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770■■ 清洲橋-冬十二月
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東京2日目の朝、清洲橋までの散歩を楽しんだ。
隅田川は清洲橋左岸上流で小名木川と出合い、そこには変わらぬ萬年橋の姿があった。
清洲橋左岸下流には隅田川との出合いを絶たれた仙台堀川の水門だけがあった。
清洲橋から下流を望むと、高速道路によってその上下を切り取られた永代橋があった。
清洲橋から上流を望むと、隅田川は右岸に向けて大きく曲がり、正面にはスカイツリーが聳えていた。

手元に清洲橋の写真は何百枚とあるが、やはり臨場感が覚めやらぬうちに書く方が楽しい。
それは、そこから見たもの、考えたこと、感じたこと、そして、空気の冷たさ、朝日の光耀、様々な音などの記憶がまだ鮮明に残っているせいだと思った。

行きは上流側を中洲から清澄に向けて渡り、帰りは下流側を渡った。
行きは逆光の中、帰りは順光の中、鉄の厚い板やリベットがつくり出す無数の光と陰、その一つ一つがアーチの美しいシルエットをつくり出していた。

右岸下流の橋詰からテラスに下りた。
そして、橋の下を潜り上流に向かって歩き、新大橋から浜町公園へと抜けた。
復興大公園の一つ浜町公園は開園当時とは随分変わったという印象を持っていた。
だが、紅葉した大木を見ていると、あの『昭和大東京百図絵』にある小泉癸巳男の『日本ばし区浜町公園・春雪』の景色と重なるようにも思えた...。

by finches | 2011-12-22 04:36 | 時間
613■■ 甲武鉄道と永代橋

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今朝は甲武鉄道について書こうと甲武鉄道市街線紀要(明治29年)を読み始めた。
だが、読めない旧漢字の連続で数ページを読んだ(?)ところであっさり断念した。
後は中の図や表や地図などを見ていたら、あっという間に2時間が過ぎた。
それにしても紀要とはどういう意味だろうと、今度は興味の矛先がそっちに移った。
広辞苑を引くと、大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物、とある。
道理でお固い筈で、読めない旧漢字だけの問題ではなかった。
この鉄道の歴史は東京の鉄道史、いやそれ以上、正に近代史そのもので、もう少し気長に調べを続けることにしようとあっさり頭を切り替える。

それではと、永代橋を書こうと思ったが、これが何も頭に浮かんでこない。
そこで、拙稿にこれまでどのくらい永代橋が登場しているかを調べてみると、その数はなんと25回に及んでいた。
道理で書くことが浮かばない筈だと、これまたあっさり得心した。

永代橋はどこから見ても様になるが、日本橋川に架かる豊海橋からの眺めがまたいい。
永代橋の近くには明正(めいしょう)(昭和2年)という復興小学校があり、その先の亀島川を下ると旧両国橋の中央径間を移設した南高橋があって、その橋を渡り鉄砲洲稲荷の角を曲がると鉄砲洲(昭和4年)という復興小学校がある。
この最後の鉄砲洲が寿司屋の上がりのように散策の締めだった。

この日も永代橋を過ぎ南高橋を渡って鉄砲洲稲荷の角を曲がり、鉄砲洲公園(復興小公園)に出た。
だが目の前にある筈の鉄砲洲小学校は解体用の厚いシートに覆われ、その上に覗いている筈の建物はもうどこにも見えなかった。
これからは筆者の散策ルートも変わるかも知れない。
筆者は江戸の生活物資が陸揚げされた鉄砲洲、新川辺りが好きだったが、亀島川以外の川はすべて埋められて姿を消し、震災復興のシンボルとして未来に継承すべきだった鉄砲洲小学校も姿を消し、もう南高橋が残るだけになってしまった。

永代橋が完成したのは大正15年(1926年)のことだ。
「帝都復興の門」と言われた美しいこの橋は85年を経た今もそしてこれからも、現役の橋としてこの風景の中にその雄姿を留めるだろう。
否、そうでなければならないと思う...。

by finches | 2011-03-05 04:27 | 復興
605■■ 外濠 雉子橋
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江戸城の濠は内濠と外濠からなる。
これらは天守閣を中心に二重の「の」の字を描くようにして、最後は隅田川につながっている。
この内側の「の」の字を内濠、外側の「の」の字を外濠と考えればいい。
もっと分りやすく言えば、二重のロールケーキを想像すればいい。
そして、間の生クリームをこれらの濠と考えればいい。

江戸古地図を見るとこの内濠にあたる部分は和田倉濠、つまり現在の皇居外苑の外までで、現在内濠と言われている大手濠、桔梗濠、蛤濠、二重橋濠は地図には表されていない。
それは江戸城の防備上極秘にされたためだろうが、実はこの二重の「の」の字の内側には最後にもう一つ江戸城を取り囲む濠がある。
それが今では地図で見ることのできる大手濠、桔梗濠、蛤濠、蓮池濠、乾濠、平川濠、天神濠だ。

そしてこの三重の濠が最も接近している場所がある。
そこに外濠は雉子橋門と一橋門が、内濠は清水門と竹橋門が、そして一番内側の濠つまり大手濠には平川門があって鉄壁の睨みをきかせていた。
そして、この雉子橋門のすぐ北にあった橋を雉子橋と呼んだ。

今は薄暗い高速道路の下にある雉子橋もその歴史を知り、また竣工当時の写真を見ると、今とはまるで違うその美しい素顔が分る。
現在の雉子橋は昭和2年(1927年)に完成した震災復興橋梁で、美しいスチールアーチ橋だ。
何枚かあるこの橋の写真を時々開いてみては、この橋についてどんなことが書けるだろうかと考え、そしていつも閉じてきた。
だが、今朝古地図と格闘したことで、何重にもこの橋とレンズの間にあった時代のレイヤーをはがし、自分なりの雉子橋が見えたような気がする。
そして、古地図に残された情報の正確さに改めて感心もした...。


More photo 「竣工当時の雉子橋」
by finches | 2011-02-25 04:29 | 復興
600■■ 山谷堀川 今戸橋
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今戸橋は待乳山聖天の下の山谷堀川に架かっていた橋で、大正15(1926)年に完成した震災復興橋梁だ。
この橋は隅田川に流れ込む山谷堀川に架かる9つの橋の第一橋梁で、他の橋が桁橋やゲルバー橋であったの対しスチールアーチ橋で、御多分に洩れず第一橋梁としての隅田川からの見栄えと認識性が考慮されたことが窺える。

山谷堀川は昭和50(1975)年までに全て埋められ暗渠と化し、この今戸橋も親柱と高欄の一部を残しているだけだが、恐らくスチールアーチの橋本体は土の中に埋まっていると考えられる。
現在山谷堀川の川筋は公園として整備され、江戸時代に洪水対策のため造られた日本堤は土手通りの名に微かな面影を残している。
そして、かつて土手八丁と呼ばれた吉原までの道筋に地図の上で定規を当てると、当時吉原通いの遊客が猪牙舟で隅田川から山谷堀に入り、駕籠に乗り換えたのがこの今戸橋辺りだとピッタリ一致するから面白い。

この山谷堀川は音無橋が架かる石神井川が谷中の北で分流したもので、江戸の古地図と現代の地図を行ったり来たりして見ていると、その流れは今の荒川区と台東区の区境に一致するからこれまた面白い。

今朝は今戸橋について書き始めたものの途中多いに脱線し、地図の上にその川筋が見えてくると、それがつい最近歩いた谷中や根岸の道筋と一致していることに驚き、一人感動した次第。
いやー、地図こそ最大のミステリー、最高の読み物かも知れない...。

by finches | 2011-02-19 04:12 | 復興
598■■ 日本橋川 江戸橋
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江戸橋は日本橋川に架かる橋で、昭和4(1929)年に竣工した震災復興橋梁だ。
日本橋川は外濠から隅田川までを流れる川で、途中には八本の橋が架かる。
また、今では亀島川だけになってしまったが、かつてこの日本橋川には五本の川が注いでいた。

江戸橋はスチールの二連ソリッドリブ・アーチ橋で、なかなかこの美しい橋を横から眺めることはできないし高欄なども新しいものに換えられているが、巨大な親柱とその橋灯はかつての面影を残している。
兎角人々の興味の対象は一つ上流にある日本橋に向けられ勝ちだが、例えば江戸橋の橋巾は日本橋の1.6倍もある。
これは震災復興事業で新設された幹線道路である昭和通り(昭和6年完成)の橋だからで、その巾は24間(44m)にも及ぶ。

この橋の右岸下流の橋詰には三菱倉庫本社(旧江戸橋倉庫ビル、昭和5年竣工)という名建築が残っている。
筆者などは古い建物全てが好きな訳でも興味がある訳でもなく、その中の本物だけに興味があるのだが、この周辺に建つ建築の中でも三菱倉庫本社は群を抜いている。
ただこのビルの玄関は確かに江戸橋橋詰に面し、橋塔のような塔屋のデザインなどは江戸橋側からの見え方を意識しているが、この建築の面白いところであり設計に心血を注いだのは、この建物の東側で日本橋川に流れ込んでいた楓川との合流部分のデザインではないかと思う。
そのカーブした曲面、そこに開けられた窓、これらの調和が何とも美しい建築だ。

今では上を高速道路が走り、右岸左岸共に上流側には高速道路への出入口が設けられ、その橋詰からの眺めを楽しむことはできないが、それにしても、高速道路がない時代の三菱倉庫本社からの眺めはさぞや絶景であったろうと思う...。

by finches | 2011-02-16 06:16 | 復興
592■■ 昌平橋の謎
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前々稿の昌平橋で、ネット上のWikipediaを始めその他の掲載写真が間違っているとし、橋梁調査報告書で昭和5年を完成年とした橋梁研究者を大学教授失格とした。
これらの断定が筆者の調べの甘さによるものであったことが分り、先ずこの誤りを訂正したい。

震災復興事業で建設された復興小学校についての執筆に今係わっているが、その中の一つのテーマである復興小公園に使えそうな写真を探していて、昭和22年の昌平橋の写真を偶然見付け愕然となった。
前々稿を書くにあたり確認した地図と、上流と下流に架かる二本の歩道橋が新しいタイル貼りであったことでそれらが近年架橋されたものだと考えたが、昭和22年の写真には三本の橋が写っていて、そのことは昭和13年までに既にこれらの橋が竣工していたことを意味していた。

改めて専門図書館のアーカイブスやネットを検索すると、昌平橋を取り上げるにあたり散々調べた時には見つからなかった一つの論文に行きついた。
それは土木史研究講演集の「大正12年竣工の東京神田川昌平橋」という論文だった。
今朝は私見を交えずその論文の内容を元にこの複雑極まりない昌平橋改変の歴史を書いてみたい。

そもそも昌平橋が架橋されたのは先の橋梁調査報告書にある昭和5年でも、橋に付けられたプレートにある昭和3年でもなく、大正12年であることが分った。
次に当初の昌平橋は現在中央にある橋で両側には歩道が付けられていたが、同時にその上流側に水路橋と軌道橋が3本並ぶ形で架けられた。
完成間もなく関東大震災に遭うが損傷もなく完成直後だったこともあり、震災復興計画で道路拡幅の決定に対しては、本橋の歩道を無くして車道と軌道専用とし、上流側の軌道橋を人道橋に改修し、更に本橋の下流側にほぼ同サイズの人道橋を新設し、これら三本のコンクリートアーチ橋で一つの橋となる珍しい形態が生まれた。

この人道橋の新設と本橋の改修の竣工年が昭和3年、軌道橋の人道橋への改修の竣工年が昭和5年で、こうやって見ると昭和3年も5年も間違いではなくそれぞれに意味があったことが分る。
現在昌平橋のたもとに建てられた説明版には、現在の橋が架橋された年が昭和3年と書かれ大正12年に竣工した当初の昌平橋のことには触れられていないことも、昌平橋の歴史を正しく後世に伝えない原因にもなっている。

当初昌平橋と併設するように軌道橋を架けたのには理由があって、市電の振動を受け続ける軌道が橋に及ぼす影響を考え軌道橋を独立させたものだと分った。
その設計思想は震災復興事業で橋を改修、新設した復興局には受け継がれず、近年の改修では高欄や橋燈からは古典的な趣が失われ、煉瓦タイルの化粧を施された人道橋に至っては当初の設計思想どころか橋梁の美学までをも完全に失った安物に改変されてしまった感が否めない。
写真左がかつて軌道橋だった人道橋、右が当初からの昌平橋で、ちょうど両橋のアーチが石垣にぶつかる際に四角いコンクリートが見える。
筆者はこれを近年歩道橋が新設された時の仮設の址だと思って前々稿を書いたが、今はこれが先に書いた水路橋アーチのアンカー址だと分る。
改めて、歴史を後世に正しく伝えるためには、足すことも引くこともあってはならない、だた事実だけを書き残すことが重要だとつくづく思った...。

by finches | 2011-02-10 06:05 | 時間
368■■ 楓川 千代田橋

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今は埋め立てられているが、かつての楓川は西は京橋川と桜川に、東は日本橋川に繋がる正に東京の中心を東西に流れる川だった。
筆者はこの川を「かえでがわ」と呼んでいるが、実際は「もみじがわ」と言うのが正しい呼び名のようで、その名の由来は江戸城の紅葉山(もみじやま)にその源を発していたことによると何かで読んだことがある。
ならば紅葉川とすればいいようなものだが、筆者の独断と偏見でこれに解釈を加えるならば、同様に木の名から取った「桜」に呼応させて「楓」と一字で表したいと考えた粋な人間がきっといたのだろうと想像している。

綺麗な名を冠した二つの川(桜川と楓川)も今は共に埋め立てられ無残な状態で悲しくなるが、楓川は埋められた上に高速道路で空まで塞がれ、そこに架かる千代田橋は橋脚だけを埋められた正に半埋めの状態で当時の姿を今に残している。
この橋は震災復興事業で幹線道路として整備された永代通りに架けられた主要な橋で、勿論この橋を東に行くと「帝都の門」と言われた永代橋へと続く。

最初この橋を陽の当らない高架下に見た時、その当時のままの親柱や袖柱や袖高欄をなんとも気の毒に思ったものだが、若しやと思い横に回ってみると進入防止のネットで遮断された先に中央部の鋼桁が表れ、その力強さと美しさに目を奪われたものだ。

竣工間もないと思われるこの橋を着物姿の日傘をさした婦人が渡っている写真がある。
そこには今と同じ親柱が空に向かって大きく伸び、その先に広がる空は遮るものひとつなく、どこまでもどこまでも続いていた...。

by finches | 2010-05-15 05:10 | 復興
366■■ 隅田川 清洲橋灯具
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前稿が365回ということで昨夜は家人がささやかに祝ってくれた。
2年目のスタートから遅れること凡そ40日で365回を迎えたが、休んだ理由の一番は投稿が物理的にできなかった場所にいた為で、後は風邪で寝込んだり精神的に書く気が失せた時などあるが、さぼって書かなかったことは一度もない。
日記も早朝のジョギングも三日坊主だったのに我ながらよく続いていると感心する。

さて、366日目は何を書こうかと考えた。
昨日iPadの申し込みが終了したという記事を見て慌ててネットで申し込みをしていたら、3種類ある容量のどれにするかで迷って一先ず中止したことでも書こうかと思ったが、iPadは実際に手にしてからにしようとそれを書くことも中止した。

結局何の脈絡もなく清洲橋に決めた。
清洲橋は何度も書いているが、筆者が書く橋はその全景を伏せているのが味噌で、特に絵葉書の構図のような横からの全景なんぞ、その橋について書くことがなくなるまで挙げることはないだろう。

清洲橋などは写真だけでなくその図面まで紹介すれば際限なく書けそうだし、写真のような灯具だけ捉えてもこれまたいくらでも書ける気がする。
そして、この灯具に至っては近年この橋に取り付けられた、不恰好無様極まりない照明器具に言及したくてやっと抑えている始末で、いつかはそれを書くのを楽しみにしているが、そんな照明器具はそのシルエットが闇に消えても決して美しい明かりを発することはなく、どこまでも不恰好無様という形容が払拭されることはない。

筆者は美しいものは灯具と呼び照明器具とは呼ばない。
写真はこの橋の外灯だが美しくユニークな灯具で、この灯具にほんのりと灯りが点るとただ明るいだけの照明器具と違って、そこには闇を連れた陰翳礼讃の世界が訪れ、灯りと翳と闇が楽し気に遊ぶ...。

by finches | 2010-05-13 06:11 | 復興
340■■ 仙台掘川 亀久橋
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仙台掘川の平久川との出合い近くに架かる亀久橋は昭和4年に架橋された震災復興橋梁で、トラス形式のその橋は今も人々の暮らしの中に溶け込み、なくてはならない橋として愛されている。
この亀久橋の近くには、少し西に行くと明治小学校(昭和2年竣工)と明治第二小学校(同左)、少し南に行くと数矢小学校(昭和3年竣工)という震災復興小学校がかつてあった。
また、この橋の北東には明川高等小学校(昭和2年竣工)という震災復興小学校もあった。

この橋からは門前仲町や以前拙稿で取り上げた清澄六軒長屋ヨーガンレールなども近く、今も下町情緒が町のあちこちに色濃く残り、いつ行ってもまたどこから歩き始めても新しい発見と出合いがある筆者にとってはすこぶる楽しい場所でもある。

だが、そんな場所にある亀久橋が2色に塗り分けられているのがどうにも気に入らない。
トラスのメインフレームとラチスが塗り分けられているのだが、このような塗装が施されている橋を他に一つ知っていたが、二つ目が存在していたことに、またそれがこの亀久橋であったことに大いに落胆した。

市松模様というのがあるが、元々は江戸時代に生まれた紺と白を碁盤目に並べた模様で、現在は色んな色でつくられたこの市松模様を見ることがあるが、使う側が余りこの模様の落とし穴を知らないというか、それに気付いていないというか、とにかくこの模様は目立つということだ。
控え目な2色であってもそれを市松にすると、まるで別物のように派手な印象に変わるから不思議だ。
だから、余程慎重に且つセンス良く使わなければほとんどの場合失敗する。(失敗だとも気付かないでいる人たちがほとんどだから余計にややこしい)

亀久橋の親柱は実にユニークで好きだが、この市松模様を彷彿とさせる塗装が何ともこの橋のデザインと合わないのが嘆かわしい。
トラス橋入口の門形部分を橋門構と言うが、亀久橋はこの上部に親柱上部のデザインと連鎖したようなユニークは装飾があしらわれているのだが、市松もどきの塗装の為に、この装飾が「なると模様」のように見えて情けなくなる。(注: 亀久橋には何の責任もない)

市松模様の使用にはくれぐれもご注意を。
良いと思っているのは本人だけで、傍目には下品に見えているかも...。


More Photo
by finches | 2010-04-17 06:45 | 復興
339■■ 大横川 菊柳橋
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大横川に架かる菊柳橋は北の竪川から数えると二番目、南の小名木川から数えると3番目に位置している。
菊柳橋は昭和5年に震災復興橋梁として架橋された3径間のゲルバー橋で、現在は竪川を境に北が墨田区、南が江東区に分かれているが、架橋された当時この辺りは本所区(現墨田区)に属し同じく本所区の復興小学校である菊川小学校(昭和3年竣工)もこの近くにあった。

また、この橋を東に行くと深川区(現江東区)の復興小学校である猿江小学校(昭和4年竣工)もあった。
余談だが猿江小学校は木造校舎への鉄筋コンクリート造教室の増築ではなく、完全な形での鉄筋コンクリート造3階建校舎として建設された東京市で最初のものだが、竣工(大正12年5月)後間もなくして起きた関東大震災(大正12年9月)で内部が焼失し建て直された経緯があり、その為に竣工年が昭和4年となっている。

そんなこんなでこの辺りは歴史的にも大変興味深いものがあるのだが、残念ながら僅かに残る震災復興橋梁を除いて当時の面影を残すものはなくなっている。
だが、まだ幾つかの震災復興橋梁が残っていることで川の景色には色が添えられ、その橋が人々の暮らしに溶け込んでいることで何とも言えない安心感を与えてくれる。
そしてその橋を起点にあれこれ雑学を重ねていると、いつしかそれが別の起点からのものと連鎖し、点が線となりやがて面となって少しづつ往時の輪郭が見えてくるから面白いし止められない。

菊柳橋の写真ほど何度もどれを使おうかと迷ったり加工をやり直したものはない。
橋全体が分かるもの、ディテールが分かるもの、朽ちた様が分かるもの、人々の暮らしとの係わりが分かるもの、環境との融合が分かるもの、等々。
しかし、今朝の写真はそれらのどれ一つとして上手く伝えきれていない...。

by finches | 2010-04-16 07:25 | 復興