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881■■ CAVIAR
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バレンタインで貰った4つのチョコレートのうち、まだ2つが残っている。
一つはDEMELで、もう一つがこのCAVIARだ。
引き出しの中に入れてあるものだから普段は忘れていて、時々思い出しては食べている。

CAVIARのパッケージのデザインは、その名の通りキャビアだ。
黙って出すと本物のキャビアと思ってしまいそうな、そんな遊び心が楽しい。
勿論粒は大き目だが、キャビアに見立てた粒状のビターチョコレートが缶いっぱいに入っている。

二つの味を比べると、DEMELはミルクでCAVIARはビターだから、形による食感の違いも然ることながらその味は全く異なる。
因みに筆者の好みはビターよりミルクだ。

そう言えば以前にカカオ100%のチョコレートを買ったことがあるが、その極限のビターの味は決して美味いものではなかった。
だから残りのカカオ100%は、函館の港を一望できるベランダに花火の日にセットしたテーブルに並べた料理の一つの、チョコレートソースとして使ったような記憶がある。
確か、鴨とオレンジに合わせたソースだったような気がする。

DEMELミルクとCAVIARビターの味は全く異なるが、DEMELミルクには全粉乳が加わる以外、後の成分は全く同じだ。
因みにその後の成分とは、カカオマス、砂糖、カカオバター、乳化剤、香料の5つだ。

同じものを使っていながら味も食感も無限に創り出せる。
それはまるで食や暮らしや人生ようだ...。

by finches | 2012-04-29 05:27 | 嗜好
880■■ 手紙
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筆者がまだ青かった頃、文通などという黄色い世界に嵌ったことがある。
相手からの手紙はいつも10枚も15枚もビッシリと書かれていて、それを読むだけで疲れたことを懐かしく思い出す。

今はもう見なくなったが、ある有名なブログもその長さには圧倒された。
3000字くらいは日常で、5000字でも6000字でも、またそれ以上でも、兎にも角にも長文が延々と続き、それを読むだけで疲れ果てた。
そして、それを読むたびに、「1/3にまとめろよ!」といつも思った。

手書きの手紙は今だに苦手でなかなか書くことはない。
スラスラと手紙が書ける人が羨ましいが、これがどうにも書けない。
手紙の場合、書こうとしている一段落くらいは頭に浮かんでいて、それを忘れないように一気に書かなければならないが、浮かばない上に浮かんでも書いている途中で忘れてしまうからどうにも始末に悪い。

だから、筆者の場合どうしても手書きの手紙を書かなければならい時は、PCで書いたものを書き写す無駄な手間と労力を伴う。
それでも字が斜めに登って行ったり下がって行ったり、誤字など書こうものならそれこそパニックに陥る。

昨今はメール隆盛の時代だ。
メールを手紙のように書ける人は羨ましいが、いくら気を遣って書いたつもりでもメールの文章は独断的、断定的になり勝ちで、本意とは違う誤解を相手に与えてしまうことが多い。
そんな失敗は山ほどもある。

だからメールでもちょっと長くなると、PCで書いたものをPDFファイルに変換して添付するようにしている。
これで手紙に近づけようとしている訳だが、それ程までに気を遣っても手紙と同じにはいかないのが悲しいところだ。

メールに欠けていて手紙に備わっているものは何かと考えた。
それは、相手を思いやる、相手を気遣う、相手の立場をおもんばかる、相手にへりくだる、そんな気持ちではないかと思う。
そして、何より書き手の温もりが文字に行間に溢れていることだろう...。

by finches | 2012-04-28 03:35 | 無題
879■■ 聴診器の音
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実はこの聴診器、木が水を吸い上げる音を聞く為にと家(うち)にある。
新緑が日に日に大きくなる林の中で、これを木に当ててみようと今机の上に置いてある。

いつかテレビで見たのか、広葉樹が水を吸い上げる音というのに興味を持って、聴診器を欲しそうにしていたら、誕生日かクリスマスかに家人がプレゼントしてくれたものだ。
胸に当て心臓の音を聞いてみると、微かにその鼓動が聞こえてくる。
木に当てると、確かにゴーゴーという音が聞こえ、これが水を吸い上げる音なのだろうかと思った。

早春の森でブナの幹に聴診器を当てて、木が水を吸い上げる音を聞く試みが新聞や雑誌に掲載されたり、一時期森林インストラクター達が木に聴診器を当てて水を吸い上げる音を聴かせることがはやったりした。

あのゴーゴーという音が水を吸い上げる音なら、枝先や葉から噴水のように水が噴き出しそうな気がした。
もし心臓の鼓動のように、それが微かな音として聞こえていたら、これが木が水を吸い上げる音かと思ったことだろう。
だが、ゴーゴーという音に、聴診器が悪いのではと、聴診器のせいにしてその後ずっと取り出すこともなくなっていた。

木が吸い上げる水の量、そのスピード、そして水の通り道である針葉樹でいえば仮道管、広葉樹でいえば道管のサイズからして、その音を聴診器で聞くことは不可能なようだ。
ならば、あの音は一体何なのか。
あの音はアンテナのように木が拾った、森の音や小鳥の鳴き声、枝葉の揺れる音や木に当る風の音、小川や地下の伏流水の音、それらが合成された音らしい。

夢は破れたが、木がアンテナとして拾ってくる林や森の音を聴くのもいいものだと思い直した。
木がアンテナなら、木の種類や木の高さ、真直ぐに高く伸びた木か地に這うように枝を広げた木か、それらによっても聞こえる音は違うかもしれない。
そして、木は水に向って枝を伸ばすから、水面に伸びた枝先からは湖の音や魚の泳ぐ音も聞こえるかもしれない。
但し、その音はあくまでゴーゴーだろうが...。

by finches | 2012-04-26 04:18 | 季節
878■■ iPad Haha

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iPad HahaのHahaは母のことで、つまり母のiPadという意味だ。
iPad Hahaのカスタマイズとアップデートはすべて筆者のPCで行っている。

「何もしていないのにおかしくなった」とか、「何もしていないのにあれが消えた」とか、そんな質問には一切答えない。
そんな時は預かって最新の状態に同期して返してやるが、説明などはしない。
習うより慣れろで、優しくはしないと決めている。
「獅子は我がHahaを千尋の谷に突き落とす」の精神で臨んでいる。

iPad Hahaの画面には筆者がチョイスしたアプリを分り易く並べてある。
例えばマップとGoogle Earth、天体の動きが分るSolar Walk、月の状態が分るDiana、天気が分るそら案内、音声検索ができるGoogle、筆談ができるHitsudan Patto、暦が分るこよみ、そして筆者が選んだ高齢者優良ゲームだ。

ゲームは頭を使って考えることを必要とするものが中心だ。
ちょっと変わったところでは、俊敏性や咄嗟の判断を求めるようなものも選んである。
勿論、気楽に楽しめるトランプゲームやオセロなども忘れてはいない。

このiPad Hahaを使いネット検索も自力で出来るし、このブログも毎日読んでいる。
iPad Hahaで可能性を呼び覚ますこと、新しいものや未知なるもへの飽くなき関心と興味を抱かせること、そんなことを考えている。

年を取ったが、まだまだ新しいものへ目を輝かせている。
だから、iPad Hahaを最新の状態に同期しておくことは怠らない...。

by finches | 2012-04-25 05:49 | 無題
877■■ 通用門改め、樋門
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湖に流れ込む近代化産業遺産T用水の存在に気付き、それが地図の上から突然姿を消していることに興味を抱き、その全ルートを無性に知りたくて調べを始めた。
そして、小学生の目には不思議で異様な構造物に映っていた川を跨ぐ水道橋が実はこの用水の水橋だったことを知り、その構造物が逆サイホンとサイホンを応用して水を対岸に渡す為のものだと分った。

落差の少ない行程で水を流す技術は江戸時代の玉川上水や神田上水で知っていたが、このT用水も高低差の少ない上流のダムからこの湖までを複雑な揚水方法を駆使して、時に地上を流れ、時に隧道に姿を変え、時に地下に消える、そんな上下を繰り返しながら水を流す技術の高さが感じられた。

そして、この湖から地下埋設管で運ばれるルートと、その出口となる工場も付き止めたが、湖からのT用水の出口については「あそこの、あれだろう」くらいに、然程興味を抱くこともなかった。
だが、桜を見た帰りに地下埋設管の第一マンホールと湖間の開渠を見ながら歩いていて、それが隧道で湖に向って姿を消す方向に見たものは、筆者が想像していた「あそこ」とは全く違う方向を指していた。

隧道の先には、またしても小学生の目には不思議でならなかった構造物があった。
あの頃から何十年も、今の今まで一体何をするものだろうと思い続けていたものが、T用水に水を送り出す為の樋門だということが分った。
道路側にはいつも閉まっている門があって、それは公園の通用門だと思っていた。
だが改めて良く見るとそこに書かれていたのは「通用門」ではなく「樋門」だということが分った。

更に、その場所の土手が灌漑用の湖を造る為に300年前に浅い谷を閉め切る為に造られた土手そのもので、その土手の上を通って中学にも高校にも通っていたことにも驚かされた。
そして、この土手の建設こそが今のこの町の礎であり、そこから流れ出るT用水はこの町の発展の礎であることが、300年前の土手で交差し交錯していた。

湖に流れ込む小さなT用水に気付いたことで思わぬ発見が幾つもあった。
そして今、これまで当たり前のように見ていたこの湖の深く長い歴史に驚愕すると共に、先人の仕事に心より敬意を抱いた。
そして又、これらのことを正しく後世に伝え遺すことが、今を生きる者としての務めだと思った...。

by finches | 2012-04-24 04:26 | 遺産
876■■ 日曜日の午後-飛行機雲
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「日曜日の午後」最後の副題に飛行機雲を選んだ。
柿の木の下の酒膳を片付け大空を見上げると、大分西に傾きかけた太陽を反射して輝く飛行機雲が伸びていた。
それは日曜日の記憶の最後に鮮やかに焼き付いている映像で、この飛行機雲を思い出す度にその日一日のことを思い出せるような気さえする。

この一週間、日曜日の午後のたわい無い出来事に7つの副題を付けて書いてきた。
時間にすればせいぜい5時間足らずのことだが、その中の一瞬を切り取ってみるのと、逆に7コマに切り分けてみるのとでは、同じ一日でも随分と違った印象に感じるから不思議なものだ。

ところで飛行機雲だが、筆者はダラダラと長く尾を引く飛行機雲で、最後の方は風に流されてヨタヨタ・ヨレヨレしているようなものは好きではない。
冷たい空気を切り裂いていく飛行機がつくり出す飛行機雲は見ていて飽きないが、この写真のように終わりが短くそれが太陽に輝いているのに出合うことはそうざらにはない。

それは、まるで輝く彗星の尾のようだ。
そして、その輝きは春の陽気の中で楽しかった午後のひと時をまるで象徴しているかのようだった...。

by finches | 2012-04-22 05:59 | 無題
875■■ 日曜日の午後-笊豆腐

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日曜日の温泉はどこかに出掛けた帰りに立ち寄ることが多い。
普段は我慢をする豆乳のソフトクリームも日曜日だけは何か特別な日のような気がして、ぺろぺろと舐めながら温泉で火照った体を冷ます。

日曜日の午後に副題をつけて書いているのはみんな先週の日曜日のことだが、この日は珍しくただ温泉に入るだけの目的で二時をまわったあたりから出掛けて行った。
そして、その帰りに豆乳ソフトを食べ笊豆腐を買った。

この日は穏やかないい天気で、温泉から帰るやそそくさと準備をして柿の木の下に小さな酒膳を設えた。
笊豆腐は春キャベツを一枚ザックリと敷いた上に、小さなお玉で笊からすくって置いた。
醤油は湯浅の溜まり醤油、ビールは朝日復刻ビール、膳は函館の友人が送ってくれた某お寺で使われていた朱塗り盆で、大豆の味を楽しみながら、一口目は何もつけず、二口目は醤油をつけて、三口目からは時に何もつけず時に醤油をつけてその味を堪能した。

暫くすると隣家で庭を掃く音がし、蜜柑の葉に隠れてこちらからは見えないが、恐らく覗き込んだのだろう、隣家の主から「こんにちは、いい天気ですね、私も一杯やりながらやってます」と声がかかった。
別に隠れて飲んでいた訳ではないが、立ち上がり挨拶を交わし、隣りの庭を覘くと、紙パックにストローを挿した日本酒が置かれていた。

二つのビールを開けたが、別に酔うこともなく、出始めた柿の若葉を下から見上げながらの真っ青な空は綺麗だった。
その日はアルコールを抜こうと決めていたが、春の陽気に誘われてビールを開けた。
だが、その夜は頼んでおいた茶粥の味をおとなしく堪能した...。

by finches | 2012-04-21 05:26 | 無題
874■■ 日曜日の午後-ホテイアオイの再生
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メダカたちは何度も氷を張った寒い冬を乗り切り元気に泳ぎ回っている。
7つの水鉢の内、右の大きい水鉢には白メダカ、その左の小さな水鉢には青メダカ、その上の水鉢には黒と黄メダカのブチがいる。
この大きな水鉢は一番数の多かった白メダカのために一番大きなものを宛がったものだが、残念ながらこの大きな水鉢のメダカだけが春になってみると数を大きく減らしていた。

こうやって写真を無造作に撮ってみると色んなものが映っているものだ。
水を補給するための鉢やカップやタッパ、仮に植えてあるハーブの数々、そして何故か筆まである。
写真に写っていない左側には更に3つの水鉢があるのだが、筆者は毎朝メダカたちにエサをやり終えると、まるでドラム奏者にでもなった気分で、これらの水鉢の前に低い小さな腰掛を持って来て座り、彼らを飽きずに眺めるのを日課としている。

これらの水鉢にはもう枯れて腐ったように見えたホテイアオイをそのまま残しておいた。
春になればもしかして新しい芽を出すかもしれないと思ったからだ。
その微かな兆しは黄メダカが泳ぐ水鉢のホテイアオイに見られ、それは微かな緑の色味を残滓(ざんし)に変貌した中に感じ取った。

東京から持ち帰った水鉢だけに釉薬がかかり、それ以外は素焼きだったが、この素焼きの水鉢のホテイアオイからはみんな新しい芽が出て来ている。
ホテイアオイが再生したら、汚い部分は綺麗に取り除いてやろうと見守っている。
この枯れて腐ったような汚らしい残滓さえも、新芽を揺りかごのように優しく守っているのだろうと思う。

水鉢の中の生き物たちの小さな世界にも自然の偉大な循環と再生のドラマを見ることができる。
自然はドラマティックな驚きの連続だ...。

by finches | 2012-04-20 05:36 | 無題
873■■ 日曜日の午後-大樹の落ち葉

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柿の若葉が日に日に大きくなっていく一方で、柑橘は毎日のように葉を落としていく。
秋に葉を落とす落葉樹に対して、常緑樹は葉を落とさないようなイメージがあるがそうではない。
木自体が代謝を続ける限り、常緑樹と言えども古い葉と新しい葉は一年から数年で入れ替わる。

季語にも春落葉というのがあるが、晩春の落ち葉を言うのだろ。
秋は落葉と書きたくなるが、春は落ち葉と書きたくなる。
不思議なもので散り行く落ち葉でも、紅葉の有る無し、葉の落ち方、季節の明るさ、などなどでその印象は随分と違うものだ。

秋の落葉は有無を言わさず切り離され散り急ぐが、春の落ち葉は新生のためで別に急ぐ必要がない余裕からダラダラと落ちる。
どちらが好きかは好みの問題だが、春の落ち葉に改めて気付いたことは自分にとっては大きな発見だった。

それは柑橘の落ち葉を見ていても気付かなかったが、温泉の駐車場脇にある大樹の落ち葉が車に降り注ぐ様に、常緑樹は春に葉を落とすのだということに気付いた。
その一年を通しての大自然のゆっくりとした代謝に驚くと共に、自然とは偏らず万物にその見えない恩恵を与え続けていることにも感動を覚えた...。

by finches | 2012-04-19 05:02 | 無題
872■■ 日曜日の午後-温泉への山道
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この山道をある掛け流しの温泉に通って三日に二日通る。
三日に一日は近場の温泉に行く。

前者は不定休で行って休みの時もある。
前者の常連たちはそれに不平を言っているが、筆者は一向に気にしない。

東京の根岸にフライフィッシングのプロショップで沢という店がある。
そこも不定休で、今もそう書いてあるかは知らないが、休みは「店主が釣りに行く日」と書いてあって好感を持ったものだ。

不定休とするからには温泉の主人にもそれなりの訳があるのだろうと思っている。
そんな都合も受け入れて名湯の泉質を楽しむのもいいではないかと思う。

この山道が好きだ。
冬の装いから日々変わっていく草木を見ながら、山が笑い山が語りかけるこの山道を疾走するのが好きだ...。

by finches | 2012-04-18 04:09 | 無題