616■■ 甲武鉄道市街線紀要と御所トンネル
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甲武鉄道市街線紀要(明治29年)に一通り目を通し終えた。
明治28年に新宿-飯田町間の複線化が終ったのを受けてこの紀要は作られたようだが、当時の世情やその中での鉄道認可と敷設の苦労も合わせて伝わってくる内容だった。
知りたかった新宿-飯田町間のルート、そのルートの決定に至った理由、駅のあった場所、飯田町駅の正確な位置、何とかこれらを現在の地図上で確認できるところまできた。

そして、新たな興味も広がった。
鉄道黎明期のこの時代において、以前から甲武鉄道以外の鉄道にも興味があり、特に現在の山手線がどのように誕生し今のように繋がっていったのかには最大の感心があった。
甲武鉄道は明治22年には新宿-八王子間の敷設を終えていたが、飯田町への市街線延伸に伴い、現在の山手線の前身の一つである赤羽鉄道品川線を横切る必要があった、これが一つ目の興味。
江戸時代に造られた玉川上水は給水の大動脈だったが、その本流と分水を二ヶ所で横断する必要があった、これが二つ目の興味。
当初の市街乗り入れのルート案では新宿から歌舞伎町、富久町、坂町、そして外濠を渡って市谷に抜ける靖国通りに沿ったルートだったが、それが隧道と御所の下をトンネルで抜けるルートに変更される、これが三つ目の興味。

その三つ目の御所トンネルを信濃町側から見たのが上の写真となる。
御所トンネル(右側の一口トンネル)の信濃町側出口は昭和3年の新御所トンネル(左側の三口トンネル)の工事に伴い、学習院の要求で90フィート延長させられた為に、四谷口側に残る煉瓦造のトンネルではなくなっているのが見て取れる。
学習院の要求は、校舎とトンネルとの距離、トンネルの深さ、工事による振動対策や補償問題など微に入り細にわたるもので、その交渉の気苦労ひとつを取ってみても如何計りであったろうと想像される。

御所(現赤坂離宮)下のトンネルの方がもっと大変だった筈なのだが、こちらについての記載は特に見当たらない。
それはこの飯田町乗り入れが当時の陸軍の輸送計画の思惑と重なった為で、御所下のトンネルも軍部の政治的な処理で難なく認可されたのだろう。
フェンス越しで分り難いが四谷側では50メートル近く離れているこの二つのトンネルも、信濃町側では寄り添うように並んでいる。
そして、御所トンネルの上の桜は今年も見事に咲きそろうことだろう。
だが、桜を愛でてもその下にひっそりと口を開けた御所トンネルのことを、まして甲武鉄道のことなど考えることも、その歴史を知る人もいないのだろう...。

by finches | 2011-03-08 06:05 | 時間


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