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246■■ 新川鉄橋
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橋というものの存在が記憶の中に焼き付けられた二つ目がこの新川鉄橋です。
子どもの頃の記憶ではこの橋は緑色をしていて、この川に何本も架かっていたはずの橋の中でこの鉄橋だけが強く印象に残っています。
それはこの鉄橋の上流右岸に国立大学病院があり、当時はこの鉄橋を過ぎて少し行くと木造平屋建の病棟が何棟も川沿いの道の向こうに並んでいて、病院入口までこの病棟を左に見ながら進まなければなりませんでした。
子ども心にこの鉄橋を過ぎると木造病棟があって、そこからは患者の呻き声が聞こえて来る、それらが一体となり緑の鉄橋の印象として焼き付いています。

だから、バスを降りてこの大学病院に向かう川沿いの道は、どこか怖いというか可哀相だという記憶を伴っています。
ところで、この鉄橋の線路は当時と変わらない単線で、写真の左に進むと駅があり、その手前には建築家・村野藤吾の手となる市民館(音楽ホール)があります。恐らく、記憶の中でこの鉄橋とこの市民館は一つに繋がった存在だったと思います。
鉄橋を過ぎて木造病棟まで歩く道すがらこの市民館が前に広がる大きな広場越しに見え、その建築の中にある奇妙な円柱の記憶と一緒になって不思議な世界を頭の中に思い巡らしながら歩いていたのだと思います。

この川は満潮になると海水が上ってきて水を湛えますが、干潮になるとこの写真のように川底に下りて歩くことができます。
でも、この橋をこんな風に見たのはこれが初めてのことでした。
少し潮の香が漂う川底を歩きながら、この川とそこに架かる橋の歴史に思いを馳せた一時でした...。

by finches | 2010-01-09 07:46 | 時間
245■■ 心象風景の中の橋
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実家に帰省すると訪れる場所がいくつかあります。
それは変わらない海、人通りがなくなりシャッターを下ろし死んでしまった商店街のアーケード、白鳥と黒鳥と鯉のいる湖、そしてこの写真の場所などがあります。
取分け海と川の景色とそこで過ごした時間は心象風景の両極にあり、それに季節ごとに美しく変化する里山の記憶を加えたものが、今の自分の根っ子の部分を形づくっているような気がします。
しかし、それらの場所を訪れるのは決して懐かしさや感傷的な気持ちからではなく、どちらかと言えば自分をリセットさせる為の本能的な行動であるように思います。

橋好きの今の自分に最初に橋という存在を焼き付けたのがこの写真の橋です。
この橋の下で泳ぎ魚を捕り、大人は鮒や鰻を捕る為の仕掛けを川底に沈めていました。また、この橋の数キロ上流にはダムがあり、大雨が降りいざ放流が始まるとこの橋のちょっと下まで川は増水し、土色の濁流が恐ろしい勢いで流れていたのを鮮明に覚えています。
この橋の完成は昭和14年(1939)で、今正に調べ歩いている東京の震災復興橋梁などと同じ時代に架橋されたものというのも不思議な因縁だと感じています。
そのように橋を見てみると、意外とこの時期に架けられたものが多いことが分かります。

余り書き進むと懐古的だと言われかねないのでこのへんにしますが、次回から我が故郷に架かるこの時代の橋を取り上げてみたいと思います...。

by finches | 2010-01-08 07:51 | 時間
218■■ 白妙橋
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築地の波除神社前に立てられた海幸橋の説明板に、このタイプで現存している橋として白妙橋の名が書かれていた。
今はなき海幸橋の姿を知りたくて白妙橋を地図で探すと、その橋は平久川が汐浜運河と交差した下流側にあった。そしてその辺りは川と運河が五叉路のように交差する珍しい場所だった。

だが、いざ白妙橋を書こうとしたらこの橋に関する資料がない。橋の形式が海幸橋と同じというのも先の説明板を鵜呑みにしたに過ぎず、このままでは余りに御寒い。
ところで、築地川東支川に架かる他の橋が桁橋であったのに対し、実質的な第一橋梁とも言える海幸橋をアーチ橋にしたことは隅田川からのシンボリックな見え方を意識してのことだと思われるが、白妙橋の方はこの形式を選択した理由が分からない。

平久川に架かる次の石濱橋(昭和5)は木桁橋、その次の時雨橋(昭和4)は形式不明、その次の平久橋(昭和2)はトラス橋、そしてこれらはみな震災復興橋梁に属している。
あれやこれやと調べていたら、白妙橋の架橋時期は昭和12年(1937)だと分かった。
そして、一つ風穴が開くと面白いように周りが見えてきた。

白妙橋が架かっている塩浜は明治43年(1910)に埋立が開始され、大正10年(1921)に終了している。そして、その2年後の大正12年(1923)に関東大震災が起きる。(この時期には塩浜埋立地の平久川には橋はまだなかったと考えられる)
そして、関東大震災の瓦礫処理で現在の豊洲が埋め立てられたが、そこに町名を付ける時に豊かな土地を願って豊洲と名付けられた。その年が昭和12年で白妙橋の架橋時期と一致する。

隅田川以東の鋼製橋は筆者が調べた限り桁橋とトラス橋だが、白妙橋に海幸橋と同じアーチ橋が採用された理由は、この新しく生まれた豊かな土地へ向かっての第一橋梁としての計らいではなかったろうか。
白妙橋は震災復興橋梁ではないが、震災復興で生まれた豊洲との関係で見ると、筆者はこの橋を震災復興橋梁の仲間と呼びたい。
そして、白妙橋の真西に海幸橋が位置することも興味深い...。

by finches | 2009-12-03 06:53 | 復興
214■■ 勝鬨橋夕日
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勝鬨橋の全長は246mあるが、その中央部の約45mが跳ね上げ式の可動橋になっている。
そして可動橋の両端に橋脚があるが、この橋脚と一体に橋の開閉操作をする為の運転室が2階に造られている。
この橋を動かす為の動力は電気で、交流を直流に変えて供給されていたが、その為にこの橋には右岸下流の橋詰に面して変電所が造られている。
また、この橋脚内には橋を開閉させる為の巨大なモーターやギアがあり、橋が跳ね上げられた時のこの橋脚内の動きを想像すると、巨大時計の歯車と歯車のように組み合わさって行われる複雑な動きによって、橋の根元が徐々に押し下げられて行く音は、跳ね上げられる橋の先端の軽さとは逆にさぞかし重く響いたことだろう。

写真はこの運転室の窓を撮ったものだ。
一日の終わりが近づき、夕日がこの運転室の窓に平行な光を射し入れるほんの短い間だけ、無人であるはずのその部屋はあたかも人がいるようにパッと幻想的な光に溢れ、手づくりの操作盤が照らし出される。
この橋が動くの止めて40年になるが、夕日は休むことなくこの橋に美しい影絵をつくり、運転室にはオートマタのように生気が蘇り、それを眺める人は知らずに至福の時を共有することができる。
そう言えば、'automata’の語源と言われるギリシア語の'automatos’には‘自らの意思で動くもの’と言う意味があるらしい...。

by finches | 2009-11-29 06:45 | 時間
213■■ 勝鬨橋影斑
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一日の内で橋が最も美しく映える時間を迎えようとしていた。
それはまるで木洩れ日の中の枝葉の影のようで、夕日とトラスがつくり出す光と影の遊戯にしばし見とれた。
空が茜色に染まりその色が橋を鮮やかに染め、やがて訪れる黄昏時までの光の変幻はあっという間に過ぎ去ってしまう。
そして、灯りが点るとその表情は一変し、夜のとばりに包まれる頃には川も黒い帯に変わる。

筆者の好きな昭和の初めにつくられた鉄の橋、それは関東大震災の震災復興事業で架橋された震災復興橋梁と言われるが、勝鬨橋はその仲間ではなく紀元2600年を祝うかのように、昭和15年(1940)に建設された戦前橋梁の集大成とも言える橋だ。
この橋は中央部に跳ね上げ式の可動部を持つことで知られるが、昭和45年(1970)を最後に一度も跳開されていない。来年は震災復興事業が完了して80年という節目の年を迎えるが、この勝鬨橋も跳開した姿を是非見せて欲しいものだ。

これらの橋と今の橋とは同じ橋であっても別物と考えた方が分かり易い。
デザイン、ディテール、設計及び施工レベルの高さ、そして美しさ、どれを取っても今のものに勝るとも劣るものは一つとない。
筆者はそんな橋のある特徴に気付き、それに気付いたことで気付かなかったよりは、きっと上質の橋上ライフを密かに楽しんでいる。それは、当時の橋は上路タイプを除きその橋の形式に違いがあっても、橋の主構造材の外に歩路が跳ね出している。このことは橋の美しいプロポーションにも寄与しているのだが、主構造材によって歩路と車路が如実に分けられていることで、車に邪魔されず又意識せずに橋を隅々まで観察することができる訳だ。

勝鬨橋もそうだが、意識して橋の全景を取り上げることをして来なかった。
それは本物の橋が持っている魅力は全景だけでは言い表せないのと、全景はその橋の説明に陥りそうで避けているとも言える。
一つの橋を何回、何十回取り上げるか分からないが、その途中には全景を紹介する機会もあるだろうが、ただ今は、橋の行間を読み埋めることで、その橋の本質をもっと知りたい考えたいと思っている...。

by finches | 2009-11-28 06:43 | 時間
212■■ 勝鬨橋有情
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前稿の地下発電所を見ての帰り、晴海運河に架かる長い橋の上で真っ赤な夕日を見た。
そして朝潮運河の河畔を歩く頃には、もうあたりは夜のとばりに包まれていた。
冬だというのに心地よい川面の風が頬を撫でる中、対岸の月島川に映る灯りはゆらゆらと、それはうっとりするくらい美しかった。
そして月島に向けて朝潮運河を渡る橋の上からの川は、黒く輝く妖艶な帯のように黒い海へと続いていた。

そんな夜の景色を確かめたくて、小春日和の日を待ってその時とは逆に月島から南に向かって昼下がりの街を歩いた。
そして随分この街への印象も変わった。街は川と共存することでこれ程豊かになるものなのか、何でもないような日常の中、その存在すら忘れている橋や川、だがそこを渡る時に人々はきっと多くのエネルギーを受け取っていると思った。

その姿は見えないが、歩きながらも常に隅田川を感じた。隅田川と繋がっていることで潮の満ち引きは規則正しくどの川にも脈動を送り、汚れていても銀鱗はキラキラと輝き、釣り糸を垂れる人、それを見る人、それを横目に通り過ぎる人、言葉を交わさずともこの時間と空間の共有こそ、川が人と街にくれる生気だと感じた。

隅田川に出て勝鬨橋に向かって歩いた。
何度訪れても橋も川もその表情が異なる。この日も銀色に輝くタイドアーチの前を行き交う人の影と、タイドアーチに落ちる自身の陰が、これから次第にその長さを増すことを伝えていた。
この日は勝鬨橋を渡り築地を抜け銀座まで歩いて帰途についた...。

by finches | 2009-11-27 06:57 | 時間
204■■ 日本橋川一石橋親柱灯具
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かつて日本橋川が外濠と出合う手前に一石橋という充腹式のコンクリートアーチ橋があった。この一石橋は大正11年(1922)に架けられた橋で関東大震災にも耐えたが、昭和39年(1964)に始まる高速道路のランプ建設を皮切りに、その時その時の運命に翻弄されながら現在の橋に架け替えられた歴史がある。
この歴史ある橋への扱いをして親柱の辿った運命も追って知るべしで、近年やっと近代文化遺産としての価値が認められ、現在はその一つだけが改修保存されているに過ぎない。勿論、現存する都内最古の親柱として。

当時の一石橋は二連のアーチ橋だったが、中央の橋脚の水切り石の上には舟の往来を考えて橋側灯が設けられていた。これまで橋の親柱がどうししてこれ程大きいのかと疑問に思っていたが、いつもそれは道路側から橋を見て考えてのことだった。
だが、一石橋の余りに大きい親柱と水切り石の上の橋側灯を見ながら考えていて、これらは道路側からではなく川側から見た時のことを考えてデザインがされているのだと気が付いた。
つまり、親柱は橋の長さを示すと同時にそこに橋があることを遠くから知らせる為のもので、言わば灯台としての役目をしていたのだと気が付いた。だから、橋の上に外灯が設けられてもそれは親柱(灯具)のデザインとは違っていなければならなかったし、そこには変えるべき必然性があったということだ。

江戸時代のこの辺りの賑わいを知るものがこの親柱の左側に残されている。それは‘一石橋迷子しらせ石標’で、江戸の町中で迷子になった子どもたちの情報を知らせるためのもので、正面に「迷い子のしるべ」、左側に「たづぬる方」、右側に「しらする方」と刻まれている。「たづぬる方」の方には迷子の特徴を記した紙を貼り、「しらする方」の方には迷子の所在を記した紙を貼った。

時代に翻弄されながら周りの全てが変わっても、ここに江戸時代の石標と大正時代の親柱が残されていることで、過去のレイヤーを重ねることもできる。
痕跡だけでもいい、どんなものでもいい、但しその場所毎に本物を残して欲しい...。

by finches | 2009-11-19 04:30 | 復興
201■■ 隅田川 白鬚橋 親柱灯具
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拙稿では震災復興橋梁と合わせてその橋特有の灯具も取り上げてきた。橋本体や橋詰に見られる外灯もユニークなものが残っているが、特に橋名プレートが取り付けられる親柱には、その橋のデザインと一つになったユニークで美しい灯具が見られる。
残念ながらかつて灯具があった痕跡だけの橋や、陽が落ちても灯りの点らない橋や、全く新しいものに変えられている橋がほとんどだが。

白鬚橋は浅草と向島を結ぶ吾妻橋の一つ上流に昭和6年(1931)に架けられた橋梁で、南千住と墨田を結んでいる。(現在はその間に桜橋という歩行者専用橋(クロスバー橋)が昭和60年に架設されている)
この白鬚橋の上流には千住大橋が架かり、吾妻橋、白鬚橋、千住大橋は形式こそ違うがアーチ橋であることで共通しているが、そこにある灯具には全く共通性は見られない。吾妻橋は明らかに他の二橋とデザインの思想が違うし、白鬚橋と千住大橋では橋と灯具が同じ思想の下にデザインされているように思われる。

ただこれらの形がどこから導き出されたものなのか、これ程個性ある独特な形をしながら筆者が知る限り類似の灯具を見たことがない。
かつて白鬚橋の上流左岸には日活向島撮影所(近代映画スタジオ発祥の地)があり、更にその上流には鐘淵紡績工場があった。また、下流左岸には東大と一橋大艇庫があったが、この当たりにこの橋の灯具のデザインソースがあったのではないかと苦し紛れに考えてしまった...。

by finches | 2009-11-16 06:33 | 復興
169■■ 厩橋有情
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「今度は橋の夜景が続くのかい」と言われそうだが、この一枚だけで後の予定はない。
だが、写真を思うがままに撮れるようになった暁には、灯りの点った橋の魅力を是非とも紹介したいという夢だけは持っている。
実を明かせばこの橋は厩橋で、ステンドグラスに点った灯りを撮りたくてわざわざ足を運んだのだが、どの写真も気に入らない中で一枚だけ好きな写真があったので使うことにしたものだ。

隅田川に架かる橋の夜の風情、川の匂いや優しい風を想像してもらえたらと思う。
この橋は黄色や赤色に塗られライトアップされている橋と違い、夜のとばりにつつまれひっそりと点る灯りに、隅田川に架かる橋本来の有情を感じる。

見下ろすとそこには黒い川があり、闇に溶け込むようにまたそれに抗うように蕩蕩と流れて行く。
黒い川を見ていると人間の原点が見えてくるような気もする。
近代の建築を点として訪ね歩いていた時と違い、橋はマクロな都市計画を頭の中に描かせ、川はそこでの暮らしや歴史へと思いを馳せさせ、いつしか江戸開府、震災復興、戦災復興、そして現在を同時に重ねて考えるようになった。

難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを楽しく...。

by finches | 2009-10-14 07:00 | 復興
157■■ 隅田川 白鬚橋
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幸田露伴の「水の東京」によると、かつてこの白鬚橋が架かる辺りには橋場の渡しがあり、在原業平が都鳥の歌を詠んだのも此地の辺りだと書かれている。

  名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

一説によると、業平が東国を旅した時に、隅田川の舟から見えた鳥の名を聞いたところ、船頭はその名を都鳥だと答えた。その都という言葉に京のことが想い出されて、この歌を詠んだそうだ。

墨田区に残る地名で、業平(なりひら)という呼び名を変わっているなと思っていたし、言問(こととい)もその語源が動詞であることが不思議だったが、これらの地名や、業平橋、言問橋などの橋名が、この歌に由来していることを知り、やっと得心がいった気がする。
(余談:今までは何で‘言問団子’なんだと思っていたが、その謂れが分かってくると何だか無性にこの団子も食べてみたくなるから不思議だ)

さて、白鬚橋は昭和6年(1931)に架けされた橋で、その形式はブレースドバランスドタイドアーチとトラス桁の併用橋となる。
隅田川が大きく蛇行している為にその両雄を同時に眺めることはできないが、前回取り上げた千住大橋とこの白鬚橋は大変よく似ている。後者は中央部のアーチが両径間のトラス桁に流れるように連続している為に違った印象を抱くが、この2橋は同じ設計者によって同じ思想でデザインされたものに間違いないだろう。

そしてその背景に、千住大橋の成り立ちや橋場の渡しのこと、芭蕉の旅立ちや業平を東国への旅へ向かわせた心境、等々に思いを馳せて設計されたかも知れないと想像すると、その趣もまた倍加する気がする...。

by finches | 2009-10-01 07:02 | 復興