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323■■ 浜離宮花畑
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この満開の菜の花畑は前稿の内堀船着場の左側に広がっている。
梅が終わりこの菜の花が終わると、次は桜が満開となるのだろう。
今はちょうど春先まで行われていた植木の剪定作業も終わり、芽吹きを待つ木々も一年で一番スッキリとした心持だろう。

浜離宮の中から見える周りのビルも随分多く高くなった。
これらのビルが借景にする分にはこの場所はもってこいだろうが、こちらから見るとどのビルも借景にはなりようがないものばかりが目立つ。

そんな中で、建物や人が少しでも入らないようにシャッターを押した。
ライカのレンズは程好いボケ味が魅力と言われているが、この写真がそれに当るか否かはよく分からない。
ただ、被写界深度を浅くすれば同じようになるのではないかと思うが、その先の微妙な味わいの差になると正直お手上げレベルと白状する。

この高層ビルの一室の窓からこの満開の菜の花を見ている女性が知人にいる。
筆者が知っている彼女の横顔は、熱狂的阪神ファン、熱心な京都検定受験者、声楽趣味、自転車好き、下戸、花粉症、イギリス好き、そして最近分かったフィットネスクラブ通いとマラソン趣味、まだまだあるのかも知れない。
そんな外資系オフィスの大きな嵌め殺し窓からはこの花畑がどんな風に見えるのだろうかと、逆に花畑からファインダー越しに見上げてみた...。


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by finches | 2010-03-31 06:53 | 嗜好
322■■ 浜離宮内堀船着場
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浜離宮には二つの出入口があるが、ほとんどの人は築地川に架かる南門橋(震災復興橋梁、1926年)を渡って入るだろう。
ここはかつての浜御殿の表門にあたり、高麗門や渡櫓門を備えた枡形門があったが、現在はその石垣だけが往時の姿を留めているに過ぎない。
また、この南門橋の少し北で旧木挽町の西の端辺りには、かつて文海小学校(1927年)という震災復興小学校もあった。

浜離宮には築地川に繋がる内堀が往時のまま(一部復元)残されている。
そして、この内堀には江戸時代からの船着場が往時の姿で残っていて、東京で唯一川と人の営みの接点である船着場を見ることができる貴重な場所となっている。
階段状に造られた船着場は潮の満ち引きで変化する水面の高さに自在に対応できたろうし、その幅(長さ)は当時の船の長さに対応していたのだろうと考えると、そこにはその時代のひとつのスケールが見えてくるような気がした。

この内堀には六ヶ所の船着場があるが、ここに残る遺構は恐らく立派な類のもので、恐らく何十何百とあった河岸の内で主要な河岸にはこのような船着場が設けられ、それ以外はもっと簡易なものであったのだろう。
それにしても江戸の川には其処彼処に大小様々な船着場があったことだろうし、そこで日常的に行われる荷揚げや荷積みの作業はさぞや賑やかで活気に溢れていたことだろう。

この内堀が築地川に繋がる手前に一本の木造橋が架かっている。
新しい橋だが、往時の橋の架け方が復元的に行われていて、船着場と合わせて往時を偲ぶことができる好きな場所だ。
因みに、本稿の写真はその橋から撮ったものをトリミングして使っている...。

by finches | 2010-03-30 06:45 | 時間
321■■ 清澄六軒長屋
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寒の戻りなどと言うより一気に冬に舞い戻ったような寒い日曜日だった。
零戦の車輪を組み立て、風呂に入り、竹の子ご飯と吸い物の軽目の昼食を済ませた後も、まだ外に出る気にはならなかった。
だが、夕方からの花見がてらの友人夫婦との会食の約束もあり、マフラーに手袋までの用意を周到にしてやっと重い腰を上げた。

向かったのは隅田川の向こう側、降りたのは清澄白河駅。
散策を開始して直ぐに友人が数日前のブログにコメントをくれた昭和初期の建物が建ち並んでいることに気が付いた。
写真を撮りながら一軒のギャラリーに入ると、その建物が昭和3年生まれの6軒長屋だと教えてくれた。
長屋と言っても木造ではなく鉄筋コンクリート造2階建ての6軒が単位となって清澄通沿いに並んでいた。

長年に亘り繰り返された増築と改装は2階建てを3階建てにし、元来の外壁もその殆どが別な衣で覆われていたが、その一部に復興小学校でも見られるアール・デコ風の意匠が残っていて、このことを友人は「復興局建設?による店舗兼住宅群」と書いていたのかと分かった。

ヨーガンレールに立ち寄り仙台掘川の先まで歩みを進めたが、余りの寒さに寄らずに通り過ぎていた深川図書館に緊急避難した。
カウンターで郷土資料室の鍵を開けてもらうと、そこに居並ぶすべての資料が独占状態で、全ての荷物をロッカーに預け、一本のペンと手帳だけを持って入室するといつもの入口近くの席を選んだ。
小一時間で10冊ほどにザッと目を通しただろうか、さっき見た建物が旧東京市営店舗付住宅であることも分かった。
さっきのギャラリーで聞いた昭和3年生まれという情報と一致し、同潤会関係の資料に目を通し始めたところで時間切れ。
カウンターに退室を告げ、借りた付箋の返却を終え、寒風の中友人たちとの待ち合わせ場所に急いで向かった...。


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by finches | 2010-03-29 07:02 | 復興
320■■ 横浜にぎわい座
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久し振りの横浜はみなとみらい線の馬車道駅から始まった。
何故わざわざ降りた駅名から書いたかと言うと、これまでに筆者が見た日本の地下鉄駅の中で最も感心したからだ。
先ず良く考えられた程好い明るさに感心し、もう少し照度を落とすと昔ベルギーの地下鉄で味わった落ち着いた空間を彷彿とさせるものがあったし、また、壁の煉瓦も見せ掛けだけのレトロ趣味ではなく、しっかりと本物の素材を理解して本物として扱っている姿勢に好感が持てた。
落ち着いた色調、適度な明るさ、華美ではない本物の素材、分かり易くデザインされたサイン、これらすべてが満点だと思った。

地上に出ると外の風は冷たかった。
コンサートの開演までの時間を利用してこれまた久し振りに紅葉坂の坂上にある建築家・前川國男の初期の設計となる神奈川県立図書館と音楽堂まで足を延ばした。
出来の悪い建築博覧会のような横浜みなとみらいと違い、この坂上の一角だけには昭和の名建築群が残されていてホッと息をつくことができた。

登って来た道とは違うルートで野毛へ向けて坂を下った。
この日の目的は横浜にぎわい座での上々颱風(シャンシャンタイフーン)のコンサートだった。
会場のある辺りはかつて芝居小屋が建ち並び賑わっていた所で、そこに横浜にぎわい座という大衆芸能の専門館ができ、座席で食べながら飲みながら楽しむことができる優れものだ。
上々颱風のメンバーの一人と縁あってソロ以外のコンサートには初めての参加だったが、彼らのキャラ、会場の大衆的響き、山形は坂田の地酒初孫付きの魅力、そして忘れてはいけない彼らがつくり出す音楽、それらが渾然一体となって生まれる世界はまるで異空間の饗宴だった。

久し振りの横浜で3つの「すばらしさ」を堪能した後、これまた会場で一緒になった友人と野毛での酒宴を楽しんだ...。

by finches | 2010-03-28 07:14 | 嗜好
319■■ 言問橋有情
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言問橋は隅田川両岸の隅田公園を中央で跨ぐ橋であった為に、そのデザインは眺望や景観に頗る配慮がなされて設計が行われた。
そのことは当時復興局土木部長であった太田円三の次の言葉からも窺い知ることができる。
「(言問橋は)稍大膽(ややだいたん)な設計でありますが、此の形の持つなだらかな線は附近の公園とよく調和すると思われます。」[注:()内は筆者注釈]

もう一つ、この言問橋とそこからの景色を眺めていて、復興局橋梁課長田中豊の論文の一節を思い出した。
それは、かつて隅田川の第一橋梁として永代橋の原案を作った田中豊がその形式の選定に当たって、トラスはその不規則な斜材のために非常に不愉快な感じがすると書いていた部分だった。

前稿で建設中の東京スカイツリーの存在感とデザインに違和感を覚えるようになってきたと書いた。
筆者も否応なしに下町の其処彼処から眺められるこのタワーを何枚も写真に収めているが、ふと、このタワーの柱材と斜材の多さと太さが気になってきた。
そして斜材の多さ煩さを見ていて上の田中豊の論文の一節を思い出し、橋が垂直に立っている姿を想像した。

田中豊は、トラスはその不規則な斜材のために非常に不愉快な感じがするとしている訳で、整然とした斜材なら不愉快ではないとも取れる。
しかし、北京オリンピックの「鳥の巣」程ではないにしろ、また、いくら柱と斜材が整然としているとは言え、少なくとも現時点では、このタワーの構造材はその繊細さに欠けるように思える...。


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by finches | 2010-03-27 07:00 | 復興
318■■ 源森川 枕橋 ・其ニ
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日曜日の日経朝刊に入っていた日経マガジンで東京の復興小学校が取り上げられていたことで、急遽予定を変更してその記事の紹介から今週は始まった。
そして、次の火曜日から予定通り日曜日の下町散策を書いている。

この日はメトロの一日乗車券を買って、先ずは新橋で地元の職人が打った讃岐うどんで腹拵えを軽く済ませ浜離宮へと向かった。
海水を引き込んでいる庭園には仄かに潮の香りが春の風に乗って漂って来るのが感じられた。
メトロの一日乗車券がなければここから直接水上バスで隅田川を上っただろうが、この日は築地本願寺まで歩きメトロで浅草へと向かった。

浅草に着くと吾妻橋を渡り枕橋の袂にある茶屋で一休みし、筆者はレモンの入ったコロナビールを、家人は牛すじ肉まんとラムネを所望した。
芽吹き始めた枕橋の袂の柳は春のそよ風にゆっくりと揺れ、久方振りに見る東京スカイツリーも随分と高くなっていた。

同時に、これまで余り意識しなかったこのタワーも、そのランドマークとしての意味は別として、ランドスケープとしては随分とその存在感とデザインに違和感を覚えるようになっていた...。

by finches | 2010-03-26 06:46 | 復興
317■■ 言問小学校 ・其三
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言問橋、言問団子まで来たら、もう目と鼻の先の言問小学校を見ないでは帰れない。
言問小学校は昭和12年に竣工した小学校だが、いつ見ても向島の路地の間から見え隠れするその白い校舎は太陽の光を受けて輝いている印象がある。
旧本所区で最も北に位置する復興小学校は昭和2年に竣工した小梅小学校だが、その少し北に位置する言問小学校の辺りも関東大震災では同様に甚大な被害を受けたことだろう。

関東大震災当時まだこの言問小学校はなかったが、震災復興事業が進むに連れ次第に市街地が整備されていく中で、市街地の拡大と人口の増加に対応する新たな小学校の必要に迫られ生まれたのがこの言問小学校だった。
当時向島という環境の中で、今もこれほど白く輝いて見える建物がどれほどモダンに見え、どれほど子供たちに夢と希望を与えたか思うと、その時代が何と心豊かで温もりに満ち輝いていたことだろとつい考えてしまった。

昭和13年まで建設が続けられた東京市の鉄筋コンクリート造小学校の内、現在墨田区に残っているのはこの言問小学校だけとなった。
他の新しくなった小学校にはかつての面影はなく、復興小公園を併設していたものだけに微かに当時の面影を想像することができるくらいだ。
それらの新しい基準でつくられた小学校がどれも地域との関係を遮断するように高い塀で囲まれているのに対し、この言問小学校は低い石垣と低い植込こそあるが、入ろうと思えば校庭に入ることもできるくらい地域との繋がりの関係を今も保っている。
しかし、その関係は「ここからは入らないでくださいね」という約束ごとを地域と共有することで保たれていて、そんな些細なルール一つとっても安易に高い塀に置き換えようとしないところに、この小学校と向島という町との信頼の歴史があるように思った...。


093■■ 言問小学校 ・其一
195■■ 言問小学校 ・其二

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by finches | 2010-03-25 06:21 | 復興
316■■ 言問団子
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隅田川両岸の隅田公園を結ぶ人道橋を桜橋(1985)と言う。
この橋の良いところは両岸をただ直線で繋ぐのではなく、全体が緩いカーブを描くX形をしているところにある。
隅田川に戦後架けられた橋で美しいと思えるものは一つとしてないが、この桜橋には震災復興橋梁のような昭和初期の橋が持つ趣こそないが、言問橋で景観と眺望に配慮したデザインを追い求めた設計の思想だけは継承されているように思う。

その桜橋の少し先の上流左岸に言問団子の屋号を持つ老舗がある。
この向島の辺りは四季折々に風情のあった場所で、江戸の昔から文人墨客に愛されてきた。
その文人墨客の一人の年老いた風雅人の求めに応じて手製の団子と渋茶を呈したのが、江戸から続くこの団子の由来らしい。

この日は三色の団子が二個づつ入った一番小さなお土産を買い求めた。
帰路、直ぐ近くにあるこれまた歴史の古い長命寺桜もちを煎茶とともに頂いた。
かつて墨提に桜が多く植えられたため落葉の掃除に悩まされていたそうだ。
そこで享保2年(1717)、桜の葉を集め塩漬けにして桜餅を考案し、長命寺の門前で売り始めたのがこの桜もちの由来らしい。

程好い塩加減の桜もちと煎茶に舌鼓を打った後、小さな団子の包みを手に膨らんだ蕾が今や遅しと言わんばかりの桜の下を、春の川風に吹かれながら墨提を桜橋へと向かった...。

by finches | 2010-03-24 06:43 | 嗜好
315■■ 隅田川 言問橋
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言問橋は昭和3年に震災復興橋梁として架橋された3径間ゲルバー橋で、そのデザインが決定された経緯を知るとこの橋への思いや見方もまた違ったものになってくる(後述)。
隅田川に架かる橋も浅草の吾妻橋辺りまでは何となく知っていても、その上流に架かる橋となるとなかなか馴染みが薄くなる。
その理由としては吾妻橋から川下を見ると、駒形橋、厩橋、蔵前橋と個性に溢れた橋が続く一方、川上を見ると直ぐに東武伊勢崎線の鉄橋が架かっていることもあって、その先の言問橋やましてその先の桜橋まで関心を持つことは先ずないだろう。

現代人は町を点でしか知らない。
例えば観光や買物であっても自分の目的地へ最も近く便利な駅に地下鉄やバスで移動することが当たり前になっていて、それらの場所もその目的地とした点を中心にしか見ることができなくなっている。
吾妻橋は地下鉄を降りた出口にある橋、水上バスを降りたところにある橋であり、写真を撮るにしてもこの橋の上からまるでコンパスの芯を立てたように一点を一回りして写真に収めている。

だが、立ち位置を自分の意思で選択するとその周りに展開する景色は一変する。
言問橋は震災復興の目玉であった両岸の隅田公園の真ん中を繋いでいる。
そして、その橋は景観や眺望を考慮してデザインされていて、一見地味なゲルバー橋に見えるがその実、桁高を薄くしスリムに仕上げることで橋が個性を主張し過ぎることなく景観に溶け込み、橋の下を通しての眺めまでへも神経を使った個性を自制した配慮がなされている。

隅田川左岸の向島側はかつて洪水対策として墨提という堤が築かれた。(昔、隅田川は墨田川とも書いた為に墨提と言われた)そして、そこには吉宗によって百本の桜が植えられたことで桜の名所となり、明治に入ってからも洪水対策を兼ねた隅田公園が建設されたという前段の歴史があった。

言問橋の下から見る対岸の桜は開花を待ち侘びてはち切れんばかりだったが、満開を待ってこの橋が両岸の景観に溶け込んでいる様を再び見に訪れたいと思った...。

by finches | 2010-03-23 06:49 | 復興
314■■ THE NIKKEI MAGAZINE-東京の復興小学校
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日経新聞に月に一度THE NIKKEI MAGAZINEが入って来る。
時々興味を惹かれる特集記事があると丸ごと保存しているが、昨日(日曜日)の朝刊と共に届けられた3月号に「東京の復興小学校 地域と生きる校舎」という記事が掲載されていた。

その記事は、現役の小学校として使われている3校(九段、明石、明化小学校)、用途を変えてはいるがそのまま使われている1校(十思小学校)、復興小学校ではないが同じ基準でつくられた3校(永田町、広尾、四谷第五小学校)を例に挙げ、的確な取材を基に書かれていた。

中央区に残る復興小学校の内の3校(明石、明正、旧名・鉄砲洲小学校)で昨年、突如として校舎建て替えの話が寝耳に水の如く浮上し、今現在その計画の一番手であり知名度も高い明石小学校では校舎の保存を訴える運動も起きている。
考え方は異なるが二つのグループによって集められた署名は夫々区に提出され、勉強会や写真展なども行われている。

ところで、この手の記事は記者の視点の高い低いで全く違った印象に仕上がることを筆者も経験しているが、主眼を対象となる建物に置くか、保存運動に置くか、計画を推進する教育委員会などに置くかで随分と違ったものになってくる。
当然客観的に総括をした上で記事にする為にはこれらを押し並べて平等に取材することが大切だが、それらを纏める段階で記者の視点の高い低いが大きな差となって現れ、最終的には客観的であるべき内容が書き手の主観で味付けされることも否めない事実として見て来た。

その点、この日経新聞の日経マガジンのように、別紙の文化欄を持っているとこのような記事を扱い易くなる。
建前だけの社会性を大上段に掲げなくても済む分、最後まで筋の通った客観的な記事作りを貫くことができる。
その点に於いてこの記事には可もなく不可もないが、はっきりと焦点を見据えて書かれているところに好感を持てた。
もしこの日経マガジンを読む機会があれば、最終ページに小さく書かれた編集部からの後書きも読み落としなく...。

by finches | 2010-03-22 07:07 | 復興