<   2010年 09月 ( 26 )   > この月の画像一覧
476■■ 配水計量室

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この建物は配水計量室と言い、大正13年に民間会社によって造られ、二年後に市に譲渡された水道施設だ。
この建物は市街地への給水量を計る為の施設で、口径400ミリの配水本管2本と350ミリの配水管1本を引き込んで計量が行われた。

この建物は市街地を見下ろす急峻な坂道の真ん中にあって、写真左を車が、右を人と自転車が通るように道が二つに分断されている。
また、この建物は八角形をしていながら、市民からは六角堂と呼ばれ親しまれている不思議な建物でもある。

この建物に使われている淡いピンク色のレンガは無焼成の日干し煉瓦で、そのピンクの発色の元は工場からの産業廃棄物であるスラグ(鉱滓・こうさい)を混ぜたことにより生まれたもので、因みに八幡製鉄所でもこれと同じレンガを大正期に作り、その色は青色をしていたそうだ。

一つの近代化産業遺産を通して幾つもの新しいことに繋がるヒントを得た。
通行に邪魔だからと壊すのは論外だが、例え移築して違う場所に残しても、それは本来の立地での力は失せる。
後から住み着いた人間の都合で、前からその場所にある建物が壊されたり移築されては堪らない。
この建物の地域や環境との共存のあり様、保存すべき意味の共有、そんな手本をこの直径5.7メートルの小さな建物は静かに伝えていた...。

by finches | 2010-09-20 04:39 | 時間
475■■ 稲干し

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最近は脱穀機能の付いたコンバインによって刈り取りから脱穀までを行うようになって、稲穂を干す光景を目にすることも随分と少なくなった。
農家は勿論タイミングを見計らって刈り取りを行うが、風や雨のリスクを考えて、もうこの辺でという安全率を見て早目に刈り取りを行う。
そして、それを脱穀まで機械で一気にやってしまうと、脱穀をするのに程好い水分にまで十分に籾を乾燥させることはできない。

一方、十分に機を待って刈り取りを行い、それを稲干し台に掛け渡して御天道様に最後の仕上げを託したものは、程好い水分を持った天日干しの美味い米へと変わっていく。
いくら有機農法だと何だのと言ったところで、この最後の一手間に手を抜き機械に任せることで、その米作りの姿勢の違いが味の違いとなってあらわれる。

ところで、稲干し自体を見ることも少なくなったが、それにネットを掛けているのは更に稀だと思う。
拙稿・夏の色で稲穂の上に掛け渡されたネットの写真を紹介したが、最後の実りを待っている時に鳥たちに丹精込めた稲穂の先を食われるもどかしさは然もありなんだが、刈り取り後の稲干しにまでネットが必要なのだろうか。

鳥たちは稲干し台の上に掛けた稲穂の籾より、その下に落ちた籾から食べるだろうし、鳥たちがその籾を食べているうちに、多少食べられたとしても稲干しも終わるだろう。
小鳥たちは稲穂も突付くが虫も取ってくれた筈だ。
小鳥たちもこの黄金色の籾の御零れを心待ちにしていたのだから、少しは分け与える心の余裕があってもと、米作りの苦労を知らない者が勝手なことを思った...。

by finches | 2010-09-19 08:42 | 時間
474■■ 地下鉄銀座線-開通ポスターを見て

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明治5年(1872)に新橋‐横浜間に開通した我が国初の鉄道について、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」には次のような記述がある。
「料金は三等が一分、二等が六十銭、一等が一円。一等車は深々としたクッション付きの赤いモロッコ皮の座席を備えた贅沢なものだが、ほとんど乗客はいない。二等車の居心地のよい座席も立派なマットが敷いてあるが、腰を下ろしているのは実にまばらである。しかし三等車は日本人で混雑している。彼らは人力車と同じように鉄道も好きになったのである。」

同じく横浜駅の記述を見ると、「立派な石造建築で、玄関は広々としており、切符売り場は英国式である。等級別の広い待合室があり日刊新聞を備えてある。」
またその他の記述を追っても、小綺麗な停車場、英国製の車両など、最先端のモダンでハイカラな場所であったことが窺える。
そして、日本人がそんな場所に一張羅を着込んで出掛けていった様子が容易に想像される。

我が国初の地下鉄である銀座線が浅草‐上野間に開通したのは昭和2年(1927)のことだ。
写真はその開通当時のポスターだが、人々のめかし込んだ身形を見ながら、かつて新橋‐横浜間の鉄道に一張羅に身を固めて乗り込む日本人の姿を連想した。
当時まだ地上で行われていた関東大震災からの震災復興工事の一方で、地下ではこんなアール・デコの世界が新しく生まれていたことを一枚のポスターで見たことで、当時の突貫ではない長いスパンでの都市づくりの一環を垣間見た気がした。

今のこの国の都市基盤、否、国家基盤はこの時代までに全てが出来上がったものだ。
今の時代、この先人たちが残した知的物的財産を切り崩して使っている。
それらがもう二度と取り戻すことも再生もできないことを知ってか知らずか、は知らないが...。

by finches | 2010-09-18 05:07 | 時間
473■■ 稲の秋

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家の作りやうは、夏をむねとすべし。
冬は、いかなる所にも住まる。
暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。
深き水は、涼しげなし。
浅くて流れたる、遥かに涼し。
細かなる物を見るに、遣戸は、蔀の間よりも明し。
天井の高きは、冬寒く、燈暗し。
造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。
 (徒然草第五十五段)

かつて日本の家屋は蒸し暑い夏を旨と考え、風通しを良くし縁側という緩衝帯を設けて暑い日差しを遠ざけた。
この家作りの基本は今も変えるべきではないと思うが、近年の夏の暑さはもう近世までのそれの比ではなくなってきた。

そんな暑い夏も明け方の肌寒さに急な秋の訪れを実感し、気付かないうちに燕の姿が消え蝶がいなくなり蝉の鳴き声が止んでいたことに改めて思いを馳せた。
燕に変わってハクセキレイかホオジロハクセキレイが庭を飛び跳ね、蝶に変わってトンボが器用に飛び回り、蝉に変わった秋の虫の音色にまだ失われてはいない四季の狭間を垣間見る思いがした。

稲の秋とは上手い季語だと思う。
黄金色の稲穂の波は風にザワザワと揺れ、頭を垂れた稲穂は今や遅しと刈り入れを待っている。
こんな風景に改めて四季の美しさを感じるのは、一方で失われたものへの回想の反映なのかも知れない。
この景色の外にある米を作ることを止め草に覆われた田圃との乖離に、これからは四季の風景までも守ってやらなければならなくなるかも知れないと思った...。

by finches | 2010-09-17 06:54 | 持続
472■■ 弥生小学校-玄関

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仮にそのもの自体をどうしても持続することが出来なくなったとして、船の羅針盤や錨を取り外して保存するのと、建物を特徴付けている柱を切り取って保存するのとはまるで意味が異なる。(前々稿、前稿)
船や蒸気機関車の部品、またはそれらのネームプレートなどは、それら一つ一つが完結した完成品であり、それらの集合として全体が構成されている為に、それらが元の部品に還ったところでそれ程の違和感を感じずにいられるように思う。

それに対して建物を特徴付けている柱を切り取って保存するのは、船の特徴的なブリッジ(船橋)やデッキ部分を切り取って陸(おか)に置くのや、蒸気機関車の特徴的な先端部分を切り取って公園の片隅に置くのと同じで、こうなってくると先の部品を保存するのとは違い、最早只の抜け殻に過ぎない。

写真は筆者がその保存運動に係わった函館の弥生小学校の竣工当時の写真だが、全国で物資統制による鉄筋コンクリート造小学校の建設が終焉する中での戦前最後の小学校建築として、紛れも無く国の重要文化財として後世に残すべき秀作だったが、現在は解体が進み見る影もない。
何処の教育委員会も考えることは馬鹿の一つ覚えのように同じで、この写真の右隅の局面部分が玄関になっているのだが、この曲面部分だけを縦に切り取って新築する校舎に貼り付けようとしている。
これを彼らの符丁では部分保存とか保存再生と呼ぶのだから全く議論にもならない。

先の船の羅針盤や錨を明石小学校や弥生小学校に置き換えてみると、例えば校庭の二宮金次郎の像を移設保存するのがそれらに近く、柱を切り取り壁を剥ぎ取って貼り付ける似非保存は、先のブリッジを切り取って陸に置き、蒸気機関車の先端部分を切り取って公園の片隅に置くのに近い。

登録有形文化財や重要文化財を統括しているからといって文化庁は全く当てにはならないし、文化の本質を見据えてそれらを未来にそのまま継承するという信念も気概も能力もない。
一方、文化財を生かすも殺すも思いのままなのが教育委員会で、この組織が教育の普遍性と継続性という不可侵の理念を後ろ盾に、それらを巧妙に利用してこの国の文化財を次々に抹殺している現状にもっと目を向け知るべきだろう。
日本の文化を守るには、文化庁と教育委員会という一蓮托生の組織を根底から解体するしかない...。

by finches | 2010-09-16 05:13 | 復興
471■■ 明石小学校-玄関

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前稿の興安丸が関釜連絡船として就航したのが昭和12年、それから終戦までの8年間に多くの兵隊、満蒙開拓団、民間日本人を朝鮮へと送り、逆に朝鮮からも日本へと向かう多くの人々を運んだ。
そして、その背景には戦争へ向けての啓蒙教育を目的として、明治19年以来続いた小学校令を廃止し、昭和16年に出された国民学校令の下、尋常小学校と高等小学校全てを国民学校へと改称し、それまでの教育理念を捨て教育を利用してのおぞましい啓蒙と洗脳が行われたことを知っておくべきだろう。

一週間前に中央区(東京都)の明石小学校で、玄関の丸柱が切断されて運び出されたという連絡を受けた。
新校舎の建設に伴う旧校舎解体工事の一工程に過ぎないが、この丸柱を新校舎の玄関に貼り付けて、再生だの部分保存などといった正当化へ向けての序章の始まりに過ぎない。
前稿で興安丸を取り上げそのコンパスの写真を掲載したのは、この明石小学校の丸柱のことを書こうと考えた為だが、両者とも周りとの関係を断ち切られ、まるで生体標本のように元の主の顔などまるで想像できない、只の物に化したという意味で共通していると感じたからだ。

今朝は2枚の写真を用意した。
最初は、取り壊しが始まる前の明石小学校玄関で、丸柱が写っている。
次は、昭和16年4月1日の国民学校となって初めての入学式となる明石小学校の写真で、上と同じ玄関部分で丸柱も見える。

興安丸と明石小学校、ここに共通する部分保存や一部保存という考え方、船や建物に於ける保存の論議とは別に、これらの形骸化した保存や再生の間違った考え方はもう改めるべきではないだろうか。
そうでないと、日本の稀有なものや文化が遠からず消滅してしまう...。


明石国民学校
by finches | 2010-09-15 04:37 | 復興
470■■ 興安丸-羅針盤

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強い保存運動にも係わらず興安丸は広島県三原市木原町沖で昭和45年に解体され、僅か34年でその波乱に満ちた生涯に終止符が打たれた。
興安丸は昭和11年に長崎で建造され、翌年から関釜連絡船として就航し終戦間際に被災するまで運行を続けた。
戦後は引揚船として博多、仙崎と釜山間を往復し、往路は在日韓国人の帰国輸送に、復路は日本人の引揚輸送に従事した。
その後も朝鮮戦争では兵士や傷病兵を運び、昭和28年の中国及びソ連からの引揚再開に伴っては帰国第一船として、それぞれからの引揚者を舞鶴港に無事に送り届けた歴史を持っている。

現在、この興安丸の時鐘と錨とコンパスが舞鶴や三原や下関に保存されている。
建築や土木に於ける歴史的建造物や近代化産業遺産と同じく、このような船舶もその一部を切り取って残すのではない全体完全保存をすべきだったと、一つの物と化したコンパスを見ながら思った。

人は死んだからといってそれを保存することは通常ではできない。
だから、せめてもの故人への思い出にと何か品物を残し大切に保存する。
それらはほんの些細なものであっても故人を偲ぶに十分だが、建築や船となるとその空間での記憶が最大の思い出となり、人と違い朽ちないこれらは保存し残すことも可能だ。

興安丸は昭和20年4月に機雷に触れ航行不能となるが、8月には引揚船として復帰する。
そして、人の手によって再び蘇り使い続けられたことで、新たに様々な人との係わりを育んできたと思う。
だが、今それが人との係わりと断ち切られたことで、只の無機質な物体の一部に戻ったことに空しさだけが強く残った...。

by finches | 2010-09-14 06:30 | 記憶
469■■ まんさくの海

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まんさくの花を書いたのは今年の二月の終わりの穏やかな日のことだった。
まんさく(満作、金縷梅)とは初春に枯れ木の中に黄色い花を逸速くつけることから、「まず咲く」が東北地方で「まんず咲く」と訛り、それが「まんさく」と呼ばれるようになったとの説がある。

一昨日、友人がマンサクを持ってやって来た。
今の季節にまんさくの花でもあるまいしと思っていたが、それを見て初めて得心がいった。
マンサク(満作)は地方地方で呼び名があるようだが、世間で言うところのシイラという魚だ。
殻ばかりで実のない籾(もみ)のことを「粃(しいな)」と呼び、「しいなし」「しいなせ」「しいら」などと言ったりする。
その縁起の良くない「粃(しいら)」を、縁起の良い豊年満作の「満作」に言い換えたと言われている。

花のない初春にひっそりと「満作」の花は咲く。
そして、黄金色の稲穂の刈り入れが始まる頃に、海では「満作」が獲れる。
日本の風習や自然や暮らしやいとなみ、そして四季の移ろいと美しさをこの「満作」という言葉を通して考えてみた。

その身を刺身で食した印象は、あっさりとしているが油が乗っていて、鮪なら2、3切れのところ、満作はその倍は箸を伸ばしたくなる味だった...。

by finches | 2010-09-13 05:11 | 時間
468■■ 1%の彫刻

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好きな彫刻があると、たまにだが写真に収めることがある。
彫刻は好きでもその背景が気にいらなかったり、邪魔なものが入らない背景を探して彫刻の周りをグルリと移動すると、今度は彫刻の向きが気に入らなかったりと中々上手くいかない時も多い。

だが、本当に力のある彫刻は背景を選ばないし、どこに置かれてもしっかりとした存在感があり、見られる角度を選ばないように思う。
イサムノグチ然り、安田侃然り、雄大な自然の中にあろうと都会の雑踏の中にあろうと、その存在感は周りとある時は一つになりある時は拒絶しながら、静寂の輝きを放っている。

パブリックアートという用語や概念が世界に定着して久しい。
日本でもそれまで屋外彫刻と呼んでいたものが突然パブリックアートへと変わったが、それは1990年前後の正にあのバブル全盛の時代だった。
そして、フランスやアメリカのパーセントプログラムが形だけ導入され、公共工事に於ける新築建物の建設費の1% を芸術関係に使わせる文化的背景を持たない一律なやり方で、ただ高額なだけのガラクタ彫刻が日本中に設置されていった。

写真の彫刻は芝生の上に置かれ、三基で一つの作品をなしている。
石を水平に切断し、切り口と脚となる丸い突起が磨き込まれている。
彫刻もその置かれた背景も好きではないが、石の野面に対するこの鋭く切断され浮いたスリットの磨かれた面の対比は好きだ。

たまたま選んだ一枚の写真だったが、文化の「ぶ」の字も考えたこともない連中が異口同音に唱えた、あの悪夢のような「1%」を思い起こさせた...。

by finches | 2010-09-11 05:59 | 記憶
467■■ 蝉-九月

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ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクホウシ、クマゼミ、ヒグラシ、これらが筆者の知っている蝉たちだ。
この中でこの夏採ったものと言えばアブラゼミとクマゼミとヒグラシだが、別に大人の筆者が蝉取り網を持って走り回った訳ではない。

子供の頃は蝉採りと言えばミンミンゼミとアブラゼミが主流で、ツクツクホウシとクマゼミは鳴き声はすれどなかなか採るのが難しく、ヒグラシに至っては鳴き声を聞いたこともましてや見たこともなかった。

子供の頃の昆虫採集ではもっぱら羽の透明な蝉を狙った。
ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクホウシ、クマゼミ、ヒグラシのうちアブラゼミだけが羽に色がついていて、その他の蝉の羽はみんな透明な訳だから、寧ろ色のついたものの方が希少に思えるが、当時はアブラゼミとミンミンゼミばかりで、その他の蝉は数が少なかったせいもあって、その透明な羽を持つ大きな蝉が垂涎の的だった。
但し、同じ透明な羽を持ってはいてもミンミンゼミは体が小さい為に、ツクツクホウシやクマゼミに比べると全くの格下で、採っても余り嬉しくなかったように思う。

そのミンミンゼミも鳴き声を聞かなくなって久しい。
アブラゼミもめっきり数が減って、最近では「ワーシワシワシ」と鳴くクマゼミが目立つようになった。
これは近年の温暖化の影響もあるらしいが、蝉の分布や盛衰を通して身近な環境変化を実感するこの頃だ。

ところで、蝉の季語は夏だが、「カナカナ、カナカナ」と美しく鳴くヒグラシと、「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ」となくツクツクホウシの季語は秋となる。
クマゼミが鳴かなくなったと思っていたら、夏の終わりを象徴するツクツクホウシの鳴き声がやっと聞こえてきた。
子供の頃はこのツクツクホウシこそが狙いの的だったが、今でもその希少性は変わらないように思う。

夜は秋の虫たちの音色の世界に変わった。
ツクツクホウシの鳴き声に改めて夏の終わりを実感したいつもの昼下がりだった...。

by finches | 2010-09-10 06:14 | 記憶