918■■ 明和の石仏
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筆者が分校跡に辿り着いた細道はかつてそこを行き来していた交通の方法とそのスケールとを物語っているように思えた。
写真の石仏も今では草生したかつての道の傍に人知れず寂しく立っているが、そこは海辺の港のある村から更に山の奥の村へと通じる只一本の道であったのだろう。

石仏の台座には、正面に漢字四文字が、側面には年号が刻まれていた。
正面の四文字は最初の「三界」は読めたが、後の二文字がどうしても分からなかった。
筆者は、「衆生のこの世は励めば光が射す」というような意味ではないかと推測した。
この石仏は細道から少し上がった山の斜面に置かれていたが、それは道標のようなものではなく、恐らく谷を隔てて対角に対峙する寺と一対になって、道を行き交う人々や谷底の田畑で働く人々や、山に寄り添うように建つ家々の暮らしを見守ってきたのだと思った。

年号は明和三年と読めた。
明和3年は今から236年前の十代将軍・徳川家治の時代で、その石仏が立てられるもっと昔から、ここでは人々の暮らしと営みが静かに連綿と続いていたことが窺えた。
新しい道路から見ると、この石仏は草生した山肌にまるで取り残されたように立っている。
そして、それが何であるかに思いを寄せる人もいないだろう。

石仏を右端に置いて写真を撮ったのは、左端の平らな部分がかつての道の跡だと思ったからだ。
この草生した道はその先に造られた新しい道で途切れていたが、かつてその途切れた道の先はあの鯉のぼりが泳いでいた土手に繋がっていた筈だし、もう一方の先は件の分校に続いていた筈だと思った。

いつも新しい発見の歓びの裏で、いつもこの寂しさを味わい虚しさが込み上げてくる。
そして、今の自分に何ができるのだろうかと、今更のように考える...。

# by finches | 2012-07-19 06:14 | 時間
917■■ ある分校跡
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毎日温泉に通う道は中央分離帯と両側に歩道を持った四車線の立派なもので、それは山を削り谷を埋めて造られた、自然の地形を無視し傲慢に机上の地図の上で線引きされた血の通わない太い線だった。

その道からは山を削られた崖の上にまるで取り残されたように建つ家々や、道が出来たことでかつて分校しかなかった地に大きな小学校が建てられていたり、コンクリートに覆われた小川がその道と右に左に交差しながら上流へと続いていたり、五月にはかつてその道のなかった頃の長閑な光景を彷彿とさせる鯉のぼりが風になびいていたり、ほんの時々だが木々の間から青々とした昔の姿を残す田んぼが見え隠れしたり、かつて人々が行き来した山道の跡らしき所に石仏が立っていたりした。

その中で一つ強烈に引き寄せられる景色があった。
そこには石の柱らしきものと神社の鳥居と大きな楠の木があって、何かその由来の説明でも書かれていそうな白い板が小さく見えていた。
それが通る度に気になっていて、いつかそこに訪れたいと思っていた。

当時の筆者は知らなかったが、筆者が通っていた小学校には分校があって、梅雨の晴れ間にその場所を探して自転車で行ってみようと考えた。
当時、小学校から北に向かうと鬱蒼とした森の中に八幡様があって、そこから更に奥へと進むと湯治場の温泉があった。
小学生の筆者にとっては八幡さまから更に奥など立ち入ろうとも思わない未知の場所で、その湯治場の更に奥にある分校など例え知っていたとしても興味すら持つこともなかったと思う。

不思議なもので自分が興味を持ち探そうとするといつもこんな風に導かれる。
強烈に引き寄せられる景色、その場所こそが正にその分校の跡だった。
そして、その分校へと続いていたかつての道を辿ってそこまで行ってみたいと思った。

起点は小学校と決めた。
そして、その脇の道を八幡様に向けて走り、かつて鬱蒼とした森に消えていた道を抜け、今では見る影もなく宅地開発されたかつての湯治場の裏道を通り、かつての道は川沿いにあった筈だという予測を基に立派な道路で途切れたその先の道を探した。
宅地を抜けその立派な道路が小川を跨ぐ巨大な橋の下を潜ると、そこにはそれまでとは全く違う開発の手の入っていない昔ながらの里の景色が緩くカーブを描きながら奥へ奥へと続いていた。

小型車一台がやっと通れるくらいの細道をひたすら進むと突然その分校跡は現れた。
そこから見ると崖の上にまるで取り残されたように建つ家々が眼下を流れる小川と繋がっていたことも、五月の風になびいていた鯉のぼりが分校に通う子供たちからよく見えたということも、ひっそりと草むした中に立つ石仏も子供たちが通う小道にあったことも、今では一本の道に断ち切られているが、それら全てが関わりを保ちながら途切れることなく繋がっていたことも良く分かった。

かつて美しかった頃の里の景色を想像しながら、高く埋め立てて造られた道路を行き交う車を眺めた。
そして、便利さの裏で忘れている、便利でないものの中だけにある豊かさを思った。

かつての分校は立派な小学校に変わった。
だが、その小学校の沿革史にその地区の子供たちを育て続けた分校の記述はない...。

# by finches | 2012-07-17 05:49 | 時間
916■■ 紫蘇水
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筆者にとってお茶は年間を通して水分補給の必需品だったが、抜歯をした後の口内消毒にもなると家人が作ってくれたハーブウォーターが甚く気に入ってしまった。
ハーブはレモングラスとレモンバームを使い、これらをミネラルウォーターのペットボトルに入れて冷蔵庫で冷やすと、爽やかな香りと仄かな甘みがあって爽快な気分にもなれる。

ところが、レモンバームの方は豊富にあるのだが、レモングラスの方は希少品で、一回に使える量にも制限が課せられている。
そこで、筆者は資源保護の観点からビーフステーキプラントウォーターを作ってみた。
名前が面白いのでわざと書いたが、beefsteak plantとは紫蘇のことだ。

紫蘇なら豊富に生えているから、新しい葉を毎日摘んでやった方が却って紫蘇の為には良いかもしれない。
紫蘇の葉をそのまま入れると緑が綺麗で目に優しく爽やかなのがいい。
また、紫蘇の葉を箸で潰してやると、濃い紫蘇の香りが立ってこれもいい。

今朝は雨も止み霧が立ち込めている。
霧がつけた無数の小さな水滴は蜘蛛の巣のシルエットを浮かび上がらせ、それはそれは幻想的な光景を作り出している。
そんな朝霧の中で飲む冷えた紫蘇水はまた格別だ...。

# by finches | 2012-07-15 04:56 | 無題
915■■ 山津波
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今朝も目を覚ますと、激しい雨音と音のしない稲光りとが眠っている間の外の様子を暗示するかのように思えた。
部屋に灯りを点けカーテンを開け激しい雨の滴が伝うガラス越しに外の様子を見ると、煉瓦で造った件の排水溝には濁った水が勢いよく流れ込んでいた。
玄関から外に出ると、そこは長靴を履かなければ歩けない程の濁った水の海で、離れはまるで秀吉の備中高松城の水攻めの様を呈していた。

気象庁はこの雨を「これまでに経験したことのないような大雨」と表現した。
かつて同庁が新造した「戻り梅雨」という表現には苦笑したことがあるが、この度のこの表現は感情移入の入った文章構成になっている分、状況が素直に伝わる的確な表現だと感心した。

だが、九州ではこの「これまでに経験したことのないような大雨」の為に未曾有の災害が起きている。
その大雨を大地震だとすればその後に襲う洪水や土石流は大津波と重なる。
土石流を山津波と呼ぶのも先人たちの時代にもきっとあったのであろう、「これまでに経験したことのないような大雨」による自然の畏怖を、「山津波」と呼んで後世に言い伝えて来たのではないかと思う。

地球が生き物であり人間がその上で暮らさねばならない限り、いつ襲い来るか分からない天変地異をも受容するしかないだろう。
それが今か先の時代なのか、自国か他国でか、我か他者へか、それらは誰にも分からない。
だが、いつ、どこで、だれに、それが起きても受け留めて来たのが人間の歴史ではなかったろうか。

自然を畏怖し自然を畏敬することを忘れるな、このところそんな鉄槌を自然が下しているように思えてならない...。

# by finches | 2012-07-14 05:40 | 無題
914■■ 梅雨への備え

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水捌けが悪く長年気になっていた場所に排水溝を設えた。
タイトルは「梅雨への備え」としたが、実際は雨を待って水捌けを確認しながらの調整を要する作業となった。
だから、梅雨と同時進行の「梅雨への備え」と言った方が正しい。

どうすればよいか随分と考え迷った。
穴を掘ってみると既設の配水管が顔を出した。
その配水管が貫通するように煉瓦を積んで枡を造り、最後に枡の中を渡っていた配水管を切って流路を枡に開放した。
それと同時に今まで閉じていた流路に集水枡が加わった。

この簡単なことが思わぬ難工事になろうとは予想もしなかった。
既設の配水管の周りに煉瓦を積むやり難さ、掘った穴の底で枡を建物と平行に造る精度の出し難さ、狭い穴の底で煉瓦を水平に積む難しさ、モルタルを詰める困難さ、どれ一つをとってみてもスムーズに行ったものはない。

出来上がると土で勾配をとり、煉瓦に水が集まるようにした。
そして雨を待った。
梅雨の激しい雨は土の勾配を雨水が最も流れやすい自然な形に削り直してくれた。
そして、雨による洗礼が終わった土に薄く散砂を撒き、枡に割竹を敷き並べた。

苔の生えた汚い煉瓦を洗って使った。
あるものだけでそれを工夫することで何とか造れるものだと感心した。
そして、それは何か不思議な庭のオブジェになった...。

# by finches | 2012-07-12 06:20 | 無題
913■■ 巣立ち間近
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雨雨雨の鬱陶しい梅雨に加えて奥歯を抜くことになった憂鬱が重なって晴れない日が悶々と続いた。
ところが一変してこの週末はいい天気に恵まれ、七夕には海辺まで笹竹を切りに行けたし、昨夜は満天の星が夜空を埋めていた。

きのうの日曜、朝食の後で甘酒の仕込みをした。
お粥に水と米麹を加え保温をセットし終えると後は待つだけ、夕方には美味い甘酒が出来上がる。
爽やかな気候に心まで清々しく体は踊るように軽く、夕食は筆者が作るからと思わず言葉が飛び出す程、気持ちのいい一日の始まりだった。

食材の調達も兼ねて久し振りに市営の温泉に出掛けた。
かつて宿場町として栄えた古い歴史のある町を過ぎ、川沿いの道を更に進んだ右岸にその温泉はある。
不思議な名前の付いたその地区ではこれから田植えをする代掻きを終えた田んぼが幾つも目に留まった。
他ではとっくに田植は終わっているから、この地区の米作りの違いが既に持っている知見と重なり、不思議な予感となって頭の中を駆け巡った。

そんな場所だから多くの燕が飛び交っていた。
温泉入口には「巣立つまでご迷惑をおかけします」という燕の絵入りの立て看板まで置かれていて、その上の巣には今にも落ちそうなくらいに大きく育った雛たちが親鳥の運ぶ餌を待っていた。

野も山も随分と緑が濃くなった。
そして、久し振りの青空に梅雨明けも近いと思った...。

# by finches | 2012-07-09 06:57 | 季節
912■■ 津軽海峡
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まだ青函トンネルが工事中だった頃に好奇心から、本州側の坑口のある津軽半島の龍飛までその工事現場を見に行ったことがある。
その時に初めて寒風が吹き荒ぶ中を出港する青函連絡船を見たが、函館に渡ることはなかった。
あの時津軽海峡を渡っていたらと、その日のことを思い出す度に後悔が頭を過る。

その後は何度もその海峡を飛行機で越えた。
海峡を隔てた一方と他方の季節の移ろいや違いを、機上から下に見ながら通り過ぎた。
津軽海峡に来ると途端にそれまで雲ひとつなかった空が一面厚い雲に覆われていたり、黒い海が荒々しく白波を立てる怖いような冬の日もあった。
勿論今も青森と函館との間にはフェリーはあるが、列車を載せた青函連絡船の業務はさぞや過酷なものであったろうと思う。

その津軽海峡を大間へ初めてフェリーで渡った。
そこで、大間やその周辺の村々の人たちにとって、そのフェリーが生活に欠かせないものであることを知った。
大間から函館へは病院通いをする人が多く、病院での用が済むと後は買い物やその他の用に一日をたっぷり有効に使うことができるようにフェリーの便は組まれている。
フェリー乗場からある総合病院経由のバス路線があるのも頷けた。

都会から見れば大間は本州の端のそのまた端の僻地、過疎の寒村に過ぎない。
ここに『大間の鮪』というブランド名がなければ、本州最北端のこの小さな寒村など誰も知らないだろうし、そこで原発が建設されようと誰も関心を示さなかったかもしれない。
しかし、この地の生活は海峡を隔てた函館と繋がり、函館から見ると大間は海峡を隔てて僅か20キロの距離しかない。
共通の生活圏で見た時函館と大間は一体で、そこに今も建設が進められている原発が対岸の火事では済まされないことも頷ける。

さて、函館戦争ではどうしても落ちない弁天台場を攻略するために、官軍は函館の漁師を買収して海への防備に集中していた弁天台場を函館山から駆け下って奇襲を掛け、この要塞を打ち破ったという。
大間原発では大間の漁師が電源公社に買収され、広大な建設地が攻略された。
二つは違うようだが、小市民が巧く利用される歴史は昔も今も変わらない気がしてならない...。

# by finches | 2012-06-26 05:52 | 無題
911■■ ヒバの板張
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総檜造りの家はあるが総ヒバ造りの倉庫を見るのは初めてだった。
長い風雪に耐えたヒバの外壁を見て、改めてこれで良いのだと思った。

正しい材料を選び、正しい使い方をすることで、何十年もメインテナンスを必要としないものができるという証拠がここにある。
銀鼠色に経年変化した板壁が逆に枯れた趣を醸しているようにさえ思う。

この板壁には学び考え追い求めなければならないテーマが隠されている。
ECO、エコと唱える前に、この国の気候風土を知り抜いた先人の知恵から学ぶべきものは多い。

ヒバをこれ程身近なものに感じたことはなかった。
癖のある匂い、黄色味を帯びた色、それはその耐久性からある限られた見えない場所に使うか、ある限られた場所に高級材として使うか、そんな印象を強く持っていた。

友人宅で使っていたヒバの三等材、傷だらけになった無塗装の床は使い込んだ光沢を放ち、風呂桶はシットリと落ち着いた色調に変わり狂いも痛みも汚れもなかった。
浴室に敷いた簀子は半年に一回ブラシで洗えば良いそうで、壁の汚れも石鹸さえ使わなければ付かないのだと聞かされた。

その友人がくれたヒバの俎板を大切に使っている。
考えてみればヒバとの出合いはその俎板から既に始まっていた。
そして、何年もかかってその板を挽いた製材所にまで辿り着いた。

そこでこれまでとは違うヒバの魅力を知った。
それは高級材としてではなく、本物のECO材料としての...。

# by finches | 2012-06-23 05:56 | 持続
910■■ 古い製材機
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製材所では黙っていると製材した材木や加工した製品だけを見せてくれる。
話が弾むと創造力を掻き立てられるような大きな板材や原木、そして乾燥場なども見せてくれる。
だが、原木を縦にわく製材機までは余程興味を示さない限り案内はしてくれない。
それには危険だという理由もある。

ヒバだけを扱うこの製材所の機械は古いものだったが、人の力では到底扱うことのできない大木を軽々と転がし、まるで手品師が指先で幾つもの球を自在に扱うように、帯鋸を入れたい向きに合わせて大木の向きを自在に変えることができた。
木の目を読み違えると高速で回転する帯鋸がその部分を切り裂いた瞬間、ヒバの大木は急速に凄まじい力で帯鋸を締め付け、一瞬の内に高速回転している刃を圧し折り、その破片はどこに飛ぶやら分からないというから、一歩間違えば正に命に係わる作業だ。

古い製材機は何十年にも亘って故障を直し部品を交換し油を注して使い込まれたものだった。
その黒光りする機械の美しさ、使い込まれた操作卓の傷の一つひとつに、人間と機械との長く真剣な戦いの歴史の痕を感じた。
いつも感じることだが、大正や昭和初期の機械が現役で動いているのはいいものだ。
決まってそんな所には巧い職人もいる。

デジタルの機械は故障すれば基板をすっかり交換しなければならない、人の手が入ることを拒絶するブラックボックスだ。
だが、アナログの機械は直しながら使い続けることができる。
ヒバの香りに包まれて元気に働く古い機械たちは輝いていた。
ここを訪ねて良かった...。

# by finches | 2012-06-22 06:02 | 持続
909■■ ヒバの森の流れ
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製材所から山に入る道沿いには杉を専門に扱う別の製材所や、今や何処ででも見られる老人介護施設などがあった。
川もまた何処ででも見られる護岸工事が行われ、その川を鮭が上ると言われてもとても実感が伴わなかった。

だが、人家が途切れた先には深い森が口を開けていて、そこからは川も自然の流れを取り戻した。
小さな赤い橋の上から見た渓流は北海道のそれとは全く違っていて、津軽海峡を隔てた植生の違いをここでも実感することができた。
そして、改めて北海道との川床の傾斜の違いも実感した。

森を案内してくれた製材所の主は、釣りのシーズンが終わって人がいなくなってから来ればいいと勧めた。
その言葉に、ここの人たちには解禁も禁漁もなく、川の流れは普段の生活と共にあって、無暗に魚を取り過ぎることも無駄な殺生をすることもなく、森の生態系の循環を壊さない中でその恵みを受けて自分たちの暮らしがあることを良く分かっているのだと思った。

ヒバの森や川、そしてそこに暮らす人から、また多くを学んだ。
同行した家人も同様に多くのことを学び、それらは時間をかけてゆっくりと醸され、きっと優しい何かに生まれ変わって誰かに返されるのだろう...。

# by finches | 2012-06-21 05:30 | 無題
908■■ ヒバの森
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函館から大間に渡った目的はあのブランド鮪を食べる為ではなく、ある製材所を訪ねる為だった。
今の時期の函館-大間間のフェリーは一日二往復しかなく、滞在できる時間は僅か3時間足らずだったが、一分一秒の無駄なくその限られた時間を堪能した。

大間から下北半島を時計回りに薄霧に覆われた海岸線を走り製材所のある風間浦村に着いた。
二つの川が作り出した沖積扇状地にその集落は形成されているようで、「土石流が起きれば危険なんだ」と、そんなことが起きることはないだろうという前提での説明を受けた。

材料として青森ヒバのことは知っていても、その産地が恐山一帯の森だということも、ヒバがどんな皮を纏い、どんな葉を付けるのかさえ知らなかった。
ヒバだけを扱う製材所の中には、それこそヒバの香りが立ち籠め、その中を歩いているだけで全身の細胞が浄化されていくような気がした。

ヒバの森にも案内してもらった。
写真はその森の入口でヒバより杉の方が多かったが、その林道を更に奥へと入ると次第にヒバの森になるのだろうと想像をしただけで、その豊かな森とその濃さに胸が高鳴った。
林道に沿った渓流もそれはそれは美しい渓相で、必ず釣りに訪れたいと垂涎の溜息をついた。

函館の友人の工房を訪ねて、ヒバは余す所なく使い切ることができる木だということを学んだ。
そして、紹介された製材所を訪ねることを決めた。

予定を決めない旅でこそ出会えた人と豊かな自然、函館は訪れる度に新しい発見と出会いと感動がある。
そして、学ぶことも多い...。

# by finches | 2012-06-20 06:00 | 無題
907■■ 大間で最初に聴いたこと
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大間の漁師が皆鮪を追いかけているとは思っていなかった。
普段は普通の漁をしている漁師が、時に鮪漁をするのだとも思ってはいなかった。
漠然とだが、一般の漁師と鮪漁師とは違うのだろうと思っていた。

そのことを尋ねてみた。
すると、百人の鮪漁師がいれば、実際に鮪で稼いでいるのは十人くらいだということだった。
だから、ほとんどの漁師は目の前に広がる海から細々と日々の糧を得ている人たちだった。

その多くの漁師が電源開発㈱という天下りの温床に、現金と引き換えに海から糧を得るという人間らしい生活を売り渡してしまった。
一人一千万円を受け取っても、漁協への借金を引かれて手元に渡るのは百万円足らずという漁師も多かったそうだ。
潤ったのも儲かったのも漁協という本来漁民の為の組織だけという皮肉な話だ。

山に入ると舗装された林道から更に枝分かれした舗装道路が目に留まった。
それは送電線のメインテナンスの為のもので、どんなに金を掛けても損をすることがない強い自信と傲慢さがその舗装道路からは感じられた。
金に糸目を付けない原発はあらゆる物に湯水のように金を浪費し、「原子力村」に外科的メスを入れない限り、その傲慢で陰湿な体質はこれからも変わることは決してない。

その現実を大間に見た。
この国の未来に対して強い信条を持った政治家の出現がなれば、戦後連綿と築き上げられたこの不条理を壊すことはできない。
3.11後のこの国を見ていて、只々その不条理の淵を憂う。

前稿のゲートで遮断された道路はかつての生活道路だった。
上の写真はそのゲートの手前に広がる風景だ...。

# by finches | 2012-06-17 04:15 | 無題
906■■ 大間で最初に見たもの
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これから船で津軽海峡を大間へと渡るところで止まっていたが、今梅雨真只中の地に戻って来てその楽しかった日々を反芻している。
さて、津軽海峡を渡っただけで梅雨のない北海道と本州最北端の町はその様相が一変した。
その地には雨が続く梅雨はなく、どんよりと曇って一日中薄霧が空を覆い肌寒い日が続くのが特徴とのことだった。

ボートで何度か函館港の外に出たことはあったが、フェリーからの眺めはその時のものとは全く違っていて、見慣れた海がこんなにも広く怖い程の色をしていたのかと思った。
箱館戦争の海戦は正にこの海で行われ、弁天台場からは無数の砲弾が放たれた。
青函連絡船洞爺丸転覆事故もこの海で起きた悲惨な海難事故だった。
その海を沖に進むに連れて怖いような黒い色へと変わり、船は大きな波のうねりと闘いながら更に沖へと進んだ。

大間に近づくに連れ波のうねりは次第に収まり、いつも機上から見ていたその景色が目の前に現れた。
そして、その山も丘もない平らな風景の中に巨大なクレーンと建設中の建造物だけが異様に映った。
迎えの車で早速その異様な物体を案内してもらった。
それは大間原発の工事現場で、かつて海沿いにあった生活道路は遮断され、原発敷地を迂回するように立派な道路が出来ていた。

航空写真で知ってはいたが、この原発が他と違うのは人々の生活圏と隣接する、否、隣接というよりその只中に建設されているということだ。
ゲートの手前には大間の町があり、反対側のゲートの向こうには漁師の港があった。
どちらのゲートからも中を窺い知ることはできないが、巨大な送電線だけがその中から始まり、山の彼方に消えていた。

大きな不条理が人々の暮らしや営み、そして自然を有無を言わさず支配していた。
ゲートと監視カメラに囲まれた敷地の中は、利権に群がる人間の醜い我欲だけが支配する鬼たちの棲む檻だった。
ここに来た目的は別にあったが、先ずここでの現実を目に焼き付けておきたかった...。

# by finches | 2012-06-16 06:52 | 無題
905■■ 函館は晴れ

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今北海道はいい季節だ。
梅雨のない北海道にも近年蝦夷梅雨などと言う言葉が無いでもないが、カラッとした空気は軽く清々しく爽やかで、津軽海峡を越えただけでこんなにも違うものかと改めて思う。
青空に聳える入道雲もどこか軽やかで、本州のそれとは全く違って見えるから不思議なものだ。
動植物の分布境界線に津軽海峡を東西に横切るブラキストン線と言うのがあるが、気候の境界線の呼び名があってもいいくらいだと思う。

一日の時間がもっと欲しいと思う。
友人を訪ねての暫しの会話、友人たちとの楽しい夕餉、好きな道や建物との再会、新しいものや人との出会い、そのどれもが爽やかに過ぎていく。

書きたいことは山ほどあるが、もう暫くすると船で津軽海峡を大間へと渡る時間だ。
予定外の予定だが、そこには新しい人たちとの出会いが待っている。
そんな訳で今朝はここまで。
行って来ます...。

# by finches | 2012-06-12 06:20 | 無題
904■■ 東京は雨
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一日中雨にたたられた東京も一夜明けると快晴の朝を迎えた。
雨で楽しみにしていた散策は断念したが、それ以外の目的はそつ無くこなした。

数年振りにT刃物店を訪ねることもできた。
外から覗くと、主人は入口に背を向け何やら黙々と研いでいたが、中に入り挨拶をすると忙しい手を止めいつもの場所に座り直すと、突然の来訪にも厭な顔ひとつせずに付き合ってくれた。

その店には数か月前に家人が一人で訪ねていた。
それは店主が書いた本が手元に残っていればその一冊を譲って欲しいと筆者が頼んだ為で、家人は随分緊張したと後で言っていた。

その刃物店のことを知ったのは函館でオルガン作りをしている友人との何気ない会話に始まる。
それはその友人と宮大工・西岡常一との信じられないような出会いの話に始まり、西岡棟梁が東京のT刃物店のことを友人に話して聞かせ、そんな店が眼と鼻の先あったことに驚いた筆者がその店を訪ねたことによる。

今回も雨の中をわざわざ訪ねた価値は十分にあった。
それにしてもすごい男がいるものだと改めて思いもした。
そして、この主人の関わった全ての書籍を手元に置いておきたいと思った...。

# by finches | 2012-06-11 04:42 | 無題
903■■ 幻想的光景―六月

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図書館で見つけた一冊の産業史を持ってT用水路揚水場を探して山に入り、諦めかけて山を降りる途中にこんな幻想的な光景に出合った。
シダに午後の木洩れ日が当たり、そこだけが霞んだように輝いて見えた。

低い里山と雖も一旦その中に入ると木々に覆われ、深い森の中にいるのと大差はない。
これが北海道ならヒグマが怖くてこんな場所を歩こうなどとは決して思わないが、いるのはせいぜい猿か狸か猪で、それらの野生もいざ出合うと恐怖は感じるにせよ、ヒグマの恐怖の比ではない。

鹿などはかわいいものだが、何か気配を感じて目を凝らした先の樹上に猿などがいて、それらが複数の眼でジッと睨んでいることに気付いた瞬間、それはそれでゾクッと凍り付くような野生の凄味が伝わってくるものだ。

この日は長袖のTシャツに長ズボンと長靴という出立ちで臨んだ。
揚水場を探すにはそれなりの覚悟がいると思ったからで、お陰で少々の草むらでも軽快に歩くことができた。

さて、今日はこれから東京だ。
そこでどんな幻想的な光景を出合えるか、今から楽しみだ。
久々にゆっくりと歩いてみよう...。

# by finches | 2012-06-09 03:30 | 無題
902■■ 2本あった水路
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図書館で借りた一冊の産業史の中の、一枚の写真が無性に気になった。
山の上から撮ったその写真には『T用水路揚水口』と書かれていた。
その写真には、下を川が流れ、右岸には低地が広がり、左岸には山が映っていた。

T用水路の全ルートは粗突き止めてはいたものの、その揚水位置と揚水方法がどうしても分からず立往生していた。
暗渠と隧道と逆サイホンで川を渡った用水が、突如水田の真ん中に大きく口を開け、近くには当時のポンプ施設まであった。
だが、それらの関係をどう繋げで考えてみても、そこから30メートル近くも山の上に揚水するには矛盾があって、その矛盾を払拭できる揚水方法がどうしても解らなかった。

図書館で借りたその本を持って日曜日に山に入った。
やはり無理だと諦めて降りる途中で、ふとした予感から小さな水路を伝って奥へと入ってみた。
暫く歩くと、何やら構造物と思しき物と標識が目に入った。
心の中で「これに違いない」と思い、その構造物の横に立って本のページを開いた。
写真の場所は長い歳月が鬱蒼とした森に変え、川も低地も山も見えなかったが、葉先に開いた隙間の先には間違いなく写真の景色が広がっていることが分かった。

いつものことだが、調べを進めると次々に疑問や矛盾に突き当たる。
だが不思議なもので、最初はいくら探しても見つからなかった文献資料などが、その頃になると一つ二つと向こうから近付いて来る。
今も図書館から資料として4冊の本を借りているが、これらを読んで頭にあった疑問も解けてきた。

一本の用水路だと思っていた構造物は実は二本あって、その二つは異なる目的を持って同時期に建設されたものであることも分かった。
揚水場所までは暗渠か隧道でなければならない筈だという仮定、揚水場所の手前にポンプ施設と水田に口を開けた貯水池がある筈がないという矛盾、これらは二本の水路がまるで一つであるかのように装ったトリックに翻弄された結果だった。

矛盾しているから立往生した。
そして、それはフィールド踏査ではなく、文献資料でしか解明する手立てはないと思った。
文献資料はキーワードを変えて探すことで現在4冊まで見つかっている。
だが、まだまだ知りたいことは山ほどある。
隧道や逆サイホンの設計図もじっくりと見てみたい。
だから、筆者のT用水路の調査はまだまだ終わらない...。


# by finches | 2012-06-08 08:49 | 遺産
901■■ 最終便

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別に怪しい店ではない。
東京からの最終便の機内を撮ったものだ。
それは、百二歳で逝った祖母の葬儀の帰りのせいか、覚めやらぬ二日間の余韻のせいか、最新鋭機のその照明の演出はまるで黄泉の国へと並行する随行者に用意されたカプセルの中にいるように感じられた。

体には少しだが疲労感があった。
珍しく朝食を残したこと、葬儀の途中で軽く食べた遅い昼食代わりのおにぎり、いつもの夕食からは大分早い精進落とし、食事の変調はそのまま体の疲れを引き出すように思えた。

斎場から火葬場までの移動は長く長く感じられた。
車窓の景色が都市から近郊農地へ、街から田園風景へと変わる過程で随所に取り残された野生に、近代の都市化とスプロール化の爪痕を実感した。
そして、それらは立松和平が描いた「遠雷」の風景と重なった。

疲労感は都会の尾根を縦走した疲れのように感じた。
それは直ぐに何かで癒したいと、早速「遠雷」の予約を図書館に入れ、同じく立松和平の「雲を友として こころと感動の旅」をアマゾンに注文した...。

# by finches | 2012-06-06 05:40 | 無題
900■■ 生理摘果

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柿の葉の緑も日に日に濃くなっている。
花も終わり今は小さな実が無数についているが、今朝はその実が随分と落ちていた。
柿農家では蕾を間引く摘蕾を行うようだが、今朝のこの状態は柿自らが行う自然摘果ではなく、生理摘果と呼ぶらしい。
つまり、自然に実が落ちることをこう呼ぶらしい。

一昨年はたわわに実を付け沢山の小鳥たちが集まった。
中でも50羽以上のメジロが枝から枝に移りながら一途に実を啄む仕草は可愛いもので、その何とも上手に綺麗に食べる姿はいくら見ていても飽きることがなかった。
昨年はほとんどの実が落ちてしまったが、これは何らかの理由で柿の木が行った自主摘果だったのだろうと思っている。
その分、今年の実りは待ち遠しいし、メジロの再来も今から待ち遠しい。

生理摘果という言葉は初めて知ったが、実が無くなってしまわなければいいかと心配だ。
昨日まではガクだけが落ちていたのに、今朝は実付きで落ちているものだから慌ててしまう。
今日の昼から二日間祖母の葬儀で東京に行く。
その間も生理摘果は進み、明後日の朝は足の踏み場もない程に落ちているかもしれない。

この小さな柿の実を祖母に見せてやろう。
きっと喜んでくれるような気がする...。

# by finches | 2012-06-04 08:52 | 季節
899■■ 蕗の露
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火曜の朝、歯痛の初診を待っている時から歯痛とは異なる変調の兆しが体にはあった。
夕方、どうにも辛く体温を計ってみると、38度を優に超えていた。
そして、その晩から平熱に戻るまで三日間床に臥した。
四日目の昨日、熱が下がり起きはしたものの体はまだ辛く、歯痛がそれに加わった。

少し体を動かそうと、昼下がり家人を散歩に誘った。
その変貌を見たくなくて行くことがなくなっていた海へと足が向いた。
綺麗だった砂浜は草に覆われ、大勢が潮干狩りを楽しんだ沖まで続く干潟は消え、丸~く見えた水平線は堤防に隠れ、賑わっていた海水浴場は消波ブロックで海と遮断され、無数にいた干潟の生き物は数えるほどにその数を減らし精彩を失っていた。

それらの現実と記憶の中にある風景とを反芻させながらゆっくりと歩いた。
夏にはこの海岸のごみ集めに参加するつもりでいるが、人との関係を断たれた海岸の清掃の意味について考えながら歩いた。
一両編成の電車がかつての防波堤の上を汽笛を鳴らしながら走り去った。

今朝、義理の祖母が亡くなったことを知った。
百二歳と七カ月の大往生、その穏やかな死に悲しみなどはない。
ただただ、ご苦労様でした、お疲れさまでした、という気持ちが静かに湧いてきた。

蕗の露が葉際に点々と連なっていた。
その露の一つひとつには、消えて行ったたくさんの思い出が映し出されているように思えた...。

# by finches | 2012-06-02 07:10 | 時間
898■■ 笹舟

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日曜の朝の少し遠出の友人たちの魚の買い出しに同乗させてもらった。
着いた海は穏やかに凪いでおり、その色は近くと沖で鮮やかなコントラストを見せ、遠くには独特な形をした平たい島々が浮かんでいた。
車はその美しい海岸線を東へとひた走った。

着いた道の駅にはいつもの朝の市場で見かけるものとは随分と違う魚が並んでいた。
その中から迷った挙句に三種類を選び、ついでに生の米麹も買った。
復路、友人お薦めの昼食を取った。
地元で採れた旬の素材を素朴に料理した幕の内に小さな蕎麦の付いた日替わり定食は地味だが美味いと思った。

屋外のテーブルの山側には細い水路があって綺麗な水が速いスピードで流れていた。
その流れを見ていて笹舟を作って流したいと思った。
クマザサで作った笹舟はずんぐりとしていて、子供の頃に作った細長い笹舟とは随分違うものに仕上がった。
だが、ずんぐりしたクマザサの笹舟も流れに置くと滑るように下って行った。

友人たちと家人にもクマザサを渡した。
笹舟を作るのは初めての家人も、なかなか上手に作った。
そして、みんなが思い思いに笹舟を流した。
どれもあっという間に流れて行った...。

# by finches | 2012-05-29 05:03 | 無題
897■■ 花香

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金柑は今年花をつけなかった。
酢橘と八朔と蜜柑の花はもう終わった。
酢橙は今も花をつけている。

酢橙の花の周りにはたくさんの昆虫が集まっている。
ブンブンは体中花粉だらけになってもお構いなしにゴソゴソやっている。
蝶は付かず離れずにヒラヒラと優雅な舞いを見せている。
時には大きなスズメバチも不気味な羽音をたててやって来るが、無視していれば危害を加えたりはしない。

地面には無数の花びらが落ちているにもかかわらず、枝にはまだ無数に思える程の花がついている。
これらの花が全て実に変わればすごいと思うが、酢橘の木は自らが摘果を行いバランス良く実をつける調整をしているようだ。

酢橙の木の周りには花のいい香りが漂っている。
仄かだが柑橘系の香りがするから不思議だ。
若葉の瑞々しさ、小さな花の白さ、香りの清清しさ、時間はゆっくりと過ぎて行く...。

# by finches | 2012-05-27 03:55 | 季節
896■■ ズッキーニ
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函館には普通の人が一生かけても経験しきれない程の多くの厭な思い出がある。
函館には一生忘れられない程のたくさんの楽しい思い出もある。

仕事の為に3カ月のつもりで借りたマンションは港を一望できる歴史地区の高台にあった。
結局そこを3年も借りたことで、厭な思い出は徐々に浄化され、街の歴史や伝統や風土や人々の考え方などを、そこでの暮らしの中で一つ二つと分かっていった。

マンションの管理人のM田さんは北海道の水田発祥の地である大野からの通いで、毎朝通勤途中に買った野菜をマンションのカウンターに置いていた。
住人は欲しい野菜があればそこから好きなものを取って、一品百円を置いておくのがルールだった。
早い者勝ち、なくなればそれで終わりだった。
時には売れ残っている日もあったが、M田さんは残った野菜は必ず持ち帰って、翌朝には新しい野菜を買って置いていた。

前の道の向こう側には小さな畑があった。
その畑もM田さんが手入れをしていた。
道に沿った畑は細長くて狭く、遺愛幼稚園のある反対側は急な崖になって落ちていた。

そこでM田さんが育てた野菜もカウンターに並べられたが、それらからお金を取ることはなかった。
筆者はM田さんが育てたズッキーニが好きで、それが置いてあるとよくもらって行っては料理に使った。
ズッキーニがキュウリではなくカボチャの仲間だということも、蔓を伸ばすのではなく円形に葉を広げその真中に同心円に実をつけることもその時に初めて知った。
初めてズッキーニを見た時は、そのユニークな形に目が点になったことを覚えている。

そのズッキーニを今自分で植え育てている。
黄色と緑の実をつける二つのズッキーニだ。
今次々に花が咲き小さな実も少しづつ大きさを増している。
これまではズッキーニを食べる度に函館のことを思い出していたが、今はズッキーニの成長を見ながら函館のことを思い出している。
そしてもう一つ、M田さんのことを思い出している...。

# by finches | 2012-05-26 05:38 | 季節
895■■ 竹―五月

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昼食を取った後に時々訪れる神社がある。
記憶の中にあるその神社は鬱蒼とした森に囲まれていて、子供の頃は年に一度のお祭りに、大人になってからも数年前まではせいぜい初詣に出掛けるくらいだった。
今も初詣はこの神社に行くことに決めているが、その神社で束の間の時間を過ごすことが多くなった。

祭りでは本殿裏の競馬場でサラブレッドとは似ても似つかぬ農耕馬に、騎手と呼ぶにはこれまた程遠いおっちゃんたちが跨り、そこを馬が走らなければ競馬場とは決して分からない走路を、土煙を上げながら颯爽と走る光景が懐かしく思い出される。
その競馬場も今では何処にでもあるグランドに整備され、かつてそこから見えた森は何処にでもある宅地風景へと変わった。

その神社の参道脇の道は今も筆者が三日にあけず訪れる湯治場へと続いている。
その隠れた湯治場も今では立派過ぎる道が何本も通る道沿いのただの温泉に変わり、周りも目を覆いたくなるような宅地風景がかつての田園風景を駆逐し尽くしている。
筆者にとっては子供の頃、神社の脇から更に山の奥へと続くその湯治場への道は、神社の森の更に奥の森へと続く未踏の地だった。

いつも神社の参道を本殿まで真っ直ぐ進むと、決まって左に折れて競馬場跡に行ってみる。
小鳥の音しかしない林をゆっくりと抜け、今は見る影もなく変わってしまった景色に、かつての記憶の中の景色を重ね合わせ、取り留めもなく物思いに耽る束の間の時間を楽しんでいる。

この日も林の中では新しくこの世に生をうけた孟宗竹が輝いていた...。

# by finches | 2012-05-25 04:26 | 季節
894■■ 海―五月

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空はもう夏だ。
真っ青な空に真っ白な入道雲が聳え立っている日も多くなった。

初夏の日射しも風も心地良く、そんな日は海まで行ってみる。
そこにはいつものように、恐らくいつもの人たちが、きっといつもの場所で、釣り糸を垂れている日常のいつもの光景がある。

そんな光景を、時に堤防の手前から、時に堤防の先まで行って、時に立ったまま、時に座って眺める。
釣り人たちよりも光の反射をカットする偏光メガネを掛けている筆者の方が、餌に群がる魚の様子がよく見えているだろうというのも愉快だ。

今の時期、釣り人たちの狙いは細魚(さより)で、次から次に上がって来る。
音のない海原に、時折竿を力一杯引いて糸が一気に張る「ビシッ」という音だけが響く。

海ももう夏だ...。

# by finches | 2012-05-24 04:12 | 季節
893■■ 枯枝のオブジェ

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風が吹くと柿の木の下にはたくさんの枝が落ちている。
風がなくても柿の木の下にはいつも枝が落ちている。

それは枝も代謝を繰り返しているからで、昨年の枝に今年も葉をつけるとは限らない。
そんな枯れた枝は木のゆっくりとした動きに、擦れ合い折れて落ちる。

枯枝のように見えてもそこから新芽を出す枝もある。
枯枝は触ると付け根から簡単に折れるが、枯枝のように見えても生きている枝は触ると付け根でしなる。

そんな枝を集めていたら随分と溜まった。
それを見ていて鳥はどうやって巣を作るのだろうと興味が湧いた。

早速鳥の気持ちになって巣作りに挑戦した。
実際には創作生花でもしている気分で、もくもくと枝を刺してはまた刺した。

鳥はすごいと思った。
そして、柿の木もすごいと思った...。

# by finches | 2012-05-23 05:12 | 無題
892■■ 御田植祭
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何と書きだそうかと迷っている。
迷う程に昨日目の前を流れた時間と光景は、まるで夢物語のように思い出されるからだ。
歴史ある神事、御田植祭の一部始終はまるで幻想のように思い出され、日本という国の、その文化のルーツと礎に触れた感動が未だ覚めやらぬからだ。

馬鍬(まぐわ)を牛に引かせた代掻き、八人の早乙女(さおとめ)たちによる早苗(さなえ)の植付け、八乙女(やおとめ)たちの舞、そしてどこか懐かしい響きの田植唄、かつて瑞穂国(みずほのくに)と呼ばれた日本の、美しく穏やかな農耕文化を今に伝承する絵巻に見惚れ、静かに深く長く、その感動に酔いしれた。

今年に入って随分と故郷への知見を深めた。
これまで漠然とだが確かに自分の中にあった郷土愛などとは全く違う、郷土の懐の深さ、歴史の深さ、自然の豊かさ、営みの健気さ、万物に宿る畏愛、それらを一つひとつの発見や出合いの中で、より強く感じ取るようになっている。

疑問に思ったところには必ず何かがあった。
推測した先には必ず新しい発見があった。
故郷というフィールドは、長く故郷を離れていた者をまるで試してでもいるかのように、無数の考えるテーマを次から次に突き付けてくる。

真摯にそれらに向き合うことを忘れてはならぬと思う。
そして、その中で自分にできることを考え続け、実行していかねばならないと思っている...。

# by finches | 2012-05-21 05:09 | 季節
891■■ お田植祭
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後記事の多い新聞にしては珍しく、翌日行われる「お田植祭」を報じる記事に目が止まった。
地図で調べるとそれは好きな道の途中で行われることが分かり、土曜の午後はこの「お田植祭」を見に行こうと決めた。

普段は持ち歩かない一眼レフをカメラバッグに入れ、麦茶を2つのペットボトルに入れると、図書館への寄り道を考えて少し早目に家を出た。
それは久し振りのドライブ気分で、海辺の町に続く旧道を通り、海原と広大な干潟を見下ろす斜張橋を渡り、両側に水を張った田んぼが広がる道を走り、進路を北東へと取った。

お田植祭が行われる場所は何度となく山辺の製材所へと通った懐かしい道沿いにあった。
東には杣山へと続く川が流れ、その川沿いに広がる平地は遠い昔から稲作文化を連綿と受け継いで来た古く長い歴史があった。
お田植祭はその先人から受け継いで来た米作りの歴史を未来に伝承すべき文化と捉え、健全な米作りを祭りとして伝え残そうとする試みであることを知った。

住吉大社(大阪)の御田植神事や、香取神社(千葉)や伊雑宮(いざわのみや)の御田植祭のような伝統的神事ではないが、土地に根を下ろした微笑ましい行事であり、祭だと思った。
「御田植祭」とはせず「お田植祭」としたあたりに、この祭りに関わる人たちの控えめな作法も感じた。

近く遠く地元中学生による田植を眺めながら、そして繰り返し歌われる懐かしい響きが心地よい地元中学生による田植唄を聞きながら、何か忘れていたものを呼び覚まされる思いが込み上げてきた。
そして、いい時間を過ごせたことに、その時間を与えてくれた人たちに、心から感謝した...。

# by finches | 2012-05-20 06:58 | 季節
890■■ 利用者のための言葉
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3週間前に図書館のウェブサイトで一冊の本の予約を入れた。
その時その本は運悪く貸出中で、最長で2週間返却を待たなければならなかった。

図書館には予約した本が返却されると電話をくれるサービスがあったが、ウェブ上でその本の動向を確認できることもあって、電話連絡は不要である旨をウェブ上で申し送った。
そして、その日から毎日その本の動向のチェックが始まった。

本の動向をチェックするには図書館のウェブサイトを開いて「利用状況確認」から入り、利用者番号とパスワードを入力する。
すると、ウェブ予約の一覧が開き、その本の現在の状態が表示される仕組だ。

少なくても日に一回、日によっては数回もチェックをする時もあった。
一覧で状態を見て、次に本のタイトルをクリックするとその本の所蔵情報が開き、そこには貸出中と表示されていた。

いくら何でも長過ぎると、図書館に問い合わせをした。
すると、本は貸し出せる状態にあると言う。
筆者はどうしてそのことをウェブ上で確認出来ないのかと尋ねた。
暫くして、図書館からの折り返しの電話が鳴った。

「利用状況確認」に表示された「予約割当済」が、本が貸出可能であることを意味していると説明を受けた。
そして、本のタイトルをクリックして表示された本の所蔵情報の「貸出中」は、筆者に対して貸出状態にあることを意味し、他の利用者に対してその本が現在貸出中で図書館にはないことを示していることが分かった。

「予約割当済」とは筆者の予約が確定している意味だと思ったことを伝え、因みに「予約割当済」が「貸出可能」という意味なら、本が返却される前はどのように表示されていたのかを尋ねた。
すると、暫く待たされて「予約登録済」と表示されるとの説明が返ってきた。

「予約割当済」も「予約登録済」も図書館員の符丁であって、「予約登録済」はいいにしても「予約割当済」は「本の用意ができました」と表示すれば誰にでもその状況が分かる。

本のタイトルをクリックして現れる所蔵情報の「貸出中」に至っては、前人の『貸出中』が本の返却を境に、筆者の『貸出中』に変わっているなど分かろう筈がない。

図書館は利用者に対する分かり易さへの配慮が必要だ。
それは利用者への過度な迎合などではない、利用者が一目で理解できる分り易い言葉を使うことだ...。

# by finches | 2012-05-19 03:36 | 無題
889■■ たかが1.5センチと侮るなかれ
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我が家にはもう随分前に購入したガラストップの正方形の座卓がある。
届いて直ぐにその高さが使い難いことに気付いたが、処分するでもなく使ってきた。

その座卓は26歳の時に初めて責任ある仕事を任されてある地方都市に赴任した際に買ったもので、東京からはIKEAのテーブルとY木材工芸の椅子をその赴任先に送り、デスクライトはyamagiwaから取り寄せた。

IKEAのテーブルは折り畳めるスチール製の赤い脚だけが今も残っていて、大切に使っている。
yamagiwaのデスクライトは紆余曲折、波乱万丈はあったが、今も大切に使っている。

家人が東京に行って留守の間は、その座卓で毎晩一人で食事をするのだが、その高さがどうにも気になって仕方がなくなった。
それはただその高さが気に入らないという主観的な問題ではなく、物を書く、物を読む、物を食べる、それら個々の目的に対しての機能的なところでの問題に、とうとう我慢も限界に達した。

そこで、どのくらいその高さはあるのかと測ってみた。
それは以前筆者が製作を依頼して作らせた座卓より1.5センチ程高かった。

この1.5センチを我慢してきた積年のストレスを思いながらその脚を短く切った。
たかが1.5センチと言うなかれ、新しい座卓は我が暮らしの道具として蘇った、否、生まれ変わったと言っていい。

写真で見ると1.5センチなんてこんなものだ。
だが1.5センチをあなどるなかれ、人の脳は正常な平衡状態を欲しているのだ。
この座卓の前に座る度に、我が脳は「高い、高いぞ、高過ぎるぞ」と、筆者に指令を送っていたのだと今更ながら思った...。

# by finches | 2012-05-18 05:53 | 無題