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838■■ 東京駅-二月
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復元工事が進み次第にそのベールを脱いでいく東京駅を見ていると様々なことを考えさせられる。
今でこそ重要文化財として永久保存が約束されているものの、それは小さな市民保存運動が発端にあり、そのお蔭だということもその中の一つだ。

関東大震災に耐えた東京駅もアメリカの無差別東京空襲により大きな被害に見舞われる。
その時に焼け落ちたドーム屋根は戦後に行われた突貫工事で八角形の屋根で掛け直され、筆者たちはその姿を東京駅として長く慣れ親しんできた。

ドーム屋根の復元を含め東京駅全体の復元再生が行われることに対し、果たして今にしてその必要性があるのかと思い続けていたが、昨年シートに覆われた駅舎からその復元なったドームの一部が顔を覗かせているの見た時、何故かゾクゾクッとする戦慄が走ったことを覚えている。
それは筆者の考えの方が浅はかであり、ここで行われている復元再生は決してバブルな発想からではなく、筋も芯も一本通ったものだということを投げつけられたような衝撃だった。

東京駅から真直ぐ北に伸びる大通りを行幸通りという。
その名が示すように、皇居と東京駅を結ぶもので幅は40間(72.8m)もある。
行幸通りの歴史を辿ると明治22年(1889年)の市区改正による中央停車場の位置決定に遡り、実際に整備が終わるのは明治43年(1910年)のこととなる。
この街路整備は正に江戸を明治に変えていく一大都市計画だったと言える。

行幸通りの整備が終了した時、一方の東京駅は本格的に工事が進行中で、行幸通りに繋がる駅前の広場を含めた東京駅の完成はその4年後の大正3年(1914年)となる。
この行幸通り一つを取ってみても、まだまだ色んな歴史がある。
正に東京駅は近代日本の歴史そのもので、竣工当時の姿に正確に復元再生することの意味は計り知れないと考えを改めた。

東京を江戸と重ねて考えるようになって随分とものの見方が変わった。
東京駅もそんな中で、その見方も変わった一つだ...。

by finches | 2012-02-29 05:08 | 遺産
837■■ 時間は同じに流れている

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夜の羽田はセカセカとしていなくていいものだ。
だが、考えてみると、これまでの夜の羽田それは旅先から疲れて帰ってくる場所で、そこは到着ロビーへと足早に向かう人の流れの中であり、その先に待つ雑踏の中だった。
それは朝も同じで、そこはこれから出掛けて行く場所であり、出発ロビーへと向かう雑踏の中であり、搭乗ゲートの先に待つ感情なく整然と並ぶ椅子の群れの中だった。

同じ空港でも目的が異なることでこんなにも違って感じるものかと思った。
着いた日曜の朝の羽田は空いていて、ガラガラのモノレールからの景色もどこか新鮮に思えたし、それをユッタリとした気持ちで眺めることもできた。
帰る月曜の夜の羽田も何だかのんびりしていて、2日間の余韻を反芻しながら、灯りに照らし出された外の景色を眺めて出発までの時間を楽しんだ。
そして、見慣れた着陸の時の上空からの夜景も、離陸の時に高度を上げながら眼下に遠ざかるものは一段と美しく感じられた。


よく田舎に行くと時間がゆっくりと流れているようだと人は言うし、自分もそう感じてきた。
それは人々の暮らしがのんびりと感じられることで、そこに流れる時間もゆっくりとしているように感じるからだろう。
だが、筆者は今回の東京での2日間、時間がとてもゆっくりと流れているように感じた。
体内時計と感覚時計がずれていなければ時間はどこでも同じに流れているのだと思った。
但し、少しの調整が必要で、両者のズレは少し針を止めて補正をしてやることで解消できることも分った。

気の持ちよう己のスタンス次第で、同じものが違って見え、初めての人とも旧知のように話せ、優しく穏やかになれ許すこともできる。
そんなことを感じ何だか得をしたような2日間だった...。

by finches | 2012-02-28 06:32 | 時間
836■■ 昭和大東京百図絵
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日曜日の羽田もモノレールも電車も、サラリーマンがいないせいかのんびりと感じられた。
このところ日曜日といえば自然の中に出掛けていたものだから、都会の建物も雑踏も何だかとても懐かしく思えたりした。

羽田からは真っ直ぐに千葉の美術館に向った。
小泉癸巳男の『昭和大東京百図絵』の全点揃いを見るために遥々来たのだからと、ひとつ一つをゆっくりと鑑賞して歩いた。
この版画は昭和5年に頒布会が開始され、12年までに全100図が完成したもので、今回の展示品はそれらを15年に改めて木箱に収めて販売したセットで、数点しか存在しないと言われる貴重なものだ。

ちょうど関東大震災の復興事業が終わる昭和5年からの頒布開始ということと、その第一作目が『永代と清洲橋』ということもあって、当時の復興の様子を写真や文章による記録とは違う視点で捉えたものとして興味を持っていた。
箱の図録には一点ごとに手書きの説明が加えられていて、この一作目には『復興は橋からと、市役所の自慢  モダンな橋が出来る、出来る』とあった。

『永代と清洲橋』は永代橋とその上から望む清洲橋を描いたもので、『帝都復興の門』と言われた永代橋と、『震災復興の華』と言われた清洲橋も、現在はその間に両者を切り裂くように高速道路橋が架けられている。

今東京のホテルでこれを書いている為に写真を上げることはできないが、帰ったら写真を差し替えるつもりでいる。
さて、東京での今日一日も有意義に過ごしたいものだ...。

by finches | 2012-02-27 06:00 | 無題
835■■ 秦野のみかん
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店に並ぶみかんのように粒揃いでもないし、見掛けも良くはない。
だが、ただ甘いだけのみかんと違って、こんなみかんが美味い。

この秦野のみかんは友人が手塩に掛けて育てたというメッセージが付いていたが、まあどちらかというと、みかんの木が勝手に実を付けたという方が実態により近いようにも思う。
だが、本人がそう言っているのだから、肥料をやり、水をやり、少なくとも成長を見守ったことは間違いあるまい。

みかんは摘花をするものかどうかは知らないが、一つでも多くの収穫をと考えている友人の顔を想像すると、それはきっとパスするであろうと勝手に思った。
新築なった家に行った時、愛犬の紹介はちゃんとあったから、みかんの木の紹介もきっとあったに違いないが、こちらの記憶はとんと定かではない。

みかんの木を手塩に掛けているのは美人姉妹の姉の方で、妹の方はそれを食べるだけだ。
ところで、妹の方は名前で呼んでいるが、筆者の方が年上にも係わらず姉の方はお姉さんと呼んでいる。
ここまで書いて以前お姉さんが親戚のみかん畑を手伝っていると言っていたのを思い出した。
もしその親戚から譲り受けた苗木が実を付けたものなら、これは手塩に掛けたみかんと認めない訳にはいかない。

そうだとすると、残り2個は家人に取って置かねばなるまい。
手塩に掛けたお姉さんの汗がこの甘酸っぱい果汁を作ったのだから...。

by finches | 2012-02-26 02:45 | 季節
834■■ 初鴬鳴く

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交差点をUターンするか,右に曲がるか,真直ぐ進むかで、その日の昼食のメニューは凡そ決る。
左に曲がることがない訳ではないが、それだとメダカのいるお好み焼き屋に決ってしまう。
だから、お好み焼きが食べたい時は迷わず左に曲がればいいが、後の三つにはそれぞれ複数の選択肢があって、曲る時点ではまだ何を食べるかの特定までには至る必要はない。

快晴の昨日は右に曲り、サンドイッチと午後の紅茶を買って公園の遊歩道に繋がる駐車場に車を入れた。
何面もある芝張りのゲートボールコースと広い野球場やサッカー場、それらすべてを使ってゲートボール大会が行われており、1組5人のグループが何十組も競技を楽しんでいた。
そこで、車から出ると早速芝張りのコースを見下ろす石垣に座って、お年寄り達の真剣なゲームを眺めながらサンドイッチと午後の紅茶を口に運んだ。

食べ終わると草木を観察しながら遊歩道をゆっくりと歩いた。
寒い日と雨の日が繰り返していたせいか、まだ草は芽を出してはいなかったが、木々の芽吹きの準備は着実に進んでいるのを感じた。

遊歩道から潅木が間引かれた林に入ってみた。
積もった落葉はフカフカとして、太陽の光はその落葉まで届いていた。
落葉を踏み締めながら歩いていると、ちょっと違う小鳥の鳴き声が聞こえてきた。
その鳴き声の方へと歩き耳を澄ませると、それは間違いなく鶯の鳴き声だった。

まだ「ホーホケキョ」とは鳴けないでいるものだから直ぐには鶯だと分らなかったが、それは紛れも無く今年初の鶯だった。
他の鳥は練習なしで鳴くことができるのに、どうして鶯だけは鳴く練習をしなければならないのか、いまだに不思議だ。
いつまでも「ホーホケキョ」と鳴けない鶯は多いし、「ケキョケキョ」と繰り返している鶯も多い。

だが、そんな春の始まりの舞台裏は楽しいものだ。
この春の始まりの中にいると、まるで自分の細胞までも新しく生まれ変わるような気がする...。

by finches | 2012-02-25 04:34 | 季節
833■■ 過去との共存

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この昭和6年(1931年)に竣工したビルも前稿の交差点に面して建ってる。
だが、近い将来道路拡幅に伴い撤去される運命にあるようだ。

同時代の建物が全て姿を消した今、若干の昭和モダンの匂いは感じるものの,特段力量のある人の手によるものとは思えないこのビルにさえも懐旧の念を抱く。
それはこのビルが建設された当時にあって、今にないものをこの建物から感じるせいだろう。

この交差点に面して建つ二つの明治期の煉瓦造建築や大正期の石張り建築と対峙しても、このビルは決して見劣りなどしていない。
それは前者が金をかけ様式という厚衣を纏っているの対して、後者は昭和モダンの薄衣を纏っただけの潔さがあるからのように思う。

このビルとこの交差点の周りを埋め尽くす戦後のビルとの間にある決定的な違い、前者にあって後者にないもの、それは前者の時代にあって後者の時代にないものと言えるかもしれない。
それは、ものづくりへの一途な信念であり、熱き気概ではないかと思う。
そして、建築を単体として捉えず、街並みや環境や風土との共存同栄を考えていることだろう。

そして、もう一つ、そこには街づくり国づくりに向けての時代の風が吹いていたことだ。
きっとそれは爽やかな南風だったに違いない...。

by finches | 2012-02-24 03:24 | 持続
832■■ 豊かさの共存
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当時中学生だった記憶にこの建物ははっきりと残っている。
外観もそうだが、屋上の木々が何だか不思議に思えたことをはっきり覚えている。
この建物は旧海運会社の事務所兼住宅として大正4年(1915年)に完成したもので、左側の建物はそれよりもっと古い明治33年(1900年)完成の現役郵便局となる。

この事務所兼住宅ビル、一見、3階まですべて事務所のようで、住宅は屋上にあるのだろうと思いきや、これが全く違う。
事務所として使われたのは1階だけで、2階と3階すべてが住宅になっていて、しかも全部が和室だというから驚く。
そして、あの不思議に思えた木々は屋上庭園のもので、そこには茶室まであるというから更に驚く。

今でこそ屋上を植栽したり東屋や茶室を造るなど珍しくもないが、大正4年にそんな発想をした人間がいた驚きと同時に、この街に吹いていたモダンな風を感じる思いがする。
中学生の筆者にはこの交差点がとてもエキゾチックな場所に思えた。
そこには古い建物や神社や市場や船着場があって、自動車やバイクや自転車や人が行き交う活気があって、貨物船や連絡船の汽笛の音があって、海からの潮の匂いがあって、それらがこの交差点を混在が醸し出すエキゾチックで不思議な雰囲気にしていた。

変わり果てたと思い記憶の中に封印していた場所だったが、来て良かったと思った。
交差点を囲むように4つの古い建物が残り、そこに新しい活気が生まれていたことが何より嬉しかった...。

by finches | 2012-02-23 04:36 | 空間
831■■ 狭間から見えたもの
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あった、あった、こんな所にあったのか。
狭間から見えたものは,その日探し歩いていた正にその建築だった。

それは,大正13年(1924年)に完成した旧電信局で、その柱には古典的なモチーフが見られるものの、最早その扱いは古典主義の手法からは遠く離れ、分離派の目指した新しい建築の創出に向けての趨勢を窺うことができる。

山田守が東大を卒業し逓信省に入ったのは大正9年、そして同じ年に同級生5人と理想の建築像を目指して分離派建築会を結成する。
山田守の東京中央電信局の完成が大正14年だから、この旧電信局は逓信省で山田が指揮を取った一連の作品群の中の一つに間違いない。

特徴となるパラボラ(放物線)とアーチは今尚新鮮で見る者を魅了する。
建築に思想と力があるからこそ、これ程の改修を受けていてもビクともしていない。
この建築も市の取り壊しの決定を市民が覆したことで今こうして街並みの中に残っている。
それがどれ程豊かなことか、改めて保存と再生の有り方と方法を考えさせられた。

大正9年、分離派建築会は次のような宣言を発表している。

 我々は起つ。
 過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。
 我々は起つ。
 過去建築圏内に眠って居る総てのものを目覚さんために溺れつつある総てのものを救はんがために。
 我々は起つ。
 我々の此理想の実現のためには我々の総てのものを悦びの中に献げ,倒るるまで,死にまでを期して。
 我々一同,右を世界に向かって宣言する。

こんな気持ちで先人たちが造り遺した優れた建築、それをそのままの形で次の時代に受け渡すこと、それが今の我々がなすべき責任だと改めて思う...。

by finches | 2012-02-22 05:07 | 遺産
830■■ 狭間から見えた景色

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日曜日に歩いた道程を地図で見てみると、一つの目標に向かって歩いているつもりが大きくずれていたことが分った。
だが、その遠回りのお蔭で偶然の発見や思わぬ出合いもあったのだから、満更道を間違えるのも悪くはない、寧ろ楽しいくらいだ。

街歩きはそんな各駅停車のような自由気ままな歩き方がいい。
途中で出合った学校を戦前のものだろうと予想したら、実際は戦後のものだったりと当たり外れはあるものの、後で調べてみるとその学校には博物館まであることが分ったりと、そこを訪れることがあるかは別にしても、筆者の頭の中の引き出しにそのことが大切に仕舞われたことは事実だ。

地勢的に見た街並みの生い立ち、歴史的に見た街並みの成り立ち、個々の建物の歴史、それらを想像し関連付けて街や建物を見るのは楽しいことだ。
旧名を記した石柱からはその由来が分り、そこから過去を想像してみることもできる。
だから、石柱一本であっても街の中に脚色のない事実だけを残すことは大きな意義がある。

一旦は通り過ぎたものの、明治期のものらしい建物を写真にだけは収めておこうと戻りシャッターを切った。
二枚目をと思った瞬間、狭間の向こうに見える放物線アーチに筆者の興味は釘付けとなった。
あった、あった、こんな所にも昭和初期の学校が残っていると嬉しくなり、煉瓦の建物はそっちのけで狭間の主の方へと向かった。

その建物は学校ではなく、筆者が目標として探していた正にその建物だった。
あった、あった、こんな所にあったのか。
さて、この続きは次稿に...。

by finches | 2012-02-21 05:03 | 空間
829■■ 午後の水族館
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小雪が舞う日曜日、小さな電車の旅を楽しんだ。
それはその街を歩いてみたいと思ったからで、最後は水族館に行こうとだけ決めていた。
手首につけたnanoは16,377歩と表示していたから、凡そ10キロを歩いたことになる。

改札を出ると先ず生涯の仕事を決めるきっかけとなった場所を訪れ、当時あるものに凝っていて通った店のあった通りにも行ってみた。
前者はそのまま今も残り、後者はその店があった場所の面影さえも、記憶の中の風景と繋がるものは何一つ残されてはいなかった。
何せ中学生の時のことだから無理もない。

図書館にも立ち寄った。
お目当てはレファレンス、蒐集資料のボリュームと内容をざっと見て歩いた。
書庫に置かれた閉架の資料までをも想像すると、流石にその内容には期待が持てた。
筆者の場合はそこまで分ると図書館での当面の目的は達せられ、後は調べたい内容によって再訪すればいいことになる。

暖かかった図書館を出ると、外は手袋なしではいられないくらい寒かった。
だが、歩いたお蔭で随分と街の地勢が分ったし、見たかったものも街との関係の中で見ることができた。

最後の水族館は帰りのバスの時間までゆっくりと過ごした。
最近の博物館や歴史資料館の展示の仕方が何処も同じように、水族館にもその傾向があるように思う。
そのことには直ぐに気付き、最初に現れた水槽の見せ方の演出はまるで葛西水族園と同じだと冷笑したが、その水族館のオリジナルテーマが分ってくると、他とのつまらぬ比較などは止めて素直な気持ちで楽しむことができた。

今水族館の建っている一角は最初の二つと共に好きだった場所だ。
それは、最初の二つが何か新しいものを感じる場所であったのに対して、そこはその街の古い歴史を感じる場所だったからだ。
そこにあった古い建物は今も保存され残っていたが、それ以外は大きく様変わりしていた。
だが、最後に水族館を訪れたことで、今までその一角の変貌を拒絶し目を逸らしていたかつての大好きな場所を、また少し好きになれたように思った...。

by finches | 2012-02-20 04:17 | 時間