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■■ 中央区立明石小学校

b0125465_1329311.jpg[明石小学校]
創立年月 明治41年6月
竣工年月 大正15年8月28日
工事請負 竹田組
校地坪数 1,274.560坪
校舎坪数 1,342.207坪
学級規模 26学級 (現在6学級)
[所在地]
東京都中央区明石町1-15
http://www.chuo-tky.ed.jp/~akashi-es/



大正12年9月1日に起きた関東大震災後の復興事業として焼失した小学校が鉄筋コンクリート造建築で再建された。その数は117校に上り復興小学校と呼ばれている。
明石小学校は当時京橋区で建設された13校の内の一つで、京橋区と日本橋区が一つになった現在の中央区全体で見ると24校の復興小学校の内の一つになる。
現在はその内の9校が現存しているが、実際に小学校として現役で使われているのは7校になる。

中央区はこの復興小学校の保存・活用への理解もあり、少子化の影響をもろに受けている東京の中心にあって、安易に統合による合理化の道を選択せずに、小規模・小学級での学校運営と経営に独自の模索と尽力を続けていると筆者は考えていた。
その明石小学校の雲行きが怪しくなってきた。今月21日に見学会と解体説明会が開催されるようで、筆者も是非参加したいと思っている。
保存活用に理解を持って取り組んできた中央区をして、何かを変えなければならい、踏み出さなければならないとしたら、そこにはこれからの保存、再生、活用への指標があるように思われる。

明石小学校の隣地にはかつて京橋高等小学校という復興小学校があった。
また、道路を挟んで聖路加国際病院に接しているが、この歴史ある名病院も取り壊しの危機に瀕した過去がある。
我々は現実を直視し、そこで行われようとしていることの本質を考えなければならないと思う...。




b0125465_2121511.jpg[京橋高等小学校]
創立年月 明治44年11月
竣工年月 大正15年11月25日
工事請負 竹田組
校地坪数 1457.800坪
校舎坪数 1,164.334坪
学級規模 20学級




かつて明石小学校の隣りに京橋高等小学校というもう一つの復興小学校があった。
復興小学校の中には小公園や道路を挟んで2つの小学校が隣接している例はあるが、このように敷地を接しているのはここだけに見られる。

写真だと左が京橋高等小学校、右が明石小学校、更に道路を挟んだ右が聖路加病院になる。
この2校はコの字型校舎の翼端に屋内体操場を配置する平面計画を持ち似たように見えるが、前者は直線的な構成であるのに対し、後者は建物全体に亘り曲線的な構成が貫かれている。表現主義的扱いに於いて曲線を使った例は多いが、その中にあっても明石小学校のように平面計画、断面計画、その他細部の意匠に亘ってまで曲線で貫かれている例は珍しく、その完成度の高さからも落ち着いた安定感さえ感じられる建築に仕上がっている。

竣工年は共に同じ大正15年、敷地が隣接することから環境条件に差異はなく、敷地条件も共に遜色なく、設計標準規格を作成し個々のばらつきを抑え品質維持を担保して建設を急いでいた背景、これらのどれを取って見てもこの2つの復興小学校に意匠的な違いが現れる理由が見当たらない。
一つ考えられるのは、尋常小学校と高等小学校の違いを意匠的に違えることで表現したのでは、という推測。

まあ理由はどうあれ、復興を急いでいた背景を持ちながらも、どこか大正という時代が持つ誠実さを感じてこの2校を取り上げてみたくなったまで...。




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関東大震災後の復興事業として建設された復興小学校117校の内の約30校が現存し、その中の約3割が中央区にあり今も7校が現役小学校として使われている。
しかし、その中の3校が取り壊されて新築されることになった。
日曜日にこの3校を歩いたので、それぞれを紹介しようと思う。
最初は明石小学校から始めよう。

この学区内を見渡すと、その背景には興味深い歴史がある。
杉田玄白らが解体新書を翻訳したことから西洋医学発祥の地とされ、その他慶應義塾発祥の地、ホテル発祥の地、電信発祥の地でもある。

幕末、日米修好通商条約が結ばれ、徳川幕府は日本に外国人を居住させるために、明石町にあった大名屋敷を他に移し、外国人居留地を造った。その後、明治新政府も居留地の工事を引き継いだため、明石町一帯は教会や学校など西洋文化の誕生したところと言われるまでになった。
そのような独特な環境にあって、外国人に見せて恥ずかしくない学校を造るべく明治41年に造られたのがこの明石小学校の前身であった。

復興小学校の中でも細部に亘り曲線的表現が多く、柔らかい丸みを持った校舎もこのような歴史と環境に宿る力に導かれて生まれたと想像してみると、一味も二味も違う魅力溢れる建物に思えて来るのは筆者だけだろうか。

それにしても残念でたまらない、何とか残せないものだろうか。
震災復興のシンボルとして、大正末から昭和初めにかけて建設された鉄筋コンクリート造小学校校舎として、独自の意匠性を持つ復興小学校として、そして未来へ受け渡す近代建築歴史遺産として...。




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昨日、雨の中を明石小学校の学校公開に出掛けた。
受付を済ませながらも、初めて足を踏み入れる校内への期待でいっぱいだった。
解体に当たっての建物見学日だと思っていたら、年一回行われる学校公開日が正しかったようで、日曜日にも係わらず中では授業が行われ、父兄がそれを遠巻きにしたり共に参加したりと、授業参観日とは違う全校挙げての取り組みが披露されていた。

明石小学校は大正15年に完成した当時26学級だったものが、今では6学級にまで学級規模は減少しているが、空いた教室は一つも見当たらず、全ての部屋が何らかの目的に充当されていて、バランスを欠くことのないそのすこぶる余裕のある教育環境にはただただ驚かされた。
また、毎年の保守費用の予算化が継続的に行われていることが窺われ、築後83年を経過した建築とは到底思えないくらい、見事に現在に通用する建築に思われた。

建設費の比較では明らかな違いは見出せなかったが、筆者は復興小学校117校の中でも幾つかの学校に於いてグレードの差が存在するように感じていた。それは平面図の中に感じたり、外観形状や意匠性の中に感じたりと漠然としたものではあったが、この明石小学校もそのように感じていた学校の一つだった。
校舎の中を歩きながら、降りしきる雨の中をグランドから眺めながら、この建築の設計レベルの高さを実感し、それがこの建物が83年かけて育んだ建築の記憶と一体になって、再生することも新生することも決してできない見事な教育環境をつくり上げていることを実感した。

函館の弥生小学校で感じたものと同じものをここ東京でも感じた。
それは、壊す必要を全く感じない優れた建築、優れた教育環境に対峙しての悲しい気持ちだった。
そして、この不条理を覆そうとする芽はないのかと、雨の向こうの教室の窓に写る人影に思った...。




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鉄砲洲小学校から南に歩くと明石小学校が見えてくる。
写真はこの明石小学校の階段の一つで、ちょうど窓から校庭が見えているものを選んでみた。
久し振りにこの小学校に戻ってきて、何から書こうかと迷ったが、鉄砲洲小学校の最後に取り上げた階段から書き始めることにした。

筆者は初めて訪れた学校で階段を目にすると、まだその一階部分をくまなく歩いていなくても、つい階段を上がってみたいという衝動に駆られる。それは順序良く下から上に向かって見ていけばいいのに、何か上には別の世界が広がっているような気がして、つい横道ならぬ階段に足がそれてしまう。

そして2階を一回りすると更に上へと上がり、同じように3階を一回りすると更に上に上がる。そして屋上に出て校庭を見下ろし、建物のデザインに大きく関係しているパラペットの裏側を観察し、排水溝の扱いや菜園を眺め、階段が屋上に飛び出したペントハウスの形状などの特徴(窓や庇や角の形状等々)などに見入ったりする。

この学校には四ヶ所の階段があるが、どれも安心感と落ち着いた雰囲気がある。
腰までの木の羽目板、柔らかい質感の漆喰壁、角を丸くした踊り場、安全に配慮した窓、この階段に沁み込んだ‘建築の記憶’をずっと残したいと思う。
だが、この明石小学校も取り壊しが決まっている。
こんなしっかりした、現在のもの以上に立派で新しささえ感じる学校を何故...。




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明石小学校・其五で、建物のデザインに大きく関係しているパラペットに触れた。
パラペット(parapet)とは欄干という意味で、建物屋上に設けられた低い手摺壁のことを言うが、近代建築では屋上防水の端部をおさめる(仕舞う)ための低いコンクリート壁の立ち上がりを指して言うことが多い。
写真は明石小学校のパラペットの裏側を屋上から見たものだが、筆者はパラペットを支える目的で、各柱から腕木(上からパラペットを摑んでいるので摑み手という表現の方が近いかも知れない)が、それも屋上にこんなに連続して飛び出しているのを他に見た記憶がない。

この小学校のパラペットは外壁が曲面を描く様に外側に反り返り、その跳ね出しが建物全周に亘っているという大変顕著な特徴を持つ建築と言える。(このような特徴的な意匠は、ある重要な立面に於いて部分的に試みられることはあっても、全周に亘る例は珍しい-067■■ 明石小学校 ・其四 参照
本来なら防水上の弱点となり得る腕木を屋上に突出させること自体タブーに近いと思われる上に、震災復興事業という数多の難題に取り組んでいる最中(この建物は関東大震災の3年後に完成)という時期に、ここまで複雑な仕事を要求したものは一体何だったのだろうと考えてしまう。

明石小学校の特徴は建物の角が全て丸く面取りされていることだが、これも部分的にはあっても、建物全周全てに亘る例は珍しい。
これらはこの建築の背景に起因するコンセプトに支配されて、パラペットの形状やそのディテ-ルの末端に至るまで反映していると考えないと説明がつかない。
この当たりの解明を筆者に出来るかどうかは分からないが、そんな気持ちでこの明石小学校の逍遥をまだまだ続けよう...。




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小島小学校・其二で、復興小学校の設計条件の中には屋上に気象天文等の観測用設備を設けるように記載があり、その実例として千代田区立九段小学校のペントハウス天井に残る風向表示板の写真を掲載したことがある。
今回の写真に写っている風向表示板は明石小学校のものとなる。
(注:写真は実際の感じを解り易く説明する為に2枚の写真を筆者が合成したものだが、使用した2枚は共に明石小学校で撮影したもの)

階段室最上部の天井まで全く手を抜くことなくしっかりと造られていて、床材や手摺もその仕上げや形状を変えることなく、最上階まできちんと仕上げられている。
そして、ここから屋上(当時の言い方は屋上運動場)に出られる訳だが、そのペントハウスの天井にこのような形で風向表示板は取り付けられている。現在は残されていないが、この風向表示板の中心軸が屋根を貫通した先には、それぞれユニークなデザインが施された矢羽根が風を受けていたことだろう。

今の小学校は廊下も階段も照明器具が当たり前のように付けられ、何処も彼処も均一な明るさが確保されている。
しかし、当時の小学校には廊下はおろか階段に照明器具はなく、窓から射し込む光だけで、春夏秋冬、陽の長い時期も短い時期も、暑い日も寒い日も、晴れた日も曇った日も雨の日も雪の日も、子供も先生も同じ条件で過ごしてた。また、過ごすことができた。今でも当時のまま廊下に照明器具のない小学校が実在するが、その学校を案内して下さった先生の言だと、「夕方になるとちょっと暗いんですよ」となる、そんなものなのだ、それで済むことなのだ。

廊下に面した教室の窓は大きく取られ、そこからの灯りが廊下を照らす。既に人のいない教室からは灯りが消え廊下も暗いが、要所要所に設けられた適度な灯りで歩行に支障は生じない。
本来日本にあった光と陰が織りなす世界、その美しさがそこにはあるような気がした。茜色に染まった空、その色が大きな窓から射し込み廊下を染める、人工照明のない豊かな世界がかつてそこにはあり、それを包容できる人の受容と感性があったことを、ふと思った。

一人で薄暗い最上階まで風向表示板を見に行く役目の子供にとって、この空間は一人では少し心もとない、少し勇気のいる場所だったかも知れない。
そんな時は、小走りに階段を上り風向きの観察を終えると、即座にまた小走りで階段を駈け下りたかも知れない。
だが、そこで感じた光と陰の幻想、緊張、恐怖、勇気を決して忘れることはないだろう。それは子供たちにとって、貴重な体験であり教育であると思う。

そして、これらも階段に‘建築の記憶’として沁み込んでいくのだろう...。




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明石小学校の廊下は天井が高く窓からは明るい光が射し込み気持ちがいい。
天井と書いたが、当時の小学校は床裏のコンクリートスラブに直接漆喰が塗られ、今の小学校のような天井はなかった。したがって、ここで言う天井とはこの漆喰面を指している。

現在の小学校で天井を張るのは、当時のようにスラブ裏まで丁寧に仕上げようとすると却ってコストが嵩むことと、電気や空調や衛生などの設備配管などを隠すという理由が挙げられる。
当時とこれらを比較すると、電気配線は当時も廊下のスラブ裏に露出しているが、規則正しく取り付けられた碍子に固定された電線の列は、その丁寧な仕事振りも相俟って筆者などは美しさすら感じてしまう程だ。
では空調はどうか、当時の小学校には空調設備はないが、今の小学校では暖冷房用の送風ダクトや冷媒配管などが挙げられる。
最後に衛生配管はどうか、当時の小学校も廊下の随所に水飲み手洗い場が設けられているが、その為の配管は廊下を横に走ることはなく縦に設けられた配管シャフトの中を上下に走っていた。

即ち廊下の天井はすこぶるシンプルで、基本的に天井照明もなく、全てが自然の恩恵を100%享受できるように建築自体が考えられていた。
当時と現在の子供たちの学校生活にこれ程の差が必要かは別として、上の写真の天井を縦横に走る設備配管を必要とするように、この数十年の内にその学校生活が変わったということは確かだろう。

冷暖房設備の行き届いた環境の中で窓を閉め切った学校生活を送る、トイレにはウォシュレットが備わり、温水で手を洗える、そんな家庭と同じ快適さを求める親たちと、これを当然のごとく容認する教育行政によってここまできたのだと思う。
学校生活とは家庭とは違う様々なことに直面する中で、子供たちは様々なことを体験し、そこから学習し、思うようにならないことを知り、工夫することや思いやることを自然と学び取るのではないだろうか。
必要ではないものまで何でも十分に備わり、そんな与え尽くされた贅沢な環境は、ひ弱で我が身本位の子どもを生む土壌だけを熟成するのではないだろうか...。




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明石小学校は総じて天井が高く窓が大きいという印象がある。
その中でもその高さとその大きさを特徴的に現わしている場所がこの写真だ。
ちょうど二つの廊下が交差する出隅部分で、入隅側にはトイレが設けられ、この出隅部に手洗い場を置いた事で、全体として水周り機能を上手く集約している。

また、この出隅は北の角で、ここを丸くし尚且つ窓をシンメトリーに設けた事で、兎角薄暗く陰鬱になりそうな場所でありながら、朝陽もさることながら午後からの光を取り込む巧みな工夫が見て取れる。
取り分け当時灯りのなかった廊下で、その一方の側の窓からの光がだんだん失せていく中で、そのもう一方の側の窓から差し込む夕陽は、この大きな窓を通して茜色に染まり奥深くまで長い影を落としたことだろう。
(注:この窓の外観写真 → 明石小学校 ・其三

まだ明石小学校の校内を見たことがなかった時、この出隅に設けられた窓の向こうはどうなっているのだろうと思いを巡らしたものだが、初めて室内からその場所を見た時、「ホー、こうなっていたのか!」と、思わず心の中で呟いていた。
この窓はこの建築の特徴を示す一例に過ぎないが、ここに秘められた建築的思想は建物全体に及び、そしてそれを支配し尽くしていることは確かだ。
そのことがこの明石小学校だけにあって、他の116校の復興小学校にはない顕著な特徴となって現れている。

このことは「何とか様式」「何とか派」「何とか派風」などでは到底言い表せないもので、強いて言うならば「明石小学校スタイル」とでも言う以外に適言が見当たらないように思える。
筆者は決めた、これからは「何々小学校スタイル」という、筆者オリジナルの分類でいこうと...。




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明石小学校 ・其九で筆者が勝手に決めた‘明石小学校スタイル’なるものを考えてみたい。
明石小学校の起工は大正14年6月5日で、関東大震災前に既に起工していた3校を除くと、復興小学校の中では3番目となる。
そして、竣工は大正15年8月28日で、こちらは9番目となる。

これら大正の時代に設計された学校建築が、当時の建築の潮流の影響を受けていたことは紛れもない事実であるし、中でもドイツ表現派の影響は、この時代全体が総じて受けていたと言っても過言ではないと思う。
この明石小学校も大きく捉えれば、確かにこの時代の底流にあった表現主義の影響を受けていることに間違いはないし、其処此処にその面影を見ることもできる。
だが、全体を覆う思想はそこからは既に離れたところにあり、それを一つの流派の型に嵌めようとしても無理があるし、最早そこから離脱した表現の模索が如実に見て取れると言っても過言ではないように思う。

明石小学校 ・其九で、明石小学校にはここだけにあって、残りの116校の復興小学校にはない顕著な特徴の存在を示唆した。
それはこの小学校だけがその平面計画に於いて、建物の角という角に大きく丸い面取りがされていることだ。
そして丸柱が建物外周部を一貫して支配し、その同じ柱は室内側では四角の柱に変わるが、その角には丸い面取りが施され、何より特徴的なのは、外に向かって曲面を描きながら反り返るパラペットの形状で、端部の端部に至るまで徹頭徹尾、その建築的思想は貫かれている。

写真は明石小学校の主昇降口だが、ここに表現派の面影が最も色濃く残っていると言えるかも知れない。
入り口扉の上のアーチ部分に嵌められたステンドグラスから射し込んだ朝陽は、中を色鮮やかに照らすだろうし、同じく校庭側のアーチのステンドグラスからは夕陽が射し込むことだろう。
全てに亘ってこの小学校には、周到に考え抜かれた設計者の優れた力量に溢れている。
そして、それを一年と三ヶ月という工期で成し遂げた竹田組の労苦も如何許りであったろうと思う。

それにしても、この学校を壊すのは余りにも惜しい、そして、もったいない...。



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by finches | 2009-04-01 19:10 | 復興
   ◆ 明石小学校・歴史的背景の考察 Ⅰ

1. 明石居留地
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 Spitit of missions 1894年


「築地」とは「沼や海などを埋めて築いた土地」という意味だ。
築地には浄土宗本願寺派の別院である築地本願寺(築地別院)があるが、元々は浅草にあったものが1657年に起きた明暦の大火後に、湿地であった海を埋め立て建てられたことに築地の歴史は始まる。その後、明治初年になって現在の明石町の辺りを外国人居留地とした為に、西洋文化の香る街区を形成していった。

そんな稀有な歴史的背景を持つ明石町界隈には今もその名残を其処彼処に見ることができるが、そのほとんどが歴史的跡地を示す石碑や説明板であるのに対し、聖路加国際病院の存在がこの街が明石町であり続ける為の大きな要因になっていることは否めないだろう。
この病院も一時、病院敷地全体の再開発事業で解体の危機に瀕したことがあるが、礼拝堂を含む旧病院棟が保存修復されて病院全体の象徴として残されたことで、居留地としての名残を今も感じることができる明石町のシンボルとして今に定着しているのだと思う。

この保存された旧病院棟より古い建物で現在取り壊しの危機に瀕している建物がある。
その建物とは大正15年(1926)8月に竣工した明石小学校で、現存はしていないが明石小に隣接して大正15年11月に竣工した京橋高等小学校も、この聖路加国際メディカルセンターの竣工時の写真にはその新しい校舎が写っている。
聖路加旧病院棟が明石という町の中で今尚その環境に溶け込み人々と心を共有できているのは、歴史的背景を含めこの建築が周りに持つ時間と空間、つまりその周りにある空気の記憶が保存継承されたことに負うように思う。

写真は明治27年(1894)の築地居留地を描いたものだが、多くの川が流れその川にはたくさんの橋が架かり、画面奥にはまるで広重の絵のように筑波山まで描かれている。
この絵の手前の川沿いに聖路加国際病院を、その隣りに明石小学校を、そしてその先に鉄砲洲小学校を重ねてみると、それらは決して単体で存在しているのではなく、この一続きの空間を共有するように手を繋ぎ合っていることが分かる...。



2. 土門拳
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 別冊太陽・土門拳


九段小学校から始めた東京に現存する鉄筋コンクリート造小学校の踏査も一巡した。復興小学校と改築小学校の仕分けや、興味があるものから歩いているうちに南櫻小学校のように取り壊されてしまったという失態も演じた。
此処いらで溜まった資料の整理をしながら、大正11年から昭和13年までに建設された鉄筋コンクリート造小学校の総数が本当は幾つなのかを確かめてみたいという気持ちになってきた。

現在中央区で3校の復興小学校が取り壊しの危機に瀕している。それらは昭和2年の5月に竣工した明正小学校、昭和4年の3月に竣工した鉄砲洲(現中央)小学校、そして大正15年の8月に竣工した明石小学校たちだ。
この中の明石小学校では既に現校舎を守ろうとする運動が起きているのに対し、残りの2校ではその気運すらないのが実情だが、筆者は何とかこの取り壊しに瀕している3校全てが東京の大正・昭和史を語り継ぐ建築としての文化的財産であることを、一人でも多くの人たちに知ってもらいたいと思っている。

踏査が一巡した今、隅田川に沿うように僅か450メートルおきに建っているこの3つの小学校の地理的歴史的背景の描写を前稿から始めた。
前稿では建築の周りにある「空気の記憶」が継承されることを考えてみたが、本稿は一人の写真家の鋭い目を通して切り取られたかつての明石町の生き生きとした姿を紹介してみようと考えた。この凧揚げに勤しむ子どもたちは明石小学校に通っていたのであろうし、土門拳自身も明石町の棟割長屋に住みこの界隈をこよなく愛していたからだ。

明石小学校という一つの建築に沁み込んだ記憶というものは、学校の中だけでは留まらず、子どもたちの行動圏全てに亘る周囲環境とも呼応しているのだ...。



3. 築地川境橋
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明石町を流れていた築地川は、空襲による建物の瓦礫処理の埋め立てに始まり、昭和45年(1970)にはその全てが埋め立てにより姿を消した。
現在、築地川と築地川南支川は築地川公園となって、かつての川筋の跡を今に伝えている。
この公園にはかつての橋の親柱が出来の悪いレプリカで幾つも再現されているが、それらとは異なりこの境橋(堺橋)の親柱だけは当時のままの姿で植え込みの中にひっそりと残っている。

この親柱は昭和3年(1928)に竣工した震災復興橋梁のもので、桁橋としては珍しい中路橋の為にその欄干部分の高さはこの親柱程しかなく、腰を架けて川面を見ることが出来そうなくらい愛らしい橋であったことが想像される。
この公園にあるレプリカ橋には全く興味を持てなかったが、何度も明石に足を運ぶうちにレプリカ橋とは向きを違えて植え込みの中に残る怪しげな物体に目が止まり、それがかつて築地川が流れの向きを変えていた場所に架かっていた境橋であることが分かった。

かつて築地川と隅田川の間には鉄砲洲川が流れていて、この二つの川が合流し明石橋の先で隅田川に注ぐ手前にあった船入澗を明石掘と呼んだ。この境橋親柱から現在のあかつき公園一体がこの明石堀の跡となる。
鉄砲洲川は昭和7年頃には埋め立てられ、聖路加国際メディカルセンターが竣工した昭和8年の写真には完全に道路になっているが、明石小学校や京橋高等小学校が完成した大正15年にはまだ鉄砲洲川は健在であった。

一つの親柱から明石町を流れていた川のことを色々と考えてみた。
現在の道路や公園の場所にはかつて川が流れ船が行き交い人々の営みや暮らしがその流れと共にあったことを思いながら...。



4. 築地川
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 建築世界1933年


中央の白い建物が昭和8年(1933)に完成したばかりの聖路加国際メディカルセンターで、その左奥に明石小学校と京橋高等小学校が写っている。
聖路加国際メディカルセンターの手前左から右に流れる川が築地川で、流れを右に変えた辺りから先が明石掘と呼ばれていた。

二本の橋を赤茶色に色付けしてみたが、左の川筋に架かるのが暁橋、右の明石掘側に架かるのが前稿の境橋となる。
現在、この明石堀跡はあかつき公園となって暁橋はその名を残し、境橋はその親柱だけを築地川公園の植え込みの中に残しているということになる。
 [注:暁橋のレプリカオブジェも築地川公園の元の場所にあります]

昭和8年というと、鉄砲洲川は埋め立てられた直後の時期になるが、まだ築地川が健在な姿を見ると、聖路加国際メディカルセンターが川を意識して計画されていたことが分かる。
築地川公園に残る親柱の向きと写真に写る境橋とを重ね合わせてみると、往時の川の流れが蘇り、それは拙稿新川鉄橋の思い出と重なり、これらの橋を渡って病院に訪れた夫々の人の思い出がそこにはあるのだろうと思わずにはいられない...。



5. 築地川と築地川南支川
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 京橋図書館 Digital archives


築地川に架かる左が暁橋、右が境橋で、境橋の先から川幅がだんだん広くなり明石堀と呼ばれた。築地川は暁橋を過ぎると右に直角に大きく流れを変え、写真下側に伸びている川筋は築地川南支川となる。
拙稿門跡橋はこの築地川南支川に架かっていた橋で、延宝7年(1679)に築地御坊(本願寺築地別院)が建てられた当時は、まだここから先は江戸の海だった。

足場が組まれて工事中の建物は聖路加国際メディカルセンターで、宣教師館として建てられた現トイスラー記念館(移築復元)もまだ出来ていなかった時のものだ。
もしこの写真が工事の始まる前のものなら、明石小学校と京橋高等小学校が関東大震災の復興事業のシンボルのように3階建ての偉容を見せていたことだろう。

公園の橋のレプリカや、旧跡の石碑や説明板では分からないこれが往時の明石の姿だ。
その歴史の面影を未来に伝承できるものであれば、それだけで歴史的建造物として継承するに足る十分な価値がある...。



6. 築地川南支川備前橋
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 京橋図書館 Digital archives


写真は築地川南支川に架かる備前橋を前景にして聖路加国際メディカルセンターを撮ったものだが、聖路加国際メディカルセンターの左に写っているのが明石小学校となる。
前稿の暁橋や境橋が昭和に入って竣工したのに対し、この備前橋の完成は大正14年の5月で、明石小学校が着工する1ヶ月前に竣工していたことになる。

筆者はこのような写真を見る時は先ず備前橋だけがあった時の光景を想像し、次に備前橋と明石小学校があった時の光景を想像してみる。そうすると現在ではとても想像できないような川や橋と建物の関係に気付くことがある。そして、それはその建物が周囲の環境とどのような関係を保っていたのか、そんな現在の姿だけを見ていたのでは分からない新たな発見に驚かされることもある。

中央区教育委員会の調査報告書を読むと、築地川公園に備前橋の親柱と高欄が保存されていることになっている。しかし、それらが本物の備前橋とどれ程違うものなのかを観察してみるのも、歴史的建造物保存の認識レベルの低さの勉強になるかも知れない。
境橋親柱のように容易に寄り付けない植え込みの中にあっても、それが手付かずの本物である限り、それを糸口に川筋を想像し当時の姿を頭に描くことができる。
どんなに汚くても痛んでいても、またそれが一部であったとしても、オリジナルを残すことが何より大切だという対照的な例だろう...。



7. 聖路加国際病院
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 京橋図書館 Digital archives


前稿にはなかった外部足場が見えるが、チャペルは未だ建設されていない珍しいカメラアングルだ。
ここに写ってはいないが、この左側に明石小学校と京橋高等小学校がこれから建設が始まるチャペルと軸線を揃えるように建っている。
資料によると聖路加国際病院の基本計画はアントニン・レーモンドによるもののようだが、レーモンドが既に完成していたこれら二つの復興小学校との軸線を意識してこの病院の基本設計を行い、その中心軸線上に礼拝堂を配置し建物全体のシンボルとしての塔を中心に置くことで、この建築のランドマークとしての意味とチャペルの尖塔としての意味を合わせ持たせたのではないかと思う。

筆者はまだこのチャペルを見たことがない。チャペルを見たこともない、写真はチャペルが建設される前のもの、なのにチャペルについて書いている。
これは少し自己矛盾のようにも思われそうだが、これから建設が始まるチャペル側に各階3つづつの大きな開口があるのが写っている。この各階に設けられた3つの開口こそ、この病院と礼拝堂との関係に於いてレーモンドが最も重要な部分として考えたところではないかと思うのだ。
それが偶然にも写っている貴重な写真だと思う。

ここまで書いて、やはりチャペルを確かめてみたくなった。
イレギュラーだが、この続きは次稿で...。



8. 聖路加国際病院チャペル
b0125465_10282759.jpg[Photograph source]
 京橋図書館 Digital archives


昨日聖路加国際病院のチャペルに初めて入った。
そのゴシック様式の薄暗い礼拝堂はステンドガラスから射し込む光でそこがカトリックの祈りの場所であることが分かった。

前稿は掲載した一枚の写真と図面を見ながら書いていたが、写真にまだ礼拝堂が存在していなかったのと同じく、図面もまだ礼拝堂が描かれていないものだった。
そんな状況で病院と礼拝堂との関係に於いて最も重要な部分ではないかと思った写真に写る開口部の意味を確かめたくてチャペルに足を運んだ。そしてやはりそうだと得心することができた。

今ここで、筆者がそこで見たこの病院とチャペルとの間にかつてあった空間構成に触れることはしないが、当時トイスラー院長がこの施設に於いて礼拝堂が中心的位置を占めるべきことと、塔上に十字架を掲げることを心に描いていたということに全ての答えがあるように思う。
そして、「十字架を新しい建物の塔上に高く設置することは、この施設のあらゆるはたらきを実践せしめている根本的な動機を目に見える形で示すことである」、という言葉にこの建物全体を支配する根本の思想がみえてくる。

病室の中に北東に面した部屋がいくつかある。それらの部屋と屋上に設けられた日光浴室からは運動場や屋上で活発に動き回る明石小学校と京橋高等小の子どもたちが眺められたことだろう。そして、その子どもたちの元気な姿は、各階の広間から祈りを捧げることができた礼拝堂と同じく、患者たちの心に希望を与えていたのではないかと思う。

どこにも書かれてはいないし、誰も語ってはいない。
しかし、かつての聖路加国際メディカルセンターはこれら二つの小学校を意識し、そして間違いなくそれらと連鎖する設計がなされていたと筆者は思う...。


[注] 写真左隅(チャペルの向い側)に明石小学校が写っています。
by finches | 2009-04-01 19:09 | 復興
   ◆ 明石小学校・歴史的背景の考察 Ⅱ
9. 帝都復興区画整理事業
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 京橋図書館 Digital archives


昭和8年(1933)頃の写真だと思われるが、中央左に聖路加国際メディカルセンター(当時の名称)、その後ろに明石小学校と京橋高等小学校が写っている。聖路加国際メディカルセンターはチャペルを除きこの二つの復興小学校の竣工から遅れること8年後の完成となるが、軸線を揃えたその建築計画は街区形成に大きなファクターとなる一つの建築が都市計画的に考えられていることが窺える。

左側の縦に流れ左に直角に曲がっているのが築地川で、曲がって直ぐの所には昭和4年に架橋された入船橋がある。現在運動公園として整備されているのがこの曲がり部分の川底にあたる。

下側の横の流れは先の築地川が今度はその流れを右に直角に変え、新栄橋(昭和5年架橋)を過ぎる辺りから徐々に川幅を広げ明石掘と呼ばれた船入澗になっているのが分かる。
この明石堀から真直ぐに伸びる写真右隅の道路は鉄砲洲川が埋め立てられた跡で、この写真は関東大震災後の復興事業に於ける区画整理事業の中で、あるものは消えあるものは新しく生まれた当時の姿をはっきりと後世に伝えている。
東京の都市計画はこの時期にその骨格(礎)は完成していて、当時に於いて帝都の未来の為に計画的に備えられた部分をその時々の都合だけで少しづつ切り崩しているのが現在の東京という都市の姿と言える。

未来に何かを残そうとするなら、現在が失ったものを正しく未来に継承せずしては、たとえ残せたとしてもその形骸にしか過ぎない...。



10. 築地川軽子橋
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前稿で築地川が直角に流れを曲げて直ぐに架かっているのが昭和4年に架橋された入船橋と書いたが、写真は逆に現在の入船橋から築地川跡を明石方面に見たものとなる。
こちらから見ると築地川は直角に右に流れを変え、曲がり部分の川底が運動公園に、その先の木々が見える辺りからが築地川公園になっている。
運動公園から築地川公園に上がる階段が見えるが、その先でマンションの狭間で低くなっている先に明石小学校がある。

震災復興東京全図によると、この階段を上がった辺りには軽子橋の表記が見られるが、多くの橋が震災復興橋梁として架け替えられた中で、この軽子橋は震災復興事業で撤去されてしまっている。軽子というのは荷揚げ作業に従事した人の呼び名で、河岸名こそ記録にはないがこの近くで築地川からの荷揚げが行われていたことを示すものだろう。
場所は変わって神楽坂に平行して軽子坂という坂があるが、この坂名も神田川から外濠に運ばれた船荷が神楽河岸から荷揚げされていたことに由来している。

戦後の区画事業で歴史的町名が消えていった。しかし「軽子」という一つを取ってみても、その言葉の意味からその歴史的背景までをも思い描くことができ、そしてそれは違う場所にある同じ名と連鎖することで、もっと広い地理的経済的な背景にまで想像を膨らませることができる。

どこの町に行っても感じることだが、町を歩くと旧町名を記した石碑をよく目にする。そしてその旧町名からはその界隈の町名毎の歴史を感じ取ることができる。
日本という国は先ずこの旧町名の復活から始め、その街々の歴史に興味と関心を抱くような子どもたちからつくっていかなければならないのではないかと思う。
そうでないと、その街の歴史のことも、況してその街に残る歴史的建築のことなど、興味や関心どころか意識すらできない人たちを生み続けていることになるのではないだろうか...。



11. 佃島渡船場跡
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最初に、本稿は前稿の続きとして読み進んでいただきたい。

入船橋 (前稿写真の撮影場所) が架かっているのは新大橋通だが、この大通りは震災復興事業で新たに造られた街路で、震災復興計画図を見ると幹線街路という大路の格付がなされ、一方 (前稿写真参照) 入船橋から築地川に平行して走る大通り (写っていないが写真左側を走る) は震災復興計画図によると補助街路という格付がなされている。
今でこそ佃大橋によって佃島と繋がっているこの後者の通りも、佃大橋が完成するまでは隅田川までで、その終点からは江戸時代は島と結ぶ佃の渡しが、明治から昭和までは佃島渡船が行き来していた。

前稿写真に写る築地川にはもう一つ隠された歴史がある。
入船橋から見下ろすとあたかも築地川の川底を整備しての運動広場のようにみえるが、広場右奥 (築地川公園に上がる階段の右側の影になっている部分) には入り口を塞がれたコンクリート製のトンネルあり、このトンネルは築地川公園の下を晴海通の方角に伸びている。

これは幻の首都高速環状線・10号晴海線の建設が放棄された跡で、首都高速新富町出口がある三吉橋から築地橋・入船橋にかけての妙な広さを持つ空間は、ここが高速道路の合流予定地点であった跡地ということになる。
つまり、もし高速道路が完成していれば上の運動広場からは子どもたちの歓声ではなく、車の騒音が聞こえていた訳で、この景色もある意味での近代化産業放棄遺産として後世に伝えてもいいと思う。

前稿写真でマンションが建っている一角を震災復興東京市全図で見ると、京橋専修女学校、京橋商業学校、明石小学校、京橋高等小学校という表記が残っている。
この中で明石小学校と二卵性双生児のような京橋高等小学校は、都立京橋商業高校、区立第2中学校としてその歴史を刻んだ後、昭和57年(1982)に廃校となるまで教育の場として使い続けられた。
その後、区立施設として20年に亘り使われ、その間この建物は歴史的建造物としての扱いを受けることもなく、平成14年(2002)に解体された。

佃の渡しが生まれたのは正保2年(1645)、明治になり渡船料を取っての佃島渡船となり、昭和2年(1927)からは無賃の曳舟渡船となった。そして、昭和39年(1964)に佃大橋の完成により300年の歴史に幕を下ろすことになった。
佃島渡船跡の石碑から、その船着場に至る道筋の明石の歴史を考えてみた...。


12. 築地鉄砲洲
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写真は築地川公園を築地本願寺方向に見たものだ。
昭和9年(1934)に完成した古代インド様式と言われる築地本願寺と築地川南支川の関係が分かる一枚だ。
そして、備前橋という橋名板がついている為にかつての橋が残っているように勘違いしがちだが、写真に写る備前橋は似ても似つかぬ橋形オブジェに過ぎない。
また、前稿でも触れたがこの築地川公園の直下には幻の首都高晴海線が眠っているというのも、知られざるこの街の歴史として興味深いものがある。

現在、明石有情というテーマで書いているが、筆者の頭の中ではそれは現在の明石町だけを見ているのではなく、明暦の大火後に埋め立てられた一帯、つまり「築地」を一つのまとまりの中で捉えたいと思っている。
そしてその一帯は、関東大震災では壊滅的な罹災を被り、東京大空襲ではその戦火から免れたという歴史的背景を共有しているという意味でも一つに括れると考えている。 [注:1]

例えば、安永3年(1774)に「解体新書」として出版されたオランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」を前田良沢が杉田玄白らと共に翻訳したのも、福沢諭吉が慶應義塾の前身となる蘭学塾を開いたのも、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷であったという記録からも、築地から鉄砲洲にかけての一帯はその歴史的背景を共有している...。


[注:1] この一帯が東京大空襲を免れた理由として聖路加国際病院の存在を挙げる説があります。しかし、これはあくまでも噂であり、それを証明する公式文書はまだ発見されていません。


13. 明石堀
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写真はあかつき公園となっているかつての明石掘跡だ。
かつて築地川はこの公園の名の由来となった暁橋を過ぎると、築地川南支川との出合で直角に曲がり、その曲がった所には境橋が架かっていた。そして、しばらくその川幅のまま流れた後、新栄橋の手前辺りから徐々に川幅を広げ明石掘と呼ばれる船入澗が造られていた。
その明石掘の最も幅が広い東端にはかつて鉄砲洲川が流れ込み、その出合から明石掘は南に向きを変えて川幅を狭め、明石橋を過ぎた先で隅田川に注いでいた。
そしてこの隅田川との出合にかつては月島の渡しがあった。 [注:1]

今でこそマンションが建ち並ぶ月島もかつては日本の近代化を支えた一大臨海工業地帯で、戦後も月島工業地帯として高度経済成長を支えた地域だということを知らない人たちも多いだろう。そして、佃島と同じくこの月島も、隅田川で隔てられていてもその歴史は築地や明石や鉄砲洲と一体のもので決して切り離して考えることはできない。 [注:2]

往時の新栄橋辺りから明石掘跡を見ていると、かつてはここに何十艘もの船が繋がれ、ここにつながる三筋の川へと行き来する船で活気に溢れていた情景が蘇ってくるようだった。
冬木立の落葉松(からまつ)が悠然と聳える様に往時の川の広さを感じ、そこで憩う人たちにこの場所がかつて川であった歴史を伝え残したいと思った...。


[注:1] 月島の渡しは明治25年(1892)に手漕ぎの有料渡船に始まり、昭和15年(1940)の勝鬨橋架橋により幕を閉じました。

[注:2] 明暦の大火後、本願寺再建のために代替地として幕府より与えられた八丁堀の海上を埋め立て、築地を築いたのは他でもない佃島の漁師を中心とする門徒たちです。


14. 鉄砲洲川
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聖路加国際病院と聖路加タワーの間の道がかつて川だったことを知る人は少ない。
写真は明石掘跡からその鉄砲洲川跡を撮ったもので、この直ぐ右手には隅田川が流れている。
鉄砲洲川はその片方を明石堀に、もう片方を鉄砲洲小学校(現中央小学校)の南で直角に向きを変えて隅田川に繋がっていた。
かつては5本の橋が架かる川だったが、関東大震災後に埋め立てが始まり、昭和5年に終了する震災復興事業の2年後の昭和7年頃には地図からもその姿が消える。

大正15年に震災復興事業で竣工した最新鋭小学校の明石小学校京橋高等小学校の陰で、同じ震災復興事業とは言え震災の瓦礫処理の為に鉄砲洲川が埋め立てられていった。
そして、鉄砲洲小学校が竣工した昭和4年頃は、そのほとんどが埋め立てられ道路としての整備が進んでいたことだろう。
筆者はこの鉄砲洲川の歴史も忘れて欲しくない大切な郷土史だと思う。


明石からこの旧川筋を北に進んで佃大橋へ繋がる大通りを越えると急に道幅が狭まるが、この道幅がかつての鉄砲洲川の川幅と考えていいだろう。確か震災復興事業の中の運河事業には、運河の幅を船幅の倍数で決めて5つくらいのランク分けがされていたように記憶する。
築地川や築地川南支川に比べこの鉄砲洲川の川幅はかなり狭いが、江戸時代に埋め立てられた時のこの辺りは大名屋敷ばかりで、商売の為の河岸がある訳でも他の河岸へ繋がる水路でもなかった為に、その幅は決められたものと思われる。

かつて鉄砲洲川が隅田川に口を開けた先には小さな孤島佃島があった。
この佃島と鉄砲洲の成り立ちや歴史を考え、この河口の位置が意味するところについ思いを巡らせていた...。



15. カトリック築地教会
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明石小学校と道路を隔ててこのカトリック築地教会は建っている。この教会も関東大震災でゴシックの聖堂を焼失し、昭和2年(1927)に現在の姿に再建されたものだ。
建物は石造に見えるが木造モルタル塗りで、震災前の姿とは打って変わって古代ギリシアの神殿建築のようなペディメントとエンタシスの柱を持つユニークと言えば言える一風変わった建築に思える。

古代ギリシアの神殿建築の様式は古代ローマにも受け継がれるが、そのプロポーションは厳格な数学的比率が支配しており、それがこの様式の美しさの源となっている。一方この教会はその様式こそ踏襲しているように見えるが、最も厳格に構成されるべき数学的比率はプロポーションには正確に反映されていないようで、どこか妙な印象を受ける建築に仕上がっている。
また、エンタシスの柱の上部にあってペディメントを支えているドーリア式柱頭に対して、教会敷地入口の左右の門柱にはイオニア式柱頭飾りが使われるなど、どこか異様な建築に思えていた。

そのような訳で東京都選定歴史的建造物に指定されているものの、これまで筆者の目にはどうも馴染めない建築として映っていた。
そして築地居留地時代からの歴史の語り部であるこの建物を、「明石有情」の中でどう取り上げれば良いか些か苦慮していたが、一つの建築としてよりこのカトリック築地教会と明石小学校の間にある道に焦点をあてて捉え直してみた。

カトリック築地教会の位置は築地居留地時代と同じ場所にあり、初代聖堂は居留地区画番号の35と36番に跨(またが)って明治7年(1874)に建てられた。当時この明石小学校との間の通りには外国公使館を始め、立教大学の源流となる立教学校が1874年、関東学院の源流となる東京中学院が1895年、現聖路加国際病院の源流となる聖路加病院が1902年、そしてこれらに続いて明石小学校(当時は明石尋常小学校)が1908年、京橋高等小学校が1911年に創建されている。

勿論これらの建物は関東大震災で焼失し現存するものはないが、明石小学校と京橋高等小学校は大正15年(1926)、カトリック築地教会は昭和2年(1927)、聖路加国際メディカルセンターは昭和8年(1933)、聖路加礼拝堂は昭和11年(1936)に、それぞれ現在の場所に建てられたものが残されている。[注1]
前稿で取り上げた鉄砲洲川沿いにあった外国公使館や学校がその痕跡を留めぬ現在、このカトリック築地教会と明石小学校が挟む通りは、それらの建築が健在であることをして往時の歴史を今に伝える重要な役割を担っている...。


[注1: 聖路加国際メディカルセンター(現聖路加看護大学)は礼拝堂を中心とした一部が改修保存]
by finches | 2009-04-01 19:08 | 復興
   ◆ 明石小学校・歴史的背景の考察 Ⅲ
16. 明石国民学校
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 京橋図書館 Digital archives


前稿のカトリック築地教会と通りを挟んで向かい合うように明石小学校の昇降口はある。
カトリック築地教会と同じくこの小学校にも様々な歴史が刻まれていて、それが「建築の記憶」となって沁み込んでいるが、本稿ではその建築の記憶の中の一つを通して、この建物が持つ歴史的背景を考えてみたいと思う。

この写真を古き良き時代の入学式朝の登校風景と片付ければそれまでだし、それはそれで決して間違ってはいない入学式に臨む微笑ましい親子連れの姿だ。
だが、この写真には次のような説明書きが添えられている。
「国民学校  1941年(昭和16年)4月1日から、70年間つづいた尋常小学校の名が消えて、ドイツ流の国民学校の名になった」

この小学校の建築をドイツ表現主義の影響を受けた外観をしているなどと言っているくらいならまだ可愛いものだが、上のように「ドイツ流の名になった」と、それがさも新しい素晴らしいことのように書かれると雲行きは些か違ってくる。
聡明なる読者の中にはお気付きの方もおられるだろうが、1941年3月に国民学校令が勅命として出され、4月1日から尋常小学校と高等小学校は国民学校へと改称される。
それは明治19年(1886)以来続いた小学校令が廃止され、小学校令で謳われていた児童の身体の発達に留意して道徳と国民教育の基礎、そして生活に必要な知識と技能を授けるといった国の礎をなす教育の目的を全て廃し、皇国の道、即ち天皇の為に身も心も捧げ尽くす為の教育へとその目的を変貌させたのが国民学校令に他ならない。

「ドイツ流の国民学校の名になった」と書かれれば、何かモダンな考えに基づく新しい学校になったように現代人には誤解されそうだが、ドイツ流とはナチスドイツの「国民科」をモデルにしたということで、それは初等科授業のカリキュラムの中で先ず巧みに郷土への愛情を育て、後の学科でそれを愛国心へと発展させる仕組が周到にセットされた軍国主義教育に他ならない。

上の写真が撮られた9ヵ月後、即ち昭和16年(1941)12月8日、日本は米英に向けて宣戦布告を行い太平洋戦争へと突入する。
上の一枚の写真は明石小学校のそんな歴史の1コマを切り取っている...。



17. 明石から消えたもの
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 京橋図書館 Digital archives


聖路加国際メディカルセンターも明石小学校も京橋高等小学校もカトリック築地教会も見える。
暁橋も境橋も新栄橋も見える。
勝鬨橋も、言うまでもなく佃大橋も架かる前で、月島の渡しも佃の渡しもまだ健在だった頃だ。
鉄砲洲川は埋め立てられているが築地川も築地川南支川も明石掘も残っていて、隅田川がゆったりと流れ沢山の船が行き交っている。
江戸の昔、隅田川河口の寄洲に過ぎなかった佃島も大きく埋立てられている。

この景色の中から何が消えたのか、消えたものは無数にあり、残っているものを数え上げる方が早いだろう。
残念ながらそれらを数え上げるのに労を要しない。何故なら残っているのは聖路加礼拝堂、明石小学校、カトリック築地教会、そして境橋の2つの親柱、この4つだけだからだ。

この残された建物の中や親柱を見て感じる温もり、それはステンドガラスが作り出す光のせいもある、当時の職人の手仕事からくるものもある、木の床や扉からくるものもある、だが、そこで感じる温もりや優しさや穏やかさは、それぞれの建物の長い歴史の中で、そこを訪れそこに暮らしそこで生きた数え切れない人々の歴史が建築の記憶となって漂う空気のせいだと思う。

この明石有情の最初に一枚の築地居留地の鳥瞰図を取り上げた。
それは本稿の写真とほぼ近いアングルで、ちょうど40年前の姿となる。
この40年前の明石の姿を消したのは関東大震災だった。だが、その震災復興を遂げた明石にあって現在の明石にないものは、明らかに人の無知と身勝手によるものだと言ったら言い過ぎだろうか...。



18.震災復興
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 東京復興計画図


明石の街の歴史を考える上で大正12年(1923)9月1日に起きた関東大震災を避けては通れないと思う。
この未曾有の大地震によって、江戸、明治、大正と続いてきた街づくりは大きな変曲点を迎えることを余儀無くされ、取分け都市インフラの再整備と抜本的な区画整理を伴う復興事業が帝都復興計画の青写真の下で計画的に遂行されていく。

中でも防火区画帯としての機能を併せ持つ昭和通や新大橋通などを含めた道路整備は、町同士の長い歴史的関係の分断を余儀無くさせた一方、それらの町を織糸のようにつなぐ川の存在が江戸から連綿と続いてきた町や人の関係を保ってくれていたように思う。
しかし、この震災復興事業で入船川や鉄砲洲川が埋め立てられ消滅したことも事実だ。

震災復興事業による復興橋梁は築地川水系だけを数え上げても17橋に及び、それだけ人々の生活の中に切っても切り離せない川との関係が存在していたことが分かる。
明石有情を書いていてこれらの町と川との関係、またそれらが織り成してきた人や建物や環境との関係がなければ、聖路加礼拝堂とカトリック築地教会と明石小学校という3つの歴史的建造物が残る町として筆を終えていたかも知れない。

震災復興計画図を見ると明石一帯が焦土と化し、その中から明石小学校を皮切りに町が再生されていった歴史をみることができる。
筆者は現存するこの時代のあらゆるものが、この尊い歴史の語り部であり伝承者であると思う...。



19.戦災復興
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 東京都戦災誌・東京都区部焼失区域図


もう一つ明石の街の歴史を考える上で昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲も忘れてはならないと思う。
関東大震災の壊滅的被害からの復興を遂げていた東京を深夜の無差別焼夷弾爆撃が襲い、一夜にして街は壊滅し関東大震災を上回る数の命が奪われた。
当時の明石は京橋区に属していたが、関東大震災の復興事業で建設された復興小学校を例に見てみると、当時の京橋区にあった13校の復興小学校の内5校がこの空襲の被害に遭っている。そして、拙稿・明石有情でこれまでに取り上げた明石、京橋高等、鉄砲洲小学校を含め、8校がこの空襲から免れている。

当時の京橋区に被害が少なかった理由として、アメリカ軍が聖路加国際病院をその爆撃の対象から外していたということが言われている。 [注1]
その噂をもとに空襲による焼失区域図を見ると、当時軍需関連工場もあった筈の月島の工場地帯も南端の一部を除き被害を免れていることが分かる。
聖路加国際病院を中心にこれを復興小学校で見てみると、その中心から西の京橋、築地小学校、その中心に近い明石、京橋高等、鉄砲洲小学校、その中心から東の佃島、月島高等、月島第二小学校が被害を免れ、その周辺の泰明、文海、城東、京華、明正小学校が被害に遭っているのが分かる。

これはそのまま爆撃を行ったB29爆撃機の飛行ルートを表していて、西から進入して来たB29は泰明小学校辺りで爆撃を止め、聖路加国際病院上空を通過し月島上空を経て東京湾へ抜けたことが窺える。
このように考えてみると、京橋、築地小学校は目標への侵入ルートの手前にあった為に、佃島、月島高等、月島第二小学校は目標からの帰還ルートに当たった為にその被害を免れたことが見えてくる。

聖路加国際病院によって救われた街、それがこの明石を中心としたエリアだということ、だからこそ聖路加礼拝堂のステンドガラスも、些か異様だが木造モルタル塗りのカトリック築地教会も、明石小学校屋内体操場の見事な造作や木製の窓や扉や床も残されたことを忘れてはならないと思う...。


[注1: アメリカ軍が聖路加国際病院を爆撃の対象から外していたことを裏付ける公文書の類はまだ発見されていません。しかし、太平洋戦争開戦前に聖路加国際病院に見舞いと称して訪れたアメリカ人によって聖路加国際病院屋上から360度のパノラマ写真が撮影されたことは事実のようです。]


20.100年後の築地居留地
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 聖路加国際病院の100年


20回を句切りに一先ず「明石有情」の最後となるが、まだまだ幾らでも題材に事欠かないくらいにこの街は魅力に溢れている。
しかし、その魅力は決して明石だけにあるものではなく何処の街にも同じようにあるもので、我々がただ気付いていないだけのことだと思う。
ちょっと足を止め街々に残っている歴史の痕跡に興味を抱き、過去のレイヤーを現在と重ねて見るだけで今まで気付かなかったことに気付き出合うことができると思う。

「明石有情」の最初に書いた「築地居留地」で使った写真は1894年の様子を描いたものだった。その明治27年の絵からは様々なことを読み取ることができたし、またその一方で様々な疑問を抱かせてもくれた。
そして、本稿の写真はそれから100年後の旧築地居留地、1994年の明石の姿だ。
隅田川以外のかつての川筋は全て道路や公園に変わり、勿論建物は新しくなったが往時と同じ場所で歴史を刻み続ける建物は4つ(注1)になっている。

この写真が撮られてから更に16年の時が流れた。
その間に何が消え、また更に何が消えようとしているだろうか。
かつての外国人居留地は同じような表情をした建物に覆い尽くされ、もう過去のレイヤーを重ねて見ることもできない街へと変わらざるを得ないのが今という時代なのだろうか。
そして、連綿と育まれてきた環境や歴史との共存関係を断ち切ってまで、つくり変えられる世界が本当に新しく快適で安全なものなのだろうか。
スクラップ アンド ビルドからサステナブルへ、知恵と工夫と創造で使い続ける建築・環境・社会こそが今求められ、そうすることで今という時代のレイヤーを未来に継承できるのではないだろうか...。


[注1:京橋高等小学校(都立京橋高等学校、区立第二中学校として使われた後、1982年に廃校、2002年に解体)、明石小学校、カトリック築地教会、聖路加礼拝堂]


100年前の築地居留地の姿を今一度...。

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 Spitit of missions 1894年


by finches | 2009-04-01 19:07 | 復興
   ◆ 明石小学校・設計圖
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復興小学校とは関東大震災で焼失した木造校舎が鉄筋コンクリート造校舎に建て替えられたものを言い、その数は117校に上る。
しかし、震災前から東京市によって進められていた小学校校舎の鉄筋コンクリート造化という一連の流れの中で見るなら、この復興小学校という呼び名は臨時建築局が震災復興事業の対象として予算化する過程の中で便宜上付けられた名称に過ぎず、特段他の鉄筋コンクリート造校舎と分ける理由は本来意味を持たない。何故なら、一概に復興小学校と言ってもその中には関東大震災が起きた時に既に工事中であったものもあるし、同じように工事中であったものでも復興小学校の中に入らないものもあるからだ。

そしてもう一つ知っておきたいのは、震災復興事業の復興小学校の設計・建設と平行して、全く同じ時期に改築小学校と呼ばれる鉄筋コンクリート造小学校の設計・建設が行われていたということだ。
つまり、第一世代、第二世代(復興小学校)、第三世代と鉄筋コンクリート造小学校が造られたのではなく、これらはある同じ時期を共有しており、従って117校の復興小学校だけを何か特別なもののように分けて扱うのは間違っているというのが筆者の考えだ。

さて、関東大震災が起きた時に工事中だったものの中でも、そのまま工事が続行されたものと、設計変更を行ったものとがある。そして、後者には震災後に臨時建築局に入った技師たちが加わったと思われる。
写真は明石小学校設計図面に押された図面印で、設計担当者として原田(俊之助)の名前を読み取ることができる。
明石小学校が着工したのは大正14年6月、そして竣工したのは大正15年8月となる。原田が臨時建築局に入ったのが大正13年10月であることをこれらと重ねてみると、入局後直ぐにこの明石小学校の設計を担当したことになる。

上の第一世代、第二世代(復興小学校+改築小学校)の小学校で見ると明石小学校は15番目の竣工となり、震災後に技師に昇格した者と技師として入局した者を見ると原田は17番目となる。
これは一人一人の技師が一対一でその頭となって設計・監理に当たっていたことを示している。
即ち居並ぶ優秀な技師たちはその使命と情熱とライバル意識の中で、物真似ではない自らが考える小学校建築の理想像に挑戦していたと言えるだろう...。



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写真は明石小学校の1階平面図だが、復興小学校の典型的な平面パターンの一つである「コの字型」を示している。
また、現在プールのある場所は当時は隣地であったことが分かり、聖路加国際病院礼拝堂側に校庭への出入口が設けられていたことも分かる。

平面図を見ると7つの教室と手工室、二つの昇降口と職員室、3つのトイレと4つの階段、そして屋内体操場が整然と配置されている。
この図面には描かれていないが、当時この右隣りにあった京橋高等小学校と共有するボイラー室(別棟)が右下隅部分から廊下で繋がっていて、今で言う地域冷暖房設備の走りのような考えで、一つのエネルギー棟からそれぞれの学校に暖房と給湯用の温水がトレンチによって供給されていた。

復興小学校は児童に対する配慮が心憎いまでになされている。勿論教育を国づくりの礎と考えていた明治政府による小学校令の精神に負うところも大きいが、それだけではなく当時の学校長の教育に対する見識の高さと並々ならぬ情熱、そしてそれを背景にして理想の小学校建築を造ろうとした高度な知能・技術集団である臨時建築局学校建設課の設計技師たちによってこれらの復興小学校は一つまた一つと産声を上げていった...。



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関東大震災を経験した後に建設された復興小学校は最も耐震耐火に重きを置いて設計と工事が行われた。
当時の図面を見ると、構造は鉄筋コンクリート造3階建と書かれた上に、絶対耐震耐火構造と付け加えられていて、現場で施工するコンクリートに関しては特段に細やかな品質管理が行われていた。

そして、明石小学校の場合はその堅牢なコンクリート造の壁体表面にはクリーム色のモルタルが塗られ、腰廻りは同色の人造石洗出しで仕上げられていた。
現在の聖路加礼拝堂もそうだが、当時の色は現在塗られている濁った陰気な色と違い、最新鋭の近代建築に相応しい明るい洗練された色調に統一され、それらは整然とした調和を醸していたと思われる。
また、当時のサッシは全てがスチール製で、現在のアルミサッシと違いそのスリムな形状と壁の色に合わせて配色された塗装色によって全体が引き締められていたことが想像される。
そして、屋上に設えられたパーゴラの緑と、建物足元の植栽の緑がこれらと調和して美しかったことだろう。

写真の明石小学校東側立面図のサッシは筆者が詳細図面を元に加筆したもので、当時の設計図面は意外と大雑把で開口だけが描かれサッシなどは完全に省略されている。
古き良き時代と言えばそれまでだが、一つ一つの工事を完成させる為の技師とそれを支えた技手たちの仕事の量は半端ではなかったと思う...。



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当時一つの小学校を建設する為にどのくらいの枚数の図面が描かれたのだろうか。
そのことを昭和13年(1938)に函館で建設された弥生小学校と比較して考えてみた。
昭和13年というと、既に日中戦争が勃発し物資統制が行われていた時代で、東京市の鉄筋コンクリート造小学校の建設もこの年を最後に終了する。
函館の弥生小学校はそんな時代を背景として、戦前我が国で最後に建設された鉄筋コンクリート造小学校と言っていいだろう。

その弥生小学校の設計図面の複製が手許にあるが、それは勿論手描きの図面で一枚一枚丁寧に描かれている。
一方、明石小学校の設計図面の方は仕様書こそ必要十分な内容が網羅されているが(これは各小学校共通であった為と思われる)、図面の描き方はかなり雑で、それは当時の臨時建築局が復興の為の設計作業に忙殺されていたことに因ると思われる。

その図面の中に明石小学校の特徴を形作る部分を探した。
それは矩計図の中に見ることができたが、上の弥生小学校の丁寧に描かれた詳細図面とは雲泥の差で、よくぞこの図面で工事ができるものだと感心した。
それは明石小学校を請け負った竹田組だけではなく、それぞれの復興小学校を請け負った建設会社の小学校復興へ掛ける全社一丸となっての取り組みに支えられていた...。



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前稿で復興小学校の設計図面の描き方が雑だと書いたが、明石小学校とちょうど同じ大正15年8月に竣工した牛込区(現新宿区)の牛込高等小学校などのように丁寧且つ細やかに描かれた例も見られる。
これらは偏(ひとえ)に夫々の建物を担当した技師の実務経験の違いに加えて、実動部隊として技師をサポートした数名の技手たちを含めたチーム毎の姿勢と状況の違いによると思われる。

例え図面自体の描き方が雑だとしても、その中に設計図面として伝えるべき情報が網羅されていれば良い訳で、実際に完成した建物を見てもこの「雑さ」は決して手抜きの「雑さ」ではないことは言うまでもない。
これは筆者の推測だが100を優に超える鉄筋コンクリート造小学校校舎を次々に建設しなければならない状況の中で、その設計図面に個人差が生じたり、また表現の過少過多などの偏りが生じることを意識的に押さえ、それらを仕様書の類が補うと共に、小学校建築設計の為の統一規格が一種の設計監理マニュアルとなって質が担保され、全ての小学校に於いて均質な工事を遂行することを可能にしたのではないかと思う。

さて、写真は明石小学校の各教室の廊下側に設えられた小物掛の為の図面だが、余分なものが一切排除された中に、子どもたちに必要なものが何一つ落ちることなく描かれている。
見過ごてしまいそうなくらいの図面の片隅の描き込みだが、この図面がどれほど豊かなものへと変化し、それが現在の子どもたちにも大切に使い続けられていることか。
こんな所にも建築の記憶として沁み込んでいる無数の歴史がある...。



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現在この明石小学校は差し迫った建て替え問題に対して父兄や住民たちを中心とする保存運動が起きていて、筆者も微力ながらその運動の後方支援になればと、この学校が建っている明石周辺の歴史的な背景やこの学校が誕生した時代の背景、そしてこの学校が持っている建築的な特長と魅力などを分かり易く書いている。
しかし、今ここで書いていることはこの保存運動が起きて俄に調べ上げたことではなく、この学校が持つ他の復興小学校とは違う特徴が一体何に起因しているのかという疑問と興味から収集した資料の中から、そのテーマに応じて選び出して書いているに過ぎない。
そして、その疑問と興味を抱くきっかけとなったのが、この建物のデザインを徹頭徹尾支配している曲線と曲面の存在だった。

さて、復興小学校・明石の最後はこの小学校の外観を最も特徴付けているパラペットの図面を取り上げてみた。
明石小学校の特徴は何と言っても曲線と曲面を多用していることだが、筆者が知る限りに於いて建物全周とその断面に至るまでここまで徹底的に曲線と曲面が使われている例はこの明石だけだと思う。

かつて鉄筋コンクリート造建築の出現は、それまでの石造建築に対して構造的には重力から開放され、それによって窓が自由に開けられるようになり、瓦や金属葺きの屋根を置くことから開放され、それによって屋上と呼ばれるフラットな床を手に入れることになる。
このフラットの床を実現するためにはその下に防水をする必要が生まれ、その防水の端部を納めるために屋上から手摺のように立ち上がったパラペットが生まれた。
このパラペットはその建築のスカイラインを決定付ける重要な建築的要素として、様々なデザインとそれを支えるディテールが考え出されていった。

明石小学校の場合、パラペットを曲面にした上にそれを外壁から大きくオーバーハングさせているのが特徴で、そのパラペットを支える為に屋上に飛び出した腕木(この場合は逆ハンチと言った方が正しいかも知れない)が図面には描かれている。
屋上に整然と並ぶこの腕木の列を初めて見た時、筆者はあの復興事業の中でここまで情熱を燃やして設計に当った人間がいたのかと、驚き胸に熱いものが込み上げてきたのを覚えている。
そして、最後まで決して力を緩めることがなかった設計者・原田俊之助の誠実な一面を見たような気がした...。

by finches | 2009-04-01 19:06 | 復興
■■ 中央区立中央小学校
b0125465_1364468.jpg東京市復興小学校DATA

[鉄砲洲小学校]
創立年月 明治10年7月
竣工年月 昭和4年3月19日
工事請負 上遠合名会社
校地坪数 969.010坪
校舎坪数 1,151.619坪
学級規模 20学級 (現在6学級)
現、中央小学校
[所在地]
東京都中央区湊1-4-1
http://www.chuo-tky.ed.jp/~chuuou-es/frame.html


東京市復興小公園DATA

[鉄砲洲公園]
開園年月 昭和5年3月
公園面積 884.33坪




前回に引き続き中央区に残っている復興小学校の内、取り壊して新築されることが決まった中央小学校を紹介しよう。

現在は中央小学校と名前を変えているが、当時の名前は鉄砲洲小学校と言った。関東大震災後の復興事業では117校の復興小学校と、それと併設される形で52ヶ所の復興小公園が整備されたが、この鉄砲洲小学校には鉄砲洲公園が併設された。

江戸時代八丁堀以南に、銀座、三十間堀、八丁堀がつくられ、当時、鉄砲洲は鉄砲型の南北八丁の細長い川口島で、葦などが生えた洲であり、また、寛永年間に幕府の砲術の試射場があったことから鉄砲洲の名が生まれたことが中央区の教育史に書かれている。

昭和4年に完成した現校舎は、丸い柱型と玄関部分に見られるアーチ型の出入り口に曲線的な扱いが見られる他は、全て直線的な角ばった意匠で統一されている。隣の明石小学校との意匠性の違いの中に、この地域の気風や歴史的背景が見て取れ興味深いところだ。

復興小公園に面して小学校と幼稚園の入り口が設けられ、この面が一番親しみのある優しい表情を見せていることに、復興小公園と復興小学校との関係を見ることができる。そこには両者が避難施設としての機能を内包する中で、日常における地域住民と一体となったコミュニティの形成と育成への配慮が見られる。

この建物も残せないものかと思う。
地域と一体になって連綿と育まれた、このヒューマンスケールのコミュニティーを守るためにも...。




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前回触れた桜川と言う名は前から気になっていたが、初めてその川の跡を歩いてみた。
だが、その面影は見事なほどに消されていて、かつて稲荷橋が架かっていた亀島川出合い辺りが、鉄砲州の舟入と言う名と共に、その面影を辛うじて留めているに過ぎなかった。

鉄砲洲稲荷を抜けると鉄砲洲小学校の北面が道沿いに姿を現し、幼稚園の入り口が、そこがこの建物の端辺りであることを知らせていた。
筆者はこの学校の東側に接する鉄砲洲公園と、そこから眺めるこの建物が好きだ。
この公園が好きなのは、いつも大人や子供たちがいる所為かも知れない。

公園は木々に覆われその緑陰のベンチに座ると、緩く盛り上がるような勾配を持つ中央の広場越しに、この公園に面して東側に設けられた小学校の入り口が見える。
中央区は防災訓練を定期的に行っているのか、この日も消防車や梯子車が止まり、町内会毎に編成された一団が列をなして通り過ぎ、これらの訓練とは全く関係ないと言うようにボーイスカウトたちがダラダラとお決まりの訓練をしていた。そして、家族連れが弁当を広げ、子供たちが遊びそれを親たちが見守っていた。
そんな何処ででも見られた日常の風景がここにはあって、それらと同化するかのように、この古い小学校も建っている。

その小学校も建て替えが決まっている。
筆者は鉄砲洲小学校と旧名で呼んでいるが、今は中央小学校と言うのが正しい。
かつての名前は京華小学校が廃校となり、この小学校に統合された時に消えた。
京華小学校の創立は明治34年、鉄砲洲小学校は明治10年、かつての統合の伝統だと、その創立年が古い方の校名が残され継承された。

だが、現在はその両方のPTAと町内会に気を使い、そのどちらの校名でもない別の名前に変えられる。
なぜこの歴史ある鉄砲洲と言う名を捨て、中央などという絆を断った名前が発想されるのだろう。
これでは新しく造られる校舎が、その地域との絆を断ち切ったようなものなっても致し方ないと思えてくる。
何故なら、それらは全てそれを決め実行する一握りの人達の、良識と分別と知識と創造力の浅さの下で遂行されているからだ...。




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写真は鉄砲洲小学校の校庭の南端から撮ったものだ。
復興小学校117校の校庭面積の平均を見ると約390坪で、鉄砲洲小学校は約320坪が確保されている。また校庭とは直接繋がっていないが、鉄砲洲公園という復興小公園が併設され、その公園に隣接して鉄砲洲稲荷があるなど、この地域に於ける大きな空地をこの学校周辺で確保されているのが見て取れる。

この小学校は校庭を取り囲むようなコの字の平面形をしている。
図面からは、その校庭は狭く窮屈な印象を抱いてしまうが、実際には公園側の東側校舎が南に向かって開くように角度を持ち、校庭を南から見た時に、その北西の角が直角であるのに対して、北東の角は鈍角であることが、妙に安心感のある開放感を感じる所以ではないかと思われる。

また、北西の角は直角ではあるが、その角を南に曲がると、直ぐに高さを落とした屋内体操場へと繋がり、同時に校庭に面する校舎の3階部部分には屋上テラスが設けられ、壁面をセットバックさせることで、校庭からの視線が程よく空へと抜ける工夫がなされている。

目線を地域と子供たちに向けて設計されたこの古い建物は、ただ見ているだけで多くのことを気付かせてくれる。書こうと思えばまだいくらでもこの一枚の写真から話を続けることができるくらい、この学校の背景にある意味までをも考えさせる深さを持っている。

ここに建つであろう新しい校舎はどんなものになるのだろう。
筆者には容易にそれが想像される。
そこに見えるのは全てが浅い姿勢と思考から生まれた、数年で古さを感じる贅沢で華美な校舎だろう。
現在の校舎の「古さ」とは、ただ建てられてからの時間の長さの形容に過ぎないが、新しい校舎の「古さ」とは、中身を伴わないものに共通する、劣化の速さや陳腐さからくる古さで、その建物が完成した時点で既に潜在している、老化を促進するあの活性酸素のようなものだ。

また、それを良しとする、素晴らしいとする浅い親たちが、古いかけがえのない校舎を壊すことに加担し、新しいファーストフードのような校舎を望んでいるのだから如何ともし難い。
ジャンクフードやファーストフードに犯された親たちにとっては、スローフードの本物の味も古くさい過去のものなのだろうか...。




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写真は鉄砲洲小学校の屋内体操場の中から校庭側を見たものだ。
勿論屋内体操場とは当時の呼び名で、現在では体育館ということになる。
復興小学校は当然ながら防火性能を重視し、校舎は全てが鉄筋コンクリート造で造られているが、屋内体操場だけは鉄骨造で、壁と屋根は防火性能を同じにするために鉄筋コンクリート造で造られている。

また、校舎のデザインは幾つもの建築スタイル (様式と呼ぶまでの建築全体に亘る統一性や一貫性は薄い) が採用されているが、屋内体操場は類似した意匠性がその根底に隠されているように思えてならない。
ほんの数校を実際に見たり、また写真で見ただけで断言することは出来ないが、その意匠にはどこかアール・デコの匂いを感じるとだけ言っておこう。

屋内体操場と校舎との意匠性の違いについては、九段小学校の中でも触れたが、それはそこが講堂としてのもう一つの顔を持ち、そこで行われる重要な儀式に、御真影を掲げ教育勅語を紐解く行為があったためと推測している。
それ故に、その内部意匠は技巧的な差こそあれ、ある共通性を持ったものになったのではないかと思う。

フランク・ロイド・ライトの建築を思わせる柱が上に向かって広がる意匠、この柱のデザインに一つの共通性があるような気がしている。
そして、それ以外の意匠、例えば天井や講壇や演台や桟敷のデザイン、そして華美ではなくあくまで控え目に扱われた装飾などに、それぞれを担当した設計者の考えや思いを垣間見ることができる。

鉄砲洲小学校の屋内体操場は校庭に面した側の柱間が全て扉になっていて、写真のようにこれらを全開すると校庭と連続するようになっている。
こんな些細かもしれないが配慮が、建築という無機質な空間を、どれほど豊かなものへと変えてくれるか、このこと一つとっても、中々今の新設校にはない深い思慮を感じるのだが...。




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鉄砲洲小学校の最後の写真に階段を選んだ。
朝夕の登下校に、休み時間に校庭や屋上で遊ぶために、給食の用意や片付けに、職員室や保健室への用事に、理科や図工や音楽などの特別教室への移動に、体育の授業のための校庭や室内体操場への移動に、毎日の一斉清掃に、そして雨の日の遊び場に、階段が最も子供たちに使われた場所ではないかと思う。
階段の手摺はピカピカに光り、長年に亘って子供たちに触られ続け、それによって毎日毎日磨き込まれた痕跡がその証として残っている。

階段にはそれぞれに個性に溢れた特徴があって、四角の窓を持つもの、丸い窓を持つもの、アーチ窓を持つもの、そして、バウハウス(Bauhaus)を思わせるような下から上まで連続した窓を持つものまで様々だ。
手摺壁の上の笠木も、木製のものもあれば、人造石を研ぎ出して磨いたものもあれば、また、そこに彫刻が乗っていたり、時には意味不明の突起物が付いていたりもする。

しかし、総じてこららの階段の踊り場の角は丸く造られていて、通常はもとより非難の時も子供たちを安全に、そしてスムーズに下ろす配慮がなされている。
筆者はこれまでに何度も‘建築の記憶’という言葉を使ってきたが、階段は最もそれに相応しい場所のように思う。

それは、空間としては繋がっていても、階段によってその上下には目に見えない暗黙の境界のようなものがあって、例えば、上の階には上級生がいて下級生からはまるで別世界で、ちょっと上がって行き難いような、その逆に上級生として下の階に行く時は、いつもはやんちゃな子供が少し大人びたすましたお兄さんに変貌したりする。
そのような下級生、上級生、先生、来訪者らの様々な人たちが擦れ違う中で、階段には自然とルールが生まれ育まれ、そこでの様々な出会いや体験の記憶が階段には沁み込んでいると思う。

階段は子供にも大人(特に親たち)にとっても、大切な躾(しつけ)の場所ではなかっただろうか...。

by finches | 2009-04-01 18:10 | 復興
■■ 中央区立明正小学校
b0125465_13114963.jpg[明正小学校]
創立年月 昭和2年3月
竣工年月 昭和2年5月30日
工事請負 大林組
校地坪数 1,520.320坪
校舎坪数 1,458.740坪
学級規模 20学級 (現在6学級)
[所在地]
東京都中央区新川2-13-4
http://www.chuo-tky.ed.jp/~meisho-es/




中央区に残っている復興小学校の内、取り壊して新築されることが決まった3校を順に取り上げてきた。
今回はその最後で、明正小学校を紹介しよう。
この明正小学校は越前掘公園に面していて、前回取り上げた鉄砲洲小学校と同じく、復興小公園が併設された復興小学校となる。

明正小学校は関東大震災後に越前掘小 (明治42年創立) と霊岸島小 (明治9年創立) が合併してできた新設校だが、当時は京橋地区で最初の鉄筋コンクリート造校舎として住民の誇りであった。
空襲により講堂を残して全焼したことで昭和21年に廃校となり、戦災者収容の住宅に利用された時期もあるが、戦後復興と共に町民の復帰が進み昭和26年に復活する。
その後、京華小学校への合併統合を住民が拒み分校となるが、住民の凄まじい請願運動によって再び復活し明正小学校の名を残した歴史がある。
また、この新川一帯は江戸時代の海上交通の要で、日用品、雑貨、酒などの問屋が軒を並べ、戦後も酒の倉庫が軒を並べるといった背景の中に、この地域の気風や歴史性が見えて来るような気がする。

この建物の特徴は玄関部分の局面が両翼に流れるように伸びていることだろう。その一端は、小さな局面の角を踏襲しながらグランド側に小さく曲がって終わっている。もう一端は、ボイラー室の煙突の突出した局面でこの流れを受け止め、角を曲がると同じくグランドを囲むように伸びて講堂で終わっているが、そこには曲線的表現は既に消え全て直線的な扱いに変わっている。
そして最もこの校舎を特徴付けているのは、意識的に柱型の存在を消し、横方向のデザインを強調した立面計画にあると言えるだろう。

復興小学校の中での一つのデザイン的特性を持つこの建物を残せないものかと思う。
この学校の名を死守した住民運動の歴史を伝えるためにも...。

by finches | 2009-04-01 17:00 | 復興
■■ 中央区立城東小学校
b0125465_16295534.jpg東京市復興小学校DATA

[城東小学校]
創立年月 明治39年6月
竣工年月 昭和4年3月19日
工事請負 武田組
校地坪数 1,051.210坪
校舎坪数 1,296.088坪
学級規模 22学級 (現在6学級)
[竣工時校名]
東京市京橋昭和尋常小学校
(南槇町尋常小学校)
[所在地]
東京都中央区八重洲2-2-2
http://www.chuo-tky.ed.jp/~joto-es/




現在、城東小学校は東京駅八重洲の外堀通りを隔てたビルの真裏にあって、周囲をビルに囲まれ注意して見ないと通り過ぎてしまうくらい、こんな所に学校があるとは到底思えないような場所に建っている。

もともとの城東小学校は日本橋区立で、現在日本橋高島屋の向かいに中央通りを挟んで建っている、丸善のちょうど真裏にあった。 一方、京橋区立の京橋昭和小学校が、現在の城東小学校の場所にあった。 そして、この二つは共に昭和4年に完成した紛れもない復興小学校と言える。

しかし昭和37年になると、中央区立京橋昭和小学校は廃校となり、この二つが統合されて旧京橋昭和小学校校舎が中央区立城東小学校として生まれ変ることとなった。 昭和3年創立の若い京橋昭和小学校が城東小学校に名前を捨て校舎を譲ることで、明治8年創立の城東の歴史が受け継がれたことになる。

さて、「函館・弥生小学校の保存を考える」 でもこの学校のことは取り上げているが、余りにいとおしくて、この学校だけはその名を書かずにおいた。
現在、この城東小学校は全学6学級、全児童55名、1年15名、2年7名、3年7名、4年7名、5年9名、6年10名足らずの超過疎小学校だ。 しかし、ここで行なわれている情熱と創造に溢れた教育に触れるため、訪れる視察者は後を絶たない超有名小学校としての顔を持つ。 それはここに他では失われた教育の原点があり、子どもと教師が一つになって育もうとするけなげさがあるからだと思う。

写真は昭和4年の朝礼の様子で、京橋昭和小学校創立から1年と書かれていた...。



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かつて現在の東京駅八重洲前の外堀通りは、その名が示す通り江戸城の外堀だった。
東京駅が開業したのは大正3年のことだが、言うまでもなく東京駅は皇居に向いた丸の内側に駅舎が建てられ、現在の八重洲側には出入り口一つなく、この外堀によって日本橋方面とは二本の橋を除き全く遮断されていた。
東京駅は正に日本の表玄関でありそこから皇居へと続く丸の内は、「真行草」 に例えるなら正に官民揃って 「真」 の街づくりが行われた。

一方、現在の地下鉄銀座線がその地下を走る中央通りは新橋から上野へ続く幹線で、上に同じく例えるなら民の 「真・行」 入り混じった活動的な街であり、その周縁つまりこの学校が建つ外堀辺りはまだ 「草」 の町並みであったと想像される。

明治8年に開校した城東小学校が日本橋に近く、昭和3年に開校した京橋昭和小学校 (現・城東小学校) が中央通りから外に向かって進む市街化形成に呼応するように新設された背景が窺える。
大正13年につくられた関東大震災後の復興計画図を見ても、当時の京橋昭和小学校 (現・城東小学校) は背後に外堀を望む外れに建設されたことが分かる。

因みに、現在の地下鉄銀座線が当時繁華街で高収益が予想された上野・浅草間に日本初の地下鉄として開業したのは昭和2年、そして新橋まで全通したのは昭和9年のことだった...。




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現在は中央区になるが、この小学校が完成した当時は京橋区と言われていた。
関東大震災で焼失した京橋区内の小学校は15校あり、その内復興小学校として新築されたのは13校だった。
東京の復興小学校の数は117校で、その総数は小学校建設のための復興予算の関係から焼失した小学校の総数に等しく抑えられた。原則としてそれぞれの区で焼失した数に等しい小学校が復興小学校として建設されたが、京橋区だけは2校が減らされその2校が浅草区に配分された。それによって浅草区は震災前の18校から20校に増えるが、この数字一つを見ても当時の浅草区の繁栄の様子を垣間見ることができる。

京橋区内の13校の内、復興事業に追加計画された佃島小学校だけは昭和6年の完成となるが、3校が大正15年までに、9校が昭和4年までに完成している。
この時期を昭和2年の上野・浅草間地下鉄開業 (日本初) と重ねて見ると、よりこの時代を深く感じ取れる気がする。

この現・城東小学校の前身は昭和4年に産声を上げた京橋昭和小学校だが、震災で焼失する前この場所には南槙町小学校があった。
今はビルに埋もれて窮屈そうなこの小学校も、南槙町、京橋昭和、そして城東小学校と名を変えながら力強く生き抜いた歴史がある。

この歴史の記憶は今、城東小学校の建築の記憶となって受け継がれている...。




b0125465_7295974.jpg[Photograph source]
Wikipedia



4階の玩具売り場から出火した火災は8階までを瞬く間に焼き尽くした。帝都復興を遂げた東京、その日本橋の買い物客で賑わう白木屋を襲った大火は、昭和7年12月16日のクリスマスセール最中の惨事だった。
この火事を一人の少女が城東小学校から見たという話が頭から離れない。
その少女も今では80歳を過ぎている。
そして、この少女との不思議な縁がこの小学校へと導き、復興小学校への扉を開けてくれたと思っている。

城東小学校に初めて足を踏み入れた時の印象を今でも忘れることはできない。
使い込まれた全てのものに言いようのない均衡が保たれていて、そのうちのどれが欠けてもその均衡は崩れるような気がした。
そのことが危なげな印象を与えながらも、けなげさと愛おしさを感じたことを今でも覚えている。
これまでやってきたこと、今やっていること、これからやろうとしていること、それらは自分の生き方の反映に過ぎないことにも気付かされた。

守らず捧げる生き方をしろと、この建築が囁いた気がした...。




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関東大震災が起きた年の12月には、早くも小学校教育復興に関しての注意事項が校長会で決議されている。
その中の屋外運動場についての記載を読むと、適当な舗装をすること、体操用器械・運動用器械・砂場・トラック・テニスコート・足洗場・花壇・プールなどの設備を設けることなどが書かれている。
復興小学校の屋外運動場は、最も小さいものと最も大きいものを除いた上で見ると、108坪から925坪までその広さはまちまちだ。

城東小学校 (旧京橋昭和小学校) を見ると291坪の広さがあった。
実際にそこに立ってみるとやはりその狭さを実感したが、その狭小さを補う見事な工夫がされていた。
プールの時期になるとグランドを覆っていた蓋が取り払われ、その下からプールが現れる。その分グランドは狭くなるがその境には落下防止の低いフェンスが置かれ、如何にも楽しそうな一体の空間が生まれる。

今は一年中アイスクリームを買うことができる。だが、昔は夏になると冷凍ケースの中に色とりどりのアイスクリームが並び、それを待ちわびて夏の到来を実感したものだ。
ビルの谷間に埋もれるように建つこの小学校だが、花壇には季節の花が絶えることはなく、何よりこのプールの大仕掛けが子供たちを夏へと誘う。夏の暑さが来るのを待ってやっと蓋の鍵がはずされた、あのアイスクリームの冷凍ケースさながらに。

グランドのトラックが消える先には子供たちの夏があった...。




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東京市の小学校鉄筋コンクリート造校舎には設計規格があった。
それは、短期間のうちに罹災した小学校117校を復興するに当たり、充実した機能を持った健全な教育環境の確保、安全性、そして経済性すべてを同質に担保する重要な意味を持っていた。

写真の中でこの設計規格を透視して見るのも面白い。
教室の採光は室面積の1/6以上、窓の下縁は床面から75センチ、上縁は天井まで、これらが大きな四角な窓に表れている。
屋上運動場のパラペットは120センチ以上、加えて眺望し易い構造にすることが求められている。
1階教室の床はグランドから75センチ以上、昇降口はグランドと同じレベル、などがこと細かに決められている。
因みに写真左端にこの昇降口からグランドへの扉、樹木の脇に教室からグランドに降りる階段が見えている...。




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復興小学校の鉄筋コンクリート造校舎の設計規格の中には、当然廊下や階段についての記載もある。
教室などの規格が採光を中心とした教育環境や衛生面を重視しているのに対して、こちらは避難時の安全を最も重んじている。
今でこそ数多の設計資料を参考にしたり、関連法規に準じておけば最低限の設計くらいならできるだろうが、当時は過去から脱皮し新しい規範をつくろうとするなら、それは限られた洋書の中に求めるしかなかった。

階段についての記載を興味深い思いで読んだ。
それによると、ニューヨークの学校建築家スナイダー氏の実験に基づき、非常時に於いて全校舎を開けた時に、3分以内に退出できるよう設計規格が決められたそうだ。
1920年代という時代、どこか哀愁が漂う美しい時代。この宝石のように輝いた時代の一方で、日本という国の礎をつくるべく技術者による様々な取り組みが模索しながら続けられていたことを改めて知った。

復興小学校によって益々1920年代に引き寄せられて行く...。




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復興小学校には唱歌、図書、手工、裁縫、作法、理科、家事などの特別教室が設けられた。
中でも設備を要した理科室と手工室については細かな規格が示されている。
当時の小学校を卒業すると多くの生徒が仕事に就いた時代を考えると、この特別教室のほとんどが社会での実践につながる教育の場であったことが想像される。

手工室をとってみても現在と異なる様々な工具が用意され、高等科に至っては板金細工や簡単な冶金・旋盤の設備を備えるものまであった。また、音が発生する手工室は1階の翼部に置くことが推奨され、設備配管や配線の効率化に加えて塵処理までも考慮して、その2階に理科室を置くことが書かれている。
加えて手工室は2面乃至3面の採光が求められ、明るく快適な場所として用意されたことが窺える。

さて、今と当時とはその授業形態も異なるが、綺麗に整理整頓され子供達への出番を待つ道具類に、この学校に潜在する力と図工(美術)を担当する若い先生の教育者としての豊かな感性と資質を感じた。
その一方、函館には教育委員会と市長によって今まさに壊されようとしている弥生小学校という由緒正しい学校がある。
この弥生小学校の見晴らしの良い階にある床の間付きの和室のことを思った。

そして、明るい日差しが射し込むあの和室で裁縫や作法を教え習う昔日の光景に想いを馳せた...。




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復興小学校には共通の規格があって、その中に単位という考えがある。
一単位は梁間6.9メートル・桁行2.85メートルで、例えば普通教室はこの3倍があてられ、梁間6.9メートル・桁行8.55メートルとなる。

教室の中を見ると、正面黒板、背面黒板、掲示板、長押などが決められた高さに設けられた。
床は板張りで、腰羽目は見切長押と巾木が付けられた。
そして、2階以上の窓には手摺を付けることが謳われている。

写真は城東小学校の普通教室の様子だが、窓は上で説明した2.85メートルピッチで開けられ、前に 「設計規格を読む」 で触れた様に、採光の為に目一杯の高さまで開けられていたことが分かる。
夫々の造作もハッキリとした意味を持って用意されていて、この腰羽目一つを取ってみても壁を清潔に保つと共に、柔らかい木の温もりを子供たちの目と手に伝えているようだ。

無駄がなくきちんと意志を持った仕事は、時を経てその輝きを増しこそすれ色褪せることはない...。

by finches | 2009-04-01 16:00 | 復興
■■ 中央区立常盤小学校
b0125465_1747471.jpg[常盤小学校]
創立年月 明治6年3月
竣工年月 昭和4年5月15日
工事請負 大林組
校地坪数 1,247.520坪
校舎坪数 1,130.000坪
学級規模 19学級 (現在6学級)
[所在地]
東京都中央区日本橋本石町4-4-26
http://www.chuo-tky.ed.jp/~tokiwa-es/


東京市復興小公園DATA

[常盤公園]
開園年月 昭和5年9月
公園面積 620.04坪



明石小学校の中を見る切っ掛けを頂いた父兄との待ち合わせまでの時間を利用して常盤小学校まで足を伸ばした。
ちょうど明石小学校の公開日に常盤小学校では防災フェアが行われていて、グランドと講堂への立ち入りが許されることを知ってのことだった。

日曜日の雨の日本橋、それも千代田区に近いこの当たりは人影もまばらだった。
2度目となる常盤小学校、筆者が好きな復興小学校の一つだ。
柱型がない少し彫りの深い窓が美しく、細部には明らかにアール・デコの影響を残しながらも、全体はどこか古いイタリア建築のような洗練された落ち着きがある。それはアーチ窓と四角窓の扱いの上手さ、バランス、プロポーション、そしてパラペット先端の小さく曲面を描いて外に迫り出した終わり方、それら全てが設計者の思想と高い力量を今に伝えている。

前回の明石小学校で、復興小学校の中にはそのグレードに差があるようだと書いたが、筆者はこの常盤小学校もその一つと捉えている。
このことを具体的に建設費の坪単価で見てみると、復興小学校117校の内で350円/坪以上の学校が19校ある。そして大変興味深いのは、その内の10校が現在の中央区にあるということだ。また、これは中央区の全復興小学校数24校から見ても、当時の京橋、日本橋両区の繁栄振りがその背景として見えてくる。

筆者は思う、現存するこれらの復興小学校が持つ 「建築の記憶」、それは正に 「日本の記憶」 そのものなのだと...。

by finches | 2009-04-01 15:00 | 復興
■■ 中央区立泰明小学校
b0125465_1851483.jpg[泰明小学校]
創立年月 明治11年6月
竣工年月 昭和4年6月4日
工事請負 錢高組
校地坪数 1,109.740坪
校舎坪数 1,298.564坪
学級規模 20学級 (現在12学級)
[所在地]
東京都中央区銀座5-1-13
http://www.chuo-tky.ed.jp/~taimei-es/



東京都中央区銀座5丁目-1-13。
泰明小学校は銀座の数寄屋橋交差点の近く、数寄屋橋公園を抜けた場所にある。
抜けたと言っても数寄屋橋公園はほんの小さな公園で、銀座の喧騒の直ぐ傍にあって屋内体操場の曲面のシルエットが、昭和の初めにタイムスリップしたような不思議な気持ちを抱かせる。
今では高速道路に姿を変えているが、この学校の北側にはかって江戸城の外濠があった。
現在は建物の裏側でほとんどの人がその存在に気付くこともないが、大きく跳ね出したバルコニーや窓などのデザインの中に、この水と柳の見える景色を意識したオンリーワンの設計が隠されている。

都会の中心で起きている過疎化と少子化に伴う児童数の減少、中央区に残る殆どの復興小学校が小規模学級での学校経営を余儀なくされている中で、この泰明小学校だけは入学を希望する父兄で引く手数多の人気校だ。
昭和4年に完成した校舎は、前に取り上げた明石小や常盤小と経年だけで捉えた老朽化という意味では共に同じで、この、人間が維持し補うことが出来る決して欠点とはならない持続可能な部分を外せば、他は現代の薄っぺらな建築には決して見ることの出来ない、質の高い設計がなされている非常に優れた建築と言うことができる。

この泰明小学校は、銀座という立地条件、ツタの絡まったアーチ窓を持つ郷愁溢れる古い校舎、建築の記憶に包まれた環境で子供を学ばせたいという心理、それらが上手く噛み合って今では人気のブランド校としてもて映やされている。
しかし、学校教育の歴史はその時代時代の都合に迎合してきた。
そして、過疎化と少子化問題からここだけが隔離されているのではない。
この学校に通う児童の越境入学の道がもしも絶たれたならば、明日にでも他と同じ小規模学級の学校経営を余儀なくされることにならないとも限らない。

現在、泰明小学校に取り壊しの危険はないが、信条なき人たちによって、いつこの安泰が崩されるか分からない危険はあるのだ...。

by finches | 2009-04-01 14:10 | 復興