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857■■ 神戸市北野小学校
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大阪での待ち合わせの5時間も前に神戸を訪ねたのにはそれなりの訳がある。
それは、神戸は日本で最初に鉄筋コンクリート造小学校が誕生した地で、京都に続いて大阪のそれを視る前に、神戸に残る同時代の小学校建築の姿を目に焼き付けておこうと思ったからだ。

大正9(1920)年に神戸に完成した日本で最初の鉄筋コンクリート造小学校は須佐小学校と言った。
だが、同じ年には横浜で寿小学校が産声を上げており、当時の大都市に於ける小学校建築の不燃化の流れの中にあって、何処が最初かということはさして重要な意味は持たない。
余談だが、大正9年の人口から都市の規模を推し量るならば、神戸は東京,大阪に続く第三位、横浜は第七位だが、大正14年には神戸第五位、横浜第六位と横浜の人口増加が著しいことが見て取れる。

さて、現在は『北野工房のまち』として保存再生されている北野小学校は昭和6(1931)年に完成したもので、前稿のトアロードという坂道に面して建っている。
北野小学校を書くに当り先ず前稿で『国立移民収容所』を取り上げたのは、このトアロードを登った先を左に折れて更に登るとその収容所があり、その先は更に細民街に続いていたことを背景として書いておきたかったからだ。
一方、トアロードを真直ぐ登った先にはトア・ホテルと言う高級ホテルが建ち、この北野小学校も移民として日本を離れなければならなかった人々とは天と地程も差のある人々の子どもたちが通う、まるで夢のような超近代的な建物だったに違いない。

両者の間にはその時代の光と影が交錯し、長い時の流れの中で今は共に姿を変えて対峙する様に、言い様ない歴史への深い憎悪を感じるのは筆者だけだろうか。
前稿の石川達三の『蒼氓』の中に、「突堤には見送りの小学生が三、四百人も整列していた。彼らは港にちかい小学校の生徒たちで、移民船が出る度毎に交替で見送りに来るのであった。」という件がある。

間違いなく港への坂を下る移民たちはこの北野小学校の前を通り、間違いなく見送りの旗を振る小学生の中にこの北野小学校の生徒たちがいたと思う。
国立移民収容所と北野小学校の建築の記憶を更に上回る街の記憶の中に両者が存在し、それらが長い時を経て対峙する姿に、改めて日本の歴史の深淵とこの街の歴史の深さとを感じる思いがした。
そして、改めて歴史ある建築をそのままの姿で次代へ継承することの意味を、深く深く思わずにはいられなかった...。

by finches | 2012-03-25 05:35 | 近代モダン小学校
843■■ 屋上から見えた京都-清水小学校
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 朝5時前におばあちゃんに起こされる。
 5時20分に清水に散歩に出掛ける。
 「おはようさん」と、皆が声を掛ける。
 優しい言葉、東北を思い出す。
 おばあちゃんが説明しながら歩く。
 (中略)
 本堂に上がり、蝋燭を立て、線香を立てる。
 百手観音の前に座る。
 おばあちゃんが経を唱える。
 家族の幸せ、健康を祈り、最後に
 「この青年が無事に旅を続けますよう、健康でありますよう」
 と祈ってくれる。
 何とありがたいことか、何と優しい人なのだろう。

これはスケッチブックの片隅に残された青年筆者の清水での思い出だ。
清水寺の近くにベランダから清水の塔が見える、昔芸者だったおばあちゃんがやっている民宿があると聞き、そこには一部屋だけ芸者時代からのものという数奇屋の和室があるというので、その部屋に何泊かした時のものだ。

昔は知恩院から八坂を通って産寧坂(三年坂)から清水寺までが特に好きで、京都と言えばいつもこの辺りに足が向いたものだ。
それはその道すがら見え隠れする八坂の塔が好きだったからで、何処から描いたのだろうと思うようなスケッチが何枚も残っている。

筆者にとってのそんな思い出深い場所に清水小学校はあった。
昭和8年(1933年)竣工の校舎は傷みこそあれ、80年近い歳月を経ても尚、矍鑠とした姿で迎えてくれた。
建物の中には歴史の記憶が深く刻まれ、屋上には京都の街の変遷を見守り続けた深い皺が刻まれていた。
八坂や清水の塔をこんな風に見る機会が訪れようとは思いもしなかった。
だが、八坂の塔は青年筆者の記憶の中のままで、その何十倍もの間そこに立ち、京の変遷を見続けてきた自信に満ちていた。

古いものをそのまま前の時代から受け継ぎ、それをそのまま次の時代に受け渡す、そのことの意味と重みが屋上から見えた京都だった...。

by finches | 2012-03-05 07:29 | 近代モダン小学校
615■■ 目白小学校
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久し振りに土日を休み、その休みを堪能した。
土曜日は甲武鉄道の痕跡を探して信濃町から飯田橋までを歩き、続いて津久戸,江戸川,黒田,金富小学校と歩いた。
日曜日は山吹,鶴巻,関口台町小学校と歩き、夕方からは友人宅での味噌作りを楽しんだ。

日曜は神楽坂から関口台地の崖線に向かって、神田川へと続く緩い傾斜を下り、榎町では済松寺に立ち寄った後、最初の目的地である山吹小学校(昭和4年)址に向かった。
山吹小の歴史を辿ると小学校として使われたのは短かったようで、昭和17年に設立された東京府立第二十高等女学校がこの年からこの校舎での授業を開始しており、昭和20年に戦災で校舎の内部が焼失した後、昭和25年には赤城台高等学校と改称され、改築小学校として建てられた鉄筋コンクリート造の校舎も改修を終えている。
また、近所に住むお年寄りの話によると、戦後この山吹小は戦災で行き場を失った人々の為に、アパートのように使われた時期もあったそうだ。
その赤城台高校もなくなり、今は都立山吹高校という如何にも都立らしい豪華な校舎に建て替えられている。

次に向かった鶴巻小学校は大正14年に建てられた改築小学校だったが、今は新しい校舎に建て替えられている。
鶴巻という名はかつての弦巻川の名残だが、関口台地の谷に沿って流れていたその川を江戸の風景に重ね想像してみた。

最後に向かった関口台町小学校も大正14年に建てられた改築小学校だったが、こちらも今では新しい校舎に建て替えられている。
この日、神田川から関口台地を登る坂の名が目白坂だということを知った。
その坂の説明を読みながら、関口台町小学校の図面に目白小学校と書かれていたことを思い出した。
昨日まで誤記かと思っていたが、関口台町小学校に向かう坂を目白坂だと知り、成る程とひとりで得心した...。

by finches | 2011-03-07 06:55 | 時間
614■■ 黒田小学校
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黒田小学校には謝らなければならない。
それは先週校了した復興小学校の分布地図で、あろうことかその位置がずれていたり、現存する中に入れていなかったりと危うく失態を演ずるところだったからだ。
位置に関しては自分の単純なミスだったが、現存しているものをそうではないと判断していたことについては少なからずショックを受けた。

昨日、そのことを確かめに黒田小学校を訪ねた。
黒田小を訪れるのはこれで3度目のことだ。
昭和11年(1936年)に完成したその姿を見ていても、1993年の新聞記事に掲載された戦前のモダンな校舎の写真を見るまでは、今の校舎が竣工当時のままのものとはやはり判断できないと思った。

小日向台地の崖線下に建つ黒田小学校がここに建設された当時、そのモダンな白い校舎はさぞ際立っていたことだろうと思った。
そのモダンが故に二度までもこの校舎の前に立ちながら、それが東京市による一連の改築小学校とは見抜けなかったのだと自分に言い訳をした。

行きは津久戸小(昭和8年)から江戸川小(昭和11年)の横を通り黒田小(昭和11年)に向かい、帰りは小日向台地の崖線に沿って東に歩き金富小(昭和11年)から再び飯田橋へと戻った。
黒田小脇の服部坂を登って行くと小日向台小(昭和13年)がある。
これら五つの小学校は既にその周りに建てられていた改築小学校と比べると、よりモダンな国際スタイルへと変化しており、その真っ白な校舎が点在する様はさぞや美しかったろう思った。

黒田小が竣工当時ものだと気付かなかったことで、改めてそこを訪れ様々なことを考えさせられた。
そして、今朝この小文を書くに当たり改めて様々と調べることに没頭した。
そして、この行きつ戻りつ、試行錯誤の繰り返しを通して、一つまた一つと新しいものが見えてくるのだと思った...。

by finches | 2011-03-06 11:04 | 時間
611■■ 早稲田小学校
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きのう初めて早稲田小学校の内部を見た。
今朝は拙稿・早稲田小学校で「早稲田小学校の意匠の不思議さの解明はもう少し新しい資料を調べる中で考えてみたい。」、と話を終えた続編となる。
中を見たからには今書いておかなければと思い書き始めはしたものの、だからといってこの奇異な建物のことが解明できた訳ではない。

早稲田小学校は大正15年に起工し昭和3年に竣工している。
震災復興事業の最中理由もなくこれだけの工期を得ることは不可能で、そこには何らかの重大な設計変更がなされたことが想像される。
拙稿・早稲田小学校で「関東大震災以前の小学校建築は外部の建築家などに依頼してその設計がなされていたが、震災後の復興事業を契機にその設計は東京市で一括して行われることになった。しかし、この小学校は建築家・渡辺仁が設計を担当しているという不思議さがある。」と書いたように、関東大震災後に設計が開始されたのであれば、明らかに建築家・渡辺仁が設計に携わることはなかったと考えていいだろう。

恐らく大震災前に渡辺仁によって設計がなされたものの、その後大震災によって焼失または罹災した小学校を速やかに鉄筋コンクリート造で建て直す必要から新たな設計規格が設けられたことで、その規格に適合するような設計変更がなされたとみるのが妥当だろう。
早稲田小学校の南に建てられた牛込高等小学校(大正14年起工、15年竣工)などには装飾的な臭いを強く感じるし、また隣区の窪町小学校(大正14年起工、15年竣工)は早稲田小学校に見られるような飾り破風が設けられていた。
これらからは新しい小学校建設に取り組む若い技師とは設計思想の異なる臭いを感じるが、その代表格がこの早稲田小学校と言っていいだろう。

この小学校の特異性に対して筆者が最初に目を付けたのはその建設費だった。
工事金額だけを見ていると分らないが、残念ながら単位面積当たりで見てみると決して突出したものではなく、ここからこの建物の特異性を語るのは無理があると断念した。
飾り破風、スペイン瓦、アーチ、それらが醸し出す城郭のようなイメージに奇異さを感じてきた。
だが、中に入ると他の小学校以上に普通であり、校庭側の立面などは他の小学校以上にサッパリとしたものだった。
つまり、あの奇異な意匠は道路側だけのもので、この部分に渡辺仁設計の面影を残し、他は設計規格に合わせてバッサリと変更がなされたのではないかと考えずにはいられなかった。

1階教室と校庭との高さも設計規格とは違っていた、柱の扱いや窓の取り方もどこか違って見えた。
それらが大震災前に担当する設計者によってバラバラだった悪しき名残だとすれば、震災復興事業を遂行する為に設けられた小学校建設における設計規格とは、信条、設計思想から設計、工事監理に至るまで高度に完成されたものであったことを改めて強く感じた。
そして、それは当時の復興建設仕様書を読んで感じたこと、図面に描かれた一線一字一句から伝わってきた技師たちの熱い思いとピッタリと重なった...。

by finches | 2011-03-03 05:26 | 復興
581■■ 旧入谷小学校
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旧下谷小学校を訪れた同じ日に旧入谷小学校の中にも入ることができた。
後者に入るのは二度目だったが、奥まで隈無く見るのはその日が初めてだった。
少し説明しておくと、前者は昭和3年の竣工で復興小学校のグループに入り、後者はそれよりも早い大正15年の竣工だが改築小学校のグループに入る。

筆者が東京の復興小学校を調べ始めてから早いもので3年近くになり当初は20校が現存していたが、一昨年港区の旧南桜小学校(昭和3年竣工)、昨年台東区の旧福井小学校(昭和4年竣工)と中央区の明石小学校(大正15年竣工)、そして今年に入って中央区の旧鉄砲洲小学校(昭和4年竣工)が次々に解体され、現在その数は16校に減っている。
その内実際に現役小学校として使われているのは半数の8校で、その中の1校(中央区明正小学校)は既に解体の予定に入っているのが現状だ。

さて、旧入谷小学校の内部は階段や廊下や普通教室の一部に昔の面影を残していた。
教室の3つの窓からの明るい日差しは廊下側の窓と扉まで届き、竣工当時から変わらない木製の黒板二つと廊下側の回転窓が、まるで静寂の中に置き去りにされたように残っていた。
黒板や窓や扉の枠からは今のものより数段上の仕事振りが伺え、85年という長い時を経て狂いもなく、寧ろ使い込まれた中に気品と美しささえ感じる先人たちの仕事を温かい気持ちで眺めた。

二つの校舎にはそれぞれに趣があった。
だが、それは過去や古いものへの郷愁などではなく、一つの思想に貫かれて造られたものが時を経て決して色褪せないことへの尊敬の回顧であり、今こそこれら本物の空間に沁み込んだの建築の記憶を未来に継承し、その思想を伝承していかなければならないと思った...。

by finches | 2011-01-30 03:54 | 近代モダン小学校
569■■ 日曜日の発見
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日曜日、この冬一番の寒さにもめげず外へと出た。
メトロを降りバス通りを少し歩いた後、タイ料理の店で温かい麺の昼食を済ませると住宅街の細い脇道へと入った。
この日の目的は三つの小学校を実際に見て確かめることだったが、その中の一つに竣工当時の校舎が現存しているのではないかとの予感があっての行動だった。

その一校は筆者の東京近代モダン小学校リストの中では既に×印が付けられていて、その印は即ち竣工当時の校舎が現存しないという意味なのだが、それにも係わらずかねがね自分の目でどうしても一度は確かめておきたいと思っていたものだ。
それは衛星写真に写る校舎の形が、どう見ても竣工当時のものに思えてならなかったからだ。

衛星写真は真上から見ている為に旧校舎の形と同じに見えるものでも、実際には建て替えられ階数が増えていたりして、この錯覚で実際に行ってみてガッカリしたことが幾度もある。
一方、この方法で竣工当時の校舎が現存していることを発見したことも幾度かあり、今回のことでまだ×印を付けたものでも竣工当時の校舎が現存している可能性があることも分った。

この小学校については別の機会に近代モダン小学校の仲間として紹介したいと考えている。
それにしても幾つになっても野外授業から得るものは大きい...。

by finches | 2011-01-17 05:36 | 近代モダン小学校
472■■ 弥生小学校-玄関

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仮にそのもの自体をどうしても持続することが出来なくなったとして、船の羅針盤や錨を取り外して保存するのと、建物を特徴付けている柱を切り取って保存するのとはまるで意味が異なる。(前々稿、前稿)
船や蒸気機関車の部品、またはそれらのネームプレートなどは、それら一つ一つが完結した完成品であり、それらの集合として全体が構成されている為に、それらが元の部品に還ったところでそれ程の違和感を感じずにいられるように思う。

それに対して建物を特徴付けている柱を切り取って保存するのは、船の特徴的なブリッジ(船橋)やデッキ部分を切り取って陸(おか)に置くのや、蒸気機関車の特徴的な先端部分を切り取って公園の片隅に置くのと同じで、こうなってくると先の部品を保存するのとは違い、最早只の抜け殻に過ぎない。

写真は筆者がその保存運動に係わった函館の弥生小学校の竣工当時の写真だが、全国で物資統制による鉄筋コンクリート造小学校の建設が終焉する中での戦前最後の小学校建築として、紛れも無く国の重要文化財として後世に残すべき秀作だったが、現在は解体が進み見る影もない。
何処の教育委員会も考えることは馬鹿の一つ覚えのように同じで、この写真の右隅の局面部分が玄関になっているのだが、この曲面部分だけを縦に切り取って新築する校舎に貼り付けようとしている。
これを彼らの符丁では部分保存とか保存再生と呼ぶのだから全く議論にもならない。

先の船の羅針盤や錨を明石小学校や弥生小学校に置き換えてみると、例えば校庭の二宮金次郎の像を移設保存するのがそれらに近く、柱を切り取り壁を剥ぎ取って貼り付ける似非保存は、先のブリッジを切り取って陸に置き、蒸気機関車の先端部分を切り取って公園の片隅に置くのに近い。

登録有形文化財や重要文化財を統括しているからといって文化庁は全く当てにはならないし、文化の本質を見据えてそれらを未来にそのまま継承するという信念も気概も能力もない。
一方、文化財を生かすも殺すも思いのままなのが教育委員会で、この組織が教育の普遍性と継続性という不可侵の理念を後ろ盾に、それらを巧妙に利用してこの国の文化財を次々に抹殺している現状にもっと目を向け知るべきだろう。
日本の文化を守るには、文化庁と教育委員会という一蓮托生の組織を根底から解体するしかない...。

by finches | 2010-09-16 05:13 | 復興
442■■ 二つの復興小学校-終戦65年目の夏
今朝は「essay bibliophobia」と「函館・弥生小学校の保存を考える」に同じ記事を掲載します。

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最初の写真には筆者が調べた東京市の鉄筋コンクリート造小学校(戦前)の全てがプロットされている。
東京市の鉄筋コンクリート造小学校の歴史は大正11年に木造校舎に増築された鉄筋コンクリート校舎に始まり、昭和13年に終わりを告げる。
その間に大正12年に発生した関東大震災の復興事業として焼失した木造小学校117校を鉄筋コンクリート造で再建することを復興事業の中でも優先して行うべき急務と位置付け建設されたものを復興小学校と呼び、その数は焼失した数と同じ117校となる。
そして、震災復興事業が完了する昭和5年までに117校全てが完成する。
現在その復興小学校は不完全なものを含めて都内に19校が現存し、その内の10校が中央区に存在している。
その10校の内の3校で建て替え問題が起こり、その筆頭として現存する復興小学校の中で最も古い明石小学校に於いてこの8月にも解体が開始されようとしている。



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次の写真には同じく筆者が調べた函館市の鉄筋コンクリート造小学校(戦前)の全てがプロットされている。
函館市の鉄筋コンクリート造小学校の歴史は市の不燃化政策の下で昭和2年に始まるが、昭和9年に発生した未曾有の大火により既に建設されていた2校が罹災し、それらの再建を含めた鉄筋コンクリート造小学校の建設が函館大火復興事業の中で優先して行なわれる。
そしてその数は5校にのぼり、その5校の完成を待ってその集大成とも言える弥生小学校が函館の誇る歴史地区に昭和13年に完成する。
奇しくもこの年は東京の鉄筋コンクリート造小学校の建設が終わりを迎えた年で、函館の弥生小学校はそれまでに全国で建設された鉄筋コンクリート造小学校の正に集大成と言っても決して過言ではない秀逸な建築だった。
筆者が弥生小学校が東京の復興小学校と比較しても抜きん出ていると思うのは、函館特有の坂のある敷地の高低さを巧みに利用した建築計画にあり、防災拠点としての公共建築のあり方や、小学校と地域社会及び環境との共生のあり方など、先駆的で見事と言う以外に言葉がない程周到に計画されていた。
だが、その弥生小学校も筆者たちの保存活動を無視するように解体が進み、今や見る影もない状態にある。


さて、今日の日曜日の午後1時からのTBSテレビ「噂の東京マガジン」で明石小学校が取り上げられる。
タイトルは「仰天!国宝級校舎壊す中央区の訳」とテレビ欄にある。
今筆者のいる場所ではこの放映を見ることはできないが、この問題がどのように取り上げられるのか全国の心ある人たちに見て欲しいと願っている。
実は、函館の弥生小学校もこの「噂の東京マガジン」に出そうという提案を読者から頂いたことがあった。
もし、テレビに出ていたら事態が変わっていたかは分からないが、それだけにこの明石小学校がどのように取り上げれられるのかは興味深い思いがある。

筆者は誰よりも明石小学校の保存を望む一人だが、誰が焚き付けたかこの学校が重文にあたるとか、況してや国宝などという本質を見据えようとしない形振り構わないやり方には馴染めない。
だが、その形振り構わないやり方にまで頼ろうとする気持ちも痛いほど分かっているつもりだ。
今日、森本毅郎がどのようにこの問題を仕切り纏めるか、大変興味深い...。

by finches | 2010-08-08 05:54 | 復興
327■■ 高輪消防署からの眺め
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「高輪台小学校から高輪消防署の塔がランドマークのように見える。
町とはこれらの古いものが共存していてこそ、そこから人の暮らしや営みの音色が聞こえ、だからこそそれが例え雑多であり猥雑であったとしても美しい。
再開発よって生まれ変わって行く建築や町が何故虚しいのか、何故長居をしたくないのか、それは、この暮らしや営みを断ち切ってつくり上げた、余所(よそ)行きの顔しか持たない建築であり町であるからだ。
生きる力を持っている建築を壊して、同じ形のものにつくり変える行為を、決して復元とは言わない。」
これは2年前の別ブログでの、復元保存という名目で公然と行われるレプリカ建築についての記事の一部だ。

この高輪消防署の塔にある丸窓から高輪台小学校を眺めることができた。
この大正時代の表現派建築のような美しい建築も、実は昭和8年に竣工した建物で、モダンな高輪台小学校の2年前に出来た同時代の建築とは俄かには信じ難いものがある。

これらが出来た当時はまだ品川沖には海が残っていて、高輪台という高台に建つこれらの建物からは品川の海が望め、その海を行き交う船からはこれらの建物を眺めることができた。
その二つの建物もランドマークとしての役目を終え、今や周囲の建物に埋没するかのようだが、高輪消防署の塔の丸窓から眺める高輪台小学校も、高輪台小学校から眺める高輪消防署の塔も往時の関係を保っていて、辺り一面の都市化の中で両者は今も呼応し合い、悠然と会話を楽しんでいるように思えた。

そして、これからも悠久の歴史を刻み続け、健全だった良き時代の語り部としてのストーリーテラー(Storyteller )であり続けて欲しいと思った...。


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by finches | 2010-04-04 06:45 | 記憶