978■■ 雉鳩の訪問

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毎日のように来ていた雉鳩の番が突然姿を見せなくなった代わりに、番が来ている間は逆に姿を見せなかった一羽の雉鳩がまるで入れ替わるようにやって来るようになった。
雉鳩は庭の中ほどにある布団干しに一旦舞い降りると、そこから地上に降りてトボトボと歩いて柿の木の下までやって来る。
そこが餌をもらえる場所だということを知っているからだが、どうしていつも歩いてやって来るのか不思議でならない。

小鳥のために庭に餌を撒いてやるようになって早いものでもう一年は経つと思うが、その中の常連が雉鳩たちだ。
他の野鳥たちも食べには来るが、警戒心が強く鳩のように人懐っこくはない。
雉鳩は餌を食べ終わるとメダカの水鉢の水を飲み、柿の枝に飛び移って毛繕いなどを始める。
気持ちが良いのだろう、近付いても逃げはしない。

二階の窓から下を覗き、柿の枝に雉鳩が来ていると、階下に降りて行っては餌を一つまみ置いてやっているうちに、来たら二階の窓越しに見える柿の木の上の枝にとまるように調教してやろうと閃いた。
そこで、下の枝にとまっている雉鳩に向かって窓から顔を出し上に来るように合図を送ると、頭をクネクネしていたが、枝から枝に飛び移りながら窓に近い枝までやって来た。
やればできる、写真はその時のものだ。

野生の動物が自分から近付いて来るのは拒まない。
だが、懐かせようとか考えてはいけないと思う。
人懐っこいといえども野生は野生、そこには適度な距離をあけることを忘れてはならないと自覚している。

メダカたちも元気に泳ぎ回る季節になった。
動物にも植物にも生き生きとした新しい季節が動き始めた...。

# by finches | 2013-03-24 09:39 | 季節
977■■ 川がくれた柳
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その昔東大寺建立の木材を切り出した杣の森、その深い森へと続く一本の流れがある。
筆者はその悠然とした流れも好きだが、その更に上流から分水嶺を越えた山向こうの清流へと続く辺りが特に好きだ。
今や深山幽谷まで砂防ダムや護岸工事が施されていない場所を探す方が難しいくらいだが、ここにはまだ美しい渓流の名残を見ることができる。

朝刊にその川の伐採木の無料提供の記事を見付け、早速申し込んだ。
柳の生木はずっしりと重く、運搬できそうなものを20本ほど選んで持ち帰った。
そして、20本の生木は太さの異なる2つのグループに分けて積み上げた。

昔から薪割りに憧れていた。
丸太の上に薪割り用の丸太を置いて斧を一気に振り下ろす、あれをやってみたかった。
その思い入れはさて置き、まだ先は長そうだ。
生木の乾燥が少し進むまで、当面は玄関前のオブジェということにしておこう...。

# by finches | 2013-03-17 11:21 | 無題
976■■ 一年通したこと


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たとえそれがどんなことであっても、それが取るに足らない些細なことであっても、それを一年間続けたことによる満足感はあるものだ。
そして、よくも続いたものだという感慨の一方で、もう一年が経ったのかという時間の速さと短さをつくづくと思う。

それは正に取るに足らない些細なことで、風呂で石鹸を使うのを止めて一年が経ったというに過ぎない。
突然思い立って最初はシャンプーから始め、約二週間の時間差で石鹸も使うのを止めた。
衣服は汚れていないか、異臭はしていないか、思い付くすべてに気を払ったが、春を迎え夏が来て秋が過ぎ冬が終わり再び春の足音が聞こえる頃となって、自らの体で実践した小さな試みの結果に静かな歓びが湧いてくる。

地方での暮らしを選択したことをきっかけに、一生付き合わざるを得ないと諦めていた2つの薬も止めた。
何をやるにしても何を始めるにしても、先ずは体づくりが基本。
その為の自己免疫力を上げる取り組みも2年目を迎える...。

# by finches | 2013-03-05 09:29 | 無題
975■■ 冬の小鳥
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快晴の日曜、久し振りに山にでも入ってみようと思っていると、みるみる日が陰り冷たい風の吹く一日に変わった。
昼食に出るのも億劫で、時折チョコレートをつまみながら昼を跨いでの読書日となった。
時々窓からの景色を眺めながら何枚かの写真を撮っているうちに、突然この情景をブログを書こうと思い立った。

柿の木にもう実はない。
その柿の木の傍に昨日から蜜柑を二つ割りにして置いている。
それはメジロの為だが、そのメジロを筆者の宿敵・ヒヨドリが追い散らし、メジロの為の蜜柑を貪り食う。
窓の内には手裏剣ならぬ細く切った杉板を、窓の外には小粒の飛礫を一列に並べ、ヒヨドリの鳴き声がする度に撃退していたが、狡猾なヒヨドリとの戦いは相手が何枚も上手であることを渋々認め、その不毛な戦いに終止符を打った。

一夜が明け冷静さを取り戻した筆者はヒヨドリの撃退を諦め、ヒヨドリが蜜柑を食べられない方策を考えることに頭を切り替えた。
方法を変えながらメジロとヒヨドリの食べ方を注意深く観察し、とうとうメジロには食べられるがヒヨドリには食べられない蜜柑の吊るし方を発見した。

冬の庭にはハクセキレイが走りまわり、胸を叩くような音の主はジョウビタキ、柿の枝で羽繕いをしているのは餌を食べ終わった雉鳩の番、二つぶら下げた蜜柑をメジロが楽しそうに食べ、蜜柑を食べることの出来ないヒヨドリは時々やって来てはメジロを追い払いけたたましい鳴き声を上げている。

一本の柿の木で冬の小鳥たちが繰り広げる世界、そこからは微塵の濁りもない真剣な生の営みが見えてくる...。

# by finches | 2013-02-17 15:47 | 無題
974■■ 柿とメジロ Ⅱ
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やっと一羽二羽と見かけるようになったメジロも、二羽三羽、五羽六羽と数を増し、とうとう何十羽いるのかも分からないくらいやって来て柿の実を食べるようになった。

人間というものは幾つになっても強欲なもので、木に随分と残っている熟れた実を指しては、駄目になるからもぐように勧める。
要は収穫できるものは根こそぎ取ろうという発想で、小鳥たちにもそれらを分けてやろうなどという発想は微塵もない。

ナナカマドは秋にその赤い実を枝ごと随分と地上に落とす。
しかし、枝先に少しだけ残された赤い実は、冬雪に覆われ食べるものがなくなった小鳥たちの命を繋ぐ。
小鳥たちがその実を啄ばむ情景は美しいもので、紅葉のころの美しさとは一味違う生への躍動がある。

メジロたちにとってこの柿の実はナナカマドの実と同じだ。
柿の実を食べるメジロたちは必死で、そこには厳しい冬を乗り越えようとする躍動が感じられる。

冬は動物や植物の命を感じる季節だ。
眠っているようでも、そこには春へ向けての力強い躍動に満ちた世界がある...。

# by finches | 2013-02-12 08:34 | 季節
973■■ 休日の陽だまり
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穏やかな休日の朝、冬の日射しは暖かい陽だまりを床に落とし、遠くに見える海の波はキラキラと輝き、漁に励む幾艘もの船が見える。
南の窓はまるで絵画の額縁のように、日々変化する季節を切り取って見せてくれる。

既に実のなくなった柿の木に一羽のメジロがやって来て、実のないことを確かめるや、軽やかに飛び去って行った。
その姿を目で追いながら瓦屋根の上の雉鳩の番いに気付き、いつものように餌を置いてやるといそいそとやって来て啄ばみ始める。
その様を小椅子に座って眺め、二羽が飛び去るのを待ってゆっくりと二階に戻る。

今日はこれを書き終えたら温泉に直行し、午後はバロックの音楽会を楽しみにしている。
こんな休日を過ごせることに、心底から感謝...、重ねて感謝...。

# by finches | 2013-02-11 10:59 | 無題
972■■ 柿とメジロ Ⅰ
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今年はもうメジロは来ないのだろうかと思っていると、突然とその姿を見かけるようになった。
12月も終わりに近い頃だ。
姿は見せなくてもそこは鳥の目での観察に怠りも見落としもなく、食べ頃になるまで柿が熟れるのを待っていたようだ。

柿を食べにやって来る鳥には他に雀とヒヨドリがいる。
雀もヒヨドリも警戒心が強く臆病で、窓越しでも人の気配を感じた途端に逃げてしまう。
そして、雀もヒヨドリも狡賢い上に貪欲で、ヒヨドリに至っては食べる態度もマナーも最低といえる。
だから、雀もヒヨドリもどうも好きになれない。

その点メジロは窓越しに見ていても逃げないし、枝から枝にせわしく飛び移りながら一心に実を食べる姿が愛らしい。
楽しそうに丁寧に食べるところにも好感が持てる。

写真はそんなメジロを初めて撮影した時のもので、枝には沢山の実が残っていたし、メジロの表情にもどれから食べようかと思案する程の余裕が伺える、そんな一枚だ。
何百枚か撮った中から、メジロが見せてくれた冬の詩篇を少し紹介しよう...。

# by finches | 2013-02-10 12:14 | 季節
971■■ 節分の海
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日曜日、海を見下ろす温泉にでかけた。
太陽に干した布団を取り込める時間までに帰る、そのために昼を挟んだ数時間が当てられた。
「どこに行こうか」
「近場ならあそこがいいんじゃない」
と、その海が見える高台の温泉に決まった。

芽吹く準備を始めた木々の間を走り、遠くにこの地特有の形をした山並みを眺め、刈株が続く田んぼや若葉を一斉に出した麦畑やもう直ぐ芽を出すだろう真黄色な菜の花畑を思い浮かべながら、広い干拓地を横目に遠浅の海を眼下に斜張橋を渡り、美しい砂浜のある海へと向かった。

その海は中学一年の筆者が臨海学校に来た思い出の場所で、合宿した当時は国民宿舎だった高台に建つ建物と海との間の長く急な坂を一日に何往復もしたことを覚えている。
思えばこれも小学校から中学生活に入り心身共に鍛えんがための周到に準備されたカリキュラムだったのだろう。
当時、こんな綺麗な海があるのかと思ったことを今も覚えているが、長い年月を経て沖に浮かぶ小島も海の色も丸い水平線もあの時のまま変わらないように思えた。

立春を前にした穏やかな小春日和、石の防波堤の内側で風を除けながら弁当を開いた。
筆者たちは途中で野菜と一緒に買った、栗入りの御赤飯と恵方巻とサーターアンダーギーを分けて食べた。
そして、窓から冬木立越しに海が見えるサウナと、眼下に広大な海を見渡せる露天風呂を楽しみ、早目の帰路についた。

夕方までささやかな家庭菜園の手入れに軽く汗を流した。
作業を終えると鬼の面を被り、炒った大豆を小枡に入れた家人が待っていた。
そして、我が家恒例、節分の日の豆撒きが始まった。
鬼は外、福は内...。

# by finches | 2013-02-05 09:38 | 季節
970■■ メジロの死
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何かが何処かにぶつかったような異常な音に、その所在にあれこれと頭を巡らせた。
下に停めてある車に何かが当たったのではという突然の予感に窓を開けて見下ろすと、下階の庇の先に一羽のメジロがうずくまっていた。
良く見ると頭が朦朧としているようで、音の正体はそのメジロが窓ガラスにぶつかった音だと察した。

体の動きは止まり目だけを時折しばたたく微かな動きに、これは脳震盪を起こしているに違いないと、今にも庇の先から落ちそうなメジロの救出に取りかかった。
元気になるまで安静にしておいてやるために、大きめの紙箱に新聞紙を何重にも敷き救出に向かった。

その間数分、脚立を掛けて救うまでもなく、メジロは庇から落ちて動かなくなっていた。
「まだ助かる」、暖かいストーブの前でまだ温かいメジロを手の平に載せてゆっくり優しく心臓マッサージを始めた。
「きっと蘇生する」、その一念で頭をなでてやりながら柔らかい胸毛をゆっくりと押し続けた。
マッサージを止めた後も、ただ気絶しているだけかもしれないという微かな期待から、暖かい紙箱の中に寝かせてやった。

メジロが蘇生することはなかった。
メジロは数日前まで一心に実を食べていた柿の木の下に埋めてやった。
米粒と蜜柑一房を一緒に入れてやった。
きっとこのメジロは柿の木の守り神になってくれるだろう...。

# by finches | 2013-01-17 08:03 | 無題
969■■ 御降と年賀状
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御降の元日の朝、餅二つの雑煮と御節で二合の酒を嗜んだ。
散らし寿司の昼食を挟んで、後はひたすら年賀状書きに励み、夜は御節で再び三合の酒を嗜んだ。

御降とは「おさがり」と読み、元旦や正月三が日に降る雨や雪のことを言い、御降が降れば天がその年の豊作を約束してくれたしるしとして大変めでたがられた。

今年のお飾りに選んだ稲穂の尾を付けた藁を編んだ亀の周りは、次第に年賀状で埋め尽くされていった。
今年の年賀状は一枚一枚相手の顔を思い浮かべながら書いた。
そんな当たり前のことさえこれまではしてこなかったような気がした。

これから投函を済ませたら初詣に回ろうと思いながら今これを書いている。
窓からは明るい朝の光が射し込み、熟れた柿の実を何羽ものメジロがつつく様子を間近に楽しみながら書いている。
こんな穏やかな時間がこれまであっただろうか。

大晦日の小雪が元日の御降に、そして晴れに変わった。
今日も良い日になりそうだ...。

# by finches | 2013-01-02 09:38 | 記憶
968■■ 包丁納め

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凍えるように寒いか、冷たい雨が降るか、そんな日が繰り返される中、小春日和とはいかないまでも一瞬寒さが和らいだ一日の到来に正月用の寒ブリを下ろしたばかりの包丁を研いだ。
日陰は空気も水も冷たかったが、荒研ぎから仕上げまで4つの砥石を使って丁寧に研いだ。

自分の包丁を持ってかれこれ15年近くになる。
だから、包丁を自分で研ぎ始めたのもその頃からということになる。

その頃の包丁は今では使っていない。
今使っている柳刃は大阪で買い求めたもので、出刃は地元の野鍛冶が作った両刃という一風変わった代物だ。

砥石は既に8つ所有しているが、近いうちにもう1つ増えることになりそうだ。
研ぎについて記載のある本も何冊か所持しているが、その上にわざわざ図書館からその手の本を借りて読んだこともあった。

だが、これまで今一ちゃんと研げていると言えるのか自信がなかった。
片刃の包丁の砥石への当て方は分かっているが、今一つ砥石に当たる刃の微妙な角度が違うようで悶々としていた。

ところがこの度初めて研げたと実感する瞬間に出合った。
仕上がりはまだまだ未熟だが、全ての基本である研ぎの入口に立てたことは確かなようだ。

お陰でその日を包丁納めとした為に、折角の寒ブリのさくも下ろすことが出来ずにいる。
だが、大晦日の今日、納めを解いて一回だけ使ってみようか...。

# by finches | 2012-12-31 06:38 | 嗜好
967■■ 雉鳩
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冬木立の中にあって色のある実をつけた柿と柑橘の木々にほっと心が和む。
枝に残した沢山の柿の実は小鳥たちのもので、食べ頃に熟したものからなくなっていく。
蜜柑も酢橘も八朔も酢橙も黄色く色付き、これらは勿論食べてもいいがそのままにして目で楽しむのもいい。

水鉢のめだかたちも小春日和の暖かい日以外は姿を見せなくなった。
そんな冬の庭に毎日欠かさずやって来るのが雉鳩だ。
気が付くと葉を落とした柿の枝にとまっていたり、ガサガサと音のする方に目をやると柿落葉の上を歩いていたり、踏み石の上をこちらに向かって歩いていたり、そんな時は思わず「おはよう」と声をかける。

この日も一番手前の踏み石まで歩いて来た雉鳩に気付き、芥子の実を石の上に置いてやると、一旦は二つ先の踏み石まで後退するが、直ぐにやって来て美味そうに食べ始める。
時には日に何度もやって来ることもあるが、その都度餌を置いてやる。
雉鳩も筆者に興味があるようで、ただ枝にとまってこちらを見ている時もある。

そんなゆっくりとした時間が冬木立の間を柿落葉の上を流れていく。
そんな純な自然の営みの中で心は澄み感性は研かれる。
そして、復古していく自分がいる...。

# by finches | 2012-12-18 05:57 | 無題
966■■ 初氷-十二月
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毎朝寒い。
寒くて毎朝朝食時間まで布団から出ることができなかった。
起きなければと思いながら浅い眠りを何度も繰り返す、そんな朝を送っていた。

寒いという理由でブログも書かなかった、否、本当に寒くて書けなかった。
だが、今朝は徐に着替え、手袋をして庭を横切り、二階に上がった。
室温4度、アラジンが温風を吹き出すまでの余熱時間が長くながく感じられた。

皮張りの椅子も冷え切っていた。
仕舞ってあった膝掛けを取り出し、一枚は皮張りの背と座を覆うように掛け、もう一枚は膝に掛けた。
準備は整った、が、指先は凍るように冷たかった。

一昨日メダカの水鉢に張った初氷を撮っておいたのを思い出した。
今朝はその写真を使おう。
キーを打つ指先はまだ氷のように冷たい...。

# by finches | 2012-12-12 06:35 | 無題
965■■ 湯たんぽ

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突然湯たんぽを使ってみたくなった。
そこで、当然昔ながらのブリキの湯たんぽを探した。

毎朝、温泉から汲んで来た水で顔を洗っているが、ここにきて流石に冷たい。
その冷たさがシャキッとして気持ちのいいところもあるが、これからますます冷たくなると思うと、と考えるところもあった。

湯たんぽを使ってみようと思ったのは、温泉のお湯を湯たんぽに入れて眠り、朝はぬるくなったそのお湯で顔を洗ったら最高だろうと思ったからだ。
昨夜は湯たんぽ使用開始二日目、布団は温かいし、朝の洗顔も何とも気持ちがいい。

使用開始一日目の湯たんぽ係は家人が務めた。
3.6リットルの容量いっぱいに湯を入れるために計量し、それを2回に分けて沸かしていた。

使用開始二日目の湯たんぽ係は筆者が務めた。
計量は600mlのペットボトルで6回、薬缶は庭のガラステーブルの横にオブジェとして置いていた銅製の大薬缶を使い1回で沸かした。

この銅製の大薬缶、函館の名刹高龍寺の什器をご縁があっていただいたものだ。
一年余り何もせずに放置していた薬缶の中には雨水が溜まっていたが流石に銅の力は凄い、溜まり水は腐ることも汚れることも藻が付くこともなく、軽く洗っただけで直ぐに本来の薬缶としての機能を発揮した。

温泉の水はこの地方の名泉の中でもずば抜けた泉質だと筆者は思っている。
そのお湯を湯たんぽの中で一晩寝かせたことで、洗顔のお湯は一段と円やかさを増し、銅製の薬缶が確信こそないが何らかのプラス効果を付加しているように感じられた。

考えてみれば湯たんぽは昔の人が考え出したエコ商品だ。
お湯は暖を取るためのストーブの上に置いておくだけで沸いてくる。
そのお湯を無駄なく使う生活、それは正に循環型のライフスタイルと言えるだろう。

昔の人が普通に使っていたものが今一番使いやすい。
そこには足すことも引くことも必要としない淘汰された完成形がある...。

# by finches | 2012-12-02 08:36 | 持続
964■■ 気を活ける
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ワラ、ススキ、クマザサ、ベニバナ、フヨウ、ナナカマド、これらが大小の甕や皿や花瓶に活けてある。
どれも枯れているのだから活けてあるというのは正しくないかもしれないが、気に在って気に於いて、それらは未だに活き続けている。
それは、あくまでそれをそう思う側の主観的な感性の問題であり、そこにはそう思う側が思っている程の客観性も不変性もないのかもしれない。
だから、そう思わないそう感じない側からすると、それらに価値を見出したり愛でたり歓びを感じたり癒されたり、という繊細な感情を抱くこともないのかもしれない。

それらとは別に、隣家からもらった実付きの蜜柑の枝は大甕にそれこそ活けてあるし、友人宅に実った蜜柑は一見雑に見えるが台の上に活けてあるのだし、庭の柿の木からもいだ実もこれも一見雑に見えるが机の上に蜜柑と呼び合うように活けてあるものだ。
庭石の上にも実付きの幾枝かを配置し、もぐ時に竹竿から落ちた実も適度に土の上に残し、庭に設えてあるガラスのテーブルには沢山の実が置いてあって、熟れてきたらそこから一つ二つと食すことを楽しんでもいた。
前稿の小さな旅に持参した蜜柑は大甕に活けた蜜柑の枝からのものだし、柿はガラスのテールからのものだ。

昨夕出先から戻り灯りを点けると、先ず机の上の柿に何となくだが異変を感じた、何かが違う、と。
暫くして、ガラスのテーブルの上の柿が全て消えていることに気付いた。
写真は昨日の昼間二階の窓から柿の木とガラスのテールの柿の実を撮ったもので、いいものだと感じ入った正にその景色だ。
それらが、何の前触れもなく、ましてや何の断りも無くなくなっていることに、厭な強い衝撃を覚えた。

柿がなくなった理由は直ぐに分かった。
もらいに来られた隣人に差し上げた、それはそれでいい、それに文句はない。
だが、活きて気を創っていた柿たちを、ただの物として処分した母の心根と配慮の無さに強い憤りを覚えた。

机の上には小さい実だけが残され、ガラスのテーブルからは根こそぎ柿は消え失せ、そのテーブルは拭かれることもなく、雨に打たれた柿の跡だけが残されていた。
実を採った酢橘の木には30以上の実を残してあり、根こそぎその実を取ることはしない。
そんな心遣いが少しでも感じられたら、あんな厭な気持にはならかったと思う。

両親との同居には多くの我慢を強いられる。
だが、両親もきっと多くのことを我慢をしているのだろうと思いながら、重苦しく一日が終った...。

# by finches | 2012-11-27 06:38 | 無題
963■■ 旧道往還を歩く
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このところ日曜日になると決まって読みたい本持参での温泉通いを続けてきた。
温泉だと晴れだろうと雨だろうと関係なく、日曜の午後を楽しむことができることが妙に気に入っていた。
だが、昨日の日曜はちょっと行き先を変えてみた。
なだらかな照葉の原と林を歩いた子供の頃の強烈な記憶、その美しい記憶の場所はダムの水底に沈んでしまっていたが、その原を抜けた出口にあたる辺りを探している時に、偶然にも旧道往還跡を見つけていたからだ。

この旧道往還があの照葉の原に通じる入口かも知れないという期待から、二段の日の丸弁当、二本の京番茶、そして柿と蜜柑を二つずつ入れたバックを背負い、靴を長靴に履き替えると徐に林の道へと入って行った。
かつて参勤交代も通ったのであろう道は狭く、人家の横を抜けて暫くすると直ぐに木々に覆われた小道は前を見るとその先に、後ろを振り返るとその先にトンネルのような小穴が視界の後先に開いている以外は、下界の景色も空も木々で隠れていた。

途中、墓地で道を見失い別の道を暫く下ったが、おかしいと感じたら迷わず道を見失った起点まで引き返す冷静さえ持っていれば道は自ずと開かれるもので、次に選んだ道もこれが本当にその道なのかと不安を感じながらの下りではあったが、何とか視界が開け小さなお堂の脇に出ることができた。
そして、ちょっと苦目の京番茶で喉を潤し、お堂の脇の椎の木の下で日の丸弁当を広げた。

昨日は地名や地勢について考えながら長い距離を歩いた。
そして、そこから得られた新たな知見はまた新たな疑問を生み出しだ。
だが、これまで何か不思議な因縁に導かれるように集めたそれぞれの知見が、大きな歴史の織糸となり繋がっていくのを感じる、それは小さいが大きな旅だった...。

# by finches | 2012-11-26 08:16 | 記憶
962■■ 柿-十一月
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週末には枝にまだ多く残っている柿の実をもごうと思っていたが、突然のカラスの襲来に急遽柿の実の間引きを行った。
庭の柿の木は一昨年は沢山の実を付けたが、昨年はほとんど実がならず、そして今年はまた沢山の実を付けている。
庭の柿の木に一昨年は沢山のメジロがやってきて柿の実を綺麗に楽しそうに食べていたが、昨年は実のない柿の木に小鳥は寄り付きもせず、そして今年は雀とヒヨドリがやって来て熟れた実を食べている。

メジロと違い雀もヒヨドリも好きではない。
一昨年はヒヨドリ撃退用のパチンコを木の枝で作って、ヒヨドリがやって来ると様々な大きさ重さの木の実を集めた弾から一つを選んで撃った。
精度が悪いために弾がヒヨドリに当たることはないが、近くの枝に上手く着弾するとヒヨドリは慌てふためいて飛び去る、その不毛の行為を飽きもせず繰り返した。

東京ではベランダにヒヨドリが来るのを楽しみにして餌まで置いていたのに、今はそのヒヨドリが大嫌いだ。
それはカラスには及ばないが、兎に角その食べ方が汚いのが嫌で嫌でしようがない。
メジロは一つの実を綺麗に丁寧に食べ尽くし、一つを食べ終わってから次の実に移る。
だが、ヒヨドリは次から次へと熟れた実をつついては、食い残しを下に平気で落とす。
その初冬の風情を壊す粗雑さが嫌でたまらない。

今朝も早朝からヒヨドリの鳴き声が煩い。
それに引き換えメジロの姿はまだ一度も見ない。
こんなに実があるのにと思うが、その実が一昨年程甘くないのをもう既に知っているのだろうか...。

# by finches | 2012-11-22 08:33 | 季節
961■■ 楓-十一月
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筆者には好きな大楓の木が三つある。
一つは写真の楓で、毎日曜日に通う温泉への道中にそれはある。
もう一つは、これも月曜から土曜日まで毎夕通う温泉への道中にある三本大楓だ。
最後は、長い東京暮らしの中でも紅葉の頃になると必ず思い出していた子供の頃に遊んだ里山の、その斜面に聳える大楓だ。

前二つの紅葉の具合を確かめながら、最後の大楓の紅葉を見に行くのを今から楽しみにしている。
その里山が真っ赤に染まる紅葉の記憶は年を経ても消えることがなく、毎年その時期が来る度にその記憶は鮮やかに蘇り、「あの紅葉を見に帰りたい」と、思い続けたものだ。
だが、こうして日ごとに遅遅早早と微妙に変化して行く紅葉を見ていると、その最も美しい瞬間を見ることは遠くに暮らしていては所詮無理で、日々の暮らしをその中に置いていてこそ、その一瞬の出合いに立ち会うことが許されるのだと思った。

二日前の日曜日、写真の楓の木の下で川面を見ながらサンドイッチの昼食をとった。
杣の森へと続く川、その流れに沿うように鉄道が北へと延びている。
そして、その鉄道の向こうにはこの写真の道が完成するまで使われていた旧道が北へと延びている。
そんな景色を眺めながら、この旧道がかつての人々の暮らしの中にあった道だということを改めて考え、これから訪れようとしている温泉の地名の由来も初めて理解できた気がした。

その日もその温泉には読みたい本を持ってでかけた。
十二畳の部屋には筆者一人、そこから湯殿に行き、戻ると本を読む。
そんなことをいつも3、4回繰り返す。
この日は真昼の日射しが南から射し込み、立ち昇る湯気の粒子がまるでミストサウナにいるように一粒一粒輝いて見えた。
それを見ていると、湯煙ではなく、今正に生まれたての微細な水の粒子がピチピチと弾けるように空間を覆い尽くし浮遊し逆光に輝く様がよく分った。

帰り道、大楓は薄暗くなり始めた中に色を失いつつある周りの色と同化するようにポツンと立っていた。
川風がこの大楓の紅葉の出来映えを支配していると思いながら、「今年は葉が落ちるのが早いなあ」と、思った...。

# by finches | 2012-11-20 06:36 | 季節
960■■ メダカも寒かろう

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ここに来て朝晩めっきり寒くなりストーブを点けることも多くなった。
柿も随分と葉を落とし、梢の実もどれから取って食べて頂いてもいいという頃合いになってきた。
日曜には今年の初収穫の手始めとして、150個ばかりの実をもぎ隣家四軒に配った。
もぐ時に傷ついた柿は庭に設えたガラスのテーブルに並べ、ナイフと水を入れたバケツを用意した。
そう、食べたくなったらテーブルの柿をバケツの水で洗い、ナイフで剥いて剥いた皮はテーブルの横に掘った穴に投げ込み、ナイフで実を切り分けながら立ったまま食べる。
この野趣溢れる食べ方が実に美味い。

柿を食べながらふと足元の水鉢のメダカに目をやると、何だかとても寒そうに恨めしそうに見えた。
これまで越冬の準備などしてやることはなかったが、柿の木の下に風除けもなく置かれた水鉢の辺りは海からの風の通り道で気温が下がるようだ。
だから、今年は用意周到、防寒対策の為の藁縄を準備して寒さの訪れを待っていた訳だ。

インプラントの手術をして抜糸を待つ身の一人寂しさからか、メダカたちの水鉢に藁縄を撒いてやろうと突然作業を始めたのが昨日のことだ。
心なしか、今朝のメダカたちはみんな嬉しそうに泳いでいるように見えた。
そして、もっと寒くなれば風除けも作ってやろう、と思った...。

# by finches | 2012-11-16 08:12 | 無題
959■■ 読売朝刊コラム
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読売朝刊の『編集手帳』に、「巧い」と唸った。

11月8日木曜日はこんな風に展開する。

お笑いの世界には、<出落ち>という業界用語があるらしい。(中略)◆「登場した直後に落ちを迎えること」だそうで、それ以降は盛り上がることがない。(中略)◆小泉内閣のあと、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田…(中略)“出落ち内閣”がつづく。4年の任期を終えようとしてなお、熱気のなかで次の4年を国民から託されたオバマさんを見ていて、彼我の違いに気分がふさいだ。(中略)◆歌舞伎に由来する<屋台崩し>というオチがあるという。(中略)不誠実な「近いうち」発言で柱が1本倒れたと思ったら、「不認可」大臣の暴走でまた1本...◆<出落ち>のほうが、まだしも、である。


そして次に日、11月9日金曜日はこんな風に展開した。

(前略)石川啄木の歌に(筆者加筆)<気の変る人に仕へて/つくづくと/わが世がいやになりにけるかな>◆程度の差はあれ、気の変わる上司はどこにでもいるが、この役所にはかなうまい。「不認可」―「新基準を設けて再審査」―「現行基準のまま認可」。田中真紀子文部科学相が迷走させた3大学の新設問題は、ようやく落ち着くところに落ち着いた。(中略)◆少子化で学生は減り、大学の数は増えていく。「それでいいのか。認可基準を見直す方向は正しい」と、擁護する声もある。そうは思わない。車の運転で左折や右折をするときは、方向指示のランプを何十メートルも手前から点滅させるのがルールである。合図もなしにハンドルを切って事故を引き起こし、「方向としては正しかった」は通らない。(後略)

この先この国が衰退していくとすれば...、それは公共心と『恥』を捨てた企業人と、『principle(主義、信条、節操、道義)』を持たない政治屋と、そして...、物言わず群れる国民全てのせいだろう...。

# by finches | 2012-11-10 08:10 | 信条
958■■ 16世紀の遺構

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史跡発掘調査の報道関係者向けの現地説明会に参加する機会を得て、いそいそと出掛けて行った。
それは室町時代の館跡で行われてきた発掘調査で新たに見つかった庭園跡で、当時の館の空間構成や儀式・生活などを知る手掛かりとなるもので、まだ断定はできないものの枯山水の遺構ではないかとの説明があった。

当たり前のことではあるが、出土した事実だけから当時のことを推測する訳で、そこに想像力は不可欠だが創造力を足すことがあってはならない。
そこのところに自制が求められる分、いくら確信があっても断定を急いてはならないところが辛抱の為所だ。

遺構のあちこちにマークされた紐や、地層に細く描かれた線や、所々掘り下げられた四角い穴や、台地状に残された地山など、発掘現場でよく見かけるそれらの意味するところも教示を得られた。
地表から90センチ下に500年近く眠っていた遺構が見られるという貴重な体験は、そこで得られた知見も然ることながら、改めてそこに封印されていた歴史の記憶を毛穴に感じることができた。

次の日、その日紹介された研究者から、出土品から再現した食文化について纏められた資料が届いた。
そこには実際に再現された料理の写真などもあり、文字や図とはまた違うリアル感を持って往時の儀式・生活に思いを馳せることができた。

数年前までは大正も明治も遠い過去の時代だった。
だが、今は大正も明治は直ぐ其処、江戸もそして今回の遺構の時代も決して過去のものとするには得がたい教示が詰まっている...。

# by finches | 2012-11-08 08:19 | 遺産
957■■ 突然の訃報

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喪中につき新年の挨拶を遠慮する旨の葉書は毎年何枚か届く。
ただ、そのほとんどがまだ一度も会ったことのない親族の逝去に伴うもので、悲しいというより、「ああ、お亡くなりになられたのか」という静かな感慨を胸に抱きご冥福を祈って終わる。

だが、昨日穂高に住む友人から届いた「妻永眠」の訃報は、重く悲しく冷たい知らせだった。
もしあの世への順番があるとすればそれは長く生きた順の筈で、人生の途中で突然あの世に旅立たれては残されたものが堪らない。

東京を離れる前に一度訪ねておきたいと思いながら叶わず、今年に入ってからも何度も訪ねてみようかと思う気持ちが頭を掠めていた。
そう思わせたのは、すでに半年前に逝去されていた「彼女」からのメッセージだったような気がする。

初めての結婚式も彼らだった。
雪が降っていたのを鮮明に覚えている。
前日入りして友人とその友人たちと祝いの酒を夜遅くまで飲んだ。

京浜急行の弘明寺(ぐみょうじ)にあった新居にも何度か行った。
友人は父親の急逝で東京から故郷に戻り会社を継いだ、その時の苦労も頑張りも見てきた。
結婚前に家人を連れて訪ねたこともあった。
その時は友人、その母、筆者、家人、その四人で燕岳(つばくろだけ)に登り、「彼女」は呆れたようにそれを見送った。

数え上げれば切りがない山程の思い出がある。
もっと話をしておけば良かった、話を聞いておきたかった。
一夜明けその突然の訃報はまだ重い...。

# by finches | 2012-11-06 08:24 | 無題
956■■ 栗のテーブル

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七畳半は短手が一間半の長手が二間半の大きさだが、この六畳が長手方向に半間延びた大きさがどうにも使い難い。
六畳より広いのだから使い易そうだが、縦横比のプロポーションの悪さなのか、家具がどうにも収め辛い。

その七畳半の発想を転換させて、逆に大きなテーブルを置いてやろうと決めた。
手持ちの栗の厚板9枚を組み合わせを替えながら何度も並べ直し、バランスの良い2枚を選び出した。
その時ベストだと思った向きを忘れない為に、それぞれの板が接する側に対峙する記号を振ることも勿論怠りない。

二日間はその板を並べたままただ眺めるだけにして、さあこれからどう手を入れようものかと思案を重ねた。
三日目から「少し皮剥きしては眺め」を繰り返し、三日かかって荒剥きまでの作業を終えた。
作業を急がないのは、皮と辺材との境の見分けがつかず、無暗に辺材に深く切り込むのを避けるためだ。
それは遺跡の発掘作業に似ていると思った。

天板の表面も荒く仕上げたい。
普通なら加工に出して綺麗に鉋仕上げというところだろうが、それでは栗材の味わいが無くなってしまう。
まあ、慌てず焦らず、ゆっくりじっくり、栗と話しながら、栗の気持ちを確かめながら、材料の持ち味を引き出してやろうと思っている。

この栗材は津軽海峡を渡って遥々やって来たものだ。
この木を山から切り出した人、この木を製材した人、この木を運んでくれた人、その人たちのことを思いながら、ゆっくりと栗の板に命を吹き込んでやろうと思っている...。

# by finches | 2012-10-27 07:52 | 無題
955■■ 追想Ⅷ-横浜・西波止場

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『武州久良岐郡横浜村麁絵図』には大岡川河口に広がる浅い内海と、『象の鼻』と呼ばれる砂州が描かれていた。
この『象の鼻』の部分が西を大岡川、南を内海の埋め立てにより流れを変えられた中村川、東を開削により造られた堀川によって切り離され、まるで出島のように『居留地』を形成していたのが開港当時の横浜の姿だ。

もう少し詳しく言うと、この『居留地』の海縁に神奈川運上所(現在の税関)が建設され、2本の突堤を築いて西波止場とし、この運上所を境に西側を日本人居住地、東側を外国人居留地と定め、居留地には東波止場が設けられた。
この日本人居住地と外国人居留地を分けていた大通りが重文・横浜市開港記念会館などが建ち並ぶみなと大通りで、西波止場は現在の大桟橋埠頭、東波止場は現在氷川丸が係留されている場所辺りとなる。

この大桟橋埠頭にある国際客船ターミナルは1995年に実施された国際コンペで、イギリス在住の建築家、アレハンドロ・ザエラ・ポロとファッシド・ムサヴィ両氏の作品が最優秀案に選ばれ、2002年にその完成をみたものだ。
この日関内から歩き始めた終着点がこの国際客船ターミナルとなった。
木のデッキと芝生が緩やかな起伏を描きながら桟橋の突端に伸びていく斬新なデザイン、よくもまあ、あの案を実現できたものだと、ウォッツォンのシドニーオペラハウスの例を思い出しながらゆっくりと見て歩いた。

デッキに腰を下ろし沈み行く真っ赤な夕日を飽かずに眺めた。
遠い夕日を眺めその日一日を反芻しながら、初めて横浜のことが分かってきたような気がした...。

# by finches | 2012-10-24 09:16 | 無題
954■■ 新東京市中央図
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前稿の『新東京市中央図』に描かれた市電の路線と、絵葉書に写った相生坂を登る市電を見ていて、その市電の行く先にある飯田橋駅に目をやりながら、あるひとつの感慨が頭を過った。
それはあの忌まわしき三月十一日、東北大震災が起きたことで突然止まった、それさえ起きなければその日にきっと書いていたはずの『甲武鉄道・飯田橋駅』のことを思い出したからだ。

甲武鉄道について調べていくと、江戸から明治へと東京の街が出来上がっていく、その様、その過程が見えてくる。
当時多くの民営鉄道が東京の中心に向かって、西から東に北から南へとその路線を延ばしていったが、それはあたかも一本の織糸を作るように、紡がれた短い糸が少しずつ繋がれていくように延びていった。
そして、そこには生糸の輸送という国策を背景としたもう一つの使命もあった。

甲武鉄道の飯田橋駅はどこにあったのだろうかと随分考えた。
大体の場所は分かっていても、高架になっていた筈の線路をどうやって地上まで下げることができたのか、その部分への疑問がどうしても解けなかった。
だが、何度も足を運んでいるうちに、現在の高架や地上にその痕跡が残されていることに徐徐にではあるが気付いていった。

筆者の頭の中にも紡がれた短い糸が少しずつ繋がれた織糸があって、それが想像力という織機で織られるのを待っている。
織れてもまだそれは一寸角くらいの端切れのような小片の集まりでしかないだろうが、それらが繋がって一枚の織布になる日もやがて来るだろう。

『新東京市中央図』は小さな地図だが、そこにも計り知れない歴史の情報が嵌め込まれている。
改めて、当面必要がなくても基礎資料の蒐集だけは怠ってはならないと肝に銘じる思いがした...。

# by finches | 2012-10-21 08:51 | 無題
953■■ 聖橋・絵葉書
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前稿に続き何故か聖橋…。
明け方に宮本輝の『泥の河』を読み終えたせいか、その中での大阪の川と橋と人々の暮らしへの余韻が覚めやらぬせいか、今朝は大阪の橋でも書こうと写真を探していて『大東京の十六大橋』という絵葉書が目に留まった。
その中の一枚『聖橋』に市電が写っていて、前稿の松住町架道橋の下を潜って相生坂を上って来た市電というのも何かの縁と、再び聖橋を取り上げることにした次第だ。

ところで、どうして相生坂と呼ばれるかと言うと、神田川対岸の駿河台の淡路坂と並んでいるからだ。
『相生』の意味が、「一つの根から2本の幹が相接して生えること、二つのものがともどもに生まれ育つこと」から分かるように、何とも洒落て粋な命名ではなかろうか。

早速『新東京市中央図』(昭和10年初版)で市電の路線を見てみると、松住町電停を出て御茶の水電停に向かう市電だということが分かる。
ついでに、この場所を『東京一目新図』(明治30年)で見てみると、聖橋はまだなく御茶水橋だけが描かれているのに興味を覚えた。

さて、絵葉書に話を戻すと、神田川右岸の鬱蒼としている部分が現在の御茶ノ水駅で、前稿版画に描かれた『聖橋』は神田川左岸から松住町方向を見たものとなる。
現在の聖橋は改修工事によって橋全面にモルタルが吹き付けられてしまっているが、この絵葉書を見る限り柔らかく味わいのある左官の手仕事が全体に感じられ、それがアーチの造形に表現派特有の人間味のある湿り気を加味しているように思う。
そして、そのこともこの聖橋が持っている懐の深さの一つなのだと思う...。

# by finches | 2012-10-18 08:15 | 遺産
952■■ 聖橋・版画
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写真は「昭和大東京百図絵」(昭和7(1932)年)に収められている、小泉癸巳男(Koizumi Kishio)の「聖橋」だ。
関東大震災の復興事業で聖橋が架けられたのは昭和3年、聖橋を通して後方に昭和7年完成の総武本線松住町架道橋が描かれていることから、小泉癸巳男はこの松住町架道橋をどうしても聖橋の背景に借景として使いたかったことが窺える。

そこには聖橋が鉄筋コンクリート造の開腹式アーチ橋であるのに対し、鋼鉄製のブレースドリブタイドアーチ橋を対比させた構図の中に、生まれ変わった帝都を正確に後世に伝え残す貴重な歴史資料としての側面が隠されている。
また、この松住町架道橋は関東大震災後に総武本線の両国橋(現両国駅)・御茶ノ水間の延伸工事で生まれた橋だということからも、帝都東京が新しい時代に力強く踏み出したその一歩を象徴する構図でもある。

拙稿ではこれまで5稿の中で聖橋に触れているが、肝心の聖橋をテーマに書くことはなかった。
手持ちの写真も随分とあるにはあるが、この橋が建築家・山田守の設計として余りにも有名である以上に、特段説明を加えてみたいという気持の誘発には至らなかったからだ。

だから、今朝も聖橋を通して見えてくる時代を書いただけで、肝心の聖橋については何も書いてはいない。
だがもしかしたら、この橋はもっと懐が深いのかも知れない。
その懐の奥にあるものが見えてきたら、その時はきっとこの橋について書けるような気がする...。

# by finches | 2012-10-17 06:24 | 復興
951■■ 川辺のアーチ橋
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厳密に言えばこれは橋ではない。
本来橋とはこっち側からあっち側へ渡るという目的を持って架けられるもので、渡ることのないこっち側だけ、或いはあっち側だけにあるものは橋ではないだろう。
だが、これがただ柱が林立している今風の味気ないものだったら敢えて橋とは書かないが、これが美しいアーチとなると橋と書きたくなってくる。

このアーチは川沿いに連なる温泉旅館の前の道路を川側に拡幅するために造られたもので、これに繋がる橋に昭和5(1930)年と竣工年が刻まれていることから、このアーチもその年に造られたものと考えていいだろう。

この手の鉄筋コンクリート造の開腹式アーチ橋としては、震災復興で昭和3(1928)年に神田川に架けられた御茶ノ水の聖橋が有名だ。
聖橋は建築家・山田守の設計として知られその表現派的デザインを特徴とするが、この温泉街のアーチ橋もそのデザインが各地で踏襲されていった一例と見ることができるだろう。

これまでに拙稿で取り上げた中にも石神井川音無橋(昭和5年)や相模川小倉橋(昭和13年)などがこのデザインを踏襲した例と考えられるが、地方温泉でのこのような実施例は珍しいものだと思う。

対岸から眺めていても鉄筋コンクリート造の冷たさも無味乾燥なところもなく、寧ろ柔らかく温もりさえ感じ川に降りてみたくなってくる。
それは、デザインというものが如何に重要な要素であるか、82年の歳月を経て尚現代人の心を揺さぶる力がある。

因みにこのアーチに繋がる橋はアーチ橋ではない。
水面までの高さがない橋をこの形式のアーチ橋にしなかったのは、洪水時に流れを堰き止めないことへの配慮だったのだろう。

昭和5年製のそれら鉄筋コンクリート造建造物は、対岸にある二つの掛け流しの町湯と静かに穏やかに対話を楽しんでいるように見えた。
秋の空は青く高く、凛とした空気に桜紅葉も輝いていた...。

# by finches | 2012-10-16 08:21 | 遺産
950■■ 追想Ⅶ-横浜・ヘボン

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横浜でのお目当ては三井物産横浜支店(明治44(1911)年、設計・遠藤於菟)を見ることと、横浜開港資料館の図書室で調べものをすることだったが、その資料館で一枚の絵葉書に目が止まった。
その写真は明治後期に撮影されたもので、絵葉書のタイトルには『谷戸橋のたもとの旧ヘボン邸』とあった。
『ヘボン』からヘボン式ローマ字の、あのヘボンだと直感した。

その一枚の絵葉書を入口に、これまで知らなかった横浜の歴史についての多くの知見を得ることができた。
入口となったキーワードは『川』と『橋』で、そこから調べを進めて開港前の横浜を表した『武州久良岐郡横浜村麁絵図』に出合い、当時の横浜が大岡川河口に広がる浅い内海と、『象の鼻』とよばれる砂州からなっていたことを知った。

この内海と『象の鼻』の跡は現在の地図の上にもくっきりと残されていて、現代にその過去のレイヤーを重ねると、はっきりと横浜開港から現在までの歴史の痕跡を辿ることができる。
簡単に説明すると、かつて内海には大岡川とその支流である中村川が注いでいたが、江戸時代の新田開発によりこの内海が埋め立てられ、『象の鼻』の縁に沿うように中村川は西へと流れを変え大岡川に合流した。
開港後はこの『象の鼻』部分の東側が外国人居留地、西側が日本人居留地として整備され、中村川から海に向かって現在堀川と呼ばれている川が開削された。

その堀川に架かる第一橋梁が谷戸橋で、そのたもとにかつてヘボン邸があったことを絵葉書は示していた。
かつて図書館で幾度も目にしたヘボン式ローマ字一覧表、それを作ったヘボン氏が実はJames Curtis Hepburnで、当時の日本人が英語の発音を聞き分けることができなかった為にヘップバーンがヘボンになったことも知った...。

# by finches | 2012-10-14 11:19 | 無題
949■■ 追想Ⅵ-横浜
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何年か前から街の歩き方が大きく変わった。
それを一言で言うなら、敢えて遠回りをするということだろうか。
一つ手前の駅で降りて歩く、無理に路線を乗り継ぐのを止めその路線上の駅から歩く、川向うに行くにも手前の駅で降りて隅田川を歩いて渡る、そんな遠回りだが新たな出合いと発見を楽しむ歩き方だ。

関内で降りて横浜を初めてそんな風に港まで歩いた。
すると、今まで自分の中で横浜の中心から外れた場所であった所が、実は横浜開港の歴史に繋がっていることが分かった。
それは外国人居留地と日本人居留地とを分けていた道で、その軸線から見ると横浜の街の歴史や古い建物の成り立ちの謎が全て解けるように思えた。
そして、何十年もそれぞれ単体でしか見てこなかった古い建物が、歴史の織糸で結ばれていることにも気付かされた。

限られた滞在時間の中でわざわざ横浜を訪れたのは、横浜開港資料館や横浜都市発展記念館などでの資料集めと、三井物産横浜支店(旧名)を見たいと思ったからだ。
三井物産横浜支店は明治44(1911)年の完成で、建物全体を全て鉄筋コンクリート構造により実現した日本最初のオフィスビルだ。
この建物は関東大震災後に増築がなされているが、明治44年製のオフィスビルは大震災にも見事に耐えた堅牢な姿のまま穏やかに街の風景に溶け込んでいた。

古いというだけで耐震性がないと決めてかかる数多の大嘘を嘲笑うように、その101歳のオフィスビルは悠然と建っていた...。

# by finches | 2012-10-13 09:06 | 無題