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608■■ 御所トンネル
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初春の光の中弁慶橋を渡りコンサートホールに向かった。
蜘蛛と虫と人のためのコンサートを十分に堪能し会場を出ると、外はまだ温かな初春の光に溢れていた。
建て替えではなく改修の道を選んだ日本初の超高層ホテル・ニューオータニ本館は陽光を受け輝いていた。
それを目の前に眺めながら上手い設計だなあと感心した。
筆者が建築家・岡田信一の最高傑作だと思っている鹿島建設本社は耐震改修の最中だった。
しかし、こちらは遠目にも前者の方を選択すべきだったろうと失望した。

埋め立てられた外濠跡まで下りてみた
そして、関東大震災の瓦礫を処理するために埋め立てられた濠の底から急な斜面を見上げた。
戻ると外濠跡を左下に見下ろしながら桜の土手道を歩いた。
無数の桜の蕾はまだ膨らむのを待っていた。
聖イグナチオ教会の主聖堂に立ち寄った。
建築家・村上晶子が創り出す上品で上質な祈りの空間、好きだなあ上手いなあと感心した。

光があるうちにと土手道から小さく見えた煉瓦アーチのトンネルに急いだ。
それは思った通り明治期の甲武鉄道のトンネルだった。
旧御所トンネルということはまだある筈だと近くを見ると、昭和3年(1928年)に完成した新御所トンネルが3つの口を開けていた。
元々この煉瓦アーチの御所トンネルは甲武鉄道が複線用として建設したものだが、これを見ていると当時の車両の大きさが想像され不思議な気持ちだった。

上の二つのトンネルを合わせると4つの口があり、現在総武線と中央線がこの4つを使っている。
さて、これが昭和初期に将来の複々線化を見越して建設されたものなのだろうか。
答えは、ノーだ。
つまり、これだけを取り上げてもその歴史的な背景があることが分る。
では、旧御所トンネルと新御所トンネル、改めて取り上げるその日まで...。

by finches | 2011-02-28 05:24 | 時間
607■■ 日曜日-二月

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今朝もいつもの椅子に座り、いつものようにスタンドを点けた。
だけど、いつものようには何を書こうか一向に頭に浮かばない。
まあこんな時は書くことがないことを書けばいいかと書き始める。

いつもは早寝早起きの方だが、今朝は遅寝早起きのせいか頭が回らない。
毎朝目覚めの脳の訓練に数独(ナンプレ)とリバーシを一回づつする。
今朝の数独には20分かかり、リバーシは負けた。

今朝は朝食の後で朝風呂に入る予定だ。
その後は昼過ぎまで昨日打ち合わせた初校の清書と加筆部分の推敲までしておこう。
そして、その後はコンサートに行くことになっている。

コンサートの後はお濠を時計回りに雉子橋まで歩いてみようか。
それともその逆回りに日比谷まで歩いてみようか。
それにしても二月はあっという間に過ぎ、もう最後の日曜日か...。

by finches | 2011-02-27 04:51 | 無題
606■■ 老筆と春一番
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昨夜帰宅すると、東京に春一番が吹いたことを知らされた。
風の音にも気付かず机に向かっていたが、午後の2、3時間暖房を切ったあの暖く感じた時が正にその瞬間だったのかと振り返った。
去年はマンサクの花の下で冬から春へ向かおうとしている温もりを風から感じた。
そして部屋に戻ってしばらくすると、まるで虎落笛(もがりぶえ)のような風の音が窓越しにいつまでも鳴り止まなかったことを思い返した。

昨日は納稿を終え散乱した資料を整理しながら片付けた。
片付け終わると、回覧されてきた最初の頁を飾るとある学者の老筆に目を通した。
それは原稿用紙二枚に鉛筆で手書きされたものだった。
タイトルは「遠い遠い思い出」となっていて、「机の傷」「糠袋 ぬかぶくろ」「白い神社」の小見出が付けられ文章は展開していた。

二度読み返した。
率直な印象を言えば、主文へのプロローグとなるべき原稿をどんな風に頼めばこうなるのかと感じた。
内容も然ることながら字数は依頼通りの800字、頁の半分以上を占めるボリューム、このままでは使えそうもない。
恐らく今日の初校の集まりに、回覧された老筆をどう扱うかの私案を夫々が持参するだろうと考えながら、綺麗に片付いた机に向かった。

さて、この顛末は機会があれば書いてみよう。
今朝は予想外の展開に写真がない。
寒いが一枚撮りに出掛けるか...。

by finches | 2011-02-26 04:38 | 無題
605■■ 外濠 雉子橋
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江戸城の濠は内濠と外濠からなる。
これらは天守閣を中心に二重の「の」の字を描くようにして、最後は隅田川につながっている。
この内側の「の」の字を内濠、外側の「の」の字を外濠と考えればいい。
もっと分りやすく言えば、二重のロールケーキを想像すればいい。
そして、間の生クリームをこれらの濠と考えればいい。

江戸古地図を見るとこの内濠にあたる部分は和田倉濠、つまり現在の皇居外苑の外までで、現在内濠と言われている大手濠、桔梗濠、蛤濠、二重橋濠は地図には表されていない。
それは江戸城の防備上極秘にされたためだろうが、実はこの二重の「の」の字の内側には最後にもう一つ江戸城を取り囲む濠がある。
それが今では地図で見ることのできる大手濠、桔梗濠、蛤濠、蓮池濠、乾濠、平川濠、天神濠だ。

そしてこの三重の濠が最も接近している場所がある。
そこに外濠は雉子橋門と一橋門が、内濠は清水門と竹橋門が、そして一番内側の濠つまり大手濠には平川門があって鉄壁の睨みをきかせていた。
そして、この雉子橋門のすぐ北にあった橋を雉子橋と呼んだ。

今は薄暗い高速道路の下にある雉子橋もその歴史を知り、また竣工当時の写真を見ると、今とはまるで違うその美しい素顔が分る。
現在の雉子橋は昭和2年(1927年)に完成した震災復興橋梁で、美しいスチールアーチ橋だ。
何枚かあるこの橋の写真を時々開いてみては、この橋についてどんなことが書けるだろうかと考え、そしていつも閉じてきた。
だが、今朝古地図と格闘したことで、何重にもこの橋とレンズの間にあった時代のレイヤーをはがし、自分なりの雉子橋が見えたような気がする。
そして、古地図に残された情報の正確さに改めて感心もした...。


More photo 「竣工当時の雉子橋」
by finches | 2011-02-25 04:29 | 復興
604■■ レモネードの味
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作ってみたい飲み物がある。
それはサイダーとジンジャエールだ。

9才の時旅行で初めて東京に行って、テレビでしか見ることのなかったキリンレモンの本物があるのには感激した。
それまで三ツ矢サイダーしか飲んだことのない子供にとって、キリンレモンはまるで違う世界の味、東京の味だった。
ジンジャエールに出合ったのは大人になってからだ。
長い間ジンジャエールと言えばカナダドライだと思っていたが、ウィルキンソンの味を知って自分の中のジンジャエールは一変した。

子供の頃、駄菓子屋にみかん水という一本5円の飲み物があって、スラッとした細いビンが特徴だった。
冷したみかん水は淡いミカンのような味がした。
生家の離れの傍には大きな井戸があって、夏休みに叔母が一人で住んでいた生家に行くと、叔母は待っていたように井戸で冷した水に何かを混ぜて冷たい飲み物を作ってくれた。
レモネードも夏の冷たい飲み物だと思っていた。
それはレモン味の液体の上に一欠片のレモンがのっているもので、それがレモネードだと思っていた。
写真のレモネードを飲むまでは。

作ってみたい飲み物、いや、直ぐにでも作れる飲み物にレモネードが加わった。
レモンと蜂蜜と熱いお湯さえあればいい。
サイダーとジンジャエールは買って飲むもの、レモネードは喫茶店で飲むもの、と決めてかかっていた。
随分時間がかかるなあと思っていたが、このレモネードが運ばれて来た時、まるで目から鱗が落ちる思いがした。
手間をかけたスローフード、心のこもったその手づくりの温かさを決して忘れることはないだろう...。

by finches | 2011-02-24 06:11 | 嗜好
603■■ 野方配水塔
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現在は使われていないこの野方配水塔が建設されたのは昭和4年(1929年)のことだ。
大正12年(1923年)に起きた関東大震災後、周辺町村の急速な人口増加による水不足を解消する為に、この地域の13の町村が組合を作り上水道を建設した。
当初、玉川(現多摩川)と荒川を結ぶ計画で荒玉水道町村組合と名付けられたことから、この上水道も荒玉水道と呼ばれているが、実際は砧浄水場からこの配水塔がある野方給水所を経て大谷口給水所まで建設されたところで工事は終わっている。

水道道路という呼び名があるのは知っていたが、今までその謂れについて知ることはなかった。
だが、砧浄水場から妙法寺まで真直ぐ北東に伸びる道がこの荒玉水道を布設するための専用の道で、荒玉水道道路と言うこと、そして妙法寺辺りから先は一般道を利用して更に北東に伸びていることを知った。
そして改めて地図を見ると、砧浄水場、野方配水塔、大谷口配水塔跡が一直線に結ばれることも分った。

野方配水塔は2010年に登録有形文化財となり、時間は要するかもしれないがこれから完全に当初の状態に戻す計画がスタートするらしい。
一方、距離をおいてまるで双子のように建っていた大谷口配水塔は2005年に取り壊され、現在はそのレプリカが建っているそうだ。

機銃掃射の痕が痛々しく残る野方配水塔はスチール製の窓はアルミ製に換わり、外壁にも吹付けがなされていた。
だが、それでも本物が放つオーラは周辺の空間と空気を凛と引き締め、そのランドマークとして聳え立つ凛凛しい姿には下種なことなど物ともしない悠然さがあった。
そして、改めてこの保存に尽力した人たちの努力に頭が下がった...。

by finches | 2011-02-22 05:03 | 遺産
602■■ 御成街道架道橋

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歩行者天国が再開された秋葉原、見慣れた建物、見慣れた大通り、見慣れた鉄道橋、さてこの写真から何を書こう。
街の情景もいい、だが、この大通りと橋に興味を引かれる。
大通りの名は中央通り、新橋から銀座、京橋、日本橋、神田、秋葉原を経て上野に続く。
橋の名は御成街道架道橋、総武線の両国から御茶ノ水への延伸工事で昭和7年(1932年)に開通したプレートガーダー橋だ。
一本隣にある松住町架道橋のダイナミックなブレースドリブタイドアーチ橋もいいが、この橋のシンプルで直線的なところもこの大通りや町並みの直線と妙に調和していていい。

ところで、中央通りに架かる橋をどうして御成街道架道橋と言うのか不思議に思い調べてみた。
すると、それは江戸時代この近くに三十六見附の一つ筋違橋門があり、将軍がこの門から江戸城を出て上野の寛永寺に参詣し、その道を下谷御成街道と呼んだことに由来することがわかった。
松住町架道橋にしても御成街道架道橋にしても名前が分ると、これまで知らなかった新しいことも分かってくるから面白い。

東京上野間の高架が決定されたのは大正8年(1919年)のことだ。
総武線の高架工事は既に完成していた現在の山手線高架を更に跨ぐ必要があり、その高さはビルの3階に及んだ。
当時はその物珍しさに多くの人々が見学に集まったそうだが、そんな歴史のレイヤーを重ねて見ると、この景色この情景も一味違って見えてくるから不思議なものだ。
そんなこの街この鉄道橋の歴史が、この大通りの真ん中からの写真を撮らせた気がしてならない...。

by finches | 2011-02-21 03:00 | 時間
601■■ かつうらけいこ
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我輩は鶏である。名前はまだ無い。
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でピヨピヨと泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。然もあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕まえて煮て食うという話である。

ご存知「吾輩は猫である」の冒頭部分に準えて書いてみた。
子供の頃、戦死した叔父が大学の時に書いた「吾輩は鼠である」を読み聞かせてもらったことがあるが、朧だがその冒頭もこんな風に猫が鼠に置き換わって展開していたように記憶している。
今朝は三行書いたところで叔父の「吾輩は鼠である」を思い出し、急遽「吾輩は鶏である」を冒頭に使おうと思い返した...次第。

さて、ここからはいつもの俗文に戻るが、これまで二度登場しながら紹介がまだだった我が家の鶏Keiのことを書こう。
正式な名は勝浦鶏子、呼び名はKeiちゃんであったりKei子ちゃんであったりする。
いつもは窓辺のカーテンの下にじっとしている。

そうそう、再び脱線するが、この「いつもは窓辺のカーテンの下にじっとしている」と書いたところで、坦々と冒頭の描写が続く「吾輩は猫である」が頭に浮かび、最初の二段落を急遽差し込んだ...次第。

Keiちゃんとは勝浦の朝市で出会った。
Keiちゃんは針金細工の鶏で、首に荷紐で作った飾りをぶら下げ、腹には巣のような木屑の中に卵を抱いている。
買った値段は五千円、何となく気になりながら何度も通り過ぎ引き返し、筆者の決断が付かないのを他所に、家人がこの針金細工の鶏に大枚をはたいた。
何となく欲しいなと思いながら迷っていた筆者もこの英断には諸手を挙げて賛同した。

今では我が家に来て良かったと思っている。
たかが針金細工と買うのを躊躇ったが、これがよく出来ていて、朝市の通りに面した家先にKeiちゃんはいたのだが、そこは店ではなく個人が趣味で作った針金細工を数点並べていて、最初はそれが売り物だとは思わなかったくらいだ。
いつも焼き物の器などを選び我が家の住人にするかを決めるのは筆者だ。
だが、このKeiちゃんがここにいるのは家人のお蔭、細やかだが、今や我が家になくてはならない大切な住人だ...。



■ 鶏Kei_他の横顔
  226■■ Kei と Lei
  594■■ 鳥インフルエンザ
by finches | 2011-02-20 05:43 | 嗜好
600■■ 山谷堀川 今戸橋
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今戸橋は待乳山聖天の下の山谷堀川に架かっていた橋で、大正15(1926)年に完成した震災復興橋梁だ。
この橋は隅田川に流れ込む山谷堀川に架かる9つの橋の第一橋梁で、他の橋が桁橋やゲルバー橋であったの対しスチールアーチ橋で、御多分に洩れず第一橋梁としての隅田川からの見栄えと認識性が考慮されたことが窺える。

山谷堀川は昭和50(1975)年までに全て埋められ暗渠と化し、この今戸橋も親柱と高欄の一部を残しているだけだが、恐らくスチールアーチの橋本体は土の中に埋まっていると考えられる。
現在山谷堀川の川筋は公園として整備され、江戸時代に洪水対策のため造られた日本堤は土手通りの名に微かな面影を残している。
そして、かつて土手八丁と呼ばれた吉原までの道筋に地図の上で定規を当てると、当時吉原通いの遊客が猪牙舟で隅田川から山谷堀に入り、駕籠に乗り換えたのがこの今戸橋辺りだとピッタリ一致するから面白い。

この山谷堀川は音無橋が架かる石神井川が谷中の北で分流したもので、江戸の古地図と現代の地図を行ったり来たりして見ていると、その流れは今の荒川区と台東区の区境に一致するからこれまた面白い。

今朝は今戸橋について書き始めたものの途中多いに脱線し、地図の上にその川筋が見えてくると、それがつい最近歩いた谷中や根岸の道筋と一致していることに驚き、一人感動した次第。
いやー、地図こそ最大のミステリー、最高の読み物かも知れない...。

by finches | 2011-02-19 04:12 | 復興
599■■ サライとdanchu
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昨夜行きつけの店に向かう道すがら、雑誌danchuのことを考えた。
購読を続けているのは新聞一紙くらいで、決って買う週刊誌などもない。
現在は「零戦をつくる」と「江戸」を定期購読していて、これらはそれぞれ100号まで続く。
過去に雑誌danchuと雑誌サライを定期購読に近く買い続けたことがあるが、今では興味のある特集があった時に後者を時々買うくらいだ。

雑誌サライの創刊は1989年、世の中がバブルに入ろうとする時期に本物志向の雑誌として誕生した。
この雑誌が厳選したものでいくつか購入したものがある。
カステルのボールペンとシャープペンシル、こちらは当時一本2万円以上したと思うが、今では一本5万円以上に値上がりしている。
ソムリエナイフ、こちらはリーズナブルな価格ながら、人間工学的な使い易さを追求したシンプルなデザインと美しい曲線が魅力で、今でも愛用している。
ご飯の杓文字、こちらは広島は厳島のもので柔らかく優しいフォルムはそれまでの杓文字のイメージを変えた。
皮製小銭入れ、こちらはフィレンツェからの逸品だったが、使うにはちょっと難儀をした。
他にもまだあると思うが今思い出せるのはこの四つで、難儀をしたものを含めて良くぞ厳選したと思わせる逸品揃いだった。

雑誌danchuの創刊は1900年、正に世の中のバブル景気に乗って食をテーマとして誕生した。
美味い店の紹介と料理の写真が綺麗な雑誌で、調理の仕方、レシピ、時には魚の下ろし方なども手順を踏んだ紹介がなされ、筆者好みの雑誌に思えた。
この雑誌に近所の店が紹介されると出掛けて行ったこともあるが、ある時この雑誌の編集姿勢が雑誌サライとは随分違うことに気付いた。
共に本物志向の雑誌として購入を続けていたが、雑誌サライの同種のテーマに対する編集が毎回新鮮であるのに対して、雑誌danchuは繰り返しというかある周期で同じ企画を繰り返していることに気付いた。

加えて近所の美味い店の紹介にしても、近くに居住しているらしい同じ編集者が場所柄だけで選び出した決して美味くもない店を紹介していることが分ると、潮が引くようにこの雑誌への興味は消え失せた。
そして、今朝雑誌danchuの写真を使おうと書棚を覗いたら、一冊も残っていないことに気付いた。
そういえば数年前、溜まりに溜まったサライとdanchuを整理したことがあったが、その時、前者は良いものだけを残し後者は全てを処分したことを思い出した。
昨夜夜道を歩きながら雑誌danchuを思い出し今朝そのことを書きながら、この雑誌相変わらず見せ掛けだけの記事を世に送り出しているのだろうかと思った...。

by finches | 2011-02-18 06:05 | 嗜好