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877■■ 通用門改め、樋門
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湖に流れ込む近代化産業遺産T用水の存在に気付き、それが地図の上から突然姿を消していることに興味を抱き、その全ルートを無性に知りたくて調べを始めた。
そして、小学生の目には不思議で異様な構造物に映っていた川を跨ぐ水道橋が実はこの用水の水橋だったことを知り、その構造物が逆サイホンとサイホンを応用して水を対岸に渡す為のものだと分った。

落差の少ない行程で水を流す技術は江戸時代の玉川上水や神田上水で知っていたが、このT用水も高低差の少ない上流のダムからこの湖までを複雑な揚水方法を駆使して、時に地上を流れ、時に隧道に姿を変え、時に地下に消える、そんな上下を繰り返しながら水を流す技術の高さが感じられた。

そして、この湖から地下埋設管で運ばれるルートと、その出口となる工場も付き止めたが、湖からのT用水の出口については「あそこの、あれだろう」くらいに、然程興味を抱くこともなかった。
だが、桜を見た帰りに地下埋設管の第一マンホールと湖間の開渠を見ながら歩いていて、それが隧道で湖に向って姿を消す方向に見たものは、筆者が想像していた「あそこ」とは全く違う方向を指していた。

隧道の先には、またしても小学生の目には不思議でならなかった構造物があった。
あの頃から何十年も、今の今まで一体何をするものだろうと思い続けていたものが、T用水に水を送り出す為の樋門だということが分った。
道路側にはいつも閉まっている門があって、それは公園の通用門だと思っていた。
だが改めて良く見るとそこに書かれていたのは「通用門」ではなく「樋門」だということが分った。

更に、その場所の土手が灌漑用の湖を造る為に300年前に浅い谷を閉め切る為に造られた土手そのもので、その土手の上を通って中学にも高校にも通っていたことにも驚かされた。
そして、この土手の建設こそが今のこの町の礎であり、そこから流れ出るT用水はこの町の発展の礎であることが、300年前の土手で交差し交錯していた。

湖に流れ込む小さなT用水に気付いたことで思わぬ発見が幾つもあった。
そして今、これまで当たり前のように見ていたこの湖の深く長い歴史に驚愕すると共に、先人の仕事に心より敬意を抱いた。
そして又、これらのことを正しく後世に伝え遺すことが、今を生きる者としての務めだと思った...。

by finches | 2012-04-24 04:26 | 遺産
808■■ 樋門が伝える歴史
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隣接する市が刻んで来た貴重な歴史について多少知ってはいても、そこをじっくり歩いてみることはなかった。
だが、偶然に見つけた標識に誘われるままに川伝いの細い道を進むと、江戸時代に造られた小さな遺構が現れた。

その五連の樋門は干拓の為の排水門で、その内側に広がる広大な農地は当時藩が行った最大規模の干拓事業によるものだと知った。
それは広大な干潟を利用しての干拓であったにせよ、その土地の高さは海よりも下で、堤防を築き干潟を海から切り離した後の干拓工事が、どれ程過酷でまた年月を要したことかは想像だに出来なかった。

この樋門は硬い岩盤を刳り貫いて造られているそうで、344年の時を経て当時の土木技術の高さを今に遺していた。
それは基本となる石積みに見ることが出来、江戸時代の石積みがビクともしていないその横で、近代の堤防が波に破壊されている姿は何度となく目にしたものだ。

この樋門は300年以上に亘り実際に使い続けられた。
この古い樋門の外に新たな堤防を築き、そこに新しい樋門を造る必要がどこにあるのかと言いたい。
遺構として葬るのではなく、先人の遺した遺産を生涯現役として使い続ける発想がどうして出来ないのかと言いたい。
ここにも国と県が行う無駄な終わりなき自然破壊の悲しい犠牲者の姿があった...。

by finches | 2012-01-30 04:22 | 遺産
771■■ 東堀留川跡-冬十二月

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かつて日本橋川の江戸橋左岸下流には西堀留川と東堀留川という二つの川が合流していた。
前者は関東大震災による瓦礫を処分するために埋められ、後者は戦後の瓦礫処理で埋められた。
この写真は東堀留川の跡で今は児童公園になっているが、随分と広い川幅だったことが窺える。
また、江戸時代はこの川の両側に二つの河岸があり活気に満ち溢れていた。

堀留とは堀を掘っていって止めたところという意味だ。
筆者も最初は河岸をつくる為に、日本橋川から開削していった堀割だと考えていた。
だが、これら二つの川の一つはかつて江戸湾に流れ込んでいた旧石神井川の川筋の名残で、旧石神井川の付け替えや神田川の開削により、元の川から切り離され埋められ、辛うじて残った下流の一部がこの川の所以だ。

ところで、日本橋川も太田道灌が開削した道三堀の川筋だが、この道三堀は当時江戸城まで入り込んでいた日比谷入江と江戸湾とを結ぶためのもので、その途中で江戸湾に注いでいたのが旧石神井川となる。
つまり、この写真を撮った立ち位置から後ろを振り返ると、かつては入江の先に広大にな江戸湾が広がっていたことになる。

清洲橋に向かう途中のちょっとした寄り道から今朝も多くのことを勉強した。
江戸は世界に類を見ない、水の都。
江戸は世界に類を見ない、都市計画でつくられた街。
いや~、江戸は知れば知るほど、分れば分るほど、面白い、楽しい、すごい...。

by finches | 2011-12-23 04:12 | 時間
768■■ 石畳がつなぐ場所
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日曜の午後、一週間前に初めて訪れた温泉のある町を再び訪ねた。
寒い日だったが、先ず旧駅舎を覘き、続いて目星をつけた旧宿場町の中心と思しき通りを高みにある寺まで一気に走り抜けた。
そして、裁判所の建つ広場に車を止め、小さな図書室に並んだ郷土資料に順に目を通した。

思った通り、車で走り抜けた通りがかつての宿場の中心だったが、写真に残るその町並みとは大きく様変わりしていた。
資料にざっと目を通し終えると、早速かつての本宿跡を面影を探して歩いた。

当時、表と裏すじに二つあったという水路は、裏すじはそそまま残り、表すじは蓋がされていた。
かつての面影はほとんど消えていたが、二つの水路の間隔と通りの長さとが、かつての本宿の縦横の広がりを暗示していた。

次に、地図に記された一つの名跡に興味を惹かれた。
その石畳は、誰が、何時、どんな目的で、そして、どこに続いているのだろうと思った。
石畳の入口をやっと探し当て、山道に車を止めその石畳に続く小道を登ると、落葉が降り積もった江戸時代の石畳が姿を現した。
そして、その石畳は険しい山道を越え隣村を流れる川の船着場に通じていたことも分った。

そして、こちらもやっと探し当てた石畳に通じる反対側の入口は、かつてその地を治めていた豪族の居館があり、今も幾つかの由緒ある寺が残る場所にあった。
そこは拙稿『地図にない浄水場』や『八幡宮裏参道』のある、あの場所に続いていた。

また一つ、点が線で繋がった。
不思議なもので一旦線が繋がると、今度は面が見えてくる。
次はこの石畳の残る山道を友人たちと歩きたいと思った。
勿論、ビールとワインと手作りの弁当とを持って...。

by finches | 2011-12-19 05:30 | 時間
499■■ 和釘

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写真家・土門拳は写真集「古寺巡礼」で、濡れ縁の和釘を冷徹な目で切り取って見せた。
鍛冶・白鷹幸伯は自著「鉄、千年のいのち」で、宮大工・西岡常一の依頼による和釘作りの苦労話を語っている。

和釘と一言で言っても、その形や材質や製造法は時代を追って変化する。
それは古い物ほど質が高く形にも意味があり、新しいものほど量産型で質も低下する。
古いものとは飛鳥・天平の時代を指し、新しいものとは江戸の時代を指す。
これを製造法で見ると、前者は鍛造であったのに対し、後者は鋳造で製作された。

古寺巡礼に写る和釘は丸く太く、そこに力強ささえ感じたが、写真の和釘は頭を潰し目立たないよう繊細に仕上げられている。
恐らく主役である欅の板目を最大限美しく見せるための心遣いもそこにはあるのだろう。
これは前項の座敷の外を巡る濡れ縁のものだが、座敷から見て和釘は木目の中に姿を消し、木目を揃えた欅板の繰り返しだけが庭との間にあって美しい調和を見せている。

この和釘も明治になり西洋建築が造られ始めると、接合力が弱いという理由で洋釘へと淘汰されていく。
しかし、接合力が弱いのではなく、西洋建築の小屋組みや仕口に見る接合法には面倒な和釘は合わなかったというのが正しいと思う。
何故なら、接合力が強い筈の洋釘が簡単に抜け、接合力が弱いとされる和釘は一度叩き込むと容易に抜けないことからも明らかだろう。

前稿で日本の建築を見るこつは、座して見ることだと書いた。
そしてもう一つ、其処彼処に隠されているディテール、その細かな気配りと業を発見し、それを読み解いてみるのもまた楽しいものだ...。

by finches | 2010-10-14 04:55 | 空間
498■■ 庭の見方

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随分昔のことだが、ある京都の名刹で庭の見方を教わった。
それはそれがどのように造られているかを教わったことでもあった。
その時の住職の話は目から鱗で、以来その教えを守っている。

日本の建築は部屋と部屋は襖で、部屋と庭は障子で仕切られている。
そしてそれらは共に取り外すことができる。
するとこんな開放的な空間が庭に向かって連続し、座敷と庭は融合して一体の空間となる。

この座敷の場合、障子は一箇所に引き込まれている。
実際にその動きを見せて頂いたが、これまた目から鱗で、気付かなかったディテールが其処此処に隠れていることも分かった。
そして、目の前での障子の動きを見ながら、その必然性と整合性に改めて感心し驚かされた。

一緒に訪れた大学教授の友人からは、この細い柱だけでこの解放的な空間を作り出す隠れた仕組みの話なども聞け、その空間の味わいも倍加した。
そして、何か同じものを共有できる友人たちと一つのものを見る楽しみが、その瞬間その時間を豊かなものにしてくれた。

この座敷に入り正座して庭を見ていると、友人たちも傍に正座して庭を見ながら話を始めた。
その瞬間共有する同質の価値観を感じ、心地よい安心感と信頼感に包まれて静かに建築の話を楽しんだ。

庭の見方、その答えは座して見ること。
何故なら、建物も庭も正座した視線で造られているから...。

by finches | 2010-10-13 04:32 | 空間
497■■ 白塀の町並み

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前稿の港町は海から日が昇るが、同じく前稿で触れた白塀の城下町は山から日が昇る。
そんな山から朝日が昇る中、白塀の続く道を歩いた。
まだ町は眠っているように静かだったか、波の音が時折風に乗って微かに聞こえてきた。

前夜は白壁の商屋が残る道に沿って、門松の竹を短くした形の三本の竹筒に蝋燭を点し、それが無数と思えるくらい並べられた神秘的で妖艶な世界に酔い浸った。
その記憶も覚め遣らぬ次の朝、朝日を逆光に心の底から美しいと思える景色に再び酔い痴れた。

朝のひんやりと澄んだ空気は気持ち良く、それは忘れかけていたアルプスの山小屋で朝焼けを見ながら吸い込んだ、あの澄んだ空気のように感じられた。
一時間の短い散歩だったが、白塀の道を突き当たると向きを変えながら城跡まで歩き、後は塵一つない締まった砂浜を、心地よい海風を胸一杯に吸い込みながら戻った...。

by finches | 2010-10-12 06:06 | 時間
496■■ 白壁の町並み

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昨日とある海辺の町で開かれた歴史講演会に出席した。
この町のことは昔から知ってはいたが、最近まで町の中に入っことは一度もなく、況してやそこにどんな町並みがありどんな歴史をもっているかなど知る由もなかった。
ところが、ひょんなことからこの町に入る機会があり、そこに江戸時代の白壁の町並みが残されていることを初めて知った。

灯台下暗しとは正にこんなことを言うのだろう、その町並みを見た時の驚きを今も忘れない。
その町並みは漆喰で塗り込められた居蔵造りをなまこ壁と瓦がその上下を引き締めているような造りで、それに同じく白い土蔵や瓦を載せた白い土塀が重層するように見事な調和を見せていた。

そして、もう一つの驚きはこの町の歴史で、この遠浅な海をもつ港が何故か廻船業で栄えたという事実だった。
言わずもがな、それによって財を成した商人たちが残したのがこの白壁の町並みと言うことになる。
そして、昨日の話でこれら廻船業者の膨大な献上金が幕末を動かす潤沢な資金として使われたことを知った。

昨日の朝は、その倒幕運動の中心であった歴史的町並みの白塀の中を歩いていた...。
昨日の昼は、その倒幕運動を支えた港町の白壁の町並みの中を歩いた...。
昨日の夜は、筆者が唯一見ているテレビで、その倒幕運動の覇者の最期を見た...。

by finches | 2010-10-11 06:55 | 時間
419■■ 江戸城銃眼

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銃眼とは弓矢や銃を撃ったり監視したりする為の小穴で、丸いもの、三角形をしたもの、そして正方形や長方形などその形は様々だ。
そしてその高さはというと、通常は人間が立った高さか膝をついて構える高さとなるが、写真の銃眼の高さはそれらとは違っていて匍匐して銃を構える位置にある。
匍匐しては矢を射ることは出来ないだろうから、これは銃を撃つ為のものだと分かる。

銃眼は白壁に開いているという印象があるが、ここでは足下の石の部分に開けられていて、それが実にスッキリとしていて美しい。
だが、この形と位置には訳があって、枡形虎口へ侵入して来た敵を十分な体勢で狙い撃ちする為のものだ。
枡形では銃を左右に振ったり下向きに角度を調節する必要がなく、四面に開けられたこれらの銃眼からはまるで狙撃手のように匍匐して正確に狙ったのだろう。

今はこうして美しいと眺めるが、それを必要とした歴史や阿鼻叫喚の地獄絵を想像すると身の毛がよだつ思いがしてくる。
不思議なもので悲しく惨く不幸な歴史を秘めたもの程、悲しくも美しさを感じるように思う。
兎角白壁の美しさだけに目を奪われ勝ちだが、その白壁の下に塗り込められた深い歴史にもきちんと目を向けたいものだ...。

by finches | 2010-07-12 06:33 | 時間
406■■ 江戸城中雀門跡石垣

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江戸城は天守台跡以外にも火災の跡を今に残す石垣が残っている。
江戸城は明暦の大火(1657)以後も度々火災を被るが、その跡を生々しく残している石垣が中雀門跡近くにある。
写真はその石垣の目と鼻の先にあるのだが、ここは火災から免れ往時のままの姿を残している美しい石垣だ。

かつてこの辺りには重箱櫓と書院二重櫓があったそうだが、それらが火災で炎上しても石垣全体が変形するまでに至るものかとずっと思っていた。
だが、今回改めてその焼け跡を見て、関東大震災で避難していた4万人が焼死した本所被服廠跡に発生した火災旋風のことを思った。
もしその鉄をも溶かす火災を伴った竜巻がここを一気に駆け上ったとしら、「然もありなん」、と長年に亘る疑問が一気に解けた。o

さて、江戸城を少し案内しよう。
大手濠と桔梗濠の間を進み右に直角に曲がって大手門を潜ると道は左に直角に曲がる。
更に進むと大手三の門跡があり、ここにはかつて同心番所があった。
そこを左に直角に曲がると百人番所が残り、ここでまた直角に曲がると大手中の門跡、その傍に大番所が残っている。
そこから道は両側を高い石垣に挟まれまるでヘアピンカーブのように進むが、その途中に中雀門跡はある。

中雀門は玄関前門とも御所院門とも言われ、本丸御殿に達する最終の門で、徳川御三家と言えどもここからは駕籠を降りて歩いて入ったと言われる。
そして、当時はそのヘアピンカーブのような坂道を抜け中雀門を過ぎると、江戸城本丸が目の前に現れたのだろう。
勿論防衛の為の築造には違いないが、その「閉」から「開」への空間の切り替わりは、それは息を呑むほど見事であり美しかったであろう...。

by finches | 2010-06-29 06:16 | 時間