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292■■ 昼食プレート
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東京は木曜日に春一番が吹いた翌日から雨の日が続いている。
今朝も雨音を聞きながら目覚め、久し振りにと思っていた釣行も断念した。
こういう日の過ごし方の一つに零戦作りがある。
精巧な1/16の金属模型で、これまでに二度の挫折の窮地を脱して続けている。

その零戦作りを朝から始めていたある日曜日、家人が昼食を用意して出かけて行った。
それは出西(しゅっさい)窯の平皿の上に、鶏肉の味噌煮、茹で卵の黄身を取り出して味付けし人参の幼葉をのせた卵、鰹節と大根葉のふりかけに醤油で混ぜて佃煮風にしたほうれん草の和え物、壬生菜(みぶな)のおにぎりと梅干入り焼きわかめのおにぎりが葉蘭の上に盛り付けられていた。

ついビールでも飲みたくなるところだが、それは食後も続く精密作業に障るために我慢した。
今朝の雨も零戦日和だが、今日の昼食は句会にでかける家人と材料の買出しを兼ねて外で一緒に取ろう...。

by finches | 2010-02-28 06:52 | 嗜好
291■■ まんさくの花
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仕事の書き物の途中に少し外の空気が吸いたくなって短い散歩に出た。
前日と打って変わって穏やかな午後の陽気の中、頬を撫でる風に春が近い円やかな温もりを感じながら、芽吹きを待つ木立の間をゆっくりと歩いた。
月が替わるのを待ちわびているかのように、木々の小さな蕾は日を追って目に付くようになってきたが、まだこの時期に咲く花は少ない。

そんな木々の中に黄色い花をつけた金縷梅(まんさく)を見つけた。
花名の一字「縷(ろう)」そのもののように、細糸がねじれたような4弁の花がまだ去年の枯葉を残す枝から噴き出すように咲いていた。
毎年ある日突然感じる昨日とは違う風、この柔らかく優しく温かく円やかな風で春の訪れを感じてきたが、今年はまんさくの花を見上げながらこの風を感じた。

まんさくや小雪となりし朝の雨 / 水原秋櫻子

山間部では金縷梅は雪の残っている時期に咲くこともあるそうだが、散歩の途中で見たその花は正に初春の季語そのものだった。
暫くして部屋に戻り書き物を続ける横で風の音がいつまでも鳴っていた。
そして、次の日の朝刊でその風が東京の春一番だったことを知った...。

by finches | 2010-02-27 07:24 | 嗜好
290■■ 復興小学校・明石 其六
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現在この明石小学校は差し迫った建て替え問題に対して父兄や住民たちを中心とする保存運動が起きていて、筆者も微力ながらその運動の後方支援になればと、この学校が建っている明石周辺の歴史的な背景やこの学校が誕生した時代の背景、そしてこの学校が持っている建築的な特長と魅力などを分かり易く書いている。
しかし、今ここで書いていることはこの保存運動が起きて俄に調べ上げたことではなく、この学校が持つ他の復興小学校とは違う特徴が一体何に起因しているのかという疑問と興味から収集した資料の中から、そのテーマに応じて選び出して書いているに過ぎない。
そして、その疑問と興味を抱くきっかけとなったのが、この建物のデザインを徹頭徹尾支配している曲線と曲面の存在だった。

さて、復興小学校・明石の最後はこの小学校の外観を最も特徴付けているパラペットの図面を取り上げてみた。
明石小学校の特徴は何と言っても曲線と曲面を多用していることだが、筆者が知る限りに於いて建物全周とその断面に至るまでここまで徹底的に曲線と曲面が使われている例はこの明石だけだと思う。

かつて鉄筋コンクリート造建築の出現は、それまでの石造建築に対して構造的には重力から開放され、それによって窓が自由に開けられるようになり、瓦や金属葺きの屋根を置くことから開放され、それによって屋上と呼ばれるフラットな床を手に入れることになる。
このフラットの床を実現するためにはその下に防水をする必要が生まれ、その防水の端部を納めるために屋上から手摺のように立ち上がったパラペットが生まれた。
このパラペットはその建築のスカイラインを決定付ける重要な建築的要素として、様々なデザインとそれを支えるディテールが考え出されていった。

明石小学校の場合、パラペットを曲面にした上にそれを外壁から大きくオーバーハングさせているのが特徴で、そのパラペットを支える為に屋上に飛び出した腕木(この場合は逆ハンチと言った方が正しいかも知れない)が図面には描かれている。
屋上に整然と並ぶこの腕木の列を初めて見た時、筆者はあの復興事業の中でここまで情熱を燃やして設計に当った人間がいたのかと、驚き胸に熱いものが込み上げてきたのを覚えている。
そして、最後まで決して力を緩めることがなかった設計者・原田俊之助の誠実な一面を見たような気がした...。


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[注記]
復興小学校・明石 其一~其六をessay bibliophobia annexに纏めました。
 ◆ 明石小学校・設計圖

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by finches | 2010-02-26 06:59 | 復興
289■■ 復興小学校・明石 其五
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前稿で復興小学校の設計図面の描き方が雑だと書いたが、明石小学校とちょうど同じ大正15年8月に竣工した牛込区(現新宿区)の牛込高等小学校などのように丁寧且つ細やかに描かれた例も見られる。
これらは偏(ひとえ)に夫々の建物を担当した技師の実務経験の違いに加えて、実動部隊として技師をサポートした数名の技手たちを含めたチーム毎の姿勢と状況の違いによると思われる。

例え図面自体の描き方が雑だとしても、その中に設計図面として伝えるべき情報が網羅されていれば良い訳で、実際に完成した建物を見てもこの「雑さ」は決して手抜きの「雑さ」ではないことは言うまでもない。
これは筆者の推測だが100を優に超える鉄筋コンクリート造小学校校舎を次々に建設しなければならない状況の中で、その設計図面に個人差が生じたり、また表現の過少過多などの偏りが生じることを意識的に押さえ、それらを仕様書の類が補うと共に、小学校建築設計の為の統一規格が一種の設計監理マニュアルとなって質が担保され、全ての小学校に於いて均質な工事を遂行することを可能にしたのではないかと思う。

さて、写真は明石小学校の各教室の廊下側に設えられた小物掛の為の図面だが、余分なものが一切排除された中に、子どもたちに必要なものが何一つ落ちることなく描かれている。
見過ごてしまいそうなくらいの図面の片隅の描き込みだが、この図面がどれほど豊かなものへと変化し、それが現在の子どもたちにも大切に使い続けられていることか。
こんな所にも建築の記憶として沁み込んでいる無数の歴史がある...。


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by finches | 2010-02-25 07:21 | 復興
288■■ 復興小学校・明石 其四
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当時一つの小学校を建設する為にどのくらいの枚数の図面が描かれたのだろうか。
そのことを昭和13年(1938)に函館で建設された弥生小学校と比較して考えてみた。
昭和13年というと、既に日中戦争が勃発し物資統制が行われていた時代で、東京市の鉄筋コンクリート造小学校の建設もこの年を最後に終了する。
函館の弥生小学校はそんな時代を背景として、戦前我が国で最後に建設された鉄筋コンクリート造小学校と言っていいだろう。

その弥生小学校の設計図面の複製が手許にあるが、それは勿論手描きの図面で一枚一枚丁寧に描かれている。
一方、明石小学校の設計図面の方は仕様書こそ必要十分な内容が網羅されているが(これは各小学校共通であった為と思われる)、図面の描き方はかなり雑で、それは当時の臨時建築局が復興の為の設計作業に忙殺されていたことに因ると思われる。

その図面の中に明石小学校の特徴を形作る部分を探した。
それは矩計図の中に見ることができたが、上の弥生小学校の丁寧に描かれた詳細図面とは雲泥の差で、よくぞこの図面で工事ができるものだと感心した。
それは明石小学校を請け負った竹田組だけではなく、それぞれの復興小学校を請け負った建設会社の小学校復興へ掛ける全社一丸となっての取り組みに支えられていた...。

by finches | 2010-02-24 07:28 | 復興
287■■ 復興小学校・明石 其三
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関東大震災を経験した後に建設された復興小学校は最も耐震耐火に重きを置いて設計と工事が行われた。
当時の図面を見ると、構造は鉄筋コンクリート造3階建と書かれた上に、絶対耐震耐火構造と付け加えられていて、現場で施工するコンクリートに関しては特段に細やかな品質管理が行われていた。

そして、明石小学校の場合はその堅牢なコンクリート造の壁体表面にはクリーム色のモルタルが塗られ、腰廻りは同色の人造石洗出しで仕上げられていた。
現在の聖路加礼拝堂もそうだが、当時の色は現在塗られている濁った陰気な色と違い、最新鋭の近代建築に相応しい明るい洗練された色調に統一され、それらは整然とした調和を醸していたと思われる。
また、当時のサッシは全てがスチール製で、現在のアルミサッシと違いそのスリムな形状と壁の色に合わせて配色された塗装色によって全体が引き締められていたことが想像される。
そして、屋上に設えられたパーゴラの緑と、建物足元の植栽の緑がこれらと調和して美しかったことだろう。

写真の明石小学校東側立面図のサッシは筆者が詳細図面を元に加筆したもので、当時の設計図面は意外と大雑把で開口だけが描かれサッシなどは完全に省略されている。
古き良き時代と言えばそれまでだが、一つ一つの工事を完成させる為の技師とそれを支えた技手たちの仕事の量は半端ではなかったと思う...。

by finches | 2010-02-21 06:45 | 復興
286■■ 復興小学校・明石 其二
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写真は明石小学校の1階平面図だが、復興小学校の典型的な平面パターンの一つである「コの字型」を示している。
また、現在プールのある場所は当時は隣地であったことが分かり、聖路加国際病院礼拝堂側に校庭への出入口が設けられていたことも分かる。

平面図を見ると7つの教室と手工室、二つの昇降口と職員室、3つのトイレと4つの階段、そして屋内体操場が整然と配置されている。
この図面には描かれていないが、当時この右隣りにあった京橋高等小学校と共有するボイラー室(別棟)が右下隅部分から廊下で繋がっていて、今で言う地域冷暖房設備の走りのような考えで、一つのエネルギー棟からそれぞれの学校に暖房と給湯用の温水がトレンチによって供給されていた。

復興小学校は児童に対する配慮が心憎いまでになされている。勿論教育を国づくりの礎と考えていた明治政府による小学校令の精神に負うところも大きいが、それだけではなく当時の学校長の教育に対する見識の高さと並々ならぬ情熱、そしてそれを背景にして理想の小学校建築を造ろうとした高度な知能・技術集団である臨時建築局学校建設課の設計技師たちによってこれらの復興小学校は一つまた一つと産声を上げていった...。

by finches | 2010-02-20 07:09 | 復興
285■■ 復興小学校・明石 其一
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復興小学校とは関東大震災で焼失した木造校舎が鉄筋コンクリート造校舎に建て替えられたものを言い、その数は117校に上る。
しかし、震災前から東京市によって進められていた小学校校舎の鉄筋コンクリート造化という一連の流れの中で見るなら、この復興小学校という呼び名は臨時建築局が震災復興事業の対象として予算化する過程の中で便宜上付けられた名称に過ぎず、特段他の鉄筋コンクリート造校舎と分ける理由は本来意味を持たない。何故なら、一概に復興小学校と言ってもその中には関東大震災が起きた時に既に工事中であったものもあるし、同じように工事中であったものでも復興小学校の中に入らないものもあるからだ。

そしてもう一つ知っておきたいのは、震災復興事業の復興小学校の設計・建設と平行して、全く同じ時期に改築小学校と呼ばれる鉄筋コンクリート造小学校の設計・建設が行われていたということだ。
つまり、第一世代、第二世代(復興小学校)、第三世代と鉄筋コンクリート造小学校が造られたのではなく、これらはある同じ時期を共有しており、従って117校の復興小学校だけを何か特別なもののように分けて扱うのは間違っているというのが筆者の考えだ。

さて、関東大震災が起きた時に工事中だったものの中でも、そのまま工事が続行されたものと、設計変更を行ったものとがある。そして、後者には震災後に臨時建築局に入った技師たちが加わったと思われる。
写真は明石小学校設計図面に押された図面印で、設計担当者として原田(俊之助)の名前を読み取ることができる。
明石小学校が着工したのは大正14年6月、そして竣工したのは大正15年8月となる。原田が臨時建築局に入ったのが大正13年10月であることをこれらと重ねてみると、入局後直ぐにこの明石小学校の設計を担当したことになる。

上の第一世代、第二世代(復興小学校+改築小学校)の小学校で見ると明石小学校は15番目の竣工となり、震災後に技師に昇格した者と技師として入局した者を見ると原田は17番目となる。
これは一人一人の技師が一対一でその頭となって設計・監理に当たっていたことを示している。
即ち居並ぶ優秀な技師たちはその使命と情熱とライバル意識の中で、物真似ではない自らが考える小学校建築の理想像に挑戦していたと言えるだろう...。

by finches | 2010-02-19 09:01 | 復興
284■■ 中之堀川 豊島橋
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中之堀川はかつて仙台掘川の南で大島川西支川と隅田川を繋いでいた掘割で、現在では仙台掘川と同じく隅田川に流れ込むのを絶たれている。
かつてこの辺りの川は複雑に入り組み隅田川に流れ込んでいたが、今ではその手足を捥(も)がれたように痛々しい川へと変貌している。

さて、この豊島橋は昭和4年(1929)に架橋された震災復興橋梁で、前稿・御船橋と同じくゲルバー橋という形式の橋となる。
この時代の橋を魅力的に感じるのは、本来鉄製の無機的な物体に過ぎないものが、その手仕事の温もりからくるもので、必要な強度(剛性)を得るために何枚も重ねられた鉄板とそれらを締め付けるリベットの存在がそう感じさせるのだと思う。

この橋を取り上げたのには三つの理由がある。
一つ目は震災復興橋梁であること、二つ目はかつて隅田川沿いにあった佐賀町河岸の名残を町名(写真にその町名板が写っている)に見ることができること、三つ目は川と橋と人との微笑ましい関係が見られること、それらがこの一枚の写真の中にあると思うからだ。

隅田川を挟んでその西と東側では川も橋もその趣が全く違うように感じるが、筆者が後者の方に惹かれるのはそこに人との係わりを深く感じるからだ。
釣り糸を垂れる光景は佃・月島を含めた隅田川の東側だけのもので、大人から子どもまであちこちで沙魚(はぜ)釣りを楽しんでいる姿が見られる。
海抜が低い為に川までの距離が近いせいもあるだろうが、それとは別に人が川との絆を保とうとしているせいではないかと思えてならない...。

by finches | 2010-02-18 06:59 | 復興
283■■ 大島川西支川 御船橋
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御船橋は大島川西支川に架かる橋で、前稿・緑橋の南隣りに位置している。
この橋も現存する震災復興橋梁で、昭和3年(1928)に架橋されたものでゲルバー橋という種類に属する。
このゲルバー橋は復興橋梁の中で最も多く採用された形式で、一見単純な桁橋に思えるものでも、中間2箇所にヒンジを持っていることでこの形式であることを見分けることができる。

取り分け顕著な特徴があるわけでもない普通の橋だが、震災復興事業で架橋を急がされていた状況の中でこの形式の橋が多いのは、それなりの理由があってのことだろう。
御船橋のように人知れず架かっているような小橋にもそのデザインを一つ一つ変える姿勢は貫かれていて、写真には写っていないがこの橋の親柱は小さいがユニークな形をしているし、写真の欄干も注意しないと気が付かないようなアールデコ風のパターンが鋳造されている。

隅田川を挟んでその西と東側ではそこに架けられた橋は全く異なっていて、筆者はどちらかと言えば後者のものに惹かれる。
それは一つ一つの橋のデザインへの興味も然る事ながら、その一つ一つが暮らしの中に溶け込んでいるように思えるからだ。
隅田川に注ぐ各川の第一橋梁のデザインが変えられたのは、戻って来た船が自分の川を間違わない為の配慮だった。
一方、御船橋のような内陸の橋も、道路と川が出合うそこに架かる橋のデザインを一つ一つ変えたのは、きっと人々が往く道・帰る道を間違わない為の配慮があってのことと思いたい...。

by finches | 2010-02-17 06:56 | 復興