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353■■ 村野藤吾-紫彩礼讃

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杉板の型枠の跡を荒々しく残したコンクリート打ち放しの6本のモニュメントは、改修がなされ劣化を防ぐ白色の樹脂系リシンが吹き付けられた。
塩焼タイルは剥離の為か表面のクラックのせいか、ほとんどが新しく焼かれた還元焼成タイルに張り変えられ、以前の深い紫の輝きを放つ妖艶さを失った。

剥がされた塩焼きタイルの一部と以前のままの壁面が建物裏側に残っていると知り探してみた。
塩焼タイルは焼成時に掛けられた塩水の塩が高温で溶けガラス状の皮膜をつくることで、深い紫の色に美しい光沢が焼き付けられる。
それは藁灰が高温の窯の中で舞い降り、その偶然がまるでそこだけ釉薬を散らしたかのように焼付いて独特の風合いを生み出す備前焼のように、掛けられた塩水の偶然が備前と同じくそこだけ釉薬を掛けたかのようにガラス状の皮膜をつくり出す。
だから光の反射で輝きのない還元焼成タイルと、深い輝きを放つ塩焼タイルとは見分けることができる。

写真は新しく張り替えられた壁面だが、改修前は紫の塩焼タイルの壁面とその中で無作為に突起させたタイルとが輝きと蔭とを交差させ、壁面全体の表情の深さと複雑な効果をつくり出していた。
本当に張り替えなければならなかったのかと考えても詮無いこと。
だが改修が終わり明らかにこの建物からは光彩が失われた。
塩焼タイルが張り替えられたことを知らずその新しくなった姿を最初に見た時、全体が寝惚けたようで以前と全く違うと感じたのはこの失せた光彩のせいだと分かった。

この建築は塩焼タイルの風合いと輝き、そして無作為な陰が建築全体の奥深さと風格を生み出していたのだと、その輝きが消えたことで初めて知らされた...。

by finches | 2010-04-30 04:52 | 記憶
352■■ 村野藤吾-石彩礼讃

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前稿で建築家・村野藤吾の建築への少年の頃の記憶は終わるつもりだったが、昨朝出掛け前に慌しく書き終え投稿を済ませた為か、もう少し書いてみたくなった。
図書館であの不思議な大理石の台座は、やはり台座だったことが分かった。
少年だけではなく、誰もがあれは何なのかと何十年も疑問に思っていたようで、ある時地元の工事関係者が90歳を過ぎた村野に恐る恐る尋ねてみたところ、村野は自分に設計が依頼された経緯(いきさつ)と共に、あの台座には彫刻が置かれる予定だったことを静かに語ったそうだ。

そして、昭和天皇が行幸の折に広場に集まった市民を前にこの台座に立たれたことがあるそうで、その話を聞いた村野は「それなら、もう彫刻は置かなくてもいいでしょう」と優しく話し、以後この台座には何も置かれることなく、7つのモニュメントの一つでありその中央にありながら、不思議な石の台座として一人の少年だけではなく全市民から不思議がられてきたという訳だ。

恐らく、村野はこの台座に何も置きたくなかったのだろう。
この台座の先にあるのは正に村野藤吾が心血を注いだ建築であり、この台座はその建築の為の台座としてデザインされていたのだと、長年に亘る筆者の頭の中の霧も漸く晴れた思いだった。
村野が本当に彫刻を置こうと考えていたのなら、7つの会社を象徴する7つのモニュメントの中央ある台座に彫刻を置かない筈はない訳で、さずがに自身の建築を7つの会社の象徴であるとは言えず、密かな思いを込めてこの台座をモニュメントの中央に置いたのだろう。

只の石の台座とは思えないシンプルで美しいプロポーションを持ち、これ以上のバランスはないと思われるような位置と大きさで彫られた館名を見ると、この台座は建物の一部であり、この建築の為のプロローグとして村野藤吾によって周到に用意されたものだとはっきり分かった。

村野藤吾はこの建物が全市民に変わることなく愛されていることにいつも感謝していたそうだ。
ある石の台座に秘められた物語、この建築の深さを改めて実感した、うん十年後の少年だった...。

by finches | 2010-04-29 05:49 | 記憶
351■■ 村野藤吾-妖艶礼讃
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少年の記憶の中にある幻想的思い出にこの石の台座のようなモニュメントもある。
町の発展の礎を築いた人物を顕彰して建設されたこの音楽ホール(市民館)の正面には、その発展を象徴する7つの会社を表現したモニュメントが建っているが、正面から見て左右のそれぞれ3つは板柱上に聳えるているのに対し、中央の一つだけがこの台座のようなモニュメントに置き換えられている。

コンクリート打ち放しの6本の柱の荒く力強い表現に対して、この中央に置かれた直方体の固まりは磨かれた大理石で覆われ、そのツルツルした冷たい手触りと子供の背(せい)では飛び乗るに乗れない高さに、これは一体何なんだろうという疑問をこの建物に来る度に抱いたことを鮮明に覚えている。
そして、今頃になって漸くこの建築とこの7つのモニュメントとの関係と意味が分かってきたように思う。

もう一つ、この建物の外壁タイルの色と、ところどころ飛び出たタイルが作りだす非均一的な表現を不思議に思って見ていた。
また、この外壁タイルは塩焼きタイルと呼ばれ、時間が経つにつれ紫系統の色に変化する特徴を持っていて、そんな摩訶不思議なタイルが作り出すどこか妖艶な印象を、子供心に何か不思議な建物と思わせていたのだろう。
焼成時に塩水を使うために塩焼きタイルと言うのだが、今は公害問題から製造が禁止されているのが残念でならない。

この建物のリニューアルに際しこの壁面タイルは極力塩焼きの色合いに再現した還元焼成タイルで張り替えられたが、その時のタイルを手に入れ新築中の自邸に自ら貼っている人に数週間前に出会った。
そろそろ羽田に向かう時間が近付いてきた。
これからこの不思議な建物と、数日前に完成したその自邸を見に行くことにしよう...。

by finches | 2010-04-28 03:23 | 記憶
350■■ 村野藤吾-幻想礼讃
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前稿で筆者にとって建築の原風景ともいえる建物の灯りに触れた。
少年の記憶の中にはまだまだ多くの幻想的思い出があるが、その中の一つに写真の柱がある。
初めてその建物に足を踏み入れたのは、小学校入学前か遅くても小学校一・二年生くらいだったと思う。
その初めての時の印象とその後も何度か母に連れられて訪れた時の印象で、最も強く記憶に残っているのがこの柱でもある。

柱頭のディスクに描かれた縞模様はどこか深い海の底のようで、少年の目にはその緩くカーブしながら並ぶ4本の柱が怖いような幻想に満ちていて、この柱を見るたびにまるで異空間にでも迷い込んだように、不思議で不思議で堪らなかった。
そして、その先にある扉を開けると2階席の張り出しの為に低く抑えられた天井の先に、1450人を収容するホールの大空間が広がり、その丸みを帯び角を廃した天井がまた好きで好きで堪らなかった。

ところで、この写真には拙稿・仙台掘川亀久橋で「控え目な二色であってもそれを市松にすると、まるで別物のように派手な印象に変わるから不思議だ」と書いた、市松模様の床が写っている。
色の違う大理石による市松模様でありながら派手になるのを押さえた上品さ故か、柱頭のディスクに描かれた縞模様に意識を向けさせることで床の派手さとの相殺を図ったのか、否、もしかしたら柱の縞模様は床との呼応を考えてのことか、否、空間の等質化を狙ったものかも知れない。

大人の頭は兎角理屈を付けたがる。
だがこの柱、理屈を付けず子供の頃の記憶の世界のまま、そっとしておこう...。

by finches | 2010-04-27 02:38 | 記憶
349■■ 村野藤吾-陰翳礼讃
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子供の頃から親しんできた建築家・村野藤吾の建築が5年前国宝・重要文化財になった。
その建物は物心つく前から心の奥底にくっきりと焼き付いていて、筆者にとって建築の原風景といえばこの建物であると言っても過言ではない。
表現派の系譜をひくモダニズム建築、心に焼き付いたその近代建築への記憶が、今その時代と建築へと回帰させ、その良き時代から今の時代を見返してみようと駆り立てる。

その建築が生まれたのは昭和12年、筆者が取り上げ続けている近代建築の、時代としての一区切り、即ち昭和12年に日中戦争に突入したことによる物資統制が始まる昭和13年までを近代建築の流れの中で区切り、その、戦争の暗雲に時代が翻弄されようとしていた時代までの建築を同じ近代建築の系譜の中で分けて捉えようとしている、正にその時代に生まれた建築と言える。
そして、それは村野藤吾にとっても戦前における集大成と言える建築だった。

その建築には幾つもの自然光の取り入れ方と、幾つもの灯具による明かりの演出が見られる。
自然光の取り入れ方で子供心に印象にあるのは、まるで建築の外皮を分節するかのようなガラスブロックと、奇妙な形をしたトップライトがある。
これらから射し込む外光でホワイエは程好い明るさを保っているが、その空間に幾つものデザインの異なる灯具が効果的に配置されているのが、子供心に不思議であり幻想的でもあり堪らなかった。

写真は階段に設けられた灯具で、最も暗い場所にある。
村野藤吾はこの余り人の目に触れない目立たない場所の灯具に、正面入口脇に使ったメインのデザインを繰り返している。
建築の品格とはこんなところにあるもので、それはそのまま建築家の自らが創り出した空間への畏敬と畏怖の念への真摯なメッセージのように思える...。

by finches | 2010-04-26 04:02 | 空間
348■■ 花みづき
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家の近くの街路樹に花水木が植えられている。
見通す限り白い花をつけた中に二本だけ薄紅色の花をつけたものもある。
筆者もかつて一年を通して花や実が絶えることがないようにとの思いから、ある建物のアプローチに七本の花水木を植えた思い出がある。
その当時は薄紅色の花水木が揃わずこの七本は全て白い花をつけるが、これが返って可憐で上品だと今では一人悦に入っている。

数年前に家の近くの花水木を見ていて、その花の開く様子に驚いた。
花水木は花だと思って見ている部分は苞(ほう)という花の基部につく葉で、実際の花はその中心に小さなものが密集している。
植物は花にしても葉にしてもそれらが開くメカニズムには目を見張るものがあり、この花水木も捻られたものが逆方向に解(ほど)けるように開いていくが、朝顔のように単純ではなく、4枚の苞は中心の花を優しく守るように中心に空間を作り出しながら、しかし苞の先はお互い手を繋ぐように解(ほど)けていく。

今年は花冷えと冷たい雨のためにこの花が開く絶妙の瞬間を逃したが、何とか苞の開く様子と開いた後の様子が分かる写真を選んでみた。

  花みづき十あまり咲けりけふも咲く   秋櫻子

大正1年2月14日横浜港から桜の苗木6,040本を積んだ阿波丸がアメリカに向けて出航した。
半数はワシントンのポトマック河畔へ、残りの半数はニューヨークのハドソン河開発300年記念式に贈られる為に。
そして大正4年、そのお返しとしてアメリカから東京市へ贈られたのがこの花水木の祖先だった...。


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by finches | 2010-04-25 06:23 | 記憶
347■■ 元町震災復興小公園
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元町小学校(復興小学校、昭和3年)に隣接して元町公園というユニークな公園がある。
元町公園は関東大震災後の帝都復興事業で建設された震災復興小公園の一つで、昭和5年に完成したものだ。
震災復興小公園は原則として復興小学校に併設され、小学校の運動場の延長としての役目、市民の為の休養公園としての役目、非常時の防火及び避難場所としての役目を併せ持って計画された。

その規模を見てみると、最も小さいものは下谷高等小学校(復興小学校、大正13年)と台東小学校(改築小学校、昭和5年)の隣接公園として建設された入谷公園(昭和5年)の508㎡で、最も大きいものは月島第二小学校(復興小学校、昭和2年)に隣接する月島第二公園(大正15年)の1,425㎡でプールまでを備えていて、その規模と施設内容はその地域の実情に合わせて柔軟に決められたことを窺わせる。

だが、復興小学校に質の偏りを防ぐ建築規格があったように、復興小公園にも先の4つの目的に充当する施設内容が決められていたことは言うまでもない。
それを元町公園で見てみると、公園を取り巻く緑陰樹、校庭と繋がる広場、滑り台と砂場、シーソーやブランコなどの遊具、藤棚と休憩所、水飲場、トイレ、壁泉などが共通項として挙げられる。

ところがこの元町公園には他の公園とは異なるユニークな特徴があって、それは本郷台地を開削した人工の谷・御茶之水渓谷に南面する為の大きな高低差を逆手に取ったもので、そのレベル差を公園計画に巧みに取り入れ、また随所にアール・デコを思わせる彫塑的壁面やモニュメントを配し、そして写真のカスケード(Cascade)などレベル差がなければ造り得ないものまで取り込んでいる。
[注:現在の公園によく見られる意味の無い噴水モニュメントと違い、元町公園の近くにある本郷給水所公苑の神田上水石樋に見られるように、このカスケードや階段踊場の壁泉は明らかにかつての神田上水の水の流れを意識しての表現だと筆者は考えている。]

かつてこのカスケードにあった小滝の流れは今はない。
日本にこれほどの公園がどれだけ残っているのだろうか。
カスケードの奥に白い旧元町小学校が見えているが、この元町公園と旧元町小学校を切り離すことなく大切に未来に継承したいものだ...。


[追記]
関東大震災後の帝都復興事業を手本として大規模な復興事業が行われた町があります。
それは北海道の函館で、昭和9年に起きた未曾有の函館大火からの復興事業として、町全体を都市計画的に大きく造り変えたもので、そこには非常時の防火及び避難場所としての役目を担った公園と復興小学校が理想的に配置されています。
拙稿・昭和9年大火復興事業考察で東京の震災復興事業だけではなく、函館での見事なまでの大火復興事業を知っていただければ幸いです。
by finches | 2010-04-24 06:10 | 復興
346■■ 同潤会上野下アパート
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先般下谷小学校(復興小学校、昭和3年)を訪れた後、同潤会上野下アパートへと回った。
以前この建物は写真に収めたことがあるが、下谷小学校を覆い隠していた蔦が消えたこの季節の表情を再び確かめたいと思い訪れた。
確かこの方角だったという記憶だけを頼りのいつものブラブラ歩きで、初めての路地での新しい発見や出合いを楽しみながら歩いていると、アパートの裏側が住宅の屋根の上に僅かに覗いていた。

上野下アパートは同潤会が昭和4年に建設した当時最新鋭のモダン集合住宅で、その建物は鉄筋コンクリート造4階建、全76戸が2棟に分かれて計画されている。
他の同潤会アパートと同じくこの上野下アパートの外壁も洗い出しのような優しいテクスチャーに特徴があり、恐らく完成後今まで一度もメインテナンスされてないと思えるその外壁は、80年の歳月を経てその小さな骨材が生み出す無数無限の色は、決して作ろうとして作り出せない趣と輝きを発していた。

昨年同潤会三ノ輪アパートが解体されたことで、残るはこの上野下アパート唯一つとなったが、これまで老朽化と耐震性を理由に取り壊された同潤会アパートが本当に古いのだろうかとその度に自問してみる。
経年に応じた適切なメインテナンスが行われてこなかったことが老朽化を招いているだけで、当時の設計の秀逸さと施工技術の高さだけをしても、現在数多生まれているこの類の建物とは次元を異にする優れたものだと思うのだが。

筆者は、良く考え練られ冷徹な自己淘汰がなされて設計された建築には自ずとその時点で質(Quality)が備わると思っている。
その質は経年によって決して色褪せるものではなく、寧ろ経年と共のその輝きは増すもので、これは人間や名車などに置き換えて考えてみると一目瞭然だと思う。

先に外壁の洗い出しの話をした。
その外壁は80年間メインテナンスがされていないだろうと言った。
かつて百年が経過してもビクともしていない確かな左官仕事に驚いたことがあるが、この上野下アパートの外壁の左官仕事を見てそれを思い出した。
この質の高さはこの建築の通底を流れる秩序に支配されていて、一見古ぼけて見える奥にある本質の輝きは決して衰えてなどいない...。

by finches | 2010-04-23 07:10 | 復興
345■■ 子どもの情景
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インクラインがダムの下まで運んでくれた。
インクラインと言えば琵琶湖疎水のものをかつて見たことがあるが、これほど急峻な斜面に設けられたもの、ましてやそれを高所恐怖症の身で降りるなど思いもしなかった。

ダムに併設されたエネルギー館で、いずこの箱物展示施設でも見られる税金を湯水のように使っての立派で似たような展示を見流し、ダム建設が自然を守り豊かな未来を築くなどといった騙しの文言に辟易した後、ダム工事跡地を公園として整備した場所へと向かった。

道すがら目の前に現れた手付かずの沢や滝は、この相模川水系の中津川渓谷が如何に美しい場所だったか、また先の展示で唯一筆者の関心を惹いた湖底に沈んだ人々の暮らしが如何に自然と豊かに共生していたかを想像するに十分だった。

公園まで来ると今までとは打って変わって家族連れで賑わっていたが、本物の自然の中につくられた復元的自然にはさして興味も関心もなく引き返そうとした矢先、遠くで子どもたちの歓声と飛び跳ねる姿が目に止まった。

これはいい。
ふわふわドームと名付けられた遊具は、土の中から膨れ上がったような、例えて言うなら粘度の高い液体を煮沸(しゃふつ)した時の弾ける寸前の泡のように、それは台地の中からごく自然なカーブを描いて膨らんでいた。
そして、その上を靴を脱いだ子どもたちが楽しそうに飛び跳ねていた。
似たように飛び跳ねる遊具としては、エアマットのようなものやトランポリンのようなものは見たことがあるが、これらは地上に置かれただけで台地との繋がりが希薄であるの対し、このふわふわドームはその遊具としての楽しさも然ることながら、台地との連続性という意味でその接点のディテールを消している点に、心底感心し目から鱗だった。

ハナ・マフマルバフ(Hana Makhmalbab)監督は映画「子供の情景」で、一人の幼い少女を通して子供たちの心に烙印された戦争の傷を坦々と寓話的に描いた。
ふわふわドームで遊ぶ楽しそうな子どもたちを見ながら、「子供たちは、大人がつくった世界で生きている」、と言うこの監督の言葉を思い出した...。


014■■ 映画・子供の情景
by finches | 2010-04-22 06:37 | 記憶
344■■ 陸軍東京第一造兵廠本部
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陸軍造兵廠とは陸軍の兵器・弾薬から馬具に至るまでの製造と修理を行った所で、これが海軍になると名前も海軍工廠と変わり艦船・兵器・弾薬などの製造と修理が行われた。
この陸軍東京造兵廠本部は昭和5年の建物で、この建物の北側にあった同じく陸軍造兵廠の275棟(大正8年)は現在北区中央図書館に組み込まれる形で保存再生されている。

この造兵廠本部は戦後ここを接収し王子キャンプとして長く使用した米軍により白く塗られたもので、その下には当時の建築に多く使われた茶褐色のタイルが隠れている。
もしこの建物が白く塗られていなければ、ただ古いというだけではシャッターを切らない筆者も写真を撮ることはなかったかも知れない。
しかし、白く塗られていたことで妙に新鮮なものに感じ、同じく白く塗られた明化(昭和5年)や言問(昭和11年)、高輪台小学校(昭和10年)などの近代モダン小学校と重なって見えた。

筆者は大正の終わり頃から昭和12年頃に掛けてのこの僅か15年くらいの時代が好きだ。
それは、大正モダンや昭和モダンという言い方がピッタリの時代で、建築だけではなく絵画、文学、陶芸、服飾等々、あらゆるジャンルで新しい風が吹き込み、その息吹が今尚形として残っているからだ。

そして、そこには高輪台小学校と高輪消防署(昭和8年)の関係に見られるように、同じ時代でありながらそのスタイルを異にするものが混在した時代で、それらが混沌ではなく適度な緊張を保ちながら共存・調和していることにこの時代の何とも言えない美学を感じてしまう。

この造兵廠本部を写真に撮り何か書いてみようと思わなければ昭和一高を取り上げることもなかった。
この白い建物が春の陽射しに輝いて見えたから、同じように白く輝いていた昭和一高を思い出し、白い建築として取り上げてみようと思った...。

by finches | 2010-04-21 06:24 | 記憶