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898■■ 笹舟

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日曜の朝の少し遠出の友人たちの魚の買い出しに同乗させてもらった。
着いた海は穏やかに凪いでおり、その色は近くと沖で鮮やかなコントラストを見せ、遠くには独特な形をした平たい島々が浮かんでいた。
車はその美しい海岸線を東へとひた走った。

着いた道の駅にはいつもの朝の市場で見かけるものとは随分と違う魚が並んでいた。
その中から迷った挙句に三種類を選び、ついでに生の米麹も買った。
復路、友人お薦めの昼食を取った。
地元で採れた旬の素材を素朴に料理した幕の内に小さな蕎麦の付いた日替わり定食は地味だが美味いと思った。

屋外のテーブルの山側には細い水路があって綺麗な水が速いスピードで流れていた。
その流れを見ていて笹舟を作って流したいと思った。
クマザサで作った笹舟はずんぐりとしていて、子供の頃に作った細長い笹舟とは随分違うものに仕上がった。
だが、ずんぐりしたクマザサの笹舟も流れに置くと滑るように下って行った。

友人たちと家人にもクマザサを渡した。
笹舟を作るのは初めての家人も、なかなか上手に作った。
そして、みんなが思い思いに笹舟を流した。
どれもあっという間に流れて行った...。

by finches | 2012-05-29 05:03 | 無題
897■■ 花香

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金柑は今年花をつけなかった。
酢橘と八朔と蜜柑の花はもう終わった。
酢橙は今も花をつけている。

酢橙の花の周りにはたくさんの昆虫が集まっている。
ブンブンは体中花粉だらけになってもお構いなしにゴソゴソやっている。
蝶は付かず離れずにヒラヒラと優雅な舞いを見せている。
時には大きなスズメバチも不気味な羽音をたててやって来るが、無視していれば危害を加えたりはしない。

地面には無数の花びらが落ちているにもかかわらず、枝にはまだ無数に思える程の花がついている。
これらの花が全て実に変わればすごいと思うが、酢橘の木は自らが摘果を行いバランス良く実をつける調整をしているようだ。

酢橙の木の周りには花のいい香りが漂っている。
仄かだが柑橘系の香りがするから不思議だ。
若葉の瑞々しさ、小さな花の白さ、香りの清清しさ、時間はゆっくりと過ぎて行く...。

by finches | 2012-05-27 03:55 | 季節
896■■ ズッキーニ
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函館には普通の人が一生かけても経験しきれない程の多くの厭な思い出がある。
函館には一生忘れられない程のたくさんの楽しい思い出もある。

仕事の為に3カ月のつもりで借りたマンションは港を一望できる歴史地区の高台にあった。
結局そこを3年も借りたことで、厭な思い出は徐々に浄化され、街の歴史や伝統や風土や人々の考え方などを、そこでの暮らしの中で一つ二つと分かっていった。

マンションの管理人のM田さんは北海道の水田発祥の地である大野からの通いで、毎朝通勤途中に買った野菜をマンションのカウンターに置いていた。
住人は欲しい野菜があればそこから好きなものを取って、一品百円を置いておくのがルールだった。
早い者勝ち、なくなればそれで終わりだった。
時には売れ残っている日もあったが、M田さんは残った野菜は必ず持ち帰って、翌朝には新しい野菜を買って置いていた。

前の道の向こう側には小さな畑があった。
その畑もM田さんが手入れをしていた。
道に沿った畑は細長くて狭く、遺愛幼稚園のある反対側は急な崖になって落ちていた。

そこでM田さんが育てた野菜もカウンターに並べられたが、それらからお金を取ることはなかった。
筆者はM田さんが育てたズッキーニが好きで、それが置いてあるとよくもらって行っては料理に使った。
ズッキーニがキュウリではなくカボチャの仲間だということも、蔓を伸ばすのではなく円形に葉を広げその真中に同心円に実をつけることもその時に初めて知った。
初めてズッキーニを見た時は、そのユニークな形に目が点になったことを覚えている。

そのズッキーニを今自分で植え育てている。
黄色と緑の実をつける二つのズッキーニだ。
今次々に花が咲き小さな実も少しづつ大きさを増している。
これまではズッキーニを食べる度に函館のことを思い出していたが、今はズッキーニの成長を見ながら函館のことを思い出している。
そしてもう一つ、M田さんのことを思い出している...。

by finches | 2012-05-26 05:38 | 季節
895■■ 竹―五月

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昼食を取った後に時々訪れる神社がある。
記憶の中にあるその神社は鬱蒼とした森に囲まれていて、子供の頃は年に一度のお祭りに、大人になってからも数年前まではせいぜい初詣に出掛けるくらいだった。
今も初詣はこの神社に行くことに決めているが、その神社で束の間の時間を過ごすことが多くなった。

祭りでは本殿裏の競馬場でサラブレッドとは似ても似つかぬ農耕馬に、騎手と呼ぶにはこれまた程遠いおっちゃんたちが跨り、そこを馬が走らなければ競馬場とは決して分からない走路を、土煙を上げながら颯爽と走る光景が懐かしく思い出される。
その競馬場も今では何処にでもあるグランドに整備され、かつてそこから見えた森は何処にでもある宅地風景へと変わった。

その神社の参道脇の道は今も筆者が三日にあけず訪れる湯治場へと続いている。
その隠れた湯治場も今では立派過ぎる道が何本も通る道沿いのただの温泉に変わり、周りも目を覆いたくなるような宅地風景がかつての田園風景を駆逐し尽くしている。
筆者にとっては子供の頃、神社の脇から更に山の奥へと続くその湯治場への道は、神社の森の更に奥の森へと続く未踏の地だった。

いつも神社の参道を本殿まで真っ直ぐ進むと、決まって左に折れて競馬場跡に行ってみる。
小鳥の音しかしない林をゆっくりと抜け、今は見る影もなく変わってしまった景色に、かつての記憶の中の景色を重ね合わせ、取り留めもなく物思いに耽る束の間の時間を楽しんでいる。

この日も林の中では新しくこの世に生をうけた孟宗竹が輝いていた...。

by finches | 2012-05-25 04:26 | 季節
894■■ 海―五月

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空はもう夏だ。
真っ青な空に真っ白な入道雲が聳え立っている日も多くなった。

初夏の日射しも風も心地良く、そんな日は海まで行ってみる。
そこにはいつものように、恐らくいつもの人たちが、きっといつもの場所で、釣り糸を垂れている日常のいつもの光景がある。

そんな光景を、時に堤防の手前から、時に堤防の先まで行って、時に立ったまま、時に座って眺める。
釣り人たちよりも光の反射をカットする偏光メガネを掛けている筆者の方が、餌に群がる魚の様子がよく見えているだろうというのも愉快だ。

今の時期、釣り人たちの狙いは細魚(さより)で、次から次に上がって来る。
音のない海原に、時折竿を力一杯引いて糸が一気に張る「ビシッ」という音だけが響く。

海ももう夏だ...。

by finches | 2012-05-24 04:12 | 季節
893■■ 枯枝のオブジェ

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風が吹くと柿の木の下にはたくさんの枝が落ちている。
風がなくても柿の木の下にはいつも枝が落ちている。

それは枝も代謝を繰り返しているからで、昨年の枝に今年も葉をつけるとは限らない。
そんな枯れた枝は木のゆっくりとした動きに、擦れ合い折れて落ちる。

枯枝のように見えてもそこから新芽を出す枝もある。
枯枝は触ると付け根から簡単に折れるが、枯枝のように見えても生きている枝は触ると付け根でしなる。

そんな枝を集めていたら随分と溜まった。
それを見ていて鳥はどうやって巣を作るのだろうと興味が湧いた。

早速鳥の気持ちになって巣作りに挑戦した。
実際には創作生花でもしている気分で、もくもくと枝を刺してはまた刺した。

鳥はすごいと思った。
そして、柿の木もすごいと思った...。

by finches | 2012-05-23 05:12 | 無題
892■■ 御田植祭
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何と書きだそうかと迷っている。
迷う程に昨日目の前を流れた時間と光景は、まるで夢物語のように思い出されるからだ。
歴史ある神事、御田植祭の一部始終はまるで幻想のように思い出され、日本という国の、その文化のルーツと礎に触れた感動が未だ覚めやらぬからだ。

馬鍬(まぐわ)を牛に引かせた代掻き、八人の早乙女(さおとめ)たちによる早苗(さなえ)の植付け、八乙女(やおとめ)たちの舞、そしてどこか懐かしい響きの田植唄、かつて瑞穂国(みずほのくに)と呼ばれた日本の、美しく穏やかな農耕文化を今に伝承する絵巻に見惚れ、静かに深く長く、その感動に酔いしれた。

今年に入って随分と故郷への知見を深めた。
これまで漠然とだが確かに自分の中にあった郷土愛などとは全く違う、郷土の懐の深さ、歴史の深さ、自然の豊かさ、営みの健気さ、万物に宿る畏愛、それらを一つひとつの発見や出合いの中で、より強く感じ取るようになっている。

疑問に思ったところには必ず何かがあった。
推測した先には必ず新しい発見があった。
故郷というフィールドは、長く故郷を離れていた者をまるで試してでもいるかのように、無数の考えるテーマを次から次に突き付けてくる。

真摯にそれらに向き合うことを忘れてはならぬと思う。
そして、その中で自分にできることを考え続け、実行していかねばならないと思っている...。

by finches | 2012-05-21 05:09 | 季節
891■■ お田植祭
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後記事の多い新聞にしては珍しく、翌日行われる「お田植祭」を報じる記事に目が止まった。
地図で調べるとそれは好きな道の途中で行われることが分かり、土曜の午後はこの「お田植祭」を見に行こうと決めた。

普段は持ち歩かない一眼レフをカメラバッグに入れ、麦茶を2つのペットボトルに入れると、図書館への寄り道を考えて少し早目に家を出た。
それは久し振りのドライブ気分で、海辺の町に続く旧道を通り、海原と広大な干潟を見下ろす斜張橋を渡り、両側に水を張った田んぼが広がる道を走り、進路を北東へと取った。

お田植祭が行われる場所は何度となく山辺の製材所へと通った懐かしい道沿いにあった。
東には杣山へと続く川が流れ、その川沿いに広がる平地は遠い昔から稲作文化を連綿と受け継いで来た古く長い歴史があった。
お田植祭はその先人から受け継いで来た米作りの歴史を未来に伝承すべき文化と捉え、健全な米作りを祭りとして伝え残そうとする試みであることを知った。

住吉大社(大阪)の御田植神事や、香取神社(千葉)や伊雑宮(いざわのみや)の御田植祭のような伝統的神事ではないが、土地に根を下ろした微笑ましい行事であり、祭だと思った。
「御田植祭」とはせず「お田植祭」としたあたりに、この祭りに関わる人たちの控えめな作法も感じた。

近く遠く地元中学生による田植を眺めながら、そして繰り返し歌われる懐かしい響きが心地よい地元中学生による田植唄を聞きながら、何か忘れていたものを呼び覚まされる思いが込み上げてきた。
そして、いい時間を過ごせたことに、その時間を与えてくれた人たちに、心から感謝した...。

by finches | 2012-05-20 06:58 | 季節
890■■ 利用者のための言葉
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3週間前に図書館のウェブサイトで一冊の本の予約を入れた。
その時その本は運悪く貸出中で、最長で2週間返却を待たなければならなかった。

図書館には予約した本が返却されると電話をくれるサービスがあったが、ウェブ上でその本の動向を確認できることもあって、電話連絡は不要である旨をウェブ上で申し送った。
そして、その日から毎日その本の動向のチェックが始まった。

本の動向をチェックするには図書館のウェブサイトを開いて「利用状況確認」から入り、利用者番号とパスワードを入力する。
すると、ウェブ予約の一覧が開き、その本の現在の状態が表示される仕組だ。

少なくても日に一回、日によっては数回もチェックをする時もあった。
一覧で状態を見て、次に本のタイトルをクリックするとその本の所蔵情報が開き、そこには貸出中と表示されていた。

いくら何でも長過ぎると、図書館に問い合わせをした。
すると、本は貸し出せる状態にあると言う。
筆者はどうしてそのことをウェブ上で確認出来ないのかと尋ねた。
暫くして、図書館からの折り返しの電話が鳴った。

「利用状況確認」に表示された「予約割当済」が、本が貸出可能であることを意味していると説明を受けた。
そして、本のタイトルをクリックして表示された本の所蔵情報の「貸出中」は、筆者に対して貸出状態にあることを意味し、他の利用者に対してその本が現在貸出中で図書館にはないことを示していることが分かった。

「予約割当済」とは筆者の予約が確定している意味だと思ったことを伝え、因みに「予約割当済」が「貸出可能」という意味なら、本が返却される前はどのように表示されていたのかを尋ねた。
すると、暫く待たされて「予約登録済」と表示されるとの説明が返ってきた。

「予約割当済」も「予約登録済」も図書館員の符丁であって、「予約登録済」はいいにしても「予約割当済」は「本の用意ができました」と表示すれば誰にでもその状況が分かる。

本のタイトルをクリックして現れる所蔵情報の「貸出中」に至っては、前人の『貸出中』が本の返却を境に、筆者の『貸出中』に変わっているなど分かろう筈がない。

図書館は利用者に対する分かり易さへの配慮が必要だ。
それは利用者への過度な迎合などではない、利用者が一目で理解できる分り易い言葉を使うことだ...。

by finches | 2012-05-19 03:36 | 無題
889■■ たかが1.5センチと侮るなかれ
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我が家にはもう随分前に購入したガラストップの正方形の座卓がある。
届いて直ぐにその高さが使い難いことに気付いたが、処分するでもなく使ってきた。

その座卓は26歳の時に初めて責任ある仕事を任されてある地方都市に赴任した際に買ったもので、東京からはIKEAのテーブルとY木材工芸の椅子をその赴任先に送り、デスクライトはyamagiwaから取り寄せた。

IKEAのテーブルは折り畳めるスチール製の赤い脚だけが今も残っていて、大切に使っている。
yamagiwaのデスクライトは紆余曲折、波乱万丈はあったが、今も大切に使っている。

家人が東京に行って留守の間は、その座卓で毎晩一人で食事をするのだが、その高さがどうにも気になって仕方がなくなった。
それはただその高さが気に入らないという主観的な問題ではなく、物を書く、物を読む、物を食べる、それら個々の目的に対しての機能的なところでの問題に、とうとう我慢も限界に達した。

そこで、どのくらいその高さはあるのかと測ってみた。
それは以前筆者が製作を依頼して作らせた座卓より1.5センチ程高かった。

この1.5センチを我慢してきた積年のストレスを思いながらその脚を短く切った。
たかが1.5センチと言うなかれ、新しい座卓は我が暮らしの道具として蘇った、否、生まれ変わったと言っていい。

写真で見ると1.5センチなんてこんなものだ。
だが1.5センチをあなどるなかれ、人の脳は正常な平衡状態を欲しているのだ。
この座卓の前に座る度に、我が脳は「高い、高いぞ、高過ぎるぞ」と、筆者に指令を送っていたのだと今更ながら思った...。

by finches | 2012-05-18 05:53 | 無題