■■ 中央区立城東小学校
b0125465_16295534.jpg東京市復興小学校DATA

[城東小学校]
創立年月 明治39年6月
竣工年月 昭和4年3月19日
工事請負 武田組
校地坪数 1,051.210坪
校舎坪数 1,296.088坪
学級規模 22学級 (現在6学級)
[竣工時校名]
東京市京橋昭和尋常小学校
(南槇町尋常小学校)
[所在地]
東京都中央区八重洲2-2-2
http://www.chuo-tky.ed.jp/~joto-es/




現在、城東小学校は東京駅八重洲の外堀通りを隔てたビルの真裏にあって、周囲をビルに囲まれ注意して見ないと通り過ぎてしまうくらい、こんな所に学校があるとは到底思えないような場所に建っている。

もともとの城東小学校は日本橋区立で、現在日本橋高島屋の向かいに中央通りを挟んで建っている、丸善のちょうど真裏にあった。 一方、京橋区立の京橋昭和小学校が、現在の城東小学校の場所にあった。 そして、この二つは共に昭和4年に完成した紛れもない復興小学校と言える。

しかし昭和37年になると、中央区立京橋昭和小学校は廃校となり、この二つが統合されて旧京橋昭和小学校校舎が中央区立城東小学校として生まれ変ることとなった。 昭和3年創立の若い京橋昭和小学校が城東小学校に名前を捨て校舎を譲ることで、明治8年創立の城東の歴史が受け継がれたことになる。

さて、「函館・弥生小学校の保存を考える」 でもこの学校のことは取り上げているが、余りにいとおしくて、この学校だけはその名を書かずにおいた。
現在、この城東小学校は全学6学級、全児童55名、1年15名、2年7名、3年7名、4年7名、5年9名、6年10名足らずの超過疎小学校だ。 しかし、ここで行なわれている情熱と創造に溢れた教育に触れるため、訪れる視察者は後を絶たない超有名小学校としての顔を持つ。 それはここに他では失われた教育の原点があり、子どもと教師が一つになって育もうとするけなげさがあるからだと思う。

写真は昭和4年の朝礼の様子で、京橋昭和小学校創立から1年と書かれていた...。



b0125465_1014138.jpg

かつて現在の東京駅八重洲前の外堀通りは、その名が示す通り江戸城の外堀だった。
東京駅が開業したのは大正3年のことだが、言うまでもなく東京駅は皇居に向いた丸の内側に駅舎が建てられ、現在の八重洲側には出入り口一つなく、この外堀によって日本橋方面とは二本の橋を除き全く遮断されていた。
東京駅は正に日本の表玄関でありそこから皇居へと続く丸の内は、「真行草」 に例えるなら正に官民揃って 「真」 の街づくりが行われた。

一方、現在の地下鉄銀座線がその地下を走る中央通りは新橋から上野へ続く幹線で、上に同じく例えるなら民の 「真・行」 入り混じった活動的な街であり、その周縁つまりこの学校が建つ外堀辺りはまだ 「草」 の町並みであったと想像される。

明治8年に開校した城東小学校が日本橋に近く、昭和3年に開校した京橋昭和小学校 (現・城東小学校) が中央通りから外に向かって進む市街化形成に呼応するように新設された背景が窺える。
大正13年につくられた関東大震災後の復興計画図を見ても、当時の京橋昭和小学校 (現・城東小学校) は背後に外堀を望む外れに建設されたことが分かる。

因みに、現在の地下鉄銀座線が当時繁華街で高収益が予想された上野・浅草間に日本初の地下鉄として開業したのは昭和2年、そして新橋まで全通したのは昭和9年のことだった...。




b0125465_82523100.jpg

現在は中央区になるが、この小学校が完成した当時は京橋区と言われていた。
関東大震災で焼失した京橋区内の小学校は15校あり、その内復興小学校として新築されたのは13校だった。
東京の復興小学校の数は117校で、その総数は小学校建設のための復興予算の関係から焼失した小学校の総数に等しく抑えられた。原則としてそれぞれの区で焼失した数に等しい小学校が復興小学校として建設されたが、京橋区だけは2校が減らされその2校が浅草区に配分された。それによって浅草区は震災前の18校から20校に増えるが、この数字一つを見ても当時の浅草区の繁栄の様子を垣間見ることができる。

京橋区内の13校の内、復興事業に追加計画された佃島小学校だけは昭和6年の完成となるが、3校が大正15年までに、9校が昭和4年までに完成している。
この時期を昭和2年の上野・浅草間地下鉄開業 (日本初) と重ねて見ると、よりこの時代を深く感じ取れる気がする。

この現・城東小学校の前身は昭和4年に産声を上げた京橋昭和小学校だが、震災で焼失する前この場所には南槙町小学校があった。
今はビルに埋もれて窮屈そうなこの小学校も、南槙町、京橋昭和、そして城東小学校と名を変えながら力強く生き抜いた歴史がある。

この歴史の記憶は今、城東小学校の建築の記憶となって受け継がれている...。




b0125465_7295974.jpg[Photograph source]
Wikipedia



4階の玩具売り場から出火した火災は8階までを瞬く間に焼き尽くした。帝都復興を遂げた東京、その日本橋の買い物客で賑わう白木屋を襲った大火は、昭和7年12月16日のクリスマスセール最中の惨事だった。
この火事を一人の少女が城東小学校から見たという話が頭から離れない。
その少女も今では80歳を過ぎている。
そして、この少女との不思議な縁がこの小学校へと導き、復興小学校への扉を開けてくれたと思っている。

城東小学校に初めて足を踏み入れた時の印象を今でも忘れることはできない。
使い込まれた全てのものに言いようのない均衡が保たれていて、そのうちのどれが欠けてもその均衡は崩れるような気がした。
そのことが危なげな印象を与えながらも、けなげさと愛おしさを感じたことを今でも覚えている。
これまでやってきたこと、今やっていること、これからやろうとしていること、それらは自分の生き方の反映に過ぎないことにも気付かされた。

守らず捧げる生き方をしろと、この建築が囁いた気がした...。




b0125465_1842522.jpg

関東大震災が起きた年の12月には、早くも小学校教育復興に関しての注意事項が校長会で決議されている。
その中の屋外運動場についての記載を読むと、適当な舗装をすること、体操用器械・運動用器械・砂場・トラック・テニスコート・足洗場・花壇・プールなどの設備を設けることなどが書かれている。
復興小学校の屋外運動場は、最も小さいものと最も大きいものを除いた上で見ると、108坪から925坪までその広さはまちまちだ。

城東小学校 (旧京橋昭和小学校) を見ると291坪の広さがあった。
実際にそこに立ってみるとやはりその狭さを実感したが、その狭小さを補う見事な工夫がされていた。
プールの時期になるとグランドを覆っていた蓋が取り払われ、その下からプールが現れる。その分グランドは狭くなるがその境には落下防止の低いフェンスが置かれ、如何にも楽しそうな一体の空間が生まれる。

今は一年中アイスクリームを買うことができる。だが、昔は夏になると冷凍ケースの中に色とりどりのアイスクリームが並び、それを待ちわびて夏の到来を実感したものだ。
ビルの谷間に埋もれるように建つこの小学校だが、花壇には季節の花が絶えることはなく、何よりこのプールの大仕掛けが子供たちを夏へと誘う。夏の暑さが来るのを待ってやっと蓋の鍵がはずされた、あのアイスクリームの冷凍ケースさながらに。

グランドのトラックが消える先には子供たちの夏があった...。




b0125465_9582264.jpg

東京市の小学校鉄筋コンクリート造校舎には設計規格があった。
それは、短期間のうちに罹災した小学校117校を復興するに当たり、充実した機能を持った健全な教育環境の確保、安全性、そして経済性すべてを同質に担保する重要な意味を持っていた。

写真の中でこの設計規格を透視して見るのも面白い。
教室の採光は室面積の1/6以上、窓の下縁は床面から75センチ、上縁は天井まで、これらが大きな四角な窓に表れている。
屋上運動場のパラペットは120センチ以上、加えて眺望し易い構造にすることが求められている。
1階教室の床はグランドから75センチ以上、昇降口はグランドと同じレベル、などがこと細かに決められている。
因みに写真左端にこの昇降口からグランドへの扉、樹木の脇に教室からグランドに降りる階段が見えている...。




b0125465_7254246.jpg

復興小学校の鉄筋コンクリート造校舎の設計規格の中には、当然廊下や階段についての記載もある。
教室などの規格が採光を中心とした教育環境や衛生面を重視しているのに対して、こちらは避難時の安全を最も重んじている。
今でこそ数多の設計資料を参考にしたり、関連法規に準じておけば最低限の設計くらいならできるだろうが、当時は過去から脱皮し新しい規範をつくろうとするなら、それは限られた洋書の中に求めるしかなかった。

階段についての記載を興味深い思いで読んだ。
それによると、ニューヨークの学校建築家スナイダー氏の実験に基づき、非常時に於いて全校舎を開けた時に、3分以内に退出できるよう設計規格が決められたそうだ。
1920年代という時代、どこか哀愁が漂う美しい時代。この宝石のように輝いた時代の一方で、日本という国の礎をつくるべく技術者による様々な取り組みが模索しながら続けられていたことを改めて知った。

復興小学校によって益々1920年代に引き寄せられて行く...。




b0125465_165646100.jpg

復興小学校には唱歌、図書、手工、裁縫、作法、理科、家事などの特別教室が設けられた。
中でも設備を要した理科室と手工室については細かな規格が示されている。
当時の小学校を卒業すると多くの生徒が仕事に就いた時代を考えると、この特別教室のほとんどが社会での実践につながる教育の場であったことが想像される。

手工室をとってみても現在と異なる様々な工具が用意され、高等科に至っては板金細工や簡単な冶金・旋盤の設備を備えるものまであった。また、音が発生する手工室は1階の翼部に置くことが推奨され、設備配管や配線の効率化に加えて塵処理までも考慮して、その2階に理科室を置くことが書かれている。
加えて手工室は2面乃至3面の採光が求められ、明るく快適な場所として用意されたことが窺える。

さて、今と当時とはその授業形態も異なるが、綺麗に整理整頓され子供達への出番を待つ道具類に、この学校に潜在する力と図工(美術)を担当する若い先生の教育者としての豊かな感性と資質を感じた。
その一方、函館には教育委員会と市長によって今まさに壊されようとしている弥生小学校という由緒正しい学校がある。
この弥生小学校の見晴らしの良い階にある床の間付きの和室のことを思った。

そして、明るい日差しが射し込むあの和室で裁縫や作法を教え習う昔日の光景に想いを馳せた...。




b0125465_16585488.jpg

復興小学校には共通の規格があって、その中に単位という考えがある。
一単位は梁間6.9メートル・桁行2.85メートルで、例えば普通教室はこの3倍があてられ、梁間6.9メートル・桁行8.55メートルとなる。

教室の中を見ると、正面黒板、背面黒板、掲示板、長押などが決められた高さに設けられた。
床は板張りで、腰羽目は見切長押と巾木が付けられた。
そして、2階以上の窓には手摺を付けることが謳われている。

写真は城東小学校の普通教室の様子だが、窓は上で説明した2.85メートルピッチで開けられ、前に 「設計規格を読む」 で触れた様に、採光の為に目一杯の高さまで開けられていたことが分かる。
夫々の造作もハッキリとした意味を持って用意されていて、この腰羽目一つを取ってみても壁を清潔に保つと共に、柔らかい木の温もりを子供たちの目と手に伝えているようだ。

無駄がなくきちんと意志を持った仕事は、時を経てその輝きを増しこそすれ色褪せることはない...。

# by finches | 2009-04-01 16:00 | 復興
■■ 中央区立常盤小学校
b0125465_1747471.jpg[常盤小学校]
創立年月 明治6年3月
竣工年月 昭和4年5月15日
工事請負 大林組
校地坪数 1,247.520坪
校舎坪数 1,130.000坪
学級規模 19学級 (現在6学級)
[所在地]
東京都中央区日本橋本石町4-4-26
http://www.chuo-tky.ed.jp/~tokiwa-es/


東京市復興小公園DATA

[常盤公園]
開園年月 昭和5年9月
公園面積 620.04坪



明石小学校の中を見る切っ掛けを頂いた父兄との待ち合わせまでの時間を利用して常盤小学校まで足を伸ばした。
ちょうど明石小学校の公開日に常盤小学校では防災フェアが行われていて、グランドと講堂への立ち入りが許されることを知ってのことだった。

日曜日の雨の日本橋、それも千代田区に近いこの当たりは人影もまばらだった。
2度目となる常盤小学校、筆者が好きな復興小学校の一つだ。
柱型がない少し彫りの深い窓が美しく、細部には明らかにアール・デコの影響を残しながらも、全体はどこか古いイタリア建築のような洗練された落ち着きがある。それはアーチ窓と四角窓の扱いの上手さ、バランス、プロポーション、そしてパラペット先端の小さく曲面を描いて外に迫り出した終わり方、それら全てが設計者の思想と高い力量を今に伝えている。

前回の明石小学校で、復興小学校の中にはそのグレードに差があるようだと書いたが、筆者はこの常盤小学校もその一つと捉えている。
このことを具体的に建設費の坪単価で見てみると、復興小学校117校の内で350円/坪以上の学校が19校ある。そして大変興味深いのは、その内の10校が現在の中央区にあるということだ。また、これは中央区の全復興小学校数24校から見ても、当時の京橋、日本橋両区の繁栄振りがその背景として見えてくる。

筆者は思う、現存するこれらの復興小学校が持つ 「建築の記憶」、それは正に 「日本の記憶」 そのものなのだと...。

# by finches | 2009-04-01 15:00 | 復興
■■ 中央区立泰明小学校
b0125465_1851483.jpg[泰明小学校]
創立年月 明治11年6月
竣工年月 昭和4年6月4日
工事請負 錢高組
校地坪数 1,109.740坪
校舎坪数 1,298.564坪
学級規模 20学級 (現在12学級)
[所在地]
東京都中央区銀座5-1-13
http://www.chuo-tky.ed.jp/~taimei-es/



東京都中央区銀座5丁目-1-13。
泰明小学校は銀座の数寄屋橋交差点の近く、数寄屋橋公園を抜けた場所にある。
抜けたと言っても数寄屋橋公園はほんの小さな公園で、銀座の喧騒の直ぐ傍にあって屋内体操場の曲面のシルエットが、昭和の初めにタイムスリップしたような不思議な気持ちを抱かせる。
今では高速道路に姿を変えているが、この学校の北側にはかって江戸城の外濠があった。
現在は建物の裏側でほとんどの人がその存在に気付くこともないが、大きく跳ね出したバルコニーや窓などのデザインの中に、この水と柳の見える景色を意識したオンリーワンの設計が隠されている。

都会の中心で起きている過疎化と少子化に伴う児童数の減少、中央区に残る殆どの復興小学校が小規模学級での学校経営を余儀なくされている中で、この泰明小学校だけは入学を希望する父兄で引く手数多の人気校だ。
昭和4年に完成した校舎は、前に取り上げた明石小や常盤小と経年だけで捉えた老朽化という意味では共に同じで、この、人間が維持し補うことが出来る決して欠点とはならない持続可能な部分を外せば、他は現代の薄っぺらな建築には決して見ることの出来ない、質の高い設計がなされている非常に優れた建築と言うことができる。

この泰明小学校は、銀座という立地条件、ツタの絡まったアーチ窓を持つ郷愁溢れる古い校舎、建築の記憶に包まれた環境で子供を学ばせたいという心理、それらが上手く噛み合って今では人気のブランド校としてもて映やされている。
しかし、学校教育の歴史はその時代時代の都合に迎合してきた。
そして、過疎化と少子化問題からここだけが隔離されているのではない。
この学校に通う児童の越境入学の道がもしも絶たれたならば、明日にでも他と同じ小規模学級の学校経営を余儀なくされることにならないとも限らない。

現在、泰明小学校に取り壊しの危険はないが、信条なき人たちによって、いつこの安泰が崩されるか分からない危険はあるのだ...。

# by finches | 2009-04-01 14:10 | 復興
   ◆ 泰明小学校・建築の記憶
b0125465_15542322.jpg
空襲の記憶
[Photograph source]
 撮影/菊池俊吉(昭和20年2月)


65年前の昨夜、アメリカ軍による東京への無差別焼夷弾爆撃が行われ、約10万人の命が奪われ約27万戸の家屋が焼失し約40平方キロメートルが焦土と化した。
1945年3月10日、この夜の無差別爆撃を東京大空襲と言う。

前稿の写真は数寄屋橋公園から夜の泰明小学校を撮影した帰りに撮ったものだが、次の日にその泰明小学校を取り上げようとは思ってもいなかった。
写真は昭和20年2月の撮影となっているので3月10日の東京大空襲を収めたものではないが、京橋区の被害状況と撮影日とを重ねて見ると1月に京橋区を襲った空襲の傷跡を撮ったものと思われる。

学校内部の被害状況を見ても火災ではなく爆風でやられたことが分かり、校庭に面した西側入隅部分は柱の鉄筋が剥き出しになる程の被害を受けている。
同じ校舎を背景にして土門拳が撮った出征兵士を壮行する写真があるが、これらを見ていると一つの小学校が時代に翻弄された凄まじい現実を、写真というものは実に冷徹に切り取っていると思う。

この時の様子が沿革史に残されている。
「昭和二十年一月、直撃を見舞われ五百キロ爆弾三発が命中、その一弾は校舎中央部に受け不発弾であったが、屋上より床下に至るものであった。他の一弾は西側便所際、後の一弾は校長室の直上に受け、校長室(現保健室)、職員室と、その直上の二、三階六教室を破壊、殉職教員四名、重傷教員二名、軽傷一名を出した。
なお、同二十年五月の空襲に遭い、焼夷弾百数十発を受け、校舎と校具を殆ど焼失した...。(後略)」




b0125465_18325187.jpg
戦争の記憶
[Photograph source]
 撮影/土門拳
 学びの庭の壮行会 (昭和12年11月)


昭和12年7月7日の盧溝橋事件を契機として日中戦争が勃発するが、この写真は撮影日時からその戦争へと向かう出征兵士の壮行会の様子を撮ったものらしい。
この後8年にも亘り戦争が続き、そしてここに写っている校舎が8年後に空襲によりその殆どを焼失するとは誰が想像しただろうか。

泰明小学校は昭和4年に竣工した震災復興小学校だが、その時代時代にここで起きたこと、ここで繰り広げられたこと、その数々の歴史が建築の記憶として沁み込んでいる校舎と言えるだろう。
また、敷地が外濠に面していたことで北側と東側外観に特徴あるデザインを与えられたことも、この小学校の建築を興味深いものにしていると言えるだろう。

本稿の写真は前稿と同じ方向を1階から撮影したものだが、竣工から8年足らずにも係わらず現在の泰明小学校と同じように蔦が壁面を覆っている様は何とも不思議な気がする。
この小学校が名門と言われ現在も人気が高いのはその恵まれた立地も然ることながら、幾度も数奇な運命を克服し見事に蘇ったその歴史がこの建築の自信と品格となって伝わってくるせいではないかと思う。

ただ古い歴史的建造物というだけではなく、歴史の生きた語り部としての力がある数少ない建築として、未来永劫小学校として使い続けて欲しいと思う。
小学校として使い続けることの意味も含めて...。




b0125465_1455315.jpg
建築の記憶

夜の泰明小学校を撮影した後にたまたま撮った銀座B6出口をテーマに書いたことで、現存する震災復興小学校の一つである泰明小学校が持つ歴史背景を「空襲の記憶」「戦争の記憶」として書いてきたが、今回の「建築の記憶」がその最後となる。

最初の「空襲の記憶」でどの写真を使おうかと考えた。
もっと破壊の様子が分かるものもあったが、ほぼ同じ撮影アングルの写真を使ってそれぞれの時代を書いてみたいと思い、西側から撮影した3枚の写真を最初に選んでから書き始めた。

本稿の写真は現在の3階教室から撮影したものだが、「空襲の記憶」の写真が撮影された同じ教室から同じ方向を見た現在の姿となる。
泰明小学校(当時は泰明国民学校)は昭和20年1月の空襲でこの写真に写る窓の先隣りの2、3階教室とその直下の校長室(現保健室)と職員室が破壊され、4人の殉職教員と3人の負傷者を出している。
その破壊された3階教室の一つがこのアーチ窓の教室であり、窓から見える蔦の生い茂る光景は正に「戦争の記憶」の写真に生い茂る蔦そのものだ。

悲しく不幸な歴史を留める窓だが、これこそが歴史の語り部として建築が持つ記憶であり、この建物を小学校として使い続ける限り、建築が持つ記憶は生きた語り部として子どもたちの情操と感性を育み磨く力となってこの空間から滲み出て来る。

前稿の写真(昭和12年撮影)に校舎を覆う蔦が写っている。
現在の校舎を覆う緑の蔦はこの蔦の根が地下で生き続けた子孫だと筆者は思っている。
そんなところにもこの学び舎の正統な歴史を感じ取ることができる...。

# by finches | 2009-04-01 14:09 | 復興
■■ 中央区立阪本小学校
b0125465_12573428.jpg

阪本小学校は昭和3年(1928)に完成した復興小学校となる。
かつては校庭の北側にある阪本公園という復興小公園を挟んで、同じく昭和3年に完成した日本橋女子高等小学校という復興小学校が向き合うように建っていた。
 [注:現在、阪本公園は坂本町公園という名前に変わっている]
また、現在は埋め立てられているが、敷地の直ぐ西には楓川が流れていた。

阪本小学校の学区域図を見て面白いのは、その三方が楓川、日本橋川、亀島川によって境されていることだ。
兜町と茅場町という当時は今以上の賑わいであったろう日本橋に程近い立地、歩いて直ぐに幾つも川があり少し足を延ばせば隅田川、そしてこれらの川には一つひとつデザインの異なる橋が架かり、子どもたちにとってこれ程ワクワクするような楽しい遊び場があっただろうか。

また、当時の子どもたちは自分たちの近代的な学校を誇りにしていたことが記念誌などを見ると分かる。子どもたちの興味は繁華街や川や橋だけに留まらず、隣りの、否そのまた隣りの、否そのまた隣のそのまた隣の復興小学校にまでその好奇心は尽きることはなかったろう。
あそこの柱は丸い、あそこの柱は角の尖った三角形、あそこの柱はデンデンデンと面取りしてある。
あそこの建物の角は丸い、あそこはもっと大きく丸い。
あそこの窓は大きくて四角い、あそこの窓はアーチ、あそこには真ん丸い窓がある。
あそこの煙突は丸い、あそこは四角い、あそこのはもっと変な形をしている。
じゃあ、みんなで見に行こう...。
そんな時代の子どもたちのことを想像すると、これら一つひとつの建物に秘められた、つくられた時の思いを紐解きたいとつい考えてしまう。

復興小学校に興味を抱いて3つ目に訪れたのがこの阪本小学校だった。
その後何度も訪れていると、その周辺との関係が少しづつ見えてくる。
街の生い立ちや環境、川の存在、周りにある他の復興小学校との関係、それらが見事にバランスして連鎖していた時代を思い描いて眺めると、訪れる度に新たな発見があり感動が生まれてくる...。

# by finches | 2009-04-01 13:00 | 復興
■■ 中央区立十思小学校
b0125465_17435949.jpg

十思小学校は昭和3年(1928)に完成した復興小学校となる。
 [注:中央区教育史には昭和4年竣工とある]
校名というのは夫々に命名の意味や由来があり、地名町名が当てられているものは分かり易いが、この十思(じっし)についてはその名を初めて目にした時から興味を抱いたものだ。そもそも何と読むのかさえ分からなかったからだ。

十思とは資治通鑑(しじつがん)に記されている十思之疎(じっしのそ)から取られたもので、これは唐の時代に天子のわきまえなければならない戒めを記した十箇條だそうだ。
その戒めはそのままこの学校の校風として受け継がれ、既に廃校にはなっているがここを巣立った子どもたちにとって、消えることのない処世訓として生き続けていることだろう。

十思小学校の特徴は何と言ってもそのコーナー部分の曲面とそこに設けられたアーチ窓だろう。
 [注:同じ曲面でも明正小学校のようにデザインの処理如何によっては全く違った雰囲気になるのが分かる]
そして、この設計の思想は屋内体操場へと踏襲され、その柔らかく優しいフォルムが何とも穏やかに街に溶け込んでいるのが微笑ましい。

十思小学校のもう一つの特徴として、復興小公園と呼ばれる十思公園に校庭が繋がるように計画されていることがある。そして、この公園の場所は伝馬町牢屋敷の跡地で、吉田松陰終焉の地としても知られている。
廃校となった十思小学校は、現在は十思スクエアとして第二の活路を見出しているが、理想はあくまでサステナブル建築として「小学校」として使い続けて欲しいところだ。しかし、時代の変化とともに閉校廃校が已む無しとしても、この「十思」のように新しい活路を住民と行政が一緒に考え、貴重な歴史・文化遺産として未来に継承して欲しいと心から思う...。

# by finches | 2009-04-01 12:00 | 復興
■■ 中央区立京華小学校
b0125465_17444559.jpg

京華小学校は昭和4年(1929)に完成した復興小学校となる。
校名は町名によらず、「東京の華」という意味を込めて命名されたものだ。
残念ながら現在は廃校となり京華スクエアと名前を変えて2色に塗り分けられ、特に写真右の曲面部分側の濃い色によって、建築としての一体感が失われ全体のフォルムが作り出す流れも断ち切られている。

この建築の特徴は上記の曲面部分のほとんどが1階まで下りずに低層部の屋上で止まっていることが挙げられる。当時の図面によると、この南面する低層部は屋内体操場と手工室になっていて、隣地と接する為に南側に開口部を必要とした教室を設けることができず、ここに屋内体操場を置かざるを得なかったこと、そして校庭に十分に太陽の光を入れる為にこの部分を低く抑える必要があったこと、これらがこの建築の全体構成を決定付けたものと思われる。

しかし、この部分を低層にはしたが手工室部分の階高は屋内体操ほどの高さを必要とせず、その為にこの部分が低層部の屋上として活用され、校庭からスロープを伴った緩い階段によって低学年の子どもたちでも容易に上がることが出来るように設計されている。当時の写真を見るとこの屋上部分にはブランコやジャングルジム、滑り台などが置かれ、細長く狭小な校庭を補うように一体の計画がなされていたことが分かる。
そして、この屋上部分に上の曲面をもった校舎が乗っかるような構成が、流れるような楽しい空間を生み出していた。

京華スクエアと名を変え壊されずに残されたことは何よりと思う。
だが、どこか生気を失ったような姿を見ると、この建築の持つ魅力を引き出すような使い方がなされて、初めて生かされる保存になるのではないかと思った...。

# by finches | 2009-04-01 11:00 | 復興
■■ 中央区箱崎小学校
b0125465_19163390.jpg

箱崎小学校は昭和3年(1928)に完成した復興小学校となる。
また、この箱崎小学校には南側に箱崎公園という復興小公園が隣接している。

実はこの小学校が現存していることを確認したのは僅か一週間前のことだ。
それまでは、近くの阪本や明正小学校を幾度も訪ねながら、浜町川や箱崎川の跡を探し歩きながら、取分け日本橋川沿いに豊海橋まで歩きその手前から豊海橋と永代橋が重なって見える景色が好きで何度となく訪れていながら、その目と鼻の先にある箱崎小学校に足を向けることはなかった。
勿論、それはこの小学校の場所には新しく日本橋高校が建っていると思い込んでいたからだが。

最近目にしたある論文で箱崎小学校が現存しているらしいことを知り、半信半疑で訪ねたものだが、そのタイル貼りの外壁から跳ね出した玄関の大きな庇に昭和初期の建築の面影があり、もしかしてこれは旧箱崎小学校の外壁にタイルを後から貼ったものではないかと想像した。
思った通り、道路に面した部分とその両妻側部分にだけタイルが貼られ、校庭側はかつての箱崎小学校の外観がそのまま残されていた。残されていたと言っても、元々の「コの字型」をした平面のほとんどは取り壊されなくなっていたが。

これを残存していると言えるのだろうかと掲載を迷ったが、年内に現存する復興小学校全ての投稿を一先ずの目標としていることもあって、状態の如何に係わらず復興小学校最後の建物として書いておこうと決めた。
復興小公園が残っていることで、そこから校舎を眺めると往時の姿、即ち今はなき屋内体操場と校舎が校庭を囲み、その校庭がこの公園と連続していた姿が目に浮かび、その校舎はこの写真のように白く輝いていたことだろうと容易に想像することができた。

箱崎小学校の現況には一つの教訓がある。
それは、ものの価値をその本質に於いて見ない人たちには、ここで行われたような「外壁にタイルを貼る」という姑息な改修で、見掛けだけ新しくしたものに価値があるという誤った見識だ。
それは同じく、毎年少しのメインテナンスを継続することで現存する校舎を使い続けることができるのを放棄し、新校舎に建て替えようとするのと同じ誤った価値感に通じると思う。

かつての新車も何十年も経てばクラシックカーと呼ばれる。その車を古いから価値がないと思うだろうか。
その車は大事に手を加え続けられることで、名車としの輝きを更に増すのでないだろうか。
復興小学校とは正にこの名車ではないだろうか。
117台あった名車も現存するのは僅か19台だけとなった...。

# by finches | 2009-04-01 10:00 | 復興
■■ 港区立愛宕高等小学校
b0125465_18193626.jpg

愛宕山は標高が約26メートルの小山で、東京23区の最高峰であるらしい。
この山の上には由緒正しい愛宕神社と、由緒の正しさをその傲慢体質で失墜させた某放送協会の放送博物館があるが、元々後者の方は大正14年(1925)の3月に芝浦にあった仮放送所から第一声が発信されたのに続いて、7月からこの愛宕山のJOAK東京放送局に於いて本放送が開始されたという歴史がある。
この愛宕山の上に放送局が造られたのは、電波を少しでも遠くに届けたいという思いがあったからだ。

写真の男坂は別名「出世の石段」と呼ばれ、その名の由来を知ってその急峻さに得心したが、国内でこれ程急な石段を見たのは初めてで、高所恐怖症としては足が竦みいささか眩暈がする思いで手摺に摑まりながら一歩また一歩と降りた。

JOAKの初代総裁が帝都復興の立役者、後藤新平であることを知る人は少ないだろう。
その後藤が前述したラジオ放送の第一声で語った有名な4つの言葉の中で、「文化の機会均等」と「教育の社会化」という文化と教育に言及した言葉が2つを占める。
そこには、近代日本をデザインした政治家との異名を持ち、関東大震災後の復興事業を内務大臣として陣頭指揮した後藤の言葉としての重みがある。

後藤新平は大正10年(1921)に東京市長として「8億円計画」という人口拡大が進む東京市のインフラ整備を中心とした東京市改造計画を打ち出している。
そして、その2年後に関東大震災が起こり、当初の復興事業予算総額40億円案から最終的な実施予算である8億円まで後退を余儀なくされているが、これは正に後藤が震災の2年前に打ち出した「8億円計画」の数字と不思議と符合している。

震災復興事業が昭和5年(1930)までの僅か7年間で完了したのも、後藤による震災前からの準備が既に出来ていたことを物語っている。
その後藤が震災の2年後に、JOAK総裁として国民に向けての第一声の中の半分を、文化と教育という言葉が占めているのも大変興味深いところだ。

後藤新平は自らがレールを引いた震災復興の様子を、この愛宕山の上からどんな思いで眺めていたのだろうかと思った...。



b0125465_12511363.jpg

明治30年の地図によると愛宕山男坂下の辺りは愛宕町と呼ばれ、その南にジケイ病院という表記が見られる。
愛宕小学校の創立は明治35年、愛宕高等小学校は明治41年となるが、共にこの愛宕町の慈恵病院を挟んだ南と北につくられた。

現在、愛宕小学校のあった場所は御成門中学校に変わり、愛宕高等小学校は2004年まで都立港工業高校として使われていた。
この都立港工業高校に変わる時に、南側の昇降口と屋内体操場が新校舎の一部に組み込まれて建て替えられ、現在は西と北側部分がL字型に往時の姿を留めている。

愛宕小学校と愛宕高等小学校はともに昭和3年(1928)に完成した復興小学校で、校庭側の窓の取り方や横に連続する浅い庇状のデザインに共通点が見られる。
この愛宕高等小学校の平面図を見ると、明石小学校と同じく角という角が全て丸く面取りされている。そして外側に曲線を描いて反り返るような屋上パラペットの形状も明石小のそれに瓜二つなのも興味深い。

丸柱が壁面のデザインを大きく支配している明石小に比べ、愛宕高等小学校の方はいたってシンプルなのだが、その中にも惜しみない創造力をこの校舎のデザインに注いだことが伺われ、傷み汚れてはいるがその下にある本来の美しい肢体を思い見入った。

前稿の後藤新平がきっと愛宕山の上に立って見たであろう眼下の帝都復興の様子、その愛宕山を囲むように愛宕高等、愛宕、鞆絵、西桜、南桜、その向こうに桜田、神明、その更に向こうには泰明、文海、築地、明石などの復興小学校が望めたであろう。
そして、それらは帝都復興のシンボルのように白く美しく輝いていたことだろう...。



b0125465_17132518.jpg

前稿に続き愛宕高等小学校を取り上げる。
愛宕高等小学校と言っても、写真は港工業高校に変わった時に増築された東側部分で、正確な建設年は定かではないが手持ちの資料によると、恐らく昭和40年代の初めに建設されたものと推察される。
この時期はちょうど高度経済成長の最中に当り、中堅技術者の育成を急務として工業高校が各地に整備・新設されたことが伺われる。

従ってこの校舎は、復興小学校である愛宕高等小学校が建設された時期からすると、既に35年以上が経過してから建てられたことになるが、どこかその外観にインターナショナルスタイルの流れを汲む戦前建築の名残があり、特に写真手前の部分には構造体の外に取り付けられたスチールサッシとそのデザインにそのことを強く感じられる。

しかし、これらは工業高校としてのカリキュラムの特殊性が背景にあると思われ、その反映が建築に現れていると見るべきだろうし、それが故に個性ある独特なフォルムが生み出されたものと思われる。
恐らくこの大きく取られたガラス開口の向こう側では、自動車整備や機械加工などの実習授業が行われたものと思われ、道路に面した開口の取り方や天井の高さなどから当時の熱心な授業の様子とその活気が伝わってくるような気がした。

復興小学校が壊されると聞いて、その保存を訴える人たちがおられる。しかし、それは自分たちが知っている、係わっている建物だけについてであって、他の復興小学校が同じ憂き目に合っていても知らぬ顔というのが現状と言える。
況してこの愛宕高等小学校のように外観がみすぼらしかったりすると、もう全く興味さえ示されず、何時その建築が姿を消しても気付かれることさえないだろう。更に、上記の増築された部分などには、尚更見向きもされないだろう。
だが、筆者はこの名もない増築部分も立派な近代産業遺産だと思う。

増築部分の背後にアメリカの建築家シーザー・ペリがデザインした高層建築が見えている。
青松寺に隣接することから極楽浄土を象徴するハスの花を模したデザインとのことだが、筆者には先の潰れたボラギノールのような建築にしか見えない。
それに引き換え、ここにある愛宕高等小学校もその増築部分も共にその建築には力を感じる。
これら本物の建築に目を向けずして保存など叫ぶことなかれ、と先ずは自分から戒めたい...。

# by finches | 2009-04-01 09:00 | 復興
■■ 千代田区立九段小学校
b0125465_19192420.jpg

東京の復興小学校の一つで大正15年に建てられた九段小学校の内部を見る機会があった。
「Blog 函館・弥生小学校の保存を考える」 で取り上げる為に一度訪れたことがあるが、内部を見るのは初めてだった。
復興小学校の建設は大正12年の関東大震災後の復興事業として東京市建築局によって進められた。
その時期は震災翌年の大正13年から昭和10年にかけてで、当初は大正9年に結成された分離派の影響を色濃く受け、年が下るに従ってインターナショナルスタイルの影響を受けた建築に変わっていく。
それは正に近代建築運動の潮流の跡を今に語り残している。

さて、そんな近代建築の潮流に乗ってつくられた小学校だったが、宮内省から貸与された御真影と教育勅語が学校毎に置かれた。これらは独立した奉安殿か講堂や校長室に設けた奉安所に置かれていたが、後者はやがて金庫型へと改められていった。
その金庫型の奉安所を九段小学校の校長室で見た。
そして今では御真影こそないが、教育勅語の実物も初めて見た。

117校の復興小学校の建設は共通の規格化の下で行われた。
その建築スタイルは一校一校異なり (環境条件により異なって見えるが、実際は数パターンに分類できる) 、またそれらを短期間に量産しなければならなかったが、講堂は校舎とは異なる出来に仕上げられていたのではないかと、壇上で訓話する東郷元帥(東郷平八郎)の写真を見て思った。

講堂と体育館の違いすら忘れていたが、そもそも講堂は仏教の七堂伽藍の一つで、学校の講堂は儀式または講演や訓話を行う場所だった。
その儀式の一つに御真影を掲げ教育勅語を紐解く時があった。その場所が校舎と異なる出来であるのは至極当然であることに改めて気付いた。
校長室の一枚の写真が当時の時代背景を静かに語っていた。
因みにこの学校は、上六小学校、東郷小学校、九段小学校と名を変えた歴史がある...。

# by finches | 2009-04-01 08:00 | 復興
■■ 文京区立元町小学校
b0125465_11494237.jpg

元町小学校は昭和2年(1927)に完成した復興小学校となる。
校庭の南側には元町公園という復興小公園が隣接し、その公園の南側は崖になっていて本郷台地を貫くように神田川がその谷底を流れている。
かつてこの直ぐ近くには、井ノ頭池から小石川を経て神田・日本橋に給水していた神田上水の懸樋が神田川に架かっていた。 

元町小学校を訪れる為には、この元町公園の階段を上がってアプローチする方法があるが、このルートを選ぶとヨーロッパ庭園の様式を取り入れた元町公園を十二分に楽しむことができる。そして高低差を巧みに利用した西洋式公園の最後の階段を上がると、木々の向こうに白く輝くような元町小学校が姿を現す。
それは見事な空間構成で、地形的特性が味方しているとは言え、これ程巧みに復興小公園と復興小学校が融合している場所は他にはないだろう。

かつて神田川のふちに‘なでしこ’が咲き乱れていたそうで、今は廃校となりその校章も取り払われているが、この学校の校章にはこの‘なでしこ’の花が使われていた。
創立当時この辺りには私立学校が多くあったが、そんな環境の中に初等教育の重要性を掲げ誕生したのがこの元町小学校だった。
時代は変わり世の中も人の考えも変わったかも知れないが、私立学校が夫々の校風と個性で新しい時代に融合しようと努めている一方で、公立の小学校が自助努力を放棄する様には、やはり違和感を感じずにはいられない。

教育史を調べていても文京区のそれは素晴らしい出来にまとまっている。それは長い教育史の中でそれぞれの歴史的背景にただ翻弄され流されるのではなく、真剣に教育と向き合ってきた証だと思う。
その歴史を残し継承する意味でも、元町小学校を保存活用して欲しいと思う。
そして、この建物には過去を知ることで新しいものへの創造につながるような、そんな場所が最も相応しいと思う...。

# by finches | 2009-04-01 07:00 | 復興
■■ 台東区立黒門小学校
b0125465_15545322.jpg東京市復興小学校DATA

[黒門小学校]
創立年月 明治37年5月
竣工年月 昭和5年7月19日
工事請負 日本土木建築株式会社
校地坪数 1,610.040坪
校舎坪数 1,441.553坪
学級規模 26学級

現、台東区立黒門小学校




黒門小学校は下谷区(現、台東区)の中で最後に建てられた復興小学校で、唯一山手線の内側にある。
そして、最も近かったのも神田区(現、千代田区)の練成小学校で、湯島天神に近く神田明神までも遠くない立地から、どこか下谷区ではないような印象さえ抱いてしまう。
昭和初めの地図を見ると、この辺りは下谷区と本郷区(現、文京区)の間に神田区が細長く割って入るように食い込んでいて、その為に黒門小学校もその中に属するような印象を持ってしまう。

しかし、上野黒門町と誇り高く呼ばれるように、現在の地図を見ても、この黒門小学校がある上野一丁目辺りのほんの小さな一角だけが、南を千代田区、西と北を文京区に取り囲まれながらも、この界隈の気質と誇りを守るように残っている。それが街に独特な気風を生み、町会や老舗によって守られた伝統が正しく継承されていることで、この黒門小学校も古さなど微塵も感じない、むしろ新しいもの以上に新しい、生き生きとした姿を見せている。

かつての西黒門町は落語家、八代目桂文楽が生涯を過ごした場所で、下町の粋な風情から離れることができなかったと読んだことがある。
筆者が黒門小学校を知ったきっかけは、湯島天神坂下にある店からほろ酔い気分で帰る、その道すがらにあったからだ。
黒門町から目と鼻の先、湯島天神坂下に人間国宝の講談師、一龍斎貞水の住まいもあるが、そこが何度か友人が誘ってくれた店の場所でもある。
粋な芸、伝統の芸、それらは本物の粋が沁み込んだ街の記憶の中に身を置き、本物の人間が演じるからこそ人の心を惹きつけて止まないのだと思う...。

# by finches | 2009-04-01 06:00 | 復興
■■ 台東区立下谷小学校
b0125465_16322313.jpg東京市復興小学校 DATA

[下谷小学校]
創立年月 明治19年11月
竣工年月 昭和3年12月7日
工事請負 安藤組
校地坪数 953.630坪
校舎坪数 1,253.036坪
学級規模 22学級



下谷小学校は上野駅の表玄関から歩いて直ぐの所にある。
ちょうど東京駅の八重洲口から直ぐの所にある城東小学校と似ている。
だが、下谷小学校は既に廃校となり、一部使われているようにも見えるが校庭側は蔦が窓まで覆う有様で、一見いつ壊されてもおかしくない状況にある。
下谷小学校は二方が道路に面しているお陰で城東小学校のようにビルに埋もれることはなかったが、周りに区役所を始め区の建物が多いせいか、どこか生気に欠けた、街の魅力に乏しい一角に思えた。

しかし、この一角に対してはそんな印象を持ったが、下谷小学校の存在だけは何とも魅力的で、この界隈へ光明をもたらす大きなきっかけを潜在させていると強く感じた。
もしも筆者が区長なら、地域のコミュニティ再生の中心施設として、直ちに活用の検討を指示するところだろう。
このような歴史の記憶が沁み込んだ建物は、そのハードの面だけではなく、ソフトの面に於いても柔軟な受容力があると思う。
取り組む側の人間に想像力と創造力さえあれば、老舗のスッポン鍋のように、この建物は少しずつそこに沁み込んだ建築の記憶から、求めても決して作り出せない味わいを引き出すことを許してくれるだろう。

下谷小学校の創立は明治19年、上野駅の開業から3年後に当たる。
上野駅は長年に亘り改修を繰り返しながらもその古い駅舎を残した。
その同じ時を生きたこの小学校も再生に向けて真剣に見詰め直して欲しいものだ...。

# by finches | 2009-04-01 05:00 | 復興
■■ 台東区立柳北小学校
b0125465_17393598.jpg東京市復興小学校DATA

[柳北小学校]
創立年月 明治9年10月
竣工年月 大正15年11月10日
工事請負 藤本清次郎
校地坪数 1,326.900坪
校舎坪数 1,590.700坪
学級規模 32学級


東京市復興小公園DATA

[柳北公園]
開園年月 大正15年8月14日
公園面積 901.43坪




柳北小学校は浅草橋駅の北側、浅草橋五丁目に今も残っている。
既に廃校になっているが、現在はフランスの学校が校舎として使っている。
柳北小学校の創立は明治9年と古く、学級数も32学級と近接する福井小学校の2倍の規模がある。
また、この小学校の北側には柳北公園という復興小公園があり、正面玄関はこの公園に面している。
復興小公園は復興小学校の運動場の狭小さを補う目的で、それに連続するように計画されることが多いが、柳北小学校は十分な運動場が確保されている為に、敢えて公園には背を向けるように、建物がロの字に運動場を取り囲んでいた。

「取り囲んでいた」と書いたのは、柳北小学校は現存しているとはいうものの、その西側校舎部分と室内体操場は解体され、区のスポーツプラザになっている為だ。
写真は南東角を撮ったもので、現在その左側にはグランドが広がっているが、元々は南西角にも写真と同じ形状の校舎が道路に面し、この両者の間に室内体操場があった。
公園側外観の比較的単調なデザインに比べると、道路に面する側の意匠に他の復興小学校とはまた違う特徴が見られる。

柳北小学校の東にはかつて育英小学校という復興小学校があった。
浅草橋駅北側に近接する、柳北、育英、福井小学校を線で結ぶと、一辺が2~300メートル程の三角形となり、この界隈の当時の児童数の多さと賑わいが想像される。

この3校の内、福井小学校が浅草区で最も南に位置し、その先には神田川が流れ浅草橋が架かっている。
そして、次の柳橋の先で隅田川の太い流れに注いでいる...。



[付記]
育英小学校は台東育英小学校と名前が変わり、新校舎になっている。
# by finches | 2009-04-01 04:00 | 復興
■■ 台東区立福井小学校
b0125465_17365137.jpg東京市復興小学校DATA

[福井小学校]
創立年月 明治35年12月
竣工年月 昭和4年12月6日
工事請負 松村組
校地坪数 624.330坪
校舎坪数 941.525坪
学級規模 16学級




福井小学校は浅草橋駅の北側、浅草橋一丁目に今も残っている。
既に廃校になっているが、現在は某私立校の仮校舎として使われている。
福井小学校は復興小学校117校の内、駅から最も近く、周りにビルがなければ正に駅前という距離にある。

さて、筆者はこの小学校のプランと航空写真を見ていて、正直言って興味も期待も薄かったが、実際に建物を見た後で改めてプランを見ると、復興小学校の中でもかなり優れたものの一つだと思うようになった。
先ず、この小学校の校地面積だが、復興小学校の中で四番目に狭く、現存する中では最も狭い190坪にも満たない。

勿論、この中に運動場もある訳だが、流石に3階建てという復興小学校の建設条件から、この校舎に納まっているのは16学級とその規模は小さい。
しかし、その規模にして一階には東西二ヶ所に昇降口が設けられ、特別教室や屋内体操場、その他諸室に至るまで復興小学校の設計条件を全て満たし、無駄を極限まで省いた見事な設計がなされているように感じる。

そして、しばし呆然としたのがその外観にある。
正面玄関と昇降口がある東西面は共通の設計思想に則って決められていて、その中で階段部分の窓が特徴的に扱われているように思う。
しかし、東北角の曲面を曲がると、その北面の表情は一変する。
それは初めて見る驚きで、同じく震災復興事業として建設された同潤会アパートへと頭の中は飛んだ。

一日歩いた足は棒のように重く、迫り来る夕暮れが光を弱めることを気にしながら、しかし、さして期待もしないで訪れた福井小学校だったが、もっと良い光の中で改めて見たいと思った。
そして、やはり来て良かったと思いながら、次の柳北小学校へと向かった...。

# by finches | 2009-04-01 03:00 | 復興
■■ 台東区立小島小学校
b0125465_1716191.jpg東京市復興小学校DATA

[小島小学校]
創立年月 明治41年6月
竣工年月 昭和3年8月27日
工事請負 藤本清次郎
校地坪数 949.14坪
校舎坪数 1,157.047坪
学級規模 20学級


東京市復興小公園DATA

[小島公園]
開園年月 昭和5年11月
公園面積 847.33坪




浅草区の復興小学校だった小島小学校は、現在の台東区小島二丁目に残っている。
既に廃校になっているが、今でも活用されている建物の一つだ。
写真はこの小学校に併設された復興小公園から撮影したものだが、当時は勿論両者の境界は管理上必要な程度の柵だけが設けられ、連続して使えるように考えられていた。

ここで帝都復興事業の一つとして計画された復興小公園について触れておこう。
復興小公園は罹災区域の小学校に隣接して52箇所が設けられたが、運動場の延長であると共に市民のための休養公園でもあり、非常時の防火と避難場所としての役割も合わせ持っていた。
復興局としては、理想的には復興小学校117校全てに配置したかったようだが、実際計画されたのはその半数に過ぎなかった。
その設置に当たっては、児童数、小学校敷地の広狭さ、既設公園の配置などを考慮した上で各区の配分量が決められ、止むを得ない場合を除き互いが5~600メートルの距離になるように配置されている。

筆者が学生時代、欧米と東京の都市公園を比較して、後者の狭小さと都市計画性の欠如を指摘する教授らがいたが、元々、両者では都市づくりの基本から異なる上に、この復興小公園のように震災からの復興を背景に、欧米の公園事情に近づける努力がなされていたことを、どこまで知って話していたのだろうと今は思える。

小島小学校の外観の特徴として、運動場に面した南西の角にある丸い塔状の部分がある。
この部分は各階では半円形のトイレが納まっているが、屋上に出ると完全な円形で屋根だけがかかる物見塔のようになっている。
この部分がとてもユニークなことで、この小学校の建築を楽しいものにし、公園側から見た時の親しみを倍加させている。

この建物の玄関庇にはTaito Designers Villageと書かれている。
創造的活動を行っている企業が入居したコミュニティであろうと想像される。
だが、筆者には強い違和感が残った。
それは、彼らはこの建物の魅力をどれだけ感じているのか、この建物が好きなのか、ここでの活動が楽しいのか、という疑問から来るものだった。
かつての運動場は殺風景な駐車場に変わり、公園との境には高い柵が取り付けられ、建物の中と外を連続的に使おうとする創意工夫の跡さえない。

Taito Designers Villageの名のごとく、筆者たちが外から見ても羨ましくなるような、そんな輝きを発して欲しいと強く思った...。



b0125465_1844964.jpg

小島小学校の外観の特徴に丸い塔状の部分を挙げ、物見塔のようだと書いた。
戦前までに鉄筋コンクリート造で建設された小学校の中には、ペントハウス(塔屋)にその建築様式の特徴を反映しているものが多い。
しかし、ペントハウスは階段部分が多いため、特に意識して外観デザインに反映させようとしない限り、屋上に出て初めてそのデザインに気付かされることになる。
一方、ペントハウスをデザインの主要モチーフとして扱っているインターナショナルスタイルには、その特長が如実に現れていて、表現主義建築に於いても、その独特な曲線的形態を誇示しようとする時にこの傾向が見られる。

しかし、小島小学校の場合はこれらとは異なる。
それは建築様式の反映でもないし、各階のプランがペントハウスの形状に現れている訳でもない。
もっと言えば、全体が直線的に扱われているプランを見る限り、この部分だけを半円にする必然性は見当たらない。
建築的な扱い方としては、インターナショナルスタイルのものに近いと思うが、丸い塔に見えるところが同種の建築的思考の結果とは思えない。
だから、敢えて物見塔のようだと書いたのだが、もしも、最初に屋上に円形の塔屋を造りたいと考え、そこから逆に各階のプランをその形に嵌め込んだのだとしたら、全ての疑問が解けてくる。
すると、やはりこれはペントハウスとしての扱いではなく、建物と一体化した丸い塔と考えるのが正しいようだ。

実は筆者はこれが火の見櫓の役目を担うのではと、想像するところから考え始めた。
小島小学校が完成した当時は、関東大震災によって一面の焦土と化した中からの復興の最中で、その中で3階建て鉄筋コンクリート造の白い復興小学校は、正に復興のシンボルとして人々の目に映ったであろうし、それらが焦土の中に点在する様は復興小公園と共にオアシスのように見えたであろう。
そんな光景を想像してこの丸い塔の意味を考えた。

次に、気象観測のためのものではないかと考えた。
復興小学校についての記述の中に、屋上に気象天文等の観測用設備をなすこと、とある。
また、別の記述によると、特別室設備として気象観測所というのがあり、場所は屋上のペントハウス付近を利用する、とある。
更に、風向、風速計だけは天井を貫いて設けるため建築と同時に計画するように書かれ、雨量計、自記寒暖計、日時計等は屋上の花壇の中等へ設置、とある。

写真は上六小学校(現、九段小学校)ペントハウスの中で、天井に風向表示板が残っている。
これと同じような風向表示板は何箇所かで見たが、それ程その先まで想像が及ばなかった。
しかし、小島小学校の丸い塔の意味を考えていて、もしやここが気象観測の為の場所であったら楽しいだろうと思った。
それにしてもこの丸い塔があるだけで、建築がこれ程までに公園(復興小公園)と同化するものとは...。

# by finches | 2009-04-01 02:00 | 復興
■■ 台東区待乳山小学校
b0125465_1795160.jpg東京市復興小学校 DATA

[待乳山小学校]
創立年月 明治6年2月
竣工年月 昭和3年5月31日
工事請負 芝江初五郎
校地坪数 850.720坪
校舎坪数 1,149.290坪
学級規模 20学級
現、台東区立東浅草小学校



現在、待乳山小学校は田中小学校と統合され、東浅草小学校という味も素っ気も無い名前に変わっているが、校舎は昭和3年に完成した待乳山小学校をそのまま使っている。
待乳山小学校も田中小学校も共に旧浅草区の復興小学校の一つで、前者の方が古く明治6年、後者は昭和4年の創立になる。
大正12年に起きた関東大震災で旧浅草区内の小学校は18校が焼失するが、復興小学校として建設された数は20校であることから、田中小学校はこの2校増やされた学校の一つということになる。

待乳山は、まつちやま、と読む。
かつて隅田川沿いに待乳山と呼ばれる小高い丘があって、ちょうどその北側で山谷掘と呼ばれる掘割が隅田川に注いでいた。山谷掘は今戸橋に始まり全部で9つの橋があったそうで、この山谷掘が終わる辺りに待乳山小学校は位置し、また、この掘割の向かい辺りにかつては吉原の大門があった。

幸田露伴の 「水の東京」 の中に次のような描写がある。
晴れたる日は川上遠く筑波を望むべく、右に長堤を見て、左に橋場今戸より待乳山を見るべし。もしそれ秋の夕なんど天の一方に富士を見る時は、まことにこの渡の風景一刻千金ともいひつべく、画人等のややもすればこの渡を画題とするも無理ならずと思はる。渡船の著するところに一渠の北西に入るあるは山谷堀にして、その幅甚だ濶からずといへども直ちに日本堤の下に至るをもて、往時は吉原通(よしわらがよい)をなす遊冶郎等のいはゆる猪牙船(ちょきぶね)を乗り込ませしところにして、「待乳沈んで梢のりこむ今戸橋、土手の相傘、片身がはりの夕時雨、君をおもへば、あはぬむかしの細布」の唱歌のいひ起しは、正しくはこの渠のことをいへるなり。

当初、待乳山が読めなかったことで、妙に名前に興味を抱いた。
一つの復興小学校を通して、様々な歴史が絵画や文学の描写から見えてくる。
この待乳山だけで本の一冊も書けそうなくらいにその周縁は広く深い。
待乳山小学校と田中小学校が統合された東浅草小学校の沿革史には、学校の歴史も街の歴史も何も書かれていない。
教育とは過去の歴史から学ぶことがどんなに多いか、それを知らない教育者ばかりが多くなった...。

# by finches | 2009-04-01 01:00 | 復興