◆ 明石小学校・歴史的背景の考察 Ⅰ

1. 明石居留地
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 Spitit of missions 1894年


「築地」とは「沼や海などを埋めて築いた土地」という意味だ。
築地には浄土宗本願寺派の別院である築地本願寺(築地別院)があるが、元々は浅草にあったものが1657年に起きた明暦の大火後に、湿地であった海を埋め立て建てられたことに築地の歴史は始まる。その後、明治初年になって現在の明石町の辺りを外国人居留地とした為に、西洋文化の香る街区を形成していった。

そんな稀有な歴史的背景を持つ明石町界隈には今もその名残を其処彼処に見ることができるが、そのほとんどが歴史的跡地を示す石碑や説明板であるのに対し、聖路加国際病院の存在がこの街が明石町であり続ける為の大きな要因になっていることは否めないだろう。
この病院も一時、病院敷地全体の再開発事業で解体の危機に瀕したことがあるが、礼拝堂を含む旧病院棟が保存修復されて病院全体の象徴として残されたことで、居留地としての名残を今も感じることができる明石町のシンボルとして今に定着しているのだと思う。

この保存された旧病院棟より古い建物で現在取り壊しの危機に瀕している建物がある。
その建物とは大正15年(1926)8月に竣工した明石小学校で、現存はしていないが明石小に隣接して大正15年11月に竣工した京橋高等小学校も、この聖路加国際メディカルセンターの竣工時の写真にはその新しい校舎が写っている。
聖路加旧病院棟が明石という町の中で今尚その環境に溶け込み人々と心を共有できているのは、歴史的背景を含めこの建築が周りに持つ時間と空間、つまりその周りにある空気の記憶が保存継承されたことに負うように思う。

写真は明治27年(1894)の築地居留地を描いたものだが、多くの川が流れその川にはたくさんの橋が架かり、画面奥にはまるで広重の絵のように筑波山まで描かれている。
この絵の手前の川沿いに聖路加国際病院を、その隣りに明石小学校を、そしてその先に鉄砲洲小学校を重ねてみると、それらは決して単体で存在しているのではなく、この一続きの空間を共有するように手を繋ぎ合っていることが分かる...。



2. 土門拳
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 別冊太陽・土門拳


九段小学校から始めた東京に現存する鉄筋コンクリート造小学校の踏査も一巡した。復興小学校と改築小学校の仕分けや、興味があるものから歩いているうちに南櫻小学校のように取り壊されてしまったという失態も演じた。
此処いらで溜まった資料の整理をしながら、大正11年から昭和13年までに建設された鉄筋コンクリート造小学校の総数が本当は幾つなのかを確かめてみたいという気持ちになってきた。

現在中央区で3校の復興小学校が取り壊しの危機に瀕している。それらは昭和2年の5月に竣工した明正小学校、昭和4年の3月に竣工した鉄砲洲(現中央)小学校、そして大正15年の8月に竣工した明石小学校たちだ。
この中の明石小学校では既に現校舎を守ろうとする運動が起きているのに対し、残りの2校ではその気運すらないのが実情だが、筆者は何とかこの取り壊しに瀕している3校全てが東京の大正・昭和史を語り継ぐ建築としての文化的財産であることを、一人でも多くの人たちに知ってもらいたいと思っている。

踏査が一巡した今、隅田川に沿うように僅か450メートルおきに建っているこの3つの小学校の地理的歴史的背景の描写を前稿から始めた。
前稿では建築の周りにある「空気の記憶」が継承されることを考えてみたが、本稿は一人の写真家の鋭い目を通して切り取られたかつての明石町の生き生きとした姿を紹介してみようと考えた。この凧揚げに勤しむ子どもたちは明石小学校に通っていたのであろうし、土門拳自身も明石町の棟割長屋に住みこの界隈をこよなく愛していたからだ。

明石小学校という一つの建築に沁み込んだ記憶というものは、学校の中だけでは留まらず、子どもたちの行動圏全てに亘る周囲環境とも呼応しているのだ...。



3. 築地川境橋
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明石町を流れていた築地川は、空襲による建物の瓦礫処理の埋め立てに始まり、昭和45年(1970)にはその全てが埋め立てにより姿を消した。
現在、築地川と築地川南支川は築地川公園となって、かつての川筋の跡を今に伝えている。
この公園にはかつての橋の親柱が出来の悪いレプリカで幾つも再現されているが、それらとは異なりこの境橋(堺橋)の親柱だけは当時のままの姿で植え込みの中にひっそりと残っている。

この親柱は昭和3年(1928)に竣工した震災復興橋梁のもので、桁橋としては珍しい中路橋の為にその欄干部分の高さはこの親柱程しかなく、腰を架けて川面を見ることが出来そうなくらい愛らしい橋であったことが想像される。
この公園にあるレプリカ橋には全く興味を持てなかったが、何度も明石に足を運ぶうちにレプリカ橋とは向きを違えて植え込みの中に残る怪しげな物体に目が止まり、それがかつて築地川が流れの向きを変えていた場所に架かっていた境橋であることが分かった。

かつて築地川と隅田川の間には鉄砲洲川が流れていて、この二つの川が合流し明石橋の先で隅田川に注ぐ手前にあった船入澗を明石掘と呼んだ。この境橋親柱から現在のあかつき公園一体がこの明石堀の跡となる。
鉄砲洲川は昭和7年頃には埋め立てられ、聖路加国際メディカルセンターが竣工した昭和8年の写真には完全に道路になっているが、明石小学校や京橋高等小学校が完成した大正15年にはまだ鉄砲洲川は健在であった。

一つの親柱から明石町を流れていた川のことを色々と考えてみた。
現在の道路や公園の場所にはかつて川が流れ船が行き交い人々の営みや暮らしがその流れと共にあったことを思いながら...。



4. 築地川
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 建築世界1933年


中央の白い建物が昭和8年(1933)に完成したばかりの聖路加国際メディカルセンターで、その左奥に明石小学校と京橋高等小学校が写っている。
聖路加国際メディカルセンターの手前左から右に流れる川が築地川で、流れを右に変えた辺りから先が明石掘と呼ばれていた。

二本の橋を赤茶色に色付けしてみたが、左の川筋に架かるのが暁橋、右の明石掘側に架かるのが前稿の境橋となる。
現在、この明石堀跡はあかつき公園となって暁橋はその名を残し、境橋はその親柱だけを築地川公園の植え込みの中に残しているということになる。
 [注:暁橋のレプリカオブジェも築地川公園の元の場所にあります]

昭和8年というと、鉄砲洲川は埋め立てられた直後の時期になるが、まだ築地川が健在な姿を見ると、聖路加国際メディカルセンターが川を意識して計画されていたことが分かる。
築地川公園に残る親柱の向きと写真に写る境橋とを重ね合わせてみると、往時の川の流れが蘇り、それは拙稿新川鉄橋の思い出と重なり、これらの橋を渡って病院に訪れた夫々の人の思い出がそこにはあるのだろうと思わずにはいられない...。



5. 築地川と築地川南支川
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 京橋図書館 Digital archives


築地川に架かる左が暁橋、右が境橋で、境橋の先から川幅がだんだん広くなり明石堀と呼ばれた。築地川は暁橋を過ぎると右に直角に大きく流れを変え、写真下側に伸びている川筋は築地川南支川となる。
拙稿門跡橋はこの築地川南支川に架かっていた橋で、延宝7年(1679)に築地御坊(本願寺築地別院)が建てられた当時は、まだここから先は江戸の海だった。

足場が組まれて工事中の建物は聖路加国際メディカルセンターで、宣教師館として建てられた現トイスラー記念館(移築復元)もまだ出来ていなかった時のものだ。
もしこの写真が工事の始まる前のものなら、明石小学校と京橋高等小学校が関東大震災の復興事業のシンボルのように3階建ての偉容を見せていたことだろう。

公園の橋のレプリカや、旧跡の石碑や説明板では分からないこれが往時の明石の姿だ。
その歴史の面影を未来に伝承できるものであれば、それだけで歴史的建造物として継承するに足る十分な価値がある...。



6. 築地川南支川備前橋
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 京橋図書館 Digital archives


写真は築地川南支川に架かる備前橋を前景にして聖路加国際メディカルセンターを撮ったものだが、聖路加国際メディカルセンターの左に写っているのが明石小学校となる。
前稿の暁橋や境橋が昭和に入って竣工したのに対し、この備前橋の完成は大正14年の5月で、明石小学校が着工する1ヶ月前に竣工していたことになる。

筆者はこのような写真を見る時は先ず備前橋だけがあった時の光景を想像し、次に備前橋と明石小学校があった時の光景を想像してみる。そうすると現在ではとても想像できないような川や橋と建物の関係に気付くことがある。そして、それはその建物が周囲の環境とどのような関係を保っていたのか、そんな現在の姿だけを見ていたのでは分からない新たな発見に驚かされることもある。

中央区教育委員会の調査報告書を読むと、築地川公園に備前橋の親柱と高欄が保存されていることになっている。しかし、それらが本物の備前橋とどれ程違うものなのかを観察してみるのも、歴史的建造物保存の認識レベルの低さの勉強になるかも知れない。
境橋親柱のように容易に寄り付けない植え込みの中にあっても、それが手付かずの本物である限り、それを糸口に川筋を想像し当時の姿を頭に描くことができる。
どんなに汚くても痛んでいても、またそれが一部であったとしても、オリジナルを残すことが何より大切だという対照的な例だろう...。



7. 聖路加国際病院
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 京橋図書館 Digital archives


前稿にはなかった外部足場が見えるが、チャペルは未だ建設されていない珍しいカメラアングルだ。
ここに写ってはいないが、この左側に明石小学校と京橋高等小学校がこれから建設が始まるチャペルと軸線を揃えるように建っている。
資料によると聖路加国際病院の基本計画はアントニン・レーモンドによるもののようだが、レーモンドが既に完成していたこれら二つの復興小学校との軸線を意識してこの病院の基本設計を行い、その中心軸線上に礼拝堂を配置し建物全体のシンボルとしての塔を中心に置くことで、この建築のランドマークとしての意味とチャペルの尖塔としての意味を合わせ持たせたのではないかと思う。

筆者はまだこのチャペルを見たことがない。チャペルを見たこともない、写真はチャペルが建設される前のもの、なのにチャペルについて書いている。
これは少し自己矛盾のようにも思われそうだが、これから建設が始まるチャペル側に各階3つづつの大きな開口があるのが写っている。この各階に設けられた3つの開口こそ、この病院と礼拝堂との関係に於いてレーモンドが最も重要な部分として考えたところではないかと思うのだ。
それが偶然にも写っている貴重な写真だと思う。

ここまで書いて、やはりチャペルを確かめてみたくなった。
イレギュラーだが、この続きは次稿で...。



8. 聖路加国際病院チャペル
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 京橋図書館 Digital archives


昨日聖路加国際病院のチャペルに初めて入った。
そのゴシック様式の薄暗い礼拝堂はステンドガラスから射し込む光でそこがカトリックの祈りの場所であることが分かった。

前稿は掲載した一枚の写真と図面を見ながら書いていたが、写真にまだ礼拝堂が存在していなかったのと同じく、図面もまだ礼拝堂が描かれていないものだった。
そんな状況で病院と礼拝堂との関係に於いて最も重要な部分ではないかと思った写真に写る開口部の意味を確かめたくてチャペルに足を運んだ。そしてやはりそうだと得心することができた。

今ここで、筆者がそこで見たこの病院とチャペルとの間にかつてあった空間構成に触れることはしないが、当時トイスラー院長がこの施設に於いて礼拝堂が中心的位置を占めるべきことと、塔上に十字架を掲げることを心に描いていたということに全ての答えがあるように思う。
そして、「十字架を新しい建物の塔上に高く設置することは、この施設のあらゆるはたらきを実践せしめている根本的な動機を目に見える形で示すことである」、という言葉にこの建物全体を支配する根本の思想がみえてくる。

病室の中に北東に面した部屋がいくつかある。それらの部屋と屋上に設けられた日光浴室からは運動場や屋上で活発に動き回る明石小学校と京橋高等小の子どもたちが眺められたことだろう。そして、その子どもたちの元気な姿は、各階の広間から祈りを捧げることができた礼拝堂と同じく、患者たちの心に希望を与えていたのではないかと思う。

どこにも書かれてはいないし、誰も語ってはいない。
しかし、かつての聖路加国際メディカルセンターはこれら二つの小学校を意識し、そして間違いなくそれらと連鎖する設計がなされていたと筆者は思う...。


[注] 写真左隅(チャペルの向い側)に明石小学校が写っています。
by finches | 2009-04-01 19:09 | 復興


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