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243■■ 林町小学校
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東京に於ける小学校の鉄筋コンクリート造化の歴史は、この林町小学校の木造校舎に増築された鉄筋コンクリート校舎と屋内体操場に始まる。
それは神戸に遅れること2年、大正11年(1922)のことで、関東大震災の起こる1年前だった。
現文京区には関東大震災前に既に起工していた小学校はもう1校あり、その後大正の終わりまでに起工したものを数えてみると後5校あることが分かる。つまり文京区全体で見ると、林町小学校の増築を加えて7校が大正の終わりまでに完成または起工していたことが分かる。
 [注:林町小学校は大正14年にも鉄筋コンクリート校舎の増築が行なわれている]

一方、文京区の復興小学校の数は2つで、それは大正14年に起工し同15年に竣工した湯島高等小学校と、大正15年に起工し昭和2年に竣工した元町小学校となる。
現文京区内の他の小学校は罹災しながらも焼失は免れており、それなのにこの地区に於いて早期から鉄筋コンクリート造小学校が建設された理由を考えると、それは当時の東京市15区の中にあってこの地区の人口増加が背景にあると考えていいだろう。そして、このことが林町小学校の鉄筋コンクリート校舎の増築という試みに着手させた理由に繋がっていると考えていいだろ。

しかし、これだけが東京の小学校校舎鉄筋コンクリート造化の歴史に於いて、林町小学校が最初であるというのは少し弱いような気がする。
まだ推測の域を出ないが、その背景にはこの地区の教育施設の充実振りがあったのではないかと考えている。公立私立を問わず多くの学校が存在し、そんな環境の中で公立の小学校の充実が迫られていたのではないかと考えられる。
それは自然と鉄筋コンクリート造による小学校校舎の建設につながり、また機能や設備の充実は元より、新しいデザインの追及がなされたのではないかと考えられる。

創立が明治43年の林町小学校に近接して、創立が明治7年の明化小学校があるが、この2校の関係に興味を抱きながらその解明は来年に持ち越しになりそうだ。
最後になったが、林町小学校の旧校舎は現存していない...。

by finches | 2009-12-28 07:12 | 復興
242■■ Gavarny
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チョコレートが美味い季節がやって来た。
それはチョコレートの側からすると、食してもらう為のいい季節がやって来たということになるだろう。
夏のようにベタつくこともなく、暖かい部屋で食べるチョコレートは程好い柔らかさで、口に入れた時の食感が滑らかでいい。

拙稿猫の舌で、ベルギーはガバルニーの冬季限定チョコ、プレミアムトリュフが美味いと書いたことがある。
今年もこのチョコが手許にある。
そして、今年はココアトリュフに加えて、ココアトリュフ・コニャックも手許にある。
実はもう一つココアトリュフ・オレンジというのがあるが、三つ全てが揃うと何だかそのプレミアムとしての価値が半減しそうで、今年はその内の二つで我慢した。

言っちゃあ悪いが、アメリカ製チョコなどは大量機械生産チョコレートモドキで、ベルギーの伝統を重んじる職人的なチョコレートとはまるで月と鼈(すっぽん)の感がある。
従って、そのチョコを食べるには時々箱に手を突っ込み、「まだあるな」と全量を先ず把握し、そして徐(おもむろ)にその中から1個を取り出し口に運ぶ。
そして、また箱の蓋を何もなかったように閉めておく。

二箱の内、まだココアトリュフは開けていない。
先ずはコニャックを楽しんでからだ。
そんな高いものではないし、何箱も買って置いておけば済む話かもしれない。
だが、バレンタインにもらったゴディバ(GODIVA)のチョコレートのように、ガバルニーのプレミアムトリュフは、この冬の季節の一度だけの楽しみとして味わうのも、また希少で楽しい...。

by finches | 2009-12-27 06:47 | 嗜好
241■■ 箱崎小学校
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箱崎小学校は昭和3年(1928)に完成した復興小学校となる。
また、この箱崎小学校には南側に箱崎公園という復興小公園が隣接している。

実はこの小学校が現存していることを確認したのは僅か一週間前のことだ。
それまでは、近くの阪本や明正小学校を幾度も訪ねながら、浜町川や箱崎川の跡を探し歩きながら、取分け日本橋川沿いに豊海橋まで歩きその手前から豊海橋と永代橋が重なって見える景色が好きで何度となく訪れていながら、その目と鼻の先にある箱崎小学校に足を向けることはなかった。
勿論、それはこの小学校の場所には新しく日本橋高校が建っていると思い込んでいたからだが。

最近目にしたある小論文で箱崎小学校が現存しているらしいことを知り、半信半疑で訪ねたものだが、そのタイル貼りの外壁から跳ね出した玄関の大きな庇に昭和初期の建築の面影があり、もしかしてこれは旧箱崎小学校の外壁にタイルを後から貼ったものではないかと想像した。
思った通り、道路に面した部分とその両妻側部分にだけタイルが貼られ、校庭側はかつての箱崎小学校の外観がそのまま残されていた。残されていたと言っても、元々の「コの字型」をした平面のほとんどは取り壊されなくなっていたが。

これを現存していると言えるのだろうかと掲載を迷ったが、年内に現存する復興小学校全ての投稿を一先ずの目標としていることもあって、状態の如何に係わらず復興小学校最後の建物として書いておこうと決めた。
復興小公園が残っていることで、そこから校舎を眺めると往時の姿、即ち今はなき屋内体操場と校舎が校庭を囲み、その校庭がこの公園と連続していた姿が目に浮かび、その校舎はこの写真のように白く輝いていたことだろうと容易に想像することができた。

箱崎小学校の現況には一つの教訓がある。
それは、ものの価値をその本質に於いて見ない人たちには、ここで行われたような「外壁にタイルを貼る」という姑息な改修で、見掛けだけ新しくしたものに価値があるという誤った見識だ。
それは同じく、毎年少しのメインテナンスを継続することで現存する校舎を使い続けることができるのを放棄し、新校舎に建て替えようとするのと同じ誤った価値感に通じると思う。

かつての新車も何十年も経てばクラシックカーと呼ばれる。その車を古いから価値がないと思うだろうか。
その車は大事に手を加え続けられることで、名車としの輝きを更に増すのではないだろうか。
復興小学校とは正にこの名車ではないだろうか。
117台あった名車も現存するのは僅か19台だけとなった...。


[追記]
単稿としての復興小学校の掲載はこれからも続けるつもりですが、他方でessay bibliophobia annex に復興小学校をまとめて掲載します。
こちらでは夫々の復興小学校についての新しい記事、データ、他の写真、等々の追加や加筆を続けるつもりでおりますので、essay bibliophobiaの中の annex(別館)とお考えいただき、本稿共々お立ち寄りいただければ幸いです...。
by finches | 2009-12-26 07:20 | 復興小学校
240■■ 阪本小学校
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阪本小学校は昭和3年(1928)に完成した復興小学校となる。
かつては校庭の北側にある阪本公園という復興小公園を挟んで、同じく昭和3年に完成した日本橋女子高等小学校という復興小学校が向き合うように建っていた。
 [注:現在、阪本公園は坂本町公園という名前に変わっている]
また、現在は埋め立てられているが、敷地の直ぐ西には楓川が流れていた。

阪本小学校の学区域図を見て面白いのは、その三方が楓川、日本橋川、亀島川によって境されていることだ。
兜町と茅場町という当時は今以上の賑わいであったろう日本橋に程近い立地、歩いて直ぐに幾つも川があり少し足を延ばせば隅田川、そしてこれらの川には一つひとつデザインの異なる橋が架かり、子どもたちにとってこれ程ワクワクするような楽しい遊び場があっただろうか。

また、当時の子どもたちは自分たちの近代的な学校を誇りにしていたことが記念誌などを見ると分かる。子どもたちの興味は繁華街や川や橋だけに留まらず、隣りの、否そのまた隣りの、否そのまた隣のそのまた隣の復興小学校にまでその好奇心は尽きることはなかったろう。
あそこの柱は丸い、あそこの柱は角の尖った三角形、あそこの柱はデンデンデンと面取りしてある。
あそこの建物の角は丸い、あそこはもっと大きく丸い。
あそこの窓は大きくて四角い、あそこの窓はアーチ、あそこには真ん丸い窓がある。
あそこの煙突は丸い、あそこは四角い、あそこのはもっと変な形をしている。
じゃあ、みんなで見に行こう...。
そんな時代の子どもたちのことを想像すると、これら一つひとつの建物に秘められた、つくられた時の思いを紐解きたいとつい考えてしまう。

復興小学校に興味を抱いて3つ目に訪れたのがこの阪本小学校だった。
その後何度も訪れていると、その周辺との関係が少しづつ見えてくる。
街の生い立ちや環境、川の存在、周りにある他の復興小学校との関係、それらが見事にバランスして連鎖していた時代を思い描いて眺めると、訪れる度に新たな発見と感動がある...。

by finches | 2009-12-25 07:06 | 復興
239■■ 元町小学校
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元町小学校は昭和2年(1927)に完成した復興小学校となる。
校庭の南側には元町公園という復興小公園が隣接し、その公園の南側は崖になっていて本郷台地を貫くように神田川がその谷底を流れている。
かつてこの直ぐ近くには、井ノ頭池から小石川を経て神田・日本橋に給水していた神田上水の懸樋が神田川に架かっていた。 

元町小学校を訪れる為には、この元町公園の階段を上がってアプローチする方法があるが、このルートを選ぶとヨーロッパ庭園の様式を取り入れた元町公園を十二分に楽しむことができる。そして高低差を巧みに利用した西洋式公園の最後の階段を上がると、木々の向こうに白く輝くような元町小学校が姿を現す。
それは見事な空間構成で、地形的特性が味方しているとは言え、これ程巧みに復興小公園と復興小学校が融合している場所は他にはないだろう。

かつて神田川のふちに‘なでしこ’が咲き乱れていたそうで、今は廃校となりその校章も取り払われているが、この学校の校章にはこの‘なでしこ’の花が使われていた。
創立当時この辺りには私立学校が多くあったが、そんな環境の中に初等教育の重要性を掲げ誕生したのがこの元町小学校だった。
時代は変わり世の中も人の考えも変わったかも知れないが、私立学校が夫々の校風と個性で新しい時代に融合しようと努めている一方で、公立の小学校が自助努力を放棄する様には、やはり違和感を感じずにはいられない。

教育史を調べていても文京区のそれは素晴らしい出来にまとまっている。それは長い教育史の中でそれぞれの歴史的背景にただ翻弄され流されるのではなく、真剣に教育と向き合ってきた証だと思う。
その歴史を残し継承する意味でも、元町小学校を保存活用して欲しいと思う。
そして、この建物には過去を知ることで新しいものへの創造につながるような、そんな場所が最も相応しいと思う...。

by finches | 2009-12-24 07:13 | 復興
238■■ 旧NCRビル
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小春日和の午後、溜池から初めての道を選び選びしながら愛宕まで歩いた。
普段見慣れた大通りからの景色と違い、その道々から眺める景色はそれは新鮮で、感動的にすら思える場所も度々あった。
溜池を歩き始めて直ぐに現れた建築家・吉村順三のNCRビルも、長い時を経て今尚美しい姿を見せていた。
 [注:NCRビルの完成は昭和37年(1962)]

ところで、地名にその名残があるように、江戸時代には大きな沼がこの辺りにはあり「溜池」と呼ばれ、そこを源に浜御殿の脇で江戸湾に注ぐ川を汐留川と言った。
今では林立乱立するビルや縦横上下無尽に走る道路によってその面影はないが、目を凝らして地形の起伏を追うと、霊南坂、榎坂、汐見坂、江戸見坂など、溜池の辺りが低地であることが窺え、首相官邸から国会議事堂方面へかけての斜面は、その昔鬱蒼とした木々が溜池に向かって落ちていた様子を窺い知ることができる。

さて、本題のNCRビルだが、50年近く経っているとは到底思えない、古さを全く感じさせない品格を湛えている。建築家・吉村順三は拙稿・吉村順三と谷口吉生の建築でも取り上げたことがあるが、新しいことにその本質的なところに於いて全霊をかけて取り組んだ優れた建築というものは、時を経て決して衰えることも老いることも、ましてや色褪せることなど決してないという証だと思う。

ダブルスキンを始め幾つもの斬新なアイデアがこの建築により生み出された。
見掛けだけで圧倒させる新しいガラス張りのビルが林立する中にあって、それらとは全く次元の違う建築が恒星のように自ら光彩を放つ様に思わず立ち止まって見蕩れた。
それは乱立する有象無象の建築の中にあって、そこだけがオーラのように輝いて見えた...。

by finches | 2009-12-23 07:05 | 空間
237■■ 餅花
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写真は函館の宝来町に咲いた餅花だ。
函館に住む知人が撮った写真のいつもながらの美しさも然る事ながら、この餅花の背景に写る黒い土蔵にも記憶の中で連鎖するものがあった。

この黒塗りの土蔵は明治末期に建てられた質店を改造したもので、大火の多かった函館の歴史を今に伝える貴重な建物でもある。
この建物は「茶房ひし伊」と言い、その古い佇まいの中で味わう喫茶も良いが、趣のある落ち着いた空間の中で古い着物や雑貨を見たり選ぶのもご婦人方には楽しいらしい。

この中で確か古布で作られていたと思うが、綺麗な「餅花」を見た記憶がある。
その記憶と餅花の写真が連鎖したという訳だ。
この知人のこと、それを百も承知の上での暗喩的表現かも知れないが、この明るい雪の中に咲いた餅花の背後の土蔵の中に、電球の灯りに浮かぶ古布で出来たもう一つの餅花があると思うと、その何とも妖艶で不思議な世界を想像した。

まだ函館の雪の中でこの餅花を見たことはない。
しかし、函館の夏には子どもたちが蝋燭を持って家々を回る美しい七夕の風習があるように、まだまだ知らない季節ごとの美しい伝統の行事があるのだろうと、深く深く感じ入った...。


写真提供/ezzoforte
by finches | 2009-12-22 06:45 | 嗜好
236■■ 京華小学校
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京華小学校は昭和4年(1929)に完成した復興小学校となる。
校名は町名によらず、「東京の華」という意味を込めて命名されたものだ。
残念ながら現在は廃校となり京華スクエアと名前を変えて2色に塗り分けられ、特に写真右の曲面部分側の濃い色によって、建築としての一体感が失われ全体のフォルムが作り出す流れも断ち切られている。

この建築の特徴は上記の曲面部分のほとんどが1階まで下りずに低層部の屋上で止まっていることが挙げられる。当時の図面によると、この南面する低層部は屋内体操場と手工室になっていて、隣地と接する為に南側に開口部を必要とした教室を設けることができず、ここに屋内体操場を置かざるを得なかったこと、そして校庭に十分に太陽の光を入れる為にこの部分を低く抑える必要があったこと、これらがこの建築の全体構成を決定付けたものと思われる。

しかし、この部分を低層にはしたが手工室部分の階高は屋内体操ほどの高さを必要とせず、その為にこの部分が低層部の屋上として活用され、校庭から滑り台が併置された緩い階段によって低学年の子どもたちでも容易に上がることが出来るように設計されている。当時の写真を見るとこの屋上部分にはブランコやジャングルジム、滑り台などが置かれ、細長く狭小な校庭を補うように一体の計画がなされていたことが分かる。
そして、この屋上部分に上の曲面をもった校舎が乗っかるような構成が、流れるような楽しい空間を生み出していた。

京華スクエアと名を変え壊されずに残されたことは何よりと思う。
だが、どこか生気を失ったような姿を見ると、この建築の持つ魅力を引き出すような使い方がなされて、初めて生かされる保存になるのではないかと思った...。

by finches | 2009-12-21 07:05 | 復興
235■■ 十思小学校
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十思小学校は昭和3年(1928)に完成した復興小学校となる。
 [注:中央区教育史には昭和4年竣工とある]
校名というのは夫々に命名の意味や由来があり、地名町名が当てられているものは分かり易いが、この十思(じっし)についてはその名を初めて目にした時から興味を抱いたものだ。そもそも何と読むのかさえ分からなかったからだ。

十思とは資治通鑑(しじつがん)に記されている十思之疎(じっしのそ)から取られたもので、これは唐の時代に天子のわきまえなければならない戒めを記した十箇條だそうだ。
その戒めはそのままこの学校の校風として受け継がれ、既に廃校にはなっているがここを巣立った子どもたちにとって、消えることのない処世訓として生き続けていることだろう。

十思小学校の特徴は何と言ってもそのコーナー部分の曲面とそこに設けられたアーチ窓だろう。
 [注:同じ曲面でも明正小学校のようにデザインの処理如何によっては全く違った雰囲気になるのが分かる]
そして、この設計の思想は屋内体操場へと踏襲され、その柔らかく優しいフォルムが何とも穏やかに街に溶け込んでいるのが微笑ましい。

十思小学校のもう一つの特徴として、復興小公園と呼ばれる十思公園に校庭が繋がるように計画されていることがある。そして、この公園の場所は伝馬町牢屋敷の跡地で、吉田松陰終焉の地としても知られている。
廃校となった十思小学校は、現在は十思スクエアとして第二の活路を見出しているが、理想はあくまでサステナブル建築として「小学校」として使い続けて欲しいところだ。しかし、時代の変化とともに閉校廃校が已む無しとしても、この「十思」のように新しい活路を住民と行政が一緒に考え、貴重な歴史・文化遺産として未来に継承して欲しいと心から思う...。

by finches | 2009-12-20 06:11 | 復興
234■■ 早稲田小学校
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早稲田小学校は昭和3年(1928)に完成した鉄筋コンクリート造小学校だが、所謂改築小学校と呼ばれて復興小学校とは区別されている。
この小学校は大正末期から戦前にかけて建設された鉄筋コンクリート造小学校の中にあって、至って特殊な外部意匠を纏っている。

写真で明らかなように小学校とは思えない意匠が外観全体を支配し、破風というかペディメントのような飾りが正面玄関上部に設けられ、この面だけではあるがパラペットにスペイン風の瓦まで並べられている様は、この時期に建設された他の学校建築には絶対に見られない装飾的要素と言える。
このことが、虚飾を排し明朗さが追求された当時の小学校建築の設計思想に先ず反するところと言える。

次に、関東大震災以前の小学校建築は外部の建築家などに依頼してその設計がなされていたが、震災後の復興事業を契機にその設計は東京市で一括して行われることになった。しかし、この小学校は建築家・渡辺仁が設計を担当しているという不思議さがある。
資料を探してもその部分に言及したものは今現在発見に至らず、その特異な意匠と相俟ってこの小学校の不思議と言えるだろう。

東京の鉄筋コンクリート造小学校建築に対して関西のそれは、巨財をなした人たちの高額な寄付によって建設されたものも多い。この早稲田小学校が寄付によるものならば、その条件として建築家を指名しての設計を求めたことも具体性を帯びてくるのだが、そのような痕跡も見当たらない。ならば潤沢な建設費によって他の小学校には見られない意匠に至ったのかと思えば、これもまたそうではない。建設費だけで他の小学校と比較すると高額に見えるが、これは規模が大きいことによるもので、基準面積当たりの建設単価を比較してみると、ほぼ全体の平均値と同じという結果になる。

早稲田小学校の意匠の不思議さの解明はもう少し新しい資料を調べる中で考えてみたいと思う。
しかし、渡辺仁という建築家について一つだけはっきり言えることがある。
この人は古典主義、様式主義、懐古主義(帝冠様式)、モダニズムなど、何でもそつ無くこなし、またそれが実に上手かった人でもある。
物議を醸した日本趣味的帝冠様式の東京帝室博物館(昭和12年、現国立博物館)とモダニズムの原邸(昭和13年、現原美術館)を設計した同じ建築家とは到底思えないし、横浜ニューグランド(昭和2年)、銀座服部時計店(昭和7年)、第一生命(昭和13年)など、兎にも角にもあらゆるスタイルを使いこなした建築家と言えるだろう。

そんな中、この早稲田小学校は建築家・渡辺仁にとってどのスタイルで纏め上げたものなのか、それがまた不思議だ...。

by finches | 2009-12-19 06:33 | 復興