タグ:震災復興小学校 ( 96 ) タグの人気記事
802■■ 帝都復興美観
b0125465_755159.jpg


一冊の冊子が手元に届いた。
それは、『聖上陛下御巡幸記念 帝都復興美観』で、昭和5年3月24日の天皇巡幸を記録したものだ。

筆者は関東大震災後に建てられた復興小学校の研究を続けていて、それに繋がる資料に出合うと、それが余程高額でない限りは手元に置くようにしている。
関東大震災の復興事業関係の資料は国会図書館や東京都公文書館を始めとして、幾つかの公立図書館で所蔵されている。
筆者は調べる内容によりこれらの図書館を使い分けていて、時々は古書店に出物を探して立ち寄ったりもする。

余り知られていないのが、意外やこれらの資料を地方の思わぬ大学が所蔵していて、それらをデジタルアーカイブで公開していることもある。
逆に、東京都下の某図書館のように、どこで手に入れたのかは知らないが、それらの貴重資料を閉架書庫の奥に仕舞って一般に公開していない図書館基本理念にももとる例もある。

さて、予想した通り先の冊子にも二つの復興小学校が載っていた。
それらは既に手元に所持している写真だったが、一冊の纏まった冊子の中で天皇巡幸の順序と合わせて見ていくと新たな知見に繋がるものだ。

その一つ千代田小学校については『日本一の千代田小学校』、『その構想設備等は実に日本一、世界にもその類が少ないと云われるくらいの出来栄え』と賞賛されていた。
千代田小学校の完成は帝都復興事業の終わる昭和5年の前年の12月、正に出来たてホヤホヤで、隅田川の傍に建つ千代田の屋上からは新大橋を始め、両国、蔵前、厩、駒形の復興橋梁が望め、川向こうには復興の象徴である復興小学校が点在する光景が広がっていたことだろう。

これまで、どうして天皇巡幸に千代田が選ばれたのだろうと考えていた。
日本一と言えども他校と比較して特に建設費が高いわけでもなかった。
だが、この冊子を見て、復興の象徴であった復興小学校にあって、帝都復興を一望する場所としてそこが選ばれたことが分った。
それは新たに分った小さな知見ではあるが、その積み重ねが新たな知見へ向けての想像力を養っていく...。

by finches | 2012-01-24 05:44 | 復興
721■■ 帝都復興記念絵葉書
b0125465_7541719.jpg



大正12年9月1日、関東地方を未曾有の大地震が襲う。
この関東大震災により東京は壊滅的な被害に見舞われるが、迅速且つ的確且つ計画的に帝都復興に向けて動き出し、その世界に類を見ない帝都復興事業を昭和5年に完成させる。

その震災復興事業の完成を記念する絵葉書の一つがこれだ。
他にいくつか図柄や扱った写真の異なるものを知っているが、これは四枚がセットになっていて、全てに清洲橋をあしらった帝都復興事業完成記念スタンプが押されている。
日付は昭和五年三月二十六日と読める。

他の帝都復興を祝う絵葉書でも見たことがあるが、この絵葉書にもその千代田小学校の写真があった。
あったからこの絵葉書を購入したとも言えるのだが、ここからも震災復興事業の要の一つに小学校建設があったことを窺い知ることができる。
因みに千代田小学校とは昭和4年12月に竣工した復興小学校で、両国橋南の隅田川右岸に位置していた。(現日本橋中学校の場所)

暫くご無沙汰していた震災復興小学校や震災復興橋梁をまた時々取り上げる気構えにこの写真を選んだ。
まだ手持ちの資料の整頓が思うようにできてないが、それらをストレスなくスムーズに取り出せる環境を早く整えたい。
その時はこの千代田小学校を真っ先に取り上げようと思う...。

by finches | 2011-10-24 06:03 | 復興
610■■ 十思小学校
b0125465_1982166.jpg


十思小は昭和3年(1928年)に竣工した復興小学校だ。
いつも何気なく復興小学校と言っているが、今朝は久々に言葉のおさらいをしておこう。
関東大震災(大正12年)で東京、横浜を中心として多くの小学校が罹災する。
罹災した小学校のほとんどは木造だったが、その中には大正11年からすでに建設が始まっていた鉄筋コンクリート造の小学校も含まれていた。
その罹災した小学校の内、東京市は焼失した117の小学校を全て鉄筋コンクリート造で建て替えるのだが、この復興事業費で建設された117校を特に復興小学校と呼んでいる。

震災復興事業は昭和5年で終了するが、この間復興小学校と呼ばれる117校と平行して、罹災した23の小学校も鉄筋コンクリート造で建て替えが行なわれる。
そして、これら23校は改築小学校と呼ばれている。
ここで知っておいて欲しいのは上の説明で分る通り、復興小学校と改築小学校は予算措置上の区分けであって、その設計思想や社会背景には全く差がないということだ。
兎角、復興小学校を何か特別なもののように扱う傾向が専門家を含めて見られるが、本来の意味を正しく理解した上で、尚且つ自らの言葉で語って欲しいといつも思っている。
帝都復興80年にあたる昨年あたりから、やたらとにわか復興小学校論者が増えたように筆者には思えてならない。

震災復興事業では東京府による錦糸、隅田、浜町の三つの復興大公園とは別に、東京市によって復興小学校に隣接する52の復興小公園が造られた。
理想は117校全てに公園を隣接させることではあったが、区画整理の困難さや震災復興事業費の中での割り当て分から、52の公園を造ることが限界だった。
しかし、この復興小公園は従来の公園型式とは全く異なる新しいものだった。
その中でも特筆すべきは狭小な復興小学校校庭の延長としてこれらの公園が考えられていたことだ。
そして、その公園は子どもと近隣住民、言い換えれば学校と近隣社会が共有し、災害時には避難場所となるよう点在させた配置計画は、現在の防災都市計画の骨格が既にこの時期に完成していたと言って過言ではない。

さて、十思小学校にも十思公園が隣接する。
ここは江戸時代の伝馬町牢屋敷跡で、吉田松陰終焉の地などの碑や、石町時の鐘が移設され残されている。
写真はその公園から撮ったもので、左が屋内体操場、奥が校舎となる。
今朝は十思という復興小学校と復興小公園を通して、これらの持つ意義を少し考えてみた...。

by finches | 2011-03-02 04:23 | 復興
583■■ 旧待乳山小学校

b0125465_1813996.jpg


旧下谷、旧入谷に続き旧待乳山小学校の内部を見る機会が訪れた。
初めてこの小学校を訪ねてから早いものでもう二年近くが経とうとしているが、その時のことは今でもよく覚えている。
それはその時まで「待乳山」をどう読むのか分らずにいたが、たまたま正門前の道をやって来たおばあちゃんに声をかけその読み方を尋ねると、よく聞き取れない言葉で「まつちやま」と教えてくれた。
「まちちやま...?、まちちやま...!、まつちやま...?」、と何度も聞き直したことが懐かしい。
昭和3年に竣工した学校よりももっと前の生まれだと思えたそのおばあちゃんは、真新しい真っ白なその小学校に目を輝かせて通ったのだろうと思いながら、束の間の遣り取りの時を過ごした。

待乳山小学校は10年前に田中小学校(昭和5年竣工)と統合され、今では東浅草小学校と名を変えている。
両者は共に震災復興事業で建設された復興小学校で、田中小は既にないが統合後も待乳山小学校の校舎がそのまま使われている為に、当時の面影を今も随所に残している。

そんな校舎の階段に鋳物製の透かし飾りが残っていた。
戦時中武器として鋳造し直せる金属は全て供出させられたことから最初は木製だろうと思ったが、触ってみると明らかにそれは金属で何らかの方法でこれらを隠し供出を免れたのだろう。
腰壁の木は新しいものに変わり、廊下や階段には天井が張られ、往時の裸の美しさは失われているが、当時のままのテラゾーの腰壁と鋳物製の透かしが残っていることで、まだまだこの建築が持つ力は失われていないと感じた。

三つの復興小学校では通底するものを感じた。
そして、現在そのどの建物からも建設中の東京スカイツリーが良く見えた。
窓から屋上からその姿を眺めながら、古いものと共存してこそ新しいものもより生かされると、改めて考えさせられた...。

by finches | 2011-02-01 06:19 | 復興小学校
580■■ 旧下谷小学校
b0125465_7585283.jpg


待ち合わせ場所の旧下谷小学校は上野駅の近く、待ち合わせ時間には十分な余裕があり二つ手前の神田でメトロを降りた。
そこから旧下谷小学校までの間には3つの復興小公園があり、それらを見ながら行こうと思ったからだ。
初めての道を通勤の人の群れに逆行するように歩き、普段なら絶対に気付かないと思うような場所にある狭い階段を上がり神田川に架かる歩道橋を渡った。
歩道橋の上からは朝の光に輝く震災復興橋梁・美倉橋(昭和4・スチールアーチ橋)も望めた。

3つの公園を見ようと歩き出したものの、思いの外上野までは距離があり、結局御徒町公園を一つ見ただけに終わったが、かつてこの公園には復興小学校・御徒町小学校が隣接し、今は中学校に変わってはいるが、当時の公園との繋がりを想像するには十分だった。

さて、旧下谷小学校を訪れるのは昨日で3度目だったが、初めて校舎の中を見る機会が訪れた。
中に入るとかつての昇降口は薄暗くひんやりとしていたが、柱や壁に腰高より少し上まで貼られた桜色のラスタータイルがほんのりと浮かび上がり、漆喰が塗られた柱や梁は角のない柔らかな幻想的な翳をつくり、板張りの薄暗い廊下は往時の面影を残し奥へと続いていた。

学び舎の建築の記憶、そんな凛とした空気を毛穴の奥まで感じながら、軋み音を立てる木製の階段をゆっくり、静かに上った...。



[補記]
下谷小学校は改めてessay bibliophobia annexの方で取り上げます。
by finches | 2011-01-29 05:45 | 復興小学校
548■■ 竹田組百年史とCD
b0125465_861021.jpg


クリスマスの夜帰宅すると、一通の郵便が届いていた。
それは明石小学校の保存に誰よりも早く取り組んだ一人の女性からで、筆者にも彼女の保存活動を自らの方法論で全力で支えたという小さな自負がある。
その彼女が自ら保存活動の為に立ち上げたホームページを終えると言う。

一つの小学校の保存活動を通して疲れもしたし傷つきもしたことだろうと思う。
父兄という立場で子供たちの未来の為にという強い信念を持って保存活動を続けた長く切ない苦労を思うと、これまでよくぞ頑張ったと心から言いたい気持ちだった。
封を開けると送り状と共に明石小学校の建設に携わった竹田組の百年史とCDが入っていた。
彼女は果敢にも竹田組の百年史を手に入れた上に、明石小学校の建設当時の情報を更に得ようとその百年史の編集に係わった人と直接会う約束まで取り付け、三人で銀座で会って話をしたことがまるで昨日のことのように懐かしく思い出された。

そして、その日の別れ際に彼女が言った言葉を思い出した。
「この百年史が自分に必要なくなったら、その時は差し上げますから」、と。
CDと共にその百年史を見た時、やはりこれで彼女の保存運動は終わったんだと実感した。

筆者は壊されていく明石小学校について書く気にはなれなかった。
だが、明石小学校が解体され消滅した今、CDの中の、在りし日の姿、無残にも解体が進む姿、彼女が自らの足で集めた貴重な資料などを、改めて筆者は取り上げてみようと思っている。
自らのホームページを終える彼女の決断を受けて、彼女から届いた資料と未だ公表していない自らが持つ全資料を使って、もう一度明石小学校を通して復興小学校という当時最新鋭の小学校建築を捉え直してみようと考えている...。


[注]
明石小学校についての新しい記事は来年よりessay bibliophobia annexに加筆予定です。
by finches | 2010-12-27 06:04 | 時間
471■■ 明石小学校-玄関

b0125465_6403231.jpg


前稿の興安丸が関釜連絡船として就航したのが昭和12年、それから終戦までの8年間に多くの兵隊、満蒙開拓団、民間日本人を朝鮮へと送り、逆に朝鮮からも日本へと向かう多くの人々を運んだ。
そして、その背景には戦争へ向けての啓蒙教育を目的として、明治19年以来続いた小学校令を廃止し、昭和16年に出された国民学校令の下、尋常小学校と高等小学校全てを国民学校へと改称し、それまでの教育理念を捨て教育を利用してのおぞましい啓蒙と洗脳が行われたことを知っておくべきだろう。

一週間前に中央区(東京都)の明石小学校で、玄関の丸柱が切断されて運び出されたという連絡を受けた。
新校舎の建設に伴う旧校舎解体工事の一工程に過ぎないが、この丸柱を新校舎の玄関に貼り付けて、再生だの部分保存などといった正当化へ向けての序章の始まりに過ぎない。
前稿で興安丸を取り上げそのコンパスの写真を掲載したのは、この明石小学校の丸柱のことを書こうと考えた為だが、両者とも周りとの関係を断ち切られ、まるで生体標本のように元の主の顔などまるで想像できない、只の物に化したという意味で共通していると感じたからだ。

今朝は2枚の写真を用意した。
最初は、取り壊しが始まる前の明石小学校玄関で、丸柱が写っている。
次は、昭和16年4月1日の国民学校となって初めての入学式となる明石小学校の写真で、上と同じ玄関部分で丸柱も見える。

興安丸と明石小学校、ここに共通する部分保存や一部保存という考え方、船や建物に於ける保存の論議とは別に、これらの形骸化した保存や再生の間違った考え方はもう改めるべきではないだろうか。
そうでないと、日本の稀有なものや文化が遠からず消滅してしまう...。


明石国民学校
by finches | 2010-09-15 04:37 | 復興
446■■ 村野藤吾の長椅子

b0125465_7241784.jpg


東京から戻った日に「中央区立明石小学校を重要文化財にするための緊急要望書」の提出のことを知り、「 直ぐに重要文化財に結びつける安易な姿勢には感心しない」と苦言を呈した上で直ちに署名を送った。
折り返し届いた事務局からの返信で日曜日のTBSテレビ「噂の東京マガジン」での放映を知った。

彼らの保存活動とは一線を画しながらも筆者なりに拙稿の中でこの問題を真剣に見据え考え取り上げてきたが、上の二つの動きを見据えての平行記事を書くことで微力ながらの支援になればと考えた。
そして、「村野藤吾の長椅子」から始め、「夏蝉」、「二つの復興小学校-終戦65年目の夏」、「夏の影」、「84年目の夏」、「夏の色」と書き進み、本稿「村野藤吾の長椅子」で一先ず区切りをつけようと思っている。

最初の「村野藤吾の長椅子」に次のように書いた。
「この長椅子、長年筆者の目には厚い木でできた重厚な椅子というイメージがあったが、ある時その表面が剥がれている一つにたまたま座ったことがある。すると、その厚い木だと思っていたものは薄いベニヤに薄くスライスした突き板を貼ったもので、それを見てこの建築家の力を改めて感じたことを鮮明に覚えている」、と。

この表面の板の剥がれた長椅子と明石小学校は本質的なところで同じだと思って書いた。
大きな建築と小さな長椅子では比較にならないと思えばそれまでだが、筆者にはこの長椅子の板が剥がれて古ぼけてみすぼらしくなって、それを新しく立派なソファーに取り替えようとするのと、古くなったからといって壊して建て替えようとするのとは同じに思える。
この長椅子を新しいソファーに替えるとなったら、市民は挙って反対するだろうし、そんなことをしたら教育長も市長も首が飛ぶだろう。

この長椅子が置かれている建物は重要文化財だが、重要文化財だからその中の椅子に価値があるのではない。
小さなものから、村野藤吾がこの建築に込めた形にないものまで、その全てがこの建築をつくり、今では建築の記憶となって優しくこの空間を包んでいると市民が知っているのだ。
そこには培われ伝承されてきたこの建築への世代を超えた愛情があり、この建築が発っしてきた文化はそのまま市民の中に「文化」を育んできたのだと思う。

写真の長椅子は1階ホワイエに置かれたもの、最初の「村野藤吾の長椅子」は2階ホワイエのもの、テラゾーの市松模様の色や柱の色の違うのが分かる。
しかし、そこに同じ長椅子を置くことで二つの空間は繋がり、そしてお互いが呼応し合っているのだ...。

by finches | 2010-08-12 05:44 | 空間
444■■ 84年目の夏

b0125465_714330.jpg


子供の頃戦前というと遠い昔のことに思えた。
大正、明治、江戸となると、もう遠い昔のことというより、遠く離れた別の世界であり異次元のことのようにさえ思えた。
だが近頃、その歴史は途切れることなく連綿と続き、そして今があるという当たり前のことを当たり前に考えられるようになってきた。
それは自身の中にある過去への尺度を、生きてきた年月にマイナスを付けた分だけ過去に向けて指し伸ばし、せめてそのくらいのスパンで過去を見るようになると、その視野は数倍その先まで見ることができるようになった気がする。
但し年齢にマイナスを付けた基準点を現在に置けば、それは生まれた年分前に遡るだけだが、生まれた年にその基準点を置けば年齢を重ねる毎に遠くまで見なくてはならなくなる訳だ。
また、マイナスをプラスに置き換えると、現在から先の年齢分くらいの未来のことは考えなければならないということにもなる訳だ。

さて、63年前に日本橋区と京橋区が一つになり現在の中央区になったが、その前は日本橋区に12、京橋区に13の復興小学校がそれぞれあった。
その25校をプロットしたのが上の写真だが、白で表した3校が現在取り壊しの危機にある復興小学校で、上から順に明正、鉄砲洲(現中央)、明石小学校となる。
それぞれ建設されてから83年、81年、84年が経っているが、耐震補強など全く必要としない健全この上ない校舎たちだ。

この中で84年前に完成した最も古い明石小学校で見てみると、それが完成した84年前というとイギリスと清との間ではアヘン戦争が起こり、日本は天保11年に当りこの2年後には水戸偕楽園が造園され、4年後には天保の大飢饉が起きている。
同じく63年前に生まれた中央区で見てみると、その63年前は明治17年に当り、泰明小学校などは創立されて既に6年も経過している。

歴史を見る尺度を少しずらしてみる少しの想像力さえあれば、安易に古い汚いなどと片付ることが恥ずかしくなる先人たちの汗に気付くと思うのだが...。

by finches | 2010-08-10 04:21 | 時間
443■■ 夏の影

b0125465_514673.jpg


ちょうど潮の引いた海を見ている時に前稿の放映内容を知らせる連絡が入った。
それを知らせてくれた家人は筆者に代わり熱心にメモを取りながら見てくれたようで、筆者が同番組ホームページで読んだ番組ディレクターのコメントより全体の様子を事細やかに窺い知ることができた。

函館の弥生小学校の解体が市から突然発表されたのを知って、筆者はリノベーションを取り入れた全体保存を訴えながら、その校舎が持っている古い記憶の染み込んだ情操的教育的魅力や、建築的価値や、それが建設された当時の時代背景などを函館市民に知ってもらおうと、同じ復興事業で建設された東京の復興小学校を調べ始めた。

そして、中央区に残る復興小学校を例に、そこに展開する夢のある魅力的な教育環境を伝えようとした。
中央区に残る復興小学校10校のうち、7校が現役の小学校として使われているが、過疎化が進み最も規模の小さい東京駅近くの城東小学校から、今やブランド校として名を馳せる銀座の泰明小学校まで、置かれている様々な状況に差こそあれ、そこで筆者が見たものはあらゆる不便さを受容した上で、創意と工夫でそれらを克服して涼しくそれを語る先生たちの自信に溢れた姿だった。

その中央区で起きた今回の復興小学校の解体・新築問題、教育委員会が自分たちの街の歴史と文化に余りに無知なことがこのような行為を助長させる。
だが、それは戦後教育そのものが文化を蔑ろにし育てることをしてこなかった現代への付けでもある。

復興小学校には真に子供たちのことを第一義に考えた教育理念が詰まっている。
今の新しい校舎にはない、自然の光と風のある持続可能な工夫も詰まっている。
そこには教育こそが国の礎と考えた教育制度と小学校建築が一体となった、正に理想を追い求めた姿がある。

潮が満ち始めた砂浜に下りてみた。
そして振り向くと、真っ黒な自分の影がそこにあった...。

by finches | 2010-08-09 05:36 | 時間