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953■■ 聖橋・絵葉書
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前稿に続き何故か聖橋…。
明け方に宮本輝の『泥の河』を読み終えたせいか、その中での大阪の川と橋と人々の暮らしへの余韻が覚めやらぬせいか、今朝は大阪の橋でも書こうと写真を探していて『大東京の十六大橋』という絵葉書が目に留まった。
その中の一枚『聖橋』に市電が写っていて、前稿の松住町架道橋の下を潜って相生坂を上って来た市電というのも何かの縁と、再び聖橋を取り上げることにした次第だ。

ところで、どうして相生坂と呼ばれるかと言うと、神田川対岸の駿河台の淡路坂と並んでいるからだ。
『相生』の意味が、「一つの根から2本の幹が相接して生えること、二つのものがともどもに生まれ育つこと」から分かるように、何とも洒落て粋な命名ではなかろうか。

早速『新東京市中央図』(昭和10年初版)で市電の路線を見てみると、松住町電停を出て御茶の水電停に向かう市電だということが分かる。
ついでに、この場所を『東京一目新図』(明治30年)で見てみると、聖橋はまだなく御茶水橋だけが描かれているのに興味を覚えた。

さて、絵葉書に話を戻すと、神田川右岸の鬱蒼としている部分が現在の御茶ノ水駅で、前稿版画に描かれた『聖橋』は神田川左岸から松住町方向を見たものとなる。
現在の聖橋は改修工事によって橋全面にモルタルが吹き付けられてしまっているが、この絵葉書を見る限り柔らかく味わいのある左官の手仕事が全体に感じられ、それがアーチの造形に表現派特有の人間味のある湿り気を加味しているように思う。
そして、そのこともこの聖橋が持っている懐の深さの一つなのだと思う...。

by finches | 2012-10-18 08:15 | 遺産
952■■ 聖橋・版画
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写真は「昭和大東京百図絵」(昭和7(1932)年)に収められている、小泉癸巳男(Koizumi Kishio)の「聖橋」だ。
関東大震災の復興事業で聖橋が架けられたのは昭和3年、聖橋を通して後方に昭和7年完成の総武本線松住町架道橋が描かれていることから、小泉癸巳男はこの松住町架道橋をどうしても聖橋の背景に借景として使いたかったことが窺える。

そこには聖橋が鉄筋コンクリート造の開腹式アーチ橋であるのに対し、鋼鉄製のブレースドリブタイドアーチ橋を対比させた構図の中に、生まれ変わった帝都を正確に後世に伝え残す貴重な歴史資料としての側面が隠されている。
また、この松住町架道橋は関東大震災後に総武本線の両国橋(現両国駅)・御茶ノ水間の延伸工事で生まれた橋だということからも、帝都東京が新しい時代に力強く踏み出したその一歩を象徴する構図でもある。

拙稿ではこれまで5稿の中で聖橋に触れているが、肝心の聖橋をテーマに書くことはなかった。
手持ちの写真も随分とあるにはあるが、この橋が建築家・山田守の設計として余りにも有名である以上に、特段説明を加えてみたいという気持の誘発には至らなかったからだ。

だから、今朝も聖橋を通して見えてくる時代を書いただけで、肝心の聖橋については何も書いてはいない。
だがもしかしたら、この橋はもっと懐が深いのかも知れない。
その懐の奥にあるものが見えてきたら、その時はきっとこの橋について書けるような気がする...。

by finches | 2012-10-17 06:24 | 復興
951■■ 川辺のアーチ橋
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厳密に言えばこれは橋ではない。
本来橋とはこっち側からあっち側へ渡るという目的を持って架けられるもので、渡ることのないこっち側だけ、或いはあっち側だけにあるものは橋ではないだろう。
だが、これがただ柱が林立している今風の味気ないものだったら敢えて橋とは書かないが、これが美しいアーチとなると橋と書きたくなってくる。

このアーチは川沿いに連なる温泉旅館の前の道路を川側に拡幅するために造られたもので、これに繋がる橋に昭和5(1930)年と竣工年が刻まれていることから、このアーチもその年に造られたものと考えていいだろう。

この手の鉄筋コンクリート造の開腹式アーチ橋としては、震災復興で昭和3(1928)年に神田川に架けられた御茶ノ水の聖橋が有名だ。
聖橋は建築家・山田守の設計として知られその表現派的デザインを特徴とするが、この温泉街のアーチ橋もそのデザインが各地で踏襲されていった一例と見ることができるだろう。

これまでに拙稿で取り上げた中にも石神井川音無橋(昭和5年)や相模川小倉橋(昭和13年)などがこのデザインを踏襲した例と考えられるが、地方温泉でのこのような実施例は珍しいものだと思う。

対岸から眺めていても鉄筋コンクリート造の冷たさも無味乾燥なところもなく、寧ろ柔らかく温もりさえ感じ川に降りてみたくなってくる。
それは、デザインというものが如何に重要な要素であるか、82年の歳月を経て尚現代人の心を揺さぶる力がある。

因みにこのアーチに繋がる橋はアーチ橋ではない。
水面までの高さがない橋をこの形式のアーチ橋にしなかったのは、洪水時に流れを堰き止めないことへの配慮だったのだろう。

昭和5年製のそれら鉄筋コンクリート造建造物は、対岸にある二つの掛け流しの町湯と静かに穏やかに対話を楽しんでいるように見えた。
秋の空は青く高く、凛とした空気に桜紅葉も輝いていた...。

by finches | 2012-10-16 08:21 | 遺産
769■■ 日本橋-冬十二月
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半年振りの東京は13年振りに乗るモノレールで始まった。
約束の待ち合わせまでは9時間、たっぷりある時間、そんな心の余裕が朝の車窓の景色をより新鮮なものにした。

JRに乗り継ぎ有楽町で降りると、先ずは新しい眼鏡の注文を済ませた。
次に復元工事の進む東京駅の雑踏を擦り抜け、地下ホームから快速に乗り千葉に向かった。
千葉に着くとモノレールに乗り換え二つ目の駅で降りると、その日二つ目の用を済ませた。

東京に戻りチェックインを済ませると、日本橋から銀座まで寄り道を楽しみながらゆっくりと歩いた。
明治44年(1911年)に竣工した日本橋は今年架橋百年を迎えることで、昨年全面に亘る改修工事が実施され見違えるように綺麗になっていた。
日本橋は毎年夏に橋洗いが行われており、それも今年で41回目となるが、洗われるのは歩道や道路や高速道路に取り付けられた『日本橋』の橋名プレートなどで、橋全体は黒く汚れた印象を拭えなかったものだが、それも先の改修により当時の色を取り戻していた。

さっぱりと綺麗になった日本橋は右岸上流の橋詰の黄色く色付いた大銀杏とどこか会話を楽しいんでいるかのように見えた。
そんな光景を眺めながら、他の数多の橋たちにもこの橋と同じ愛情を注いで欲しいと思わずにはいられなかった。
否、愛情とまでは言わない、自分たちの身近にあるそれらの美しい橋の存在に、先ずは気付いて欲しいと思った...。

by finches | 2011-12-21 05:16 | 時間
617■■ 市ヶ谷見附跨線水道橋
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市ヶ谷見附跨線水道橋は昭和4年(1929年)に完成した水道橋だ。
外濠と複々線の線路を跨ぐこの水道橋は5径間の下路鋼鈑桁橋で、総長322呎(フィート)幅員15呎の橋には一本の送水管が載っている。
知る人ぞ知るあの市ヶ谷フィッシングセンターの上を跨いでいるあの橋だ。

これまでこの橋を何度見たことか分らないが、この度初めてそれを写真に収めたのは甲武鉄道を調べていたお蔭だ。
余談だが、甲武鉄道の市ヶ谷停車場は今の市ヶ谷駅よりほんの少し四谷寄りの場所(現在ホームの端辺り)にあった。
明治時代の道路拡幅工事で市ヶ谷見附は取り壊されるが、甲武鉄道市街線紀要(明治28年)にはまだ市ヶ谷見附が描かれており、その少し四谷寄りに市ヶ谷停車場があったことが分かる。

さて、この市ヶ谷見附跨線水道橋だが、しげしげと見るとなかなかユニークな橋だ。
製作は横河橋梁製作所だが、ユニークなのは鉄筋コンクリート造の橋脚上部のデザインにある。
人道橋ではなかったために鉄骨製の橋梁は橋脚毎に構造的に独立して切れている。
そのままだと鉄筋コンクリート製の橋脚の上に鉄骨製の橋梁が載る普通のデザインとなるところを、これではつまらないと思った技術者がいたのだろう。

その技術者は鋼鉄製の橋梁の上にコンクリート製の勾欄を載せ、その勾欄と鉄筋コンクリート製の橋脚のデザインの一体化を図るために橋脚最上部で一工夫一捻りをしている。
そのままではコンクリート製橋脚の上に鉄骨製橋梁が載り、その上にコンクリート製勾欄が載る横縞のデザインになるところを、橋脚最上部にコンクリート製の板壁を取り付けることで、あたかも橋脚と勾欄とが一体の鉄筋コンクリート造であるかのように見せている。
このことでそのままではつまらなかった水道橋を、あたかも人ための人道橋のように見せることに成功している。
 (筆者もこれまでかつての人道橋を水道橋に転用したものだと思っていた)

この化粧の板壁、ちょっと地震には怖いが、そこはご心配なかれ、ちゃんと倒れないようになっている...。


More photo 橋脚と勾欄と化粧板壁のディテール
by finches | 2011-03-10 05:51 | 時間
602■■ 御成街道架道橋

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歩行者天国が再開された秋葉原、見慣れた建物、見慣れた大通り、見慣れた鉄道橋、さてこの写真から何を書こう。
街の情景もいい、だが、この大通りと橋に興味を引かれる。
大通りの名は中央通り、新橋から銀座、京橋、日本橋、神田、秋葉原を経て上野に続く。
橋の名は御成街道架道橋、総武線の両国から御茶ノ水への延伸工事で昭和7年(1932年)に開通したプレートガーダー橋だ。
一本隣にある松住町架道橋のダイナミックなブレースドリブタイドアーチ橋もいいが、この橋のシンプルで直線的なところもこの大通りや町並みの直線と妙に調和していていい。

ところで、中央通りに架かる橋をどうして御成街道架道橋と言うのか不思議に思い調べてみた。
すると、それは江戸時代この近くに三十六見附の一つ筋違橋門があり、将軍がこの門から江戸城を出て上野の寛永寺に参詣し、その道を下谷御成街道と呼んだことに由来することがわかった。
松住町架道橋にしても御成街道架道橋にしても名前が分ると、これまで知らなかった新しいことも分かってくるから面白い。

東京上野間の高架が決定されたのは大正8年(1919年)のことだ。
総武線の高架工事は既に完成していた現在の山手線高架を更に跨ぐ必要があり、その高さはビルの3階に及んだ。
当時はその物珍しさに多くの人々が見学に集まったそうだが、そんな歴史のレイヤーを重ねて見ると、この景色この情景も一味違って見えてくるから不思議なものだ。
そんなこの街この鉄道橋の歴史が、この大通りの真ん中からの写真を撮らせた気がしてならない...。

by finches | 2011-02-21 03:00 | 時間
595■■ 南高橋-二月
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一番好きな橋はと問われると迷ってしまうが、好きな橋はと問われれば南高橋と答えるかも知れない。
それは、この橋を見ると何故かほっとするからかも知れない。
この橋は旧両国橋の3連トラスの中央径間部分を昭和7(1932)年に移設したものだが、スレンダーで全体の均整も取れ、無駄を削ぎ落とされた部材には緊張感がみなぎり、その安定感に優しく包まれるような安堵感を感じる。

色が銀色なのもいい。
隅田川を始め他の川の橋がどれも色鮮やかに塗られている中で、この南高橋と勝鬨橋は銀色で、この銀色が黄昏時に次第に色を変えていく様は何とも美しいものだ。
南高橋は陰になって黄昏時の光の変化は楽しめないかも知れないが、日中は日を受けた銀色に光と陰が遊び何とも楽し気だ。

下を流れる川は亀島川、少し上流で日本橋川に繋がる。
今は埋め立てられてないが、かつてはこの南高橋の右岸上流には桜川が亀島川に注いでいた。
江戸時代、この辺りには多くの河岸があり、全国各地から集まった米や塩や酒を初めほとんどの生活物資がこの河岸に陸揚げされていた。

今、亀島川と隅田川の境には水門が設けられ、南高橋から隅田川を望むことはできない。
だが、その流れが繋がっていることで二つの川は呼び合い引き合い、いつも一つになろうとしているように思える...。

by finches | 2011-02-13 02:53 | 時間
593■■ 松住町架道橋
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松住町架道橋は昌平橋交差点の上を跨ぐ総武線の橋梁で、複線下路ブレースドリブタイドアーチという形式の橋だ。
関東大震災後、総武線の両国橋駅(現両国駅)と御茶ノ水間の延伸工事が行われるが、その工事で昭和7年(1932年)に完成した鉄道橋となる。
震災復興事業で東京市には425の震災復興橋梁が架けられ、中でも隅田川に架かる橋はその構造やデザインに於いて過去のものを踏襲しない全く新しい設計思想の下に架けられた斬新な橋だった。
そして、これら全ての復興橋梁の設計と施工で培われ完成された橋梁技術は、全国各地の野や山や深山幽谷に架ける橋に至るまで惜しみなく注がれ、その美しい橋は今も全国津々浦々に数多く残り現役で使われている。
これらの道路橋の一方で鉄道橋の影は薄いが、震災復興橋梁に続く時期に架けられた両国橋-御茶ノ水間の鉄橋はいずれも従来にない斬新な橋ばかりだった。
間違いなくここにも復興橋梁で完成された橋梁技術は鉄道の土木技術者達に確実に引き継がれ、それらの技術は彼らの造る鉄道橋に惜しみなく注がれたのだろう。

筆者は同じアーチ橋でもトラスを入れて強度を高めたブレースドリブアーチが好きで、その力強いフォルムには橋の大小を問わず思わず引き込まれ見蕩れてしまう。
この昌平橋交差点を跨ぐ72mの松住町架道橋も下から見上げるその高さも相俟って、威風堂々としたそこを最新デザインの車両が通っても勿論古さも見劣りなどもすること無く、寧ろこの交差点の主役の座に君臨しているようにさえ思える。

この交差点から見えるもの、それは先ずこの松住町架道橋、昌平橋、萬世橋高架煉瓦アーチ、言い換えれば昭和、大正、明治、そして現代が共存共生している交差点とも言える。
50年後に昭和、大正、明治に加えて平成の何かがこの景色に加わっているだろうか。
そしてその時、昭和、大正、明治は今のままの姿でここに生き続けているだろうか...。

by finches | 2011-02-11 06:08 | 時間
590■■ 昌平橋
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今朝のように昌平橋とタイトルを決めると先ず一通り調べてみることにしている。
資料があればそれを引っ張り出して足下に置き、先ずはネットで昌平橋を検索してみる。
出所の同じような橋の由来や歴史解説などは飛ばし、どんな写真があるかなどにも一応の注意は払う。
次に足元に置いた資料に移るが、今朝は六冊の本と一冊の地図と一枚の古地図を用意した。
その資料にざっと目を通しながら、このタイトルの場合だと橋梁として書くか、一つの橋を通して見えてくる世界を書くかを考える。

ネットにWikipediaの記事があれば先ずそれに目を通してみるが、今回は写真から間違っていた。
Wikipediaでその程度だから他の掲載写真などは軒並み間違っている。
昌平橋の川上と川下に建設された歩道橋の写真を昌平橋だと思って挙げているようだが、調べが甘いだけで悪気はない。
次に資料の中の橋梁調査報告書で昌平橋の完成年を確認すると昭和5年とあり、筆者が写真に収めた完成年プレートの昭和3年と矛盾する。
こちらは素人の調べが甘いのとは違い、橋梁を専門に研究する大学教授として失格ものだ。
ネットも学者の本も駄目、そうなると橋梁として書くのは止めてこの橋を通して見えてくる世界の方を書こうと決る。

聖橋と万世橋の間にある昌平橋は神田川に架かる橋で、この橋までは外掘通と呼ばれるがこの橋からは昌平橋通と名を変え更に行くと不忍通とその名前を変える。
最近街の歩き方が前と変わってきて、歩き方が変わると街の見え方がまるっきり変わることに気が付いた。
歩き方がどう変わったかというと、以前は目的地まで最短で行けるように降りる駅を選んでいたが、最近は意識して遠くで降りる訳ではないが余り遠い近いは考えないようになった。
それは江戸という尺度で考えて見ると、大抵の所は歩いて行けるからだ。

例えばこの昌平橋で考えて見ると、秋葉原から見るとヤマギワリビナの裏の通りの先にある橋だったし、淡路町から見ると蕎麦のかんだ藪や甘味の竹むらなどがある須田町を抜けた更に先にある橋で、起点を表とすると昌平橋はいつも裏の場所という印象があった。
ところが、昌平橋を起点に歩いてみると今まで街の裏側だった場所が表側になり、そこから広がる街の見え方は今まで知らなかった驚きの連続となるから面白い。
友人が誘ってくれた店も御徒町からは外れに思えたが、立ち位置を変えて見ると湯島天神階段下の門前だし、兎に角散策の度に気付くこと発見すること新たに疑問に思うこと等々、人生も街歩きも遠回りすほど得るもの多くまた楽しい...。


[2011.2.10 加筆]
記載に誤りがあり592■■ 昌平橋の謎をお読み下さい。
by finches | 2011-02-08 03:46 | 時間
584■■ 萬世橋灯具
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神田川に架かる万世橋とその一つ上流にある昌平橋は共に昭和5年に架橋された震災復興橋梁で、両者ともコンクリートアーチ橋だ。
写真に写る煉瓦アーチはかつてここに万世橋駅があった頃のホームに当たり、万世橋駅が中央線の前身である私鉄甲武鉄道のターミナル駅として明治45年に開業した当時からのものだ。

今からは想像もできないが、甲武鉄道が万世橋駅をそのターミナル駅としたのは、当時の神田須田町界隈が路面電車が行き交う交通の要衝だったことによる。
そして、当時の駅舎は辰野金吾の設計となる煉瓦造2階建てで、それはその後に建設される東京駅駅舎以上に堂々とした建物だった。

ところで、万世橋駅が竣工した頃と現在の街の様子は随分と変わっていて分り難い。
以前あった交通博物館が万世橋駅の場所だと言われても、俄には想像できない悶々とした時期が随分と続いた。
それは街というものは例え大きく様変わりをしていても、かつてそこにあった川筋であったり、道路であったり、広場であったりと、その面影を多少なりとも想像するきっかけとなるものが残っているものだが、この万世橋駅辺りは万世橋と高架の煉瓦アーチが残るだけで、駅前の広場などがすっかり姿を消している為、街と駅舎との関係を思い描くのがどうにも難しい。

江戸時代この川筋には昌平河岸があり、万世橋の辺りには江戸三十六見附の一つ筋違橋門があった。
夜のとばりに包まれるとそんな遠い昔、路面電車が行き交い人々で賑わう昔、そして街の中心が移り寂れ心(うら)淋しい今、そんな街の歴史を万世橋の灯りはぼんやりと写しているようだった...。


[2011.2.10 加筆]
昌平橋の完成年は592■■ 昌平橋の謎をお読み下さい。
by finches | 2011-02-02 05:40 | 時間