することで生まれた公開空地は、それなりに新月島運河や朝潮運河へと気持ち良く抜けて、ウォーターフロントを意識した一つの都市型住居の好例を示すものに仕上がっていた。

写真はその公開空地へと繋がる通路だが、無闇にガラスを使いたがるレベルの低い建築とは一線を画す周到なディテールとデザインが心地良かった。(雨樋のデザインが残念)
そんな訳でこの高層住宅の一角での取り組みを新月島事情として取り上げてみた...。

by finches | 2009-11-25 06:56 | 時間
209■■ 勝どき有情
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月島に続き明治27年(1894)に埋め立てによって生まれたのが勝どきで、佃島と月島が陸続きであるのに対して、月島と勝どきは月島川によって隔てられている。
また、月島に続いて明治29年(1896)に新月島が埋め立てられたが、月島と新月島とは新月島運河によって隔てられている。一方が川でもう一方が運河となる理由は分からないが、そこに違いがあるとすれば、川の名の付いた月島川の方にだけ隅田川との境に水門が設けられていることくらいだろうか。
ともあれ、両者とも一方は隅田川に他方は朝潮運河に繋がり、また朝潮運河を隔てて晴海、更にその先は晴海運河を隔てて豊洲の埋立地へと続いている。

勝どきには佃島と月島の一部に僅かに残る昭和の面影は既になく、全く新しい街になっているようだが、二つの時代を象徴するかのような対照的な光景に出合い写真に収めた。
新しい街やそこを埋め尽くす新しい建物に何の魅力も興味も感じないが、そこに水辺があることで少し違った印象が加わるのは何故だろうと考えた。
それは只埋立て埋め立てによってその間に生まれた運河の、まるで定規で線を引いたようなつまらなさ、埋立地の形が先ではなく、運河の形を先に決めればもっと楽しい水辺の空間が生まれるだろうと思った。

同じようにつくられたものでも、この月島川や新月島運河、朝潮運河辺りまではまだ川を感じる。それはこれらが隅田川との関係を保っているからだと思った。
そして、それらの川や運河があることで、殺伐とした光景から建物も人も救われているように思った...。

by finches | 2009-11-24 06:42 | 時間
208■■ 月島有情
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月島は各河川に堆積した土砂を浚渫し、明治25年(1892)に石川島・佃島の南に埋め立てられた島だ。その後も2年置きに勝どき・新月島と埋め立てが進み新しい島が生まれていった。
佃島・月島は戦災を免れた為に昭和の懐かしい家並みが残っていて、地図やカメラ片手に散策する人や、ゆっくり写生を楽しむ人たちを見かける。
筆者もこの日はこの辺りに係留されているかも知れないあるタグボートを目当てに、朝潮運河に沿って歩いた。

ほとんどの家が味気のない新しい家に作り替えられている中に、昭和の路地とその路地に面して寄り添うような家々が建つ一角があった。
一つの路地の先は新しい家々が立ち並ぶ通りへと続き、一つの路地の先は行き止まりで、堤防の先にきらめく明るい光がそこに運河があることを示していた。
潮の香がするような気がして、一方の運河への路地に足を踏み入れ二三歩進むと、懐かしさよりもそこにある優しく穏やかな空気にハッとなった。
何かに例えるならば、素焼きの瓶に一晩寝かせた焼酎の前割りのように角が取れた丸みのある味、そんな丸く浄化されたような空気がまるでマイナスイオンに全身を覆われたように、そんな気配に包まれたように感じた。

かつての月島は京浜工業地帯の一角をなし、多くの労働者が集まりその人たちの為に二階建ての棟割長屋が建設された。
今の時代、当時は決して上級ではなかった筈のこの棟割長屋に郷愁や魅力を感じる。
それは当たり前の材料で当たり前に作られた住む人の為の家が、今の家とは違うことへの郷愁であり回顧であり羨望なのだろうか...。

by finches | 2009-11-23 07:42 | 時間
207■■ 根津メトロ文庫
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もう二十年くらい前になるだろうか、ふと思い描いたアイデアに思いを巡らし、一人悦に入って、真面目にその可能性を考えたことがある。
新幹線には駅弁とビール、そして新聞や雑誌や時には文庫本を買って乗る。そして降りる時、駅弁とビールは腹の中に納まっているが、新聞や雑誌は迷うことなくゴミ箱にポン、読みかけの文庫は持ち帰ることが多いが、だた車中の暇つぶしに選んだ文庫にはそれ程の愛着はなく、ただ何となく捨て難く持ち帰ることになる。

そこで考えたのがホームのkioskで本が借りられたら、そして降りる駅のkioskにそれを返すことができたら、と大真面目に考えた。
だけど、問題もある、返さない輩が必ずいるだろうし、それはどうするか。
それには借りる時にワンコイン500円を預け、返す時に返金する、「これでうまくいく!」、と筆者の単純な頭は一気に結論に到達した。
このことを誰かに大真面目に話したところまでは覚えているが、それっきりスッカリ忘れていた。

今年の六月に根津にある‘ギャラリー・やぶさいそうすけ’を訪ねた時に、この‘根津メトロ文庫’が目に留まった。
「アッ、本当にやった人がいたんだ!」とおもわず思った。
その地下鉄の電車の形をした中には本が並べられ、借りる人返す人を待っているかのようだった。
現在、この根津を含めて幾つかのメトロの駅でこの善意の試みは続けられているが、その数以上に取りやめた駅も多いようで、それはひとえに利用者のマナーの悪さが原因のようだ。

筆者が考えたものと似ているようだが、比べてみると随分と違う。筆者のアイデアはこうだった。
kioskを利用したリサイクルであること。
長距離列車の利用客を対象にすることで、例え読みかけでも自宅に持ち帰らず下車駅での返却を前提とすること。
保証金を取ること。(1000円くらい取ってもいい)

人の善意を人の悪意が踏みにじる。
この‘根津メトロ文庫’がこれからも続いて欲しいと思う、例え本を借りなくてもその本を目にする人に、この文庫を守る人々の善意の香りは届くだろうから...。

by finches | 2009-11-22 06:45 | 無題
206■■ 常盤小学校 ・其二
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前稿で「ときわ」の名を持つ三つの橋に触れたが、その中の新常盤橋の西側直ぐに、江戸通りに面して常盤小学校は建っている。
常盤小学校は昭和4年(1929)に完成した復興小学校で、細部のデザインにはアール・デコの影響が如実に見られ、柱型が表に現れるの避けた壁面に少し彫りの深いアーチ窓や四角い窓がつくり出す造形は、どこか古いイタリア建築を彷彿とさせる趣きさえある。

今、筆者は明治30年の地図を横に広げていて、それには日本銀行の表記があるだけだが、この常磐小学校の歴史は古く、その創立は明治6年(1873)にまで遡る。
また、先の新常盤橋の北側直ぐには、別稿で取り上げた外掘通りを跨ぐ外堀通鉄橋がある。 
この鋼製の鉄道橋の建設年は不明だが、それが繋がるレンガ造の連続鉄道橋は明治42年(1909)の新橋・上野間の高架電車の運転開始に合わせて建設されたもので、見事なレンガアーチを今でも見ることができる。

このような歴史環境に常磐小学校は包まれている。
写真は常磐小学校の講堂兼屋内体操場だが、筆者がこれまで見た中では最も凝った造りをしている。
全体としてデザインはアール・デコで統一され、写真の扉は元より演台にまでそのデザインは及んでいる。
幸いこの小学校の保存は確定しているが、とかく「歴史的建造物=保存」という型に嵌った見方をされる傾向があるが、少し見方を変えて、持続的使用が可能な現役の建築であり、むしろ現代建築より堅牢であり、デザインも上質で優れ、教育環境としても新しい校舎の追随が不可能な程の高みにあることを、父兄や同窓会や町内会や教育者や行政は、もっともっと理解する努力をして欲しいものだ...。


068■■ 常盤小学校 ・其一
by finches | 2009-11-21 07:12 | 復興